環陀夛(かんだた)

織田信長さえ手を出すことを躊躇ったとされる寺内町の僧侶。 ホロゾンタとの直接的な関係は薄いが、小鳥と同時代を生きた怪僧で、後の芥川龍之介にも多大な影響を与え「蜘蛛の糸」のモデルとも言われる。 「幕末の義経」とも喩えられ、維新直前のどさくさにまぎれて帝政ロシアに亡命し、怪僧ラスプーチンとなったとする伝説すら戦前まではなかば常識として語られるほどであった。 乱世ゆえにその本領をいかんなく振るう事のできた梟雄の好例といえる。 戦後、平等主義や平和主義の台頭とともに、その評価は一気に下落した。

生涯

 江戸時代後期、環濠に守られた寺内町に僧侶の息子として生まれる。生まれながらにして奇っ怪な容貌は、彼を取り上げた産婆曰く「岩石のような」と形容せざるを得ない赤ん坊だったらしい。しかしそれは、外見だけのこと。裕福な寺院の跡取りとして何不自由なく育った環境は、小鳥に酷似している。学僧として京に上った折、倒幕派佐幕派関係なしに人を斬りまくっていた皇尊皇と、風呂屋で出会う。理屈抜きに人を斬る皇尊皇のスタイルに心酔した彼は、皇尊皇の言葉を、それまで彼の全てであった仏の言葉以上に重んじるようになる。実家との確執が生じるのはその頃からである。実家の仏像を薪の料として叩き割って売り払ったのは、皇尊皇の軽い冗談からであった。実家の牛車の牛に茨の鞭を入れ、寺内町を恐怖に陥れたのも同様である。寺内町の有力者である父親の取りなしがなければ、死罪も免れぬ重罪であったが、そんなことはお構いなしに、京の町で同じ学僧仲間と日夜痛飲し、女肉に溺れるという破戒を繰り返す。しかし、そんな時、彼を正当化する理論を注いでくれたのが皇尊皇であった。

 何の面白みもない人物であったが、サイボーグのように皇尊皇の口車に乗った点のみで歴史に名を残す事となる。眠くて仕方がなかった皇尊皇が言い放った「をろしあに行けば、貴様の才覚を十分に発揮できるであろ。」の言葉を信じてロシアに渡り、事実、皇制ロシアの重鎮となった。そのサプライズについて、さすがの皇尊皇にも「あれは、わからんかったわ」と言わしめた。

子連れ狼の「阿部頼母」は、言わずと知れた時代劇最強最悪の脇役である。実はそのモデルが環陀夛であったことが、最近マニアの研究によって判明した。

一時多くの信者の信望を集めた環陀夛であったが、その本質を知った民衆の失望は大きく、それはこのような悲惨な結末を生んだ。

墓所

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逸話

新・文藝之書、恋の段、第七葉に「みずっぱな 耳から出たら 多田の耳だれ」と、半ば嘲笑的に詠われた一首あり。 環陀夛(かんだた)を詠んだものとされる。

「その眼光鋭き以外の形容を持たず」と周囲に言わしめたが、両目とも義眼であったという。
最終更新:2013年06月02日 19:41