木口小鳥

木口 小鳥(きぐち ことり(天保6年3月20日 - 慶応2年5月11日))は、嘉永~慶応期を代表する幕末随一の天才狂歌師。 諱は義豊。 雅号は豊玉。 日本におけるヌティーク・セム・ホロゾンタの創始とされる。 家紋は左三つ巴。

唯一残された小鳥とおぼしき人物の写真 歴史研究家所蔵

生涯

大阪生まれ。大阪町奉行で碌をはむ裕福な武家の長男として生まれる。特に努力をするとか、苦労をするとかと言うこととは無縁の成長を遂げ、それは決断力の欠如という歪んだ性格を生む。「精神勝利法」は阿Q正伝中に出てくる概念であるが、小鳥は幼少の頃から既にそれを獲得していたという。魯迅もびっくりである。その性格の歪みを心配した父親が、彼を丁稚奉公に出し矯正しようとしたのは必然である。しかし、当時同世代の丁稚奉公の給金が、一ヶ月に10両であったところ、父親の影なる配慮で200両を得ていたのは、茶番であるとしか言えない。

まさに可もなく不可もなくと形容せざるを得ない幼少期を過ごす。ここに、彼の異常とも思える臆病さの原点とも言える逸話が残っている。幼少期、彼が犬の散歩に出かけた時、その犬がマムシに噛まれ、驚いた愛犬が小鳥に噛みついた。マムシの毒が噛まれた箇所から回るという思いこみによる恐怖感から、腰が抜け、放尿、脱糞、放屁を繰り返した後、失神。帰宅が遅いことを心配し探しに来た母親がどぶ川で彼を発見するまで、意識不明だったと言う。その上、母親に揺り起こされた彼は、母親をマムシと勘違いし、抜刀したとのことである。しかし、悲しいかな、母親に手刀で刀を叩き落とされ、その面目丸つぶれだったと酒宴の席で彼自身が、どう言うつもりであろうか、語ったことがある。

父の仕事のおかげで何不自由ない生活を出来ているにも関わらず、青年期特有の何かと皮肉っぽい解釈で父親を見、反発し、過激尊皇浪士と付き合うようになる。18歳になり京の町を遊学で訪れた時、たまたま僧籍を獲得するために上京していたいんにょうえと出会い、意気投合する。聞きかじりの尊皇攘夷思想は、いんにょうえに多大な影響を与え、一時は二人の関係は師弟関係に近いものであった。
それが、徐々にメッキが剥がれ、底が見え始めるとその関係は逆転する。緊張すると声がひっくり返ってしまう癖が、それに拍車をかけた。ただ、平均身長が160に満たない時代に、180を超える大柄な体躯は、それだけで彼の内面を知らない者に畏怖の念を与えるのだった。

いんにょうえが日露戦争直前、遺書代わりに書いた手紙に残された中身によれば、天津教を興したのが、上京して数日後のことだったと言う。大阪での丁稚奉公時代に春画と共に購入した怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』と『友愛団の名声』《逸話に詳しい》を既に般若心経のように暗記していた小鳥は、その存在の小ささをカバーすべく、洋書の力を大いに利用しようとした。それは見事に成功し、秘密裏のうちに多くの信者を集めることとなった。それは日本にとどまらず、果てはまだ当時ダウンアンダーと呼ばれていたオーストラリアの流浪民、イヌイット(当時のエスキモー)、コイサンマン(当時のブッシュマン)までも広がったと言う。 

いんにょうえと川本を中心として、今で言う「ドッキリ企画」を小鳥に実行した折、いんにょうえの余りの迫真の演技に、小鳥はおろか周囲にいた者全てが恐れおののいたと言う。小鳥はその時、失禁・脱糞した上に、記憶を失うという失態を演じた。その仕返しを、川本には詩歌で行うことには成功した。小心と大胆・用意周到と場当たり的という相反する性格が絡み合う人格は、彼を余り知らない者にとっては恐怖であったが、良く知る者にとっては分かりやすいものだった。

四年で遊学を終えるはずであったが、何となく京都にとどまり、それが彼の寿命を終わらせる結果となった。

捕縛~処刑

七条大宮辻での落首騒動によって、小鳥は京洛の治安を騒擾する不逞分子として、新撰組から決定的な憎悪を買うこととなった。 騒動後数日の内に、新撰組は監察・山崎 烝の内偵によって小鳥が首謀者であるとの目星を付けており、その潜伏先も特定していたという。 小鳥襲撃の夜、京都三条六角上料亭『膿蛇尼(うみたに)』に同席していたのは、川本であった。小鳥は舶来のワインを飲み、川本は日本酒であったと伝えられている。

二人は芸妓衆を総揚げして夜半まで痛飲。 丑の刻を回った頃、川本がいつものように退席するやいなや、新選組がなだれ込んで小鳥を捕縛した。 このため、一時は川本に裏切りの嫌疑がかかった。 川本には小鳥に対する十分な殺人動機があった。 無論、小鳥が落手したあの歌である。

しかし、実際裏で糸を引いていたのは、いんにょうえであり、小鳥の首班としての行動の浅薄さを見限り、川本にスライドさせようと試みたが、川本がその直後に謎の失踪を遂げたことにより、その計画は頓挫した、とするのが、多くの研究者の間で現在の主流となっている学説である。

小鳥が市中引き回しの折、彼が贔屓にしていた芸姑、山濃と原濃は、その後の咎も恐れず二人して小鳥の前に走り寄り、山濃が金平糖を口移しにした。原濃の「美味しおすか!?」の絶叫に対し、小鳥は相好を崩して一言「おいちい」と返したと言う。 この時の小鳥の表情は、一種、えもいわれぬほど愛らしい乳児のような様であったと、その晩年、原濃は語っている。


山濃と原濃 (左が原濃)


小鳥に直接の手を下したのは、新撰組美男五人衆に数えられる馬越三郎であったと伝えられる。 後述する検死記録が、非常にクセの強い馬越の手に似るためである。

小鳥検死記録

一、左肩に五寸大に『ぽち』といふ刺青あり 生前飼ひし犬の名と言ふ
一、土壇場で終始抵抗し、制御するに能わず よって、刺殺しける後、斬首す
一、辞世の句を残しけり 以下に記す
  『発情の 後の心に比ぶれば 昔はまらを 触らざりける』
一、そのまら、大なり 形容擂り粉木に似たり
一、斬首せし係への因縁あるべからず 作法通り、首落としたる後、まぶたを十字に切りける

以上が、2011年に偶然発見された小鳥の検死記録である。 惜しむらくは、半分以上が消失していることで、上記の内容は、ほんの一部分である。 しかし、辞世の句から推察すると、剛胆な部分も垣間見られることから、往時より「小心者」「びびり」と揶揄され続けた評価が、意図的に歪曲・創作されたものであるとの説を採る研究者も少なくない。 今後の更なる小鳥研究が待たれる所である。

墓所

斬首された胴体のみ、故郷十三にある劇場舞台下に埋められている。晒された首は、不明であるが、イギリス人旅行者のキーホルダーになったとの未確認情報もある。

 充ち満ちた 道は幾筋 あるとても 未知の道なり 豊中の森

 淀川に たとえ浮かぶと 知ったとて 淀みに浮かぶ よど号事件

 母衣よりも ホロゾンタにて ほろほろと 滅んで行くも またをかしけり

 山濃の 割れ目を我は 大好きだ 遊べや親の ない小鳥たち

  拙い技巧に失笑さえ浮かぶ数々の歌であるが、大胆不敵とも言えるその歌風は、小鳥が歌ったことで息吹を吹き込まれているのである。


逸話

小鳥は幼少期からきわめて早熟で、大阪の商家に丁稚に出されたばかりの頃、初めてもらった給金で枕絵草紙を購入した。 まだ年端もゆかぬ小僧の分際で春画を手に入れるために、小鳥は当時ようやく日本に出回り始めた洋書を二冊手にし、その間に枕絵草紙をはさんで会計したという。 この時、たまたま購入した洋書のひとつが、当時欧州を席捲した怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』であり、もう一方が、その付録である『友愛団の名声』であった。 奉公先の狭い寝床の中で思う存分春画を堪能した小鳥は、事後の虚無感を払拭するために、購入した洋書に手を伸ばした。 この偶然の邂逅を以って、日本におけるヌティーク・セム・ホロゾンタが発祥したとするのが、我が国における定説とされている。 また、以上の様な経緯から、小鳥が後に結社した天津教は男女の和合を教義の機軸とした真言立川流とも関係がきわめて深いとされており、その儀式の端々に卑猥な所作・卑語を多用することがたびたび指摘されている。

小鳥は、狂歌師としての名声が上がるにつれて次第に増上慢となり、丁稚の年季が明けて半月もすると、貯め込んだ給金をつぎ込んで松原遊郭に通い詰めるようになった。 当時馴染みの太夫は、「山濃」と「原濃」であったという。 そう美人でもないこの姉妹を、小鳥はこよなく愛した。 維新後、山濃が語った所によると、小鳥は座敷に上がるたび「手足を縛り、きつく叱ってくれ」と懇願したと言う。 山濃が彼の言うようにし、きつく叱ると、「鬼畜よのぉ、鬼畜よのぉ」と、感涙にむせび泣いていたとのことである。 現代で言う、『どM』の魁といえるであろう。

小鳥の狂歌の腕がいかほどのものであったかは、物証の乏しい現代では証明がきわめて難しい。 かの有名な「川本のアメフト勧誘・・・」の歌も、実際は当時全盛を誇っていた堀滝太郎の作だとする説が有力である。 堀滝太郎は、幕末の井原西鶴と謳われる程、経済に精通した狂歌師であった。 日本永代蔵に並ぶと評される、母・滝子との共作『お隣は払ってらっしゃいますよ』は、それを読んだエンゲルスが「東洋にもマルクスがいた」と、つぶやいたと言われている。

小鳥を語る時、避けては通れない人物に、同じく鳥の名を持つ英雄・三戸天狗党出身、芹沢鴨がいる。 小鳥が同時代に生きた芹沢に憧れ、自らを「小鳥」と号したことはよく知られた逸話であるが、本来は小鳥と書いたつもりではなく、「鶴」と書こうとしたが、その手のあまりの拙さ故に「小鳥」と誤読されてしまったというのが事の真相である。 その訂正さえ、あまりの小心さからその場で言い出すことかなわず、結果としてなし崩し的に、やむなく「小鳥」と号することとなった。 「大胆不敵なこの二人の決定的な違いは、胆の大きさであった」と、当時から揶揄され続け、それを覆すことかなわぬまま現在に至っている。

小鳥の性器は常識を越えるサイズであったと、湯屋でそれを見た者は全て口を揃える。膝まであったとか、くるぶしにかかっていたとか、果ては、引きずって歩いていたなど、懐疑的にならざるを得ないような文句の羅列が、幕末の『京町奴湯屋落とし文』にある。おおよそ信じられないものであるが、新選組の沖田総司が一秒間に突きを三回繰り出せたとか、芹沢鴨が一刀のもとに力士を斬ったとか、現代の常識を覆すようなことがあったのかも知れない。

愛人山濃と初めて京都見物に出かけた折、金閣寺から銀閣寺まで、駕籠を使わず徒歩で踏破したという。銀閣寺に着いた時、山濃の足の爪は割れ、座り込んだまま立てない状態だったと言う。怒り心頭の山濃を前に、どう言葉をかけて良いか分からず、ただただうろたえるばかりであったらしい。それを詠んだ歌も存在したらしいが、小鳥が歴史の中に埋没するのと比例して、人々の記憶からも消え去っていったという。

こよなく猫を愛し、彼の家の襖の下紙からは、「猫」と書かれた半紙が多数発見されている。ただ、惜しむらくは、けものへんが誤字であったことである。

キャンプファイアーでよく歌われる「燃えろよ燃えろ」は、そもそも、小鳥が火付けを楽しんでいる時期に口ずさんでいたメロディーが原型である。「燃えろよ燃えろよ、徳川燃えろ。火の粉を巻き上げ、ちんこをこがせ」が原曲であると伝え聞く。しかし、小鳥が斬首されるやいなや、「燃えろよ燃えろよ 木口よ燃えろ。壬生狼を怒らせ、ちんこを斬られ」と変形して歌われた。さすが長らく都の政変を乗り切ってきた京町雀の変わり様と言える逸話である。

小鳥は、当時、舶来の貴重品であった「ワイン」を好み、朝まで痛飲することもしばしばであったという。小鳥の舶来かぶれは巷では有名で、「倒幕浪士の集まりでもっぱら英語を用いていた」とは、井上馨の言葉である。ただ、彼の英語は誤用がほとんどで、それが一時、長州の知識階級の中に定着したため、その是正に時間がかかったのは周知の通りである。

捕縛され、斬首される小鳥であるが、最後の言葉が「川本は元気ですか」だったと言う。現在では、捕縛の黒幕だと歴史的定着を見せる川本を、彼は最後の最後まで信用し、その身を案じていた証拠となる逸話である。彼は川本をせせら笑いながら、最も信頼していたのである。斬首される姿を、川本がせせら笑いながら見ていたことも知らずに・・・・・・。 

直腸内に空気を注入し、琵琶湖湖底に這いつくばって追っ手をやり過ごそうとしたが、大方の予想通り失敗する。空気を送り込む部位が肺ではなく直腸であった理由は、今も不明である。


壬生新選組屯所跡からこのたび発見された芹沢鴨直筆の書であるが、長年ふすまの下紙であったため劣化がひどく読み取れない部分も多いが、数カ所「小鳥」の文字が見えるの確かである。書簡の下書きと思われる。以下、関係する箇所のみ、要約したものを記す。

「禁門の変で御所入場の際、いきり立つ守備兵の槍を扇子にて仰いでやったら、近藤、土方ともにひどく感心していた。後日、その守備兵が自分を訪ねてきて、是非とも弟子にしてくれと言う。名を聞けば木口とか小口とか言う大阪浪士だという。ひどく早口でよく聞き取れなかった、これも何かの縁だと、弟子には出来ないが名前をやると言って『ネギ』とせよと命じると、悲しそうな顔をして引き返した。それが何故か後に聞けば、ネギではなく「小鳥」と名乗っていた。どの様な経緯かは分からないが、命名を願っておいてこれは許せんということで、新見、野口、沖田、原田、斉藤を率いて大阪まで捕縛しに行った。酔うと人を斬りたがる斉藤はしばらく飲んでいるうちにいきり立ち、是非とも俺に斬らせてくれと言う。好きにしろと言うと勇んで出て行った。程なくして帰ってきたが、小鳥は既に逃げた後で、振り上げた刀をそのまま下げる訳にもいかず、天満界隈で無礼な力士を斬り殺して来たと言う。つまらんことをしたと言って少し後悔もしていた様子だったが、直後、仕返しだと言って力士が二十名以上、宿屋に六角棒を持ってなだれ込んだので、仕方なく反撃した。」

新撰組始末記の記述と比較すると大きな違いが随所に見られる。力士を切ったのは芹沢だというのが定説であるが、今回の芹沢本人による手記からは、全く逆の真実が見て取れる。芹沢研究が深まる昨今、稀有な証拠の登場といえるだろう。


何の戯れか、暴れ牛と一対一で戦ったことがある。大方の予想通り、足の付け根を一突きされ深手を負う。背骨にまで達するかという大怪我であったという。別に酔っていたわけではなかったようだが、さすがに恥ずかしかったようで、しばらく有馬温泉にて山濃と共に療養することとなる。そこで、七卿落ち(1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件)の三条実美と偶然接触し、過激な尊皇攘夷思想を更に固くしたと言われる。 

坂本龍馬とは昵懇の仲だと、酔うとしきりにつぶやいていたと言う。しかし、坂本の多くの記録からは、小鳥の名は発見されていない。


【木口子寅】
木口小鳥に、三歳年下の実妹がいたことは、あまり知られていない。その名を子寅と言う。子寅は本名である。『ひとつひとつは美人の鑑に遠けれど、ものを言う声の細く涼しき、身のこなしの活き活きたるは、快きものなり。』と、彼女を見た抽象画家は語っている。兄を殺した憎き新撰組隊士の追及に生涯を捧げた。大正末期まで数少ない情報を頼って追い続け、一人一人残虐な手段を持って復讐を遂げていったという。情報収集の過程で、子母沢寛でさえ知りえなかった隊士の些細な情報を得、全て詳細に日記に書き留めていた。そしてそれを、彼女の終焉の地である徳島にて、モラエスに託した。
モラエスは、最期、借家にて孤独死を遂げるが、その処理の際、彼女の貴重な日記が使用されてしまった。
ちなみに子寅は、コマンド・サンボの達人であったが、それをいつどこで習得したかは不明である。




最終更新:2013年06月02日 19:22