皇尊皇(すめらみこと すめらぎ)

マエオ・マンと称していた当時の皇尊皇

皇尊皇(すめらみこと すめらぎ)はここ一番に用いる自称であると言う。
他称は多くあり、「奈良王」or「奈良」、「フルハムロード」or「フルハム」or「三浦和義」、「ペテン師」、「口八丁」、「エッフェル」、「チン・モゲール」、「猫またぎ」等が確認されているが、他不明のものも多く存在するらしい。(判明する都度記入する)

この人物が天津教に果たした役割は、全く不明である。しかし、幕末から昭和初期にかけて、ホロゾンタの重要人物の記録中に度々登場するのがこの人物である。小鳥はもちろん、いんにょうえ、環陀夛、きのやまさを、川本らと親交が厚かったようだが、どういうポジションの人間であったかさえ不明である。
ただ、天才的にそそのかすのが上手かったのは明らかで、小鳥の彼らしからぬ傍若な落書も彼の術中にはまったものであると、後に新選組副長助勤島田魁は語っている。また、川本に、セムQへのアメフト勧誘を勧めたのも彼で、単なる田舎の小悪党だった環陀夛を歴史の表舞台に立たせたのも彼である。事あるごとにいんにょうえに酒を勧め、その度に好きな女性の名前を絶叫させたりもしていたようだ。きのやまさをの論文完成に歯止めをかけたのも彼だという説があり、鯛谷と小走り隊を結びつけたのも彼である。何故彼を交友の和の中に入れていたのかが早く解明され、天津教創生期の正史を紡ぎたいものである。


生涯

三重・伊賀上野のサンカの子として生まれる。テンバを転々とする間に、その類い希なる運動能力とかいな力を買われ、伊賀流忍者から諜報活動を依頼されるようになる。その頃から多くの変名を使用し、実名を知る者は、サンカ仲間にもいなかったと言う。とは言え、実態は伊賀流忍者に使われる日雇いのようなものであった。そのうち、尊皇攘夷の気風が高まり、無学な彼もその影響を少なからず受けるようになる。そして、諜報活動の報酬としてこつこつと貯めていた三両を手に上京したが、その三両を京都先斗町季節割烹『大壇』で一夜にして散在してしまったのは、無学故の悲しさと言うべきであろうか。一夜にして無一文になった彼の出来る仕事と言えば、非合法なものしかなかった。サンカが持つ独特の武器「ウメガイ」を駆使し、尊皇・佐幕関係なしに切りまくったという。時には、日本酒二合のために人を斬った夜もあったという。一時、尊皇派も佐幕派も夜間の外出を控えたのは、彼の暗躍によることがその理由である。京で暮らす間に、徐々に知り合いも出来、書物にも触れるようになり、自らのスタンスについて深く悩むようになる。そんな時、彼の話を真剣に聞いてくれたのが、小走り隊であった。

しかし、いきなり「隊」といわれても読者諸兄には全く意味不明であろう。少し行を費やし、説明せねばならない。「小走り隊」とは、読んで字のごとく、小走る部隊のことである。小走るとは、無論、足の歩幅を小さく小刻みに素早く前進する様を言う。股関節を支点とし、コンパスの足を激しく振動させるかのようにして前進する。個の小走りがそれである。それが徒党を組んでいる状態が、プルーンな小走り隊である。奈良王の話を聞いた小走り態は、幾つか京に存在するうちのもっとも小柄なユニットだったという。斯羅伊・輿縞・娑沙鬼が織り成す小走りは、シルク・ド・ソレイユを遥かに超越するファンタジーであったとは、口さがない京町雀たちの弁である。三歩進んで三歩進む、と流行歌にも歌われたそのコミカルな動きは、それまでの人生観を変えてしまうほどの躍動感に満ち満ちていたという。鯛谷が交際をしていた小走り隊は、その本流の流れをくむ三世代後の「NEO・小走り」である。

話が逸れたが、一応、小走り隊に対する一応の理解は出来たと思う。彼女らの話を掻い摘んで言えば、「きのやまを斬れ」というものであった。小走り隊の実態は、日本ゾロアスター協会京都支部であり、布教する上で、ホロゾンタは目の上のたんこぶであった。

しかし、彼はきのやまには少なからずの恩義があった。と言うのも、彼の活動拠点がきのやまの下宿だったからである。彼は生まれて初めて、人を斬ることを躊躇う。その葛藤の末、京都のヤゾウ(サンカの長)に相談に行く。ヤゾウは、しばらく地下に潜れと指示を与え、彼はその指示に従った。その後、三年間の行方不明の期間が過ぎ、表舞台に現れ出た時、既に明治の治世となっており、世間は文明開化に華やいでいるように見えた。その不明の三年の間に、上記したような「そそのかし」によって、人々の人生は千々に乱れていたのである。

三年後、再び京に現れた寄る辺なき皇尊皇が頼ったのが、きのやまさをであった。小走り隊は既に壊滅し、構成員たちは市井の中に隠れてしまっていた。天涯孤独となった皇尊皇を、きのやまさをは暖かく迎え、天津教の真髄を日夜優しく伝道し、荒れ果てた人間性を陶冶したという。

三年間の大半を紀州田辺の南方熊楠宅に居候していたという資料が、南方熊楠記念館の膨大な資料の中から発見され、脚光を浴びつつある。熊楠は用心棒として皇尊皇を敷地内に住まわせたのだという。このような記述が、スペイン語で残されており、解読が急がれる。

墓所

彼の死にはいくつかの説があり、一つ目はチベットにて客死し鳥葬されたというもの。二つ目は、プロシアにて行われていた現代で言う『プロレス』に参加。受身に失敗し、骨折死。そのまま郊外の森に変死体として捨てられたというもの。三つ目は、肝試しに出かけたまま、消息を絶ったというもの。四つ目は、春画を買いに行ったまま戻らないというもの。どの説をとっても、墓地はない。




逸話

上京してすぐ、安芸の国から売られてきた華子という娘に心を奪われ、無一文にもかかわらず毎日通い詰めた。無銭のため店に上がることは出来なかったが、華子が座敷に出ている間、二階の障子に浮かぶその姿をじっと見守っていたという。その逸話を元に作られたのが、POLICEの『見つめていたい』である。

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『小走』という名字は現実に存在し、「こばしり」と読む。大和地方にある。

晩年、執筆活動に勤しみ、数々のペンネームで多くの書物を世に送り出した。判明している限りの作品群は以下の通りである。
  • 「死ねと言われれば、死にますが」
  • 「黙ってジャガーに付いて行け」
  • 「どたま、かち割ったろか?とっさの一言集」
  • 「果てしなきエロ道 けがれなく 天高く」
  • 「裏声で歌え!マイムマイム」
  • 「真実のシートン動物記」
  • 「真実のファーブル昆虫記」
  • 「お客様の中に、産婆はいらっしゃいますか?」
  • 「力道山から江頭2:50まで  黒タイツの歴史」
  • 「いくら教養があろうと、貴様は米ぬかのようなものだ」
  • 「京の血の雨がアフリカに降ったら、野菜は実るのか?」
  • 「山より大きい猪はいないが、穴よりでかいネズミはいる」
  • 「怒りん坊と俺の棒」
  • 「モザイク映像を目を細め見ている自分の顔を、一度見てみるがよろし」
  • 「ゲンと言う子どもの80%は、はだし」
  • 「うっかりYESと言って、長年後悔したことはないですか?私にはあります」
  • 「暴飲暴食は、野菜や水でやっても駄目なのか?」
  • 「痛いの痛くないのって、痛い」



 異常に性欲に溢れ、一日三回のマスターベルトは欠かせぬものであったらしい。遅漏であるがゆえに、女人とのセックスよりマスタルベルッテ(日本語で自慰行為)を好んだとも言われる。

 サンカが、いわゆる「トケコミ」に成功し、一般社会で功をなした魁と言われる。

 サンカ研究家の三角寛の余りの荒唐無稽さに怒り、その命を夜襲にて奪おうとしたことは有名であるが、卑怯者の三角が自宅を150名の傭兵に守らせていたため、果たせなかった。しかし、傭兵の147人を殺害し、残り三人になった時、三角が放った炸裂弾によって重傷を負い、後一歩のところまで追い込んだのは殊勲と言える。

 きのやまさをと同様、自動車を愛好し、皇尊皇は六連星、さをは美射屠をこよなく愛したという。二人が共通して愛したのが、ロータス・エスプリで、天津教の開祖コーリン・チャップマンとここで結びつくのである。

 風貌に似合わず、小動物の飼育が得意であったらしい。特に小鳥やリスの飼育が得意で、繁殖の技術では、専門家をうならせたという。

 関西で言う「せこい」性格だった彼は、細かい部分でけちけちする割りに、様々な局面で大損をしていたらしい。

 波乱の半生を送った彼であったが、三十半ば頃からは落ち着いた生活を送るようになり、殊に、民俗学について強い興味を示すようになる。当時、圧倒的な主流であった柳田民俗学ではなく、赤松民俗学に染まったのは、いかにも彼らしい。一説によると、『イタカおよびサンカ』の論文について彼自身の生活を元にした真実を柳田に書簡で伝えたところ、研究方針に合わないということで無視されたのが、柳田民俗学から彼を遠ざけた理由であるらしい。民俗学に傾倒する余り、偶然出会った座敷わらしと結婚して一男をもうけたのは、度が過ぎるというべきであろうか。

 文盲であった彼が、京都遁走中に紀州の南方熊楠の下、字を学習し、教養を深めていったというのはもはや常識になりつつある。また、教養だけではなく、熊楠から伝授されたのは、猥談であった。彼は京に戻ってからは、島原遊女目録を作成し、それを全て暗記していたと言う。また、吉原遊女目録も作成していたとの未確認情報もある。ただ、サンカの習性が抜けなかったのか、実際に遊郭に足を運ぶことは皆無であったという。

 旅行先のチベットで客死し鳥葬されたとの情報があり、鳥を飼うのも食べるのも好きだった彼にとっては本望といえるだろう。特にせせりが好きだったとのことだ。

 座敷わらしと結婚後、終の棲家を得た彼は、サンカ生活との決別を行った。いわゆる、定住という選択をしたのである。小さな庭に畑を作り、サツマイモやたまねぎを栽培する彼の姿を見た昔のサンカ仲間たちは、憤怒の涙を流したという。先鋭的な彼の暗殺行動を影ながら支持してきたサンカ集団にとって、魂を抜かれたかのような安定志向は目を疑うものであったに違いない。しかし、その実、皇尊皇の屋敷の屋上は密かに物見櫓として機能するよう作られており、日々、四方360度を見渡していたとのことだ。その先進的な構造は、日本が誇る重巡洋艦摩耶の艦橋構造に引き継がれている。
最終更新:2014年01月03日 23:35