教育迷子になる前に

勉強は自分のため?

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tearaway

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勉強とは自分のためにするものなのか?


 「どうして勉強しなくてはいけないのか?」という子供の質問に対して、一般的に「自分のためだから、我慢して勉強しなさい」といった回答をよく耳にするでしょう。
 しかし、ここまで挙げてきた「国語教育の目的」や「個性」といった点を踏まえただけでも、この「自分のため」という回答は非常に怪しくなります。

 例えば、
 医者が医学を学ぶのは誰のためでしょうか。
 科学者が科学を追究するのは誰のためでしょうか。

 あまりに単純な質問でしょう。
 それは「他人のため」です。病気で苦しんでいる人を救うために医学を学び、みんなの生活を豊かにしていくために科学を追究しています。
 どんな分野でも、勉強は自己中心的なものではありません。高度で専門的な知識や技術になるほど、「他人のため」という色彩が強くなっていきます。

 もちろん「純粋に他人のため」とまで言ってしまうと、さすがに言い過ぎです。「自分のためであり、尚かつ他人のため」という位が適切でしょう。
 細かいことを言っていけば、純粋に趣味として自分のために勉強している人も大勢いますし、医者も仕事として報酬をもらっているのだから「結局は自分のためだ」と強情に言い張ることもできます。
 しかし、そんな根拠を探してまで頑に「自分のため」にこだわる必要も無いでしょう。単に「自分のため」だけよりも「自分のため+他人のため」の方が、勉強の範囲も広がりやすく、目的も理解しやすく、また面白くもなりやすいのです。

Q:勉強は、自分のためにするものなのか?
A:もちろん自分のためではあるが、他人のためという目的も重要

 単純なことを言っているようですが、これは教育の意義そのものを根本から左右する、とても大切なことです。

 例えば、国語の特徴で見てきたように、コミュニケーションを成立させるためには、まず前提として相手に自分の気持ちを伝える意思が必要になります。その意思が無ければ、どんなに言葉を並べてもコミュニケーションは成り立ちません。「言語スキル」ばかりをどれほど磨いても、そこに「相手に伝えようとする意思」が無ければ、言葉なんて耳障りなノイズにしかならないのです。
 同様に、他のあらゆる科目においても「相手のため」「他人のため」という意識が必要になるケースが多々あります。

 世界標準の教育の目的には「社会に貢献できるような人間に育って欲しい」という願いが込められています。そのため、教育上のあらゆる場面で「他人のため」という考え方を育てていくように組み立てられているのです。
 勉強の目的を考える上で「他人のため」という視点が入るのは極めて自然なことであり、それが欠如していたら異常です。

 しかし、日本では「どうして勉強しなくてはいけないのか?」という質問に対して「自分のためだから、我慢して勉強しなさい」という回答をよく耳にするでしょう。そして「他人のため」という説明はほとんど聞きません。


「仕事」を例に考える






自分のため

 まず、我慢しながら嫌々勉強しても、ほとんど何も身に付きません。嫌々勉強しているような状況とは、その勉強が自分にとって無駄だと感じているから生じるのです。興味も無いし、やる気も無い。それでは身に付かなくて当然でしょう。

 そもそも勉強が「自分のため」であるならば、自分が勉強の目的を理解していなければならないはずですし、何を勉強するかという内容や、どのように勉強するかといった方法も、自分に適したもの探して自分で決めて構わないはずです。
 それにも関わらず、大人から一方的に「我慢してこれを勉強しなさい」と押し付けられて、しかもその理由が「自分のためだから」では筋が通りません。








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