教育迷子になる前に

どうして戦争は無くならないのか? 3

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どうして戦争は無くならないのか? 3


 次に、戦争に巻き込まれる危険性について、簡単に触れておこう。

 ここまで戦争の原因の中で最も分かりやすい例として、食糧不足を挙げてきた。しかし、そこで「日本は食糧不足ではないから、その点では心配いらない」と勘違いする人が稀にいる。当然ながら、それは大きな間違いだ。

 確かに、現代の日本が食糧不足に陥る可能性はかなり低いだろう。食糧自給率の低さなどの問題もあるが、それを踏まえても現時点での危惧は微々たるものだ。その点では、日本が食糧を略奪するために他国へ攻め込むような事態にはならないと考えられる。しかし、それで戦争になる心配の種が無くなるかと言えば、そんなことはない。日本が攻め込まれる側になる事態は充分に起こり得るからだ。ここで「食糧の奪い合いなら、貧しい国同士でやればいい。日本は関係無い」と考えるのは間違いだ。食糧不足で困っている国は、同じように食糧不足で困っている他の国を襲うような真似はしない。何故なら、相手国に奪える食糧が無いからだ。食糧を持っている国からしか食糧は奪えない。だから当然、狙うのは食糧が豊富にある国である。確かに、日本は食に恵まれている。飢餓の心配はほとんど無くなった。しかし、だからこそ狙われて当然なのである。世界に目を向ければ飢餓と貧困に苦しむ国はまだまだ多い。そういった国々では争いも多い。そして、その争いの矛先はいずれ裕福な国へと向けられる。日本側に戦争する気が無くても、日本が狙われる理由ならもう既に整っているのだ。

 裕福であること、平和であることに非は無い。だが、非が無いことは狙われない理由にはならない。貧困に喘いでいる人は裕福な人に嫉妬する。戦争に苦しまされている人々は平和な世界に嫉妬する。それは簡単に悪意に変わるだろう。ここで「戦争なんてバカな国同士で勝手にやっていればいい。日本を巻き込むな」と考えるのは大きな間違いだ。愚かな国が戦争を起こしている訳ではない。何らかの問題に苦しまされている国が、そこから脱するための手段として戦争を起こすのだ。賢い国ならば戦争に巻きこまれない訳ではない。豊かな国はその豊かさ故に執拗に狙われて巻き込まれてしまうのだ。日本が世界から先進国だと見なされていれば、むしろ狙われて当然だと考えるべきなのである。「戦争は悪いことだから、絶対に繰り返してはならない」と教育するのは構わないが、その教育が述べているのは「日本から攻め込むような真似は絶対にするな」という意味でしかない。だからと言って「戦争は悪いことだから、狙われるな」と教育しても、それは相手国の意思次第なのでどうしようもないだろう。日本で暮らす全ての人々が心から「戦争=悪いこと」だと信じていたとしても、狙われるリスクは微塵も減らないのだ。現在が平和だとしても油断はできないのである。



 では、既に狙われやすい立場にあると想定した上で、そこで採れる対策とは何だろうか。単に裕福であるという理由だけで狙われるのだから、狙われる側には責められるべき非は無い。しかし、幾ら非が無くても狙われることに変わりはない。では、戦争の気配を見せている国を強く非難して牽制すればいいのだろうか。そんなことしても、やはり意味は無いだろう。飢餓に苦しむ人に「腹を空かせるな」と命令しても意味など無い。銃を向けて「もし他人の食糧を奪ったら処刑する」と脅しても、その人はどちらにせよ死ぬしかないのだ。それでは「死ぬか殺されるか、好きな方を選べ」と迫っているにすぎない。それならば「生きたい」と願う者は武器を手にするしかないだろう。生きる為には戦うしかないのだ。だから、どんなに牽制しても、戦う覚悟を決めた者は怯まない。たとえ許されない犯罪行為だと分かっていても、他にどうしようもない。自ら戦争という手段を選ぶ国は、それが許されない行為だと分かっていても、それでもなりふり構っていられずに攻め込んでくる。どんなに牽制しても、それは止められない。

 その点を踏まえれば、そこで採るべき対策は自ずと決まるだろう。即ち「食糧援助」である。食糧を送るという直接的な援助もあるし、技術協力という援助もある。形や方法は様々だ。どんな方法でも構わない。「食糧不足が戦争の火種となるなら、食糧を分ければいい」という子供の発想が、そのまま正解なのである。食糧不足という問題は、苦しんでいる当事者には解決できない。解決できるのは、食糧を持っている者だけだ。もちろん、援助する側には得は無い。困っている人の為に自腹を切れるか、という点が争点になる。努力すればするほど損をする。それを理解した上で、どこまでその損失を受け入れられるか。それが悩みどころになる。だが、この方法が「食糧不足」という戦争の火種を消すには最も効果的である。

 平和に内にこそ戦争について考えなければならないと述べてきた理由はここにある。戦争中の国が自力で戦争を解決することは非常に難しい。戦争を解決するための効果的な手段を持っているのは、その当事者ではなく、むしろ部外者的な立場にいる平和な国なのだ。「今は平和だから別に戦争について考える必要は無い」のではない。平和な時こそ戦争について考えるチャンスなのである。平和な国が「私たちは平和に暮らしているので、戦争なんか関係無い」と考えるなら、戦争は無くならない。平和な国が積極的に解決に乗り出さなければ戦争は無くならないのである。現在の日本はとても平和だ。それは即ち「どうして戦争は無くならないのか」という疑問について、今最も真摯に向き合える国の1つであるということなのだ。これは非常に貴重なチャンスであり、とても誇るべきことなのである。

 ここで注意しなければならないのは、これはただの綺麗事ではない点だ。これは決して「お互いに助け合う精神・慈愛の心があれば戦争は無くなる」といった博愛精神ではない。「貿易」などで述べているように、たとえ善意の行動でもそれが必ずしも正しい結果に繋がるとは限らない。この点を忘れていると「こっちは善意で援助しているのに、感謝しないとは何事だ」といったように善意を押しつけてしまいがちになる。安易な博愛精神は「博愛精神至上主義」に変じやすく、その主義の中では「善意」に溢れている人ほど横柄になりやすいという不思議な現象が起こる。簡単に言えば「助けてやるから跪け」といった態度だ。安易に精神論で結論づけてしまうと非常に危険である。

 もちろん、善意を否定しているのではない。戦争は人が起こすものなのだから、人々の意思の善悪が戦争の発生を大きく左右する。だから、個々の善意が論点になるのは当然であり、結局のところ精神論にはなる。「戦争を繰り返してはならない」という教育が行われているのは、戦争に反対する意思の育成が重要だと考えられるからだろう。しかし、だからと言って「善意があれば戦争を無くせる」という考え方に陥ってはならない。正しくは「戦争を無くすためにはどうすればいいか」と考えること、そこに本来の善意がある。
  • 努力すれば平和になる
  • 平和にするために努力する
 言葉としては紛らわしいかもしれないが、この両者は全くの別物だ。

 前者の場合は自分の行動を正しいと信じることが重要になる。それが転じて、自分の意見に賛同しない者が現れると、その人を「正義を理解できない愚か者だ」と捉えてしまいやすく、非常に敵対しやすい。特に宗教的対立にこの例は多い。「正しい神を信じられないなら、その者は悪だ」という考え方が典型だ。正義を信じるための信仰だったはずが、その正義の名の下で他者を迫害してしまうのである。

 反対に、後者の場合は常に何が最善かを模索し続けるため、もしかしたら自分の考え方は間違っているかもしれないと疑いながら慎重に行動することが重要になる。その為、自分とは違う意見に出会っても、それを吸収してより善い案を生み出そうとする。考え方がブレやすいという欠点があるが、考え方が違う人とも協力関係を築きやすいという長所は大きい。

 善意や正義といった概念は批判しにくいが、落ち着いて見ればその中身も様々であることに気付くはずだ。可笑しな表現になるが、正義にも「良い正義」と「悪い正義」、あるいは「優しい正義」や「厳しい正義」など、様々な形があると考えると分かりやすいだろう。既に述べているように、「自分は悪くない」と思っている人ほど「敵が悪い」と思い込みやすい。そして、当然ながら「自分は正しい」と思っている人の危険度はその比ではない。「正しいことをすることは正しい」と考えることは、実は正しくないのだ。非常に危険なのである。それよりも「もしかしたら間違っているかもしれない。それでも今はこれが最善だと思っている」という考え方の方が正しい。

 教育において「戦争=悪いこと」だとしっかり教えることが重要だと考える人は非常に多く、そのほとんどの人が「戦争は悲惨で愚かな行為。だから悪い」という説明をしたがる。「食糧不足に陥った場合はどうするべきか」などといった具体的な細かい想定を避け、「納得できなくても、とにかく戦争は悪いと覚えておけばいいのだ」と説明するケースが少なくない。これは結論ありきの説明で、「とにかく戦争は悪いのだ。それに対して口答えするなら、その時点で戦争に賛同する心を持つ愚か者だ」としてプロセスも感情も置き去りにしてしまう。つまり、これも「正しい神を信じられないなら、その者は悪だ」と同じ前者の考え方なのである。信仰そのものは信じる人々にとって正義以外の何物でもないが、その信仰が戦争の火種となったケースは多々ある。同じように、教育そのものは善意の塊だ。意図的に間違ったことを教えようとする者などいない。しかし、その教育によって培われた意思・思想の偏りが戦争の火種となる可能性は充分にある。信仰も教育も、それを信じる人々の正義や善意、意思や思想、価値観などを形成する点では同じ様な働きをする。信仰と教育の類似点は少なくない。その信仰が戦争の火種となり得るならば、教育だけがそうはならないとは言えないだろう。教育を正しいものと信じて「しっかり教育すれば、みんな良い子に育つはずだ」と考えることは、実は多いに危険なのである。

 では、後者の考え方で教育を捉えるとどのようなものになるか。それは「どうして戦争は無くならないのか」と疑問に感じる子供たちの姿勢が、そのまま正解である。繰り返しになるが、「どうして戦争は無くならないのか」と質問する子供たちも、戦争は悪いことであるということぐらい分かっている。それが分からないから質問しているのではなく、明らかに悪いことであるにも関わらず何故それが繰り返されてきたのか、その点が分からないから質問しているのだ。戦争は、身近な犯罪のように愚かな者が魔が指して行ってしまう類いのものではない。賢い人たちや国の未来に責任を負っている人たちが大勢で話し合って、その上で行われてきたのだ。何故そこまでして「悪いこと」が繰り返されたのか。それが分からないから質問しているのだ。

 「どうして戦争は無くならないのか」という疑問は、とてもシンプルだが、戦争というものに対して最も素朴にして真摯な姿勢で向き合っているからこそ生まれる極めて本質的な疑問なのである。自分なりに理解し、「自分ならどうするか」を考えることで、想像の中で少しだけでも疑似体験する。これによって、自分には関係無いただの他人事だった事柄が、ほんの僅かでも自身で経験したものと変わりなく重要な事柄として認識されるようになる。そうして得られた、部外者としての冷静で客観的な判断と、もし自分が当事者だったらどうするかという主観的な判断は一致しないことが多い。そんな両者の判断を持つからこそ、その狭間で葛藤できるようになる。それが考えるということだ。子供の疑問を「愚か」として無視し、頭ごなしに「戦争=悪いこと」だと教え込むだけの教育を行うことは、その考えるチャンスを潰すだけの非常に愚かな行為だと言えるだろう。

 重要なのは結論を教えることではない。ここまで挙げてきたように、決定的な食糧不足の中では全員で平等に食糧を分け合うと全員が飢え死にしてしまうし、食糧生産量を増やそうと躍起になれば領地争いに発展してしまう。食糧不足に苦しまされている国に食糧援助することは非常に有意義であるが、だからと言って「食糧援助=正しい」と安易に結論づけてはならない。「善意=正しい」と考えてはならないのだ。あえて「2人だけを助ける」という苦渋の選択をしなければならない時もある。心からの善意を押さえ込まなければならないケースもある。自分の危険をも顧みない博愛の精神であっても、それを安易に奨励はできない。「1人1人がしっかりと善意の心を持っていれば争いは起きない」と教えることは間違いなのである。善意にも間違いはある。決して間違いではなくても、思わぬ弊害を招くこともある。それを忘れずに「自分には何ができるか」を慎重に考えること、結論を急がずに様々な可能性を視野に入れて考えること、それが後者の考え方だ。

 現在の日本はとても平和であり、「どうして戦争は無くならないのか」という疑問について最も真摯に向き合えるチャンスである。しかし、それは決して「戦争は悪いことだ。決して繰り返してはならない」と教えるためのチャンスではない。子供たちと同じ目線で、シンプルに「どうして戦争は無くならないのか」と改めて考え直してみることができる、そのチャンスなのである。
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