教育迷子になる前に

国語教育の目的(日本編)

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国語教育の目的(日本の場合)


 世界中どの国の教育においても、最も基本とされている科目は「国語」です。そのため「国語教育を見れば、その国の教育の特徴が分かる」とさえ言われるほどです。
 日本においても「勉強の基本は、読み・書き・計算」と言われているように、やはり国語が非常に重要な基礎だとされています。

 そこで、まずは国語に注目してみましょう。

 いきなり「どうして勉強しなくてはいけないのか?」という問いについて考えようとしても、そもそも「勉強とは何か?」といった漠然とした抽象的な話に陥りがちです。
 勉強の基礎である国語の大切さをまずしっかりと確認しておくことが、勉強全体を見直すことに繋がるでしょう。



日本の国語は「読み・書き」などの言葉力 ⇒つまり国語とは「母国語」

 ここでは国語に焦点を当てるので算数については省略しますが、「勉強の基本は、読み・書き」と言われるように、日本の国語教育の目的は言葉の学習に集約されます。
 言葉を学ぶことによって、読解力・理解力・表現力・文章力、あるいはコミュニケーション能力などを身に付けること、つまり言語能力全般を育成することが国語の目的だと説明されています。

 この点については、文部科学省も学習指導要領で明確に記しています。

小学校学習指導要領
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。

中学校学習指導要領
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし、国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。

 学校に限らず、塾や教育専門家たちの見解もほとんど同じです。細かいことを言えば多少の違いはあるかもしれませんが、これと明らかに異なる見解を耳にする機会はまず無いでしょう。

 日本においては「国語は言葉を学ぶための科目」です。これはしっかり記されています。
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国語の目的は、言葉の意味を正確に学ぶこと。

 公的にしっかり記されている部分だけでは回答としてシンプルすぎるので、少しだけ掘り下げておきましょう。

 国語は言葉を学ぶ科目ですが、ではなぜ言葉を学ぶ必要があるのでしょうか
 この疑問に答えるのは簡単でしょう。
 それは言葉の理解力を向上させるためです。

 教科書を読んだり先生の説明を聞いたりしても、その説明を理解できないような状態では授業になりません。算数でも社会科でもどの科目でも、言葉による説明を受けて授業は進められていきます。そのため、当然全ての科目おいて言葉の理解力が必要になります。
 言葉の理解力が足りないと、どの科目でも授業になりません。それは裏を返せば、言葉をしっかり理解できるようになると、全ての科目で授業効率が上がるということです。
 全ての授業のスタートに位置するのは言葉であり、だからこそ国語は全ての科目の土台になります。これが「勉強の基礎は国語」と言われる理由でしょう。

 出発点の「国語の目的は言葉を学ぶこと」を少し掘り下げると、「会話や説明などをしっかり理解できるようになるために、言葉の意味をしっかり正確に学ぶこと」と言うことができます。
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疑問:国語とは、本当に「言葉を学ぶため」の科目なのか?

 文科省のHPや塾のパンフレットなどを参考にしても、大抵この辺りまでの説明が多いでしょう。特に不自然ではなさそうなので、とりあえずは納得できるのではないでしょうか。

 しかし、よくよく見直してみると、説明不足の感は否めません。
 特に、実際に勉強している子供たちほど不満が出ます。それは「今はもう勉強していない大人たちによる都合の良い説明」という印象になりがちだからです。説明を手短に切り上げられているようにしか感じられないからでしょう。

 ここで、もう一度「国語教育の目的は、本当に言葉の意味をしっかり正確に学ぶことなのか?」と問い直してみると、すぐにその理由に気が付きます。
 主な論点は次の2つです。
  • 言葉には「意味」以外にも大切な要素が様々あるのではないか?
  • 国語では文学や古典など様々なことも学ぶはずだが、その目的も「言葉」なのか?
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 単純に考えても、国語で学ぶ全体像に対して「言葉の意味」が指す領域は非常に狭いはずなのです。そのため「国語の目的は言葉の意味を正確に学ぶこと」という説明では、実は国語の大部分を説明していません。それでも本当に「国語の目的は言葉」なのでしょうか。

 この2つの論点を見ていきましょう。


論点1:「意味」以外の言葉の構成要素

 「国語の目的は、言葉の意味を正確に理解できるようになること」と述べると、いかにもそれっぽく聴こえるのですが、それで納得してしまうのは安易です。正確さばかりを追求することには問題が潜んでいます。
 もちろん、言葉を正しく学ぶことは非常に重要なのですが、国語で重要になる言葉の理解力とは、単に言葉の意味をしっかり正確に理解するための能力ではありません

 非常に簡単な例として「結構」という言葉が挙げられます。
 この言葉は「それで結構です」と言った場合は肯定の意味になり、「それは結構です」と言った場合は否定の意味が主流になります。
 このように、言葉は使い方次第で正反対の意味になることさえ度々あります。「国語の目的は言葉の意味を正確に理解できるようになること」であるにも関わらず、そもそも言葉自体が曖昧なのです。

 もし言葉の意味を正確に追求するなら、国語の授業として扱うべき最適な教材は辞書のはずでしょう。辞書に載っている通りに言葉を正確に操れるようになることが、言葉のスキルということになります。
 しかし、実際に授業で使用されているメイン教材は小説やエッセイなどです。これは、言葉1つ1つの意味をただ正確に理解しても、それだけでは充分とは言えず、その言葉がどのように使われるかも含めて学ぶ必要があるからです。

 文章は単語の羅列ではありません。一連の流れを持ち、言葉それぞれが相互に影響を与えて、文章全体で意図や目的を表現します。それを把握することが重要です。
簡単な例。
「この料理、見た目はイマイチだけど、美味しいね」
「この料理、美味しいけど、見た目はイマイチだね」
両者は言っている内容自体は同じなのに、順序が違うだけで趣旨が変わります。
 また、文章の目的を把握できていれば、言葉は置き換えが可能です。「結構」だと誤解しやすいなら、目的に合わせて「了解」や「不要」に置き換えればいいのです。

 このことからも、言葉そのものを理解することが重要なのではなく、言葉に込められた目的を把握することの方が重要であることが分かります。
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正確さと曖昧さ。

 言葉を「意味」からではなく「目的」から捉えようとすると、途端に「言葉の正確さ」の価値が揺らぎ始めます。

 もちろん、言葉を間違えて学ぶことにメリットはありません。正しく学ぶことは非常に重要です。
 しかし言葉を学ぶ上では、無闇に正確性を追求することは得策ではありません。言葉の目的を中心にして考えると、むしろある程度の曖昧さ、言い換えると柔軟性が必要になります。

 もし「言葉の意味は常に正確に捉えなければならない」とすれば、それは裏を返せば「もし、ほんの少しでも言い間違えた場合、その言葉どおりに正確に誤解するべき」という考え方になってしまいます。
 その代表例は、コンピュータ・プログラムです。プログラムは命令文を正確に入力すれば正しく機能しますが、反対にほんの1文・1語・1文字でも入力をミスすれば、しっかりとそれを反映して結果も変わってしまうでしょう。
 このように、言葉において正確であるという長所は、融通が利かないという短所にもなるのです。

 人間の言葉は、コンピュータの言語とは違います。コンピュータの場合は正確性が重要ですが、人間の場合は融通が利かないと都合が悪いでしょう。そもそも、人間自体が機械のようにきっちりしていません。人間は柔軟で曖昧なのです。だから、言葉が柔軟で曖昧なのも当然です。
 もし相手が言い間違えていたり、曖昧な説明しかできなかったり、口下手だったりしても、それで「相手が間違えたせいだ。だから仕方ない。自分は悪くない」で片付けてしまっては話になりません。たとえ言葉が正しくても誤解される場合もありますし、反対にたとえ言葉は間違っていたとしても意図をしっかり汲み取ってくれる場合もあります。

 言葉1つ1つの正誤に固執せずに、分かる範囲から相手が何を伝えようとしているのかを推察し、言葉の意図や目的を汲み取ることの方が重要です。そのため、人間の言葉においては厳密に正確性を追求するのではなく、ある程度の間違いでも許容できる柔軟性や応用力が必要になります。
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国語の特徴

 まずは一旦、ここまでを言葉の基本として抑えておく必要があります。
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 ⇒ 
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 言葉の大切さを説明をする際に、「言葉が大切なのは当たり前」といった形で誤摩化されてしまうことが多いですが、こうして比較してみれば、それがいかに説明不足か分かるでしょう。
 そんな説明では「言葉のどの辺りが重要なのか」「なぜ大切なのか」といった具体的な質問に対応できません。言葉の大切さについて考える場合には、こうした構造的な視点も必要になります。

 さらに、言葉にはもう1つ、非常に大切な要素が加わります。それは「コミュニケーション」です。実は、この点こそ国語最大級の特徴だと言えるでしょう。
 コミュニケーションが加わることで、国語における言葉の役割には一体どのような変化が起きるのか。その点を見ていきましょう。


ステップアップ
 まず、国語以外の一般科目においては、ほとんどの場合「勉強が進むにつれて、少しずつ内容が難しくなっていく」という基本的な流れがあります。いわゆるステップアップの流れです。

 国語以外の一般科目は、基本的に「自分の能力を向上させること」を目的にしています。
 暴論を言ってしまえば、数学でも哲学でもどんな理論や思想であっても、勉強というのは自分が分かりさえすればいいのです。独りで勉強して、独りで納得し、独りで成長する。それで構いません。何故なら、特に数学や自然法則などは、全世界で通じる普遍的な知識だからです。

 たとえ自分がどう思っていようが、自然の法則を改ざんすることはできません。同じように、普遍的な知識というものは、個人の意見や感情には影響されません。好きでも嫌いでも、得意でも苦手でも、その知識の正誤は揺らぎません。
 そのため、普遍的な知識を学ぶ際に重要になるのは「その知識を正しく理解することができているかどうか」という点に絞られます。
 たとえ友達と比べて自分の方が優秀であっても、そもそもの知識の理解が間違っていたら大問題ですし、反対に、正しく理解できてさえいれば、友達より劣っていても大した問題にはなりません。友達と比べてどうかではなく、あくまでも自分がその知識を正しく理解できているかどうかが重要なのです。だから、自習で構いません。
中央教育審議会が掲げている「今後における教育の在り方」
自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」を育むこと
⇒ 勉強の中心をハッキリと自分に置いていることが分かります。
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落とし穴
 ステップアップは勉強の基本的な流れなので、国語においても同じように「勉強が進むほど、難しい事柄を習うようになる」と考えてしまう人が大勢います。言い換えると「難しい言葉をきちんと学ぶことが勉強だ」という考え方です。

 しかし、国語においては、このステップアップの流れを単純には適応できません。ここには、子供でも簡単に気が付く非常に大きな落とし穴があるからです。それは、難しい言葉を用いると、相手の人が困ってしまうということです。

 言葉を使う場面には必ず相手がいます。言葉とはコミュニケーション・ツールだからです。他者とコミュニケーションをとることが言葉の基本的な目的なのだから、当然、話す相手のことを考えて話をしなければなりません。難しい言葉を使っていると、自分は理解できても、相手の人が理解に困ってしまいます。
 だから、言葉は決して自分が分かっていればいいというものではありません。「どんな風に話せば相手に分かってもらえるか」と考えて工夫することこそ言葉の原点です。当然「誰と話すか」という相手の想定は非常に重要な要素になり、たとえ全く同じ内容であっても相手によって言い方を変える、といった工夫がとても重要になります。

 つまり、コミュニケーションの観点から考えれば、重要になるのは相手の理解度なのです。
 難しい言葉をきちんと学んで、自分を成長させることよりも、できるだけ簡単な言葉で話して、相手に理解してもらうことの方が重要です。

国語の特徴:コミュニケーション
相手の存在を考慮しなければならない。
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 「コミュニケーション」を含むことによって、国語の存在意義は根本から変わります。
 国語は、一般科目のような自分を成長させるために勉強する科目ではありません。他者との相互理解を目的とした科目です。少なくとも国語だけは競争原理ではなく協力原理に基づいており、相手への配慮が必要不可欠という非常に大きな特徴を持っています。
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 これが、国語で言葉を学ぶ際に最低限抑えておくべき基本構造になります。



コミュニケーション・スタイルと言葉の役割

 ここまで挙げてきた基本構造は、あくまでも基本にすぎません。単なる一般論としての「国語」を考えた際の構造です。
 本題はここからです。さらに1歩進んで、もう少し具体的な「日本の国語」について考えてみましょう。

 まずはここまでを簡単に整理すると、国語には2つの重要な柱があると言えます。
  • 言語能力を身に付けること
  • コミュニケーション能力を身に付けること
 改めて述べるまでもなく、この2点は学習指導要領にも「国語の目的」として明記されています。
 しかし、ここで「本当にコミュニケーションについて教えているか」という点には注意する必要があるでしょう。

 言葉とコミュニケーションは非常に密接な関係にあるので、「言葉をしっかり学べば、コミュニケーション能力も自然に身に付く」と思われがちですが、それは勘違いです。この両者は別物です。

 例えば、言葉を覚える前の赤ちゃんや言葉を話せない犬や猫でさえ、コミュニケーション能力は持っているでしょう。スキンシップやジェスチャなど、非言語的なコミュニケーションの方法だって多々あります。ひと口に「コミュニケーション」と言っても様々なスタイルがあるのです。

 そのため、「どんなコミュニケーション能力を身に付けたいか」と「どんな言語能力を身に付けたいか」は、密接な関係ですが、テーマとしては区別できなくてはなりません。
 言葉については確かに国語の授業で習いますが、では「コミュニケーションを習っているか」と問われると、判断に困るのでしょう。しかし、そこがとても重要なのです。「このようなコミュニケーションを目指し、だからこのように言葉を学んでいる」という形で理解できる必要があります。

 例えば「欧米人は自己主張がハッキリしているが、日本人は自己主張をほとんどしない」とよく言われます。このように、国や地域によってもコミュニケーション・スタイルは様々なのです。この違いは、単なる言語能力の違いではありません。
 日本人がいくら言語能力を磨いても、それだけで欧米型のコミュニケーション・スタイルにはならないでしょう。もし英語をしっかり学んでも、それでもやはり「主張しない」とされる日本人気質まで勝手に変わることはありません。イタリア語を学んでも、いきなり女性を口説くようにはなりません。たとえ何語で話しても関係無く、コミュニケーションのとり方や考え方は、相変わらず日本人気質のままです。
 さらに、メールやブログなどを好んで使うことから日本人は文字文化に積極的だと言えますが、それは電話や直接会って話すのが苦手であることの裏返しとも言われます。これを「言語能力は高いが、コミュニケーション能力は低い」と表現する人もいます。
 このようなことから、言語能力とコミュニケーション能力は別物として区別できなければならず、それぞれを鍛える必要があると考えられます。

 学習指導要領にも、国語の目的として「コミュニケーション能力を身に付けること」と確かに明記されていますが、では国語教育の現場において、どのようにコミュニケーション能力の育成しているのでしょうか。国語の教科書の中で、どの辺りが言葉の学習で、どの辺りがコミュニケーションの学習なのか、区別できるでしょうか。
 これを説明できないようでは、実際にコミュニケーションについて教えることなどできません。

 繰り返しになりますが、ここで重要なのは一般論としての「コミュニケーション能力」ではありません。「日本のコミュニケーション・スタイルに適した能力」を把握することです。
 主張が強い欧米における言葉の役割と、主張が弱い日本における言葉の役割は当然違います。「日本のコミュニケーション」を考えなければ、「日本の国語」の実態は見えません。
 言い換えると、コミュニケーションの特徴を掴めれば、そこから逆算的に考えていくことで日本の国語がより具体的に見えてくるでしょう。
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欧米のコミュニケーション・スタイル = 「話し合う」

 実は日本人自身にとっても説明しにくいのが、日本のコミュニケーション・スタイルです。
 それに比べたら、欧米のコミュニケーション・スタイルの方がずっと理解しやすいでしょう。比較のため、まずは欧米のスタイルから確認していきましょう。

欧米
 よく「欧米人は自己主張が強い」といった言い方をされます。そのため、何となく「我が強い・ワガママ・自己中心的」といった誤解を招きやすい部分もありますが、簡単に言うと「話し合う」というのが欧米のコミュニケーション・スタイルです。
 どうしても自己主張の強さばかりが目立ってしまうのですが、「自分から主張する分、相手の意見もしっかり聞く」というのが本来のスタイルです。

 もし主張しない日本人主張する欧米人が話をすると、どうしても欧米人だけが一方的に話すことになります。欧米人が聞く態勢でいくら待っていても、日本人が何も主張しないからです。それでは、どうしたって話は一方通行に成らざるを得ません。この構図が「我が強い」という誤解を招いているのでしょう。
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 しかし、欧米人同士で話をした場合は、当然お互いに主張し合う構図になります。
 その状態で「お互いに自分の主張をするばかりで、相手の話を聞かない」なんて不自然でしょう。わざわざ主張するのは相手に理解してもらいたいからです。「主張できるだけで満足だから、相手が理解してくれなくても構わない」なんてはずがありません。また、目の前で真剣に話している人を無視なんてできませんし、そこで無視してしまえば相手もこちらの話を聞いてくれなくなるでしょう。
 つまり、話を聞いてくれる相手がいるからこそ、お互いに本気で話せるようになるのです。

 「自己主張の強さ」ばかりが目立ちがちですが、その裏には当然「相手の意見をしっかり聞く」という特徴も持っています。
 本来「お互いに主張が強い」というのは「お互いに相手の話を聞く」と表裏一体なのです。そうでなければ成立しません。この点は誤解しないように注意する必要があるでしょう。
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 これを踏まえると、今まで挙げてきた「国語の目的は言葉を学ぶこと」という考え方は、実は欧米のコミュニケーション・スタイルにぴったりと噛み合うことが分かります。
 欧米のコミュニケーション・スタイルは「話し合う」です。話し合うためには当然、言葉が重要になります。自分の意見を伝えるためには言葉が必要で、相手の意見を理解するためにも言葉が必要になります。
 相互理解の構図なら、言葉が重要になるのはとても理に適っているでしょう。
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日本のコミュニケーション・スタイル = 「空気を読む」

 欧米とは反対に、「自己主張をしない」と言われるのが日本のコミュニケーション・スタイルです。もちろん「自己主張をしないこと」自体は本質ではありません。「自己主張をしなくてもお互いに理解できる」という状態を目指している点に特徴があります。これは単純に言い直すと「空気を読む」ということです。

 このスタイルは「謙虚・奥ゆかしい・察しの美学」や「助け合い精神・和・絆」などと表現され、日本人自身には非常に肯定的に捉えられています。
 ただし、いきなりこういった評価に飛びつくのは、さすがに結論を急ぎすぎでしょう。誰だって自国の文化は肯定したいものですが、始めから肯定の結論ありきで検証すらしないとなれば、それはさすがに問題です。
 そもそも、なぜ日本人は主張しないのか、なぜ「空気を読む」というスタイルを選んだのか、そこにはどんなメリット・デメリットがあるのかなど、そういった点の理解を深める必要はあるでしょう。
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 分かりやすい点としてまず指摘しておくと、日本のコミュニケーション・スタイルには「相手の話を聞かない」という大きな特徴があります。「察しの美学」などが挙げられているので、いかにも相手への配慮が細かいような印象を持たれがちですが、基本的には聞く姿勢もかなり弱いと言えます。
 そもそも「自己主張をしない」のが特徴です。当然ながら、そこで主張しないのは自分だけではありません。相手も主張をしないのです。つまり、お互いに本音を話しません。その状態で「相手の意見をしっかり聞く」なんて不可能でしょう。話されない意見を聞く術はありません

 基本的に、どんなコミュニケーションでも自分の意見を主張するのは、それだけ相手に理解してもらいたいからです。一切何も主張せずに「気付いてよ」と期待するのは、冷静に考えれば相当な無理難題であることは容易に分かるでしょう。もし自分の気持ちを理解してもらいたいと願うなら、理解してもらえるように努力する必要があるのは当然です。
 このことから、日本人が自己主張をしないのは、実は相手からの理解を求めていないからと言えます。もう少し柔らかく表現すると、これは「分かる人だけが分かってくれていればいい」という考え方です。
  • 欧米の「お互いに主張が強い/お互いに相手の話を聞く」が表裏一体であるように、
  • 日本では「お互いに主張しないお互いに相手の話を聞かない」が表裏一体になります。
 日本人にとって大切な奥ゆかしさとは、相手の話を適度に聞き流す姿勢であり、実は無視を有効に活用したものなのです。


争わないための距離感
 一般的に「無視」はかなり否定的に捉えられていますが、これを肯定的に捉え直してみると日本のコミュニケーション・スタイルが見えてきます。

 欧米のコミュニケーションでは、相互理解を目的として「どうすれば意見が違う相手とも上手く付き合えるようになるだろうか」といった考え方を持っています。異質な者同士が積極的にぶつかり合う「ケンカするほど仲が良い」という姿勢です。

 しかし、ケンカになりやすいことは充分問題でしょう。わざわざケンカしてまで話をする必要があるのでしょうか。そこまで意見が合わない人同士が、話し合ったぐらいでお互いに理解し合えるでしょうか。
 それを考えれば「意見が違うなら無理して付き合う必要は無い。お互いに距離をとって、それぞれ別々に自分の道を選択すればいい」といった発想も出てくるでしょう。考え方が同じ人同士で協力し合い、考え方が違う人とはお互いに干渉しなければいいのです
 これはこれで非常に合理的で、無駄な争いを起こさないためのスタイルだと言えます。争いを避けるために、あえて意図的に無視するのです。異質な者とは距離をとって相手にしない。これが平和を求める日本のコミュニケーション・スタイルです。

 このコミュニケーション・スタイルの目的はグルーピング、つまり「群れ」です。
 気が合う者同士で集まり、気が合わない者を遠ざけていくと、やがて自然にグループが作られていきます。こうして小規模なグループに別れて、積極的に棲み分けを行います。このスタイルには、次のようなメリットがあります。
  • 無駄な争いを避けることができる。
  • 各自が自分の信頼するグループに所属すればいいので、それぞれの満足度は高い。
  • 信頼できる仲間とグループを作るので、各グループごとに高度な組織を築きやすい。
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 主張しないことは、このグルーピングに見られる典型的な特徴です。
 気が合わない者を見つけた場合は、無駄な争いを避けるために話をすることなく無視して遠ざけるので、お互いに「オマエなんか嫌いだ」と主張する必要はありません。
 また、気が合う仲間を探す際においても、いきなり話しかける必要はありません。まずは遠目に相手を観察し、気が合いそうだと期待を持ててから、それから話しかければいいのです。つまり、話をしてみて仲良くなるのではなく、話をする以前にお互いを観察し合う段階があり、ここで既に大半の選別が完了します。そのため、ここでも主張する必要はありません。
 さらに、この「気が合う」とは無理して相手に合わせる必要が無い状態のことです。始めから価値観が同じなのです。だから、グループ内では意見衝突が無く、議論する必要はありません。あえて細かく主張しなくても、ほんのひと言ふた言話しただけで当然のように「そうだよね」と共感し合えるような関係が理想です。そのため、仲間同士では主張し合う必要がありません。必要が無いことが仲間の証、とも言えます。
 もし途中で意見が変わってすれ違いが生じてきた場合も、そこで無理して修正せずに別れてしまえばいいのです。だから、別れる際もやはり主張する必要はありません。人間関係の自然消滅を狙います。

 このように、グルービングを目的としたコミュニケーションにおいては、主張する必要性もチャンスもありません。無理に相手からの理解を求めず、お互いに無理せず一緒にいられるような相性の良い人を探すというスタイルになります。
 様々な人間関係の中で揉まれながら自分の価値観を少しずつ変えていくのではなく、自分の価値観を修正しなくても済むように人間関係の方を流動化させる点が特徴です。


同調性=排他性
 グルーピングは似た者同士で集まって協力するためのスタイルであり、同調性が特徴です。
 それは裏を返せば気が合わない者は無視して当然という排他性を持っていると表現することもできます。
 この同調性と排他性による二極化の構造もグルーピングの特徴です。
 まず気が合わない者は全て無視が基本姿勢なので、自分の所属するグループから1歩でも外側に出た世界には関心がありません。全ての関心事はグループ内部に集中します。
 関心のある世界はグループの内側だけに限られるので、思考の対象範囲も内側に限定されます。そうすると、今度は内側でも気が合わない者は全て無視というスタイルが適応されて、仲間同士で比較し合うようになります。「仲間の中で1番浮いているのは誰か」と探り合うようになるのです。
 そのため、徐々にグループの所属条件が厳しくなっていき、グループの範囲を狭めながら密度を濃くしていきます。これが、いわゆる「仲間はずれ」です。誰もが嫌悪感を示す「仲間はずれ」ですが、実はグルーピングにおいては欠かせないシステムの根幹と言えます。

 結果として、グループ内部については、ほんの僅かな違いにも恐ろしく敏感になりますが、一方でグループの外側にはあまりにも無関心なままという両極端な状態になります。グループ内部ではジョーク1つでさえ命懸け、グループの外側ではたとえ人が倒れていても見向きもしない、といった大きな格差が生じるようになります。


空気を読む能力
 こうした状況の中で培われるのが「空気を読む」という能力です。
 グルーピングの特性により「誰も明確には主張しない」状態ですが、それでも仲間はずれにされないためにはグループ内の雰囲気を敏感に察し続けなければなりません。そのため、各自の行動や態度を情報源として、例えば髪型の変化やため息の1つからだけでも相手の思慮を感じ取ろうとします。このような非言語的な洞察力が「空気を読む」という能力です。

 この流れを確認すると分かるように、この「空気を読む」という能力には自分が所属するグループの内部でのみ通じて外側の人には通じないという性質があります。
 よく「外国の人は空気を読めない人が多い」という言い方をする人がいますが、これは当たり前です。これは外国の人に空気を読む能力が無いのではなく、自分と外国の人ではグループが違うために、お互いの空気を読むことができないのです。つまり、相手から見れば、同様にこちらが空気を読めていません

 「空気」だけで意思疎通ができるような状態とは、例えば「阿吽の呼吸」や「アイコンタクト」と表現されるような、非常に高次元な非言語的コミュニケーションをとっている状態を指します。これは親密な間柄でのみ通じる秘密の合図に近いものと言えるでしょう。だからこそ、それが通じ合うだけで親友の証にもなり得ます。
 反対に、もともと価値観が違う者とは通じるはずがないし、むしろ通じては困るものです。例えば、日本人なら「武士道」は何となくイメージできますが、「騎士道」となるとイメージしにくいでしょう。恐らく、ヨーロッパで暮らす人ならこれは反対になります。他にも「ノブレス・オブ・リージュ」や「フロンティア・スピリッツ」なども、説明抜きでは日本人には理解しにくいでしょう。
 自分のグループに関わることなら説明がなくてもある程度は分かりますが、自分には無関係な人たちの思想や価値観まで空気だけで察することなどできません。

 日本人にとって大切な「察しの美学」や「」の精神は、あくまでも「日本人の」という条件の中でしか通用しません。「空気を読む」とは閉鎖性身内贔屓の上にしか成立しないのです。


自己喪失とステータス
 グルーピングは、無理せず素の状態のままで仲良くなれるような気が合う者同士で協力し合うことが根本の目的です。そのため、自然にグループに所属できる者にとっては非常に良い環境でしょう。
 しかしその一方で、素のままではどうしてもグループに違和感を抱いてしまう者も少なからずいます。このような者にとっては、「仲間はずれにされないためには、どうすればいいか」と悩み続けなければならない非常に過酷な環境になります。

 グルーピングは「グループの出入りは自由」が原則です。そのため、本来なら「仲間はずれにされたら、無理しないでグループを出て行けばいい」というアドバイスになります。しかし、ここには2つの問題点があります。
 1つ目は「群れ社会」であることです。グルーピングを採用している社会では、社会全体が群れ社会の構造を持ちます。そのため、基本的にどこかのグループに所属する必要があり、どこにも属さない1人者は「はぐれ者」とされ、誰からも信頼されないという風潮になります。
 2つ目は、自分にとってはグループが世界の全てとなりやすい点です。もともと視野が狭く、あらゆる判断においてグループの価値観を基準にしているため、その他の可能性に気付きにくいのです。グループに馴染めない場合は「馴染めない自分が悪い」という想いに縛られる傾向があります。
 このような理由から、グループから離脱することに強い恐怖心を抱くという自己束縛性が生じます。「グループの出入りは自由」が原則でありながら、その原則に反してグループから離れなくなるという矛盾を自分から作り出してしまうのです。これは共依存の関係に似ています。

 そして、このような流れから、気が合う者同士で協力し合うことが本来の目的であったはずが、いつのまにか自分の気持ちを抑えてでもグループ内で上手くやっていくことの方が重要になっていきます。
 やがてグループに合わせるか、それが嫌ならグループから離脱するか、選択肢はその2つに絞られます。つまり、100%服従か、あるいは絶縁かという極端な2択を迫られるようになるのです。

 もし、どんなグループに所属するにしても必ずそのグループに100%従わなければならないのならば、そこでは最早自分の意志は不要になります。むしろ、邪魔になるとさえ言っていいでしょう。
 代わりに重要になるのは「どのグループに所属しているか」というステータスです。自分の価値が、自分の意志ではなくステータスで決められるようになります。「学歴社会」などに代表される、いわゆるブランド主義は、この典型でしょう。

 この自己喪失性ステータス重視もグルーピングに見られる大きな特徴です。


日本のコミュニケーション
 日本のコミュニケーション・スタイルの特徴をざっとまとめてくと、次のようになります。
  • 自己主張をしない
  • 自分と異なる意見は聞かない
  • その上、自分の意見を持たない
  • しかし、空気を読んで周囲に合わせられる
  • 分かりやすい「空気」の演出が重要
 これらを踏まえると、日本のコミュニケーションは、言葉の役割がかなり弱いと言えるでしょう。

日本のコミュニケーション = 非言語的
本来、言葉とコミュニケーションは非常に密接な関係にありますが、日本の場合はその関係性が比較的希薄であるという点が大きな特徴です。
 「空気を読む」「呼吸を合わせる」「目で会話する」など、言語に頼らないコミュニケーションの方が高く評価される傾向にあります。


日本の国語はコミュニケーションについて教えているか?

 「日本のコミュニケーション」を確認していくと、日本の国語教育ではコミュニケーションについては教えられていないことが分かります。

 そもそも、コミュニケーションを重視するならば、授業は対話形式になるはずです。
 しかし、日本の授業は聴講型の一斉授業形式が基本であり、国語も例外ではありません。つまり、国語の授業においてもコミュニケーションをとる機会自体が無いのです。
 また、作文や小論文を書く際も、特定の誰かに向けた文章ではなく、不特定多数に向けた文章を書くことが主流です。このような相手を想定していない文章は、言語能力を鍛える側面は確かにありますが、コミュニケーション能力を鍛えているとは言い難いでしょう。

 さらに日本の場合は、このような言語的対話などよりも非言語的コミュニケーションの方が重要であり、その中でも特に「空気を読むコツ」や「自分を周囲に上手く溶け込ませる方法」などが重要になるはずなのです。
 しかし、当然ながら国語の授業でそんなものは教えられていません。非言語コミュニケーションも教えられていないのです。

 もともと、日本では「コミュニケーション能力は集団生活をする内に自然に培われていくもの」と捉えれている節があります。「集団生活の中で身に付けていくものであり、わざわざ教えるものではない」という考え方です。休み時間や放課後に友達とおしゃべりする内に身に付けるものであって、「国語」として教えるようなものではないと捉えられています。

 日本の国語において「コミュニケーション能力を身に付けること」も大切な目的として挙げられてはいますが、実態として、言語的コミュニケーションも非言語的コミュニケーションも教えられていません。

 このようなことから、日本の国語は言葉の学習に専念しており、コミュニケーションについては教えていないと言えます。
  • 日本の国語は、基本的に「言葉を学ぶ科目」です。
  • しかし、日本のコミュニケーションは「非言語的」です。
  • そのため、日本の国語では「コミュニケーション能力」は対象外になります。
日本の国語=言葉
非言語的な「日本のコミュニケーション能力」は対象外
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日本の国語

 コミュニケーションを目的としていない日本の国語教育において、言葉を学ぶ目的とは一体何でしょうか。
 ここに当て嵌まるのはステータスです。

 繰り返しになりますが、「コミュニケーション」を含むと、国語の存在意義は根本から変わります。一般科目のような自分を成長させるために勉強する科目から、他者との相互理解を目的とした科目に変わります。
 しかし、日本の国語においては「コミュニケーション」は対象外です。そのため、自分を成長させるために勉強する科目に戻ります。
 日本の国語で言葉を学ぶ目的は、難しい言葉を理解できる能力を身につけて、自分の能力を向上させることです。そして、それを「学力」として評価してもらうことにあります。

 コミュニケーションを目的とする場合には、相手の間違いを許容する柔軟性も必要になります。
 しかし、成績に直結するテストにおいて間違いを許容されるなんてことは有り得ないでしょう。間違えた分だけ、きっちり評価が下がります。そのため、柔軟性はむしろ否定され、正確性のみが追求されるようになります。
 さらに「目的の把握」の重要性も大幅に下がります。もちろん文章や説明の理解においては必要ですが、例えば漢文を学ぶ際に「漢文を学ぶ目的は何か?」という説明は無いでしょう。とにかく学べば良く、学べば成績が上がります。目的が無いまま難しい内容を勉強することの目的は「学力」以外にありません。

 このような流れの結果として、始めの「日本の国語教育の目的は難しい言葉を正確に学ぶこと」という公的な説明に戻ることになります。
 つまり、この説明の重要なポイントは、国語で言葉を学ぶ目的を「意味」に絞っている点にあります。実は、たくさんの事柄が削られているのです。
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Q:言葉には「意味」以外にも大切な要素が様々あるのではないか?
A:国語には確かに様々な要素があるが、しかし日本では目的を「意味」に絞っている。
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