教育迷子になる前に

どうして戦争は無くならないのか? 2

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どうして戦争は無くならないのか? 2


 ここまでの内容をひと言でまとめると「無関心が戦火に注ぐ油になる」となる。「自分は悪くない」「自分には関係無い」と考えている人ほど簡単に戦渦を拡大させてしまう。

 それを踏まえて、次に「どうして戦争は起きるのか」という火種について改めて考えてみよう。既に述べたように、一般的には宗教的対立や戦争経済が挙げられることが多い。確かにそういった事例は数多い。しかし、日本で、特に「どうして戦争は無くならないのか」という疑問を抱いている子供への回答として挙げるには、どちらもあまり相応しくない。もともと無宗教とさえ言われる日本で「宗教が原因」と言われたら、「宗教=悪」「信仰の無い自分には関係無い」という結論が導かれてしまう。「経済が原因」と言われても、そもそも「経済」がよく分からないし、「お金持ちが悪い」「大人は汚い」「お金の無い子供には関係無い」としか思えない。戦争とは無縁の子供にとって、戦争はどこまでいっても他人事なのだ。その上、さらに大人から「戦争は愚かな行為です。絶対に繰り返してはいけません」と教えられても、「別にそんなに言われなくても、もともと戦争する気なんか全然無いけど……」としか思えない。「昔の人はバカばかりだったんだなあ」としか思えない。何度も繰り返し教えられるほど余計に他人事になっていくだけなのだ。これでは、しっかり教えようと大人が努力すればするほど、子供の無関心が助長されるだけである。

 だが、戦争はそれこそ何千年も前から繰り返されてきたのだ。そんなに昔の人々が「戦争経済」なんて現代の人でもよく分からないような小難しい概念で戦争してきたはずがないだろう。戦争が起きる原因なんてものは、それこそ原始人でも分かるほど簡単で驚くほど身近に溢れているはずなのだ。だから、繰り返されてきた。「他人事」なんて油断している余裕は無い。

 では、その理由とは何か。最も伝統的な戦争の火種とは何か。それは、食料の奪い合いである。小学校の教科書を読むだけで子供にも簡単に理解できる、最も基本的な戦争の原因は食糧だ。

 もちろん、これに対しても恐らく多くの子供たちが反論するだろう。「食糧が欲しいなら食糧だけを奪えばいい。殺し合う必要はないはずだ。それ以前に、他人から奪うことも悪い。自分で食糧を探せばいいではないか」と。それは考え方として間違っていない。野生動物たちの姿を例に見てもよく分かる。動物の世界において、食糧の奪い合いは日常茶飯事だ。力尽くで奪い合うのだから双方が怪我をするだろう。しかし、それでもどちらかが死ぬまで止めないような殺し合いにまでは発展しない。敗者は無理せず他の食糧を探せばいいし、勝者も敗者を執拗に追撃するような真似はしない。生きる為の「食べる/食べられる」という命の奪い合いは当然あるが、無駄な殺し合いはしないのだ。それならば人間たちだって、食糧の奪い合いをするにしても食糧の奪い合いだけで済ませることができるのではないか。殺し合いにまで発展しないように気持ちを抑えることができるのではないか。それ以前に、まず自力で食糧を探すべきだし、困っている人に分けてあげるという平和的解決もあるのではないか。このように考える子供は多いだろう。

 これは半分間違いで、半分正しい。人間の場合、決定的に食糧が不足してからではみんなで協力して探しても不足分には到底及ばないし、分け合えば確実に飢え死にする者が増えてしまう。その為、方法は様々だが、動物たちと違って殺し合いにならざるを得ない。食糧が不足している限り、人間同士の殺し合いは避けられないのだ。子供たちの多くはこの点の認識が足りない。しかしその一方で、この場合の解決方法は簡単だ。食糧を確保できればいい。食糧不足という前提条件が問題だと分かっているなら、それを覆してしまえばいいのだ。みんなで分けられるだけの食糧を確保すれば争わずに済む。この点は子供たちの指摘通りである。

 では、何故人間の場合だけ食糧不足が殺し合いを招くのだろうか。その理由は簡単だ。人間だけが農耕や牧畜などを行って食糧を自ら生産しているからだ。

 かつては人間も動物たちと同じように狩猟採集のみで食糧を得ていた。そんな狩猟採集の時代では、食糧集めは必要最小限に抑えるのが基本になる。冷蔵などの長期保存手段が無ければ必要以上に食糧を集めても食べ切れずに腐らせてしまうし、動物でも植物でも一度に大量に狩ってしまうと辺り一帯でその種が激減してしまうからだ。もし不容易に狩り尽くせば、その獲物はもう2度と現れない。長期に渡って定期的に獲物を狩る最大のコツは「獲物の数を減らさないこと」なのだ。このような狩猟採集生活においては、当然ながら人口も少ない方がいい。人口が増えすぎれば獲物を捕りすぎることになり、獲物がいなくなれば人間も飢えて死んでいく。このように人口は自然によって調整され、増えすぎることは無い。

 だが、人間は農耕や牧畜の技術を得て、自ら食糧を生産できるようになった。狩猟時代とは反対に、農耕時代においては、食糧は大量生産が基本になる。自分たちで作ったものだから、作った物を全部食べ尽くしても構わない。また作ればいいだけだ。採りすぎても種が絶滅するような心配も無い。余った分は誰かにあげてもいいし、家畜に食べさてもいい。畑の肥料にしてもいい。腐らせたところで損は無い。食糧は多ければ多いほど良く、その余剰分だけ人口を増やすことができる。また、農作業は多くの人手を必要とするため、農地面積を広げるためには人口増加が必要になる。人口を増加させた方が食糧の生産能力も向上していくので都合が良いのだ。こうして、人口と収穫は互いに作用して共に増加していく。

 しかし、農耕による収穫も決して簡単ではない。悪天候が続くだけで、いとも簡単に不作になる。飢饉に陥るのだ。では、収穫が足りない分は、その時ぐらいは昔のように狩猟を行って補えばいいのだろうか。当然ながら、それは無理である。既に農耕によって人口が大幅に増えている。狩猟の時代には数十人しか住んでいなかった地域にも、農耕の時代になると数百人~数万人もの人々が住むようになる。その分、必要な食糧は膨大な量になっているのだ。それはもう自然界を狩り尽くしたところで賄える量ではない。狩猟で得られる程度の食糧では焼け石に水なのだ。その為、農耕を営む人間社会で深刻な食糧不足になった場合、頼れるのは他人が収穫した食糧しかない。しかし、天候は隣近所で異なるようなものではないので、自分の住んでいる地域で不作なら近隣一帯も全て不作で当然である。ありったけの食糧を掻き集めて互いに協力し合ったとしても、増えた人口に対して圧倒的に足りないのだ。その時点で、大量の餓死者が出ることは避けられない。こうして食糧の奪い合いがスタートする。目的はあくまで食糧であり、他人を殺す必要はもちろん無い。しかし、食糧を確保できなければ確実に飢え死にすると分かっていれば、命懸けの争いになるのは当然だろう。もし「生きる為にどうしても必要ならば、人殺しも仕方無い」のであれば、食糧不足は人を殺すに充分な理由である。

 現代の日本は既に飽食の時代と言われ、肥満が身近な問題となっているぐらいだから、飢餓を経験したことがある人は少ない。しかし、それでも何も食べなければ死んでしまうことぐらい子供にだって簡単に分かる。食糧不足が戦争の原因になることは簡単に理解できるだろう。

 これが分かれば、あとはその応用で宗教的原因や経済的原因の基礎も簡単に想像できるようになる。簡単な例題をあげてみると考えやすいだろう。

深刻な食糧不足になったが、あなたは運良く食糧を手に入れた。
ギリギリまで食い詰めれば、何とかあと2人助けることができる。
そんなあなたを頼って10人が助けを求めて集まってきた。
この時、あなたならどうするだろうか?

 この例題の主なポイントは2つだ。
  • 食糧不足という前提がある以上、10人全員を助けることはできない。
  • 特に資格や責任も無い自分が、生き残る2人を選ばなければならない。
 条件を抜きにして単純に「どうしたいか」と考えるなら「10人とも助けたい」と答えるだろう。しかし、この条件の下では10人で平等に食糧を分け合うと、確実に全員が飢え死にすることになる。この状況では「2人だけを助ける」という選択が最善なのだ。では、何を基準にその2人を選べばいいのだろうか。その考え方はたくさんある。最も酷い例が「10人に殺し合いをさせて、生き残った2人を助ける」という考え方だ。これが、いわゆる「黒」の選択である。「生きる為にどうしても必要ならば、人殺しも仕方無い」という選択をただ安易に受け入れただけの場合、このような考え方さえも正当化される。「生きる為には戦うしかない」という考え方自体は決して間違いではないが、それを安易に主張することがいかに危険な行動をもたらすか、それが伺えるだろう。では、もっと一般的な選択肢として他にどんな考え方があるだろうか。グレイゾーンにはどんな選択肢があるのか。例えば、簡単なものでも次のようなものがある。
  • 幼い子供や女性を優先する。
  • できるだけ頼り甲斐のある大人を優先する。
  • まだ若い夫婦を優先する。
 子を持つ親ならば「せめて子供だけでも助けて欲しい」と願うのは自然なことだろう。しかし、大人がいなくなれば田畑を耕す担い手がいなくなる。子供ばかりが助かっても、それでは翌年の収穫が望めずに結局は生き延びることができない。その為、たとえ子供を犠牲にしてでも、まずは大人が生き残るべきだとする考え方もある。ただでさえ働き手が激減しているのだから、独りで10人分働くような頼り甲斐のある熟練の大人が必要になる。目の前の問題だけを見るのではなく、数年先まで見通して少しでも多くの人を生き残らせようとするなら、それが妥当な判断なのだとも言えるだろう。だが、そうやって大人ばかりが生き残っても子供がいなくなれば、その地域に未来は無い。だから、自力で生き延びるだけの力を持ち、尚且つ未来のことも考えて子供を増やしていくには、結婚したばかりの若い夫婦が適任だと考えることもできる。このように選択肢は様々だ。どれが正しいと思うかは人それぞれである。

 このように様々な考え方がある中で、不作・飢饉を何度も繰り返し経験していくと、その度に経験と議論が蓄積されていき、やがては「この村では子供を優先することにしている」「あの町では若い夫婦を優先している」といったように、その地域における慣習やしきたりが出来上がっていく。その形成は自然の成り行きだろう。その延長線上にあるのが宗教だ。「宗教」と言うと、どうしても仏教やキリスト教などのように有名所を連想して身構えてしまいやすいが、長年をかけて培われてきた慣習やしきたり、思想や習俗、ルールや美徳などの集合体を宗教だと考えた方がいい。「宗教」という言葉が大仰すぎるなら、単に「習慣」でも構わない。特に日本の場合は、神道が多神教であることからも分かるように、特定の教義を一方的に押し付けられることを嫌い、様々な考え方が許容されて雑多に混ざり合っているような柔軟な状態を好む。そのため、もともと日本の宗教観は「唯一絶対の正義」というよりも「みんなで相談して決めたルール」ぐらいの方がニュアンスとしても近いのだ。現代の日本人にとっても、それが「自分とは関係無い」と言えるほど縁遠いものではなく、とても身近なものとして捉えることができるだろう。

 そしてこのように捉えれば、どうしてそういった習慣が争いを招くのか、どうして宗教が戦争の原因になってしまうのか、それを想像するのも容易い。もし、必死に助けを請うた結果が「お前はもう30歳だから潔く諦めろ」とか「あなたの娘はまだ10歳だから残念ですが諦めてください」といった返事だとしたら、それを素直に受け入れられるだろうか。客観的に考えれば、生き残る者を冷静に選ぶことは確かに正しい。生き残る者を決めるために殺し合うようでは本末転倒だ。しかしだからと言って、「あなたは生きられない者に決まりました」と勝手に決められては納得などできるはずがないだろう。自分や自分の大切な人の命を無碍にされて、それでも怒るなというのは無理な話である。このように、習慣やしきたりがどれほど正しかったとしても、長い歴史の中で築き上げられた宗教がどれほど正しいとしても、それに対する反発はあって当然なのだ。客観的な正義に対する個人的な命懸けの怒り、それが殺し合いにまで発展してしまっても無理はないだろう。これが宗教的原因と呼ばれるものについて考える場合の最も簡単な例である。

 経済的原因についても大差は無い。助けを求める人の中には「全財産をあげるから息子を助けてくれ」と頼む者もいるだろうし、「娘を嫁として差し出すので助けてやって欲しい」と頼む者もいるだろう。そこでもし自分が助ける者を選べる立場なら、より都合の良い人物を選ぶのは当然だ。それは単に私利私欲のためばかりではない。もし助けた子供を先々まで責任を持って養っていくなら財産は必要になる。苦しい状況の中で協力して生き抜いていくためには、横柄な荒くれ者や嘘つきよりも互いに手を取り合える心優しい伴侶の方がいい。助ける者を選べる立場なら、あえて罪人や病人を選びはしないだろう。良い人、好きな人、助けたい人、助けやすい人、頼れる人、健康な人などを優先して選ぶのは当然だ。自分の都合に合わせて、より良い者を選ぶのは当然なのだ。しかし、これは言い方を変えれば「お金の有無で人の生死が左右されること」や「生きるために身を売ること」に他ならない。このように、見方によっては「人身売買」と言えるような事例でさえ別に珍しいことではないのだ。もちろん、お金の力で困っている人の命を弄んだり、貧乏だからと言って見殺しにしたりなど、金持ちの横暴を認める訳にはいかない。だが、現代社会でも保険や警備がビジネスとして成立していることからも分かるように、身の安全を得るためにお金を使うのは当然の権利だ。貧困のせいで死ななければならないとしたらそれは悲劇だが、貯金があったおかげで命拾いしたとしてもそこには何の非も無い。自分や家族の命を守るためにお金を使うことは、むしろ賢い行動だと言うべきだろう。結果として、どうしたってお金の有無で人の生死は左右される。お金で安全性を買うことができる以上、「お金で命は買える」と言ったとしても、それは決してオーバーな表現ではないのだ。この点を考慮すれば、金と命が簡単に天秤にかけられる理由も理解できるだろう。お金は充分に殺し合いの原因になり得る。これが経済的原因について考える際の初歩的な例だ。

 こうして見直していけば、宗教や経済が戦争の原因となる理由について簡単に想像できるようになるだろう。もちろん、実際の戦争はこれらとは比べ物にもならないほど遥かに複雑だ。だが、戦争について考える際にまず重要になるのは、その複雑さを理解することではない。むしろ、単純さを理解することの方が遥かに重要である。戦争が簡単に起きてしまうことを前提としてまず理解していれば、後はどんなに状況が複雑になっても戦争が起きやすいという根本的な危惧は忘れない。反対に、始めから戦争を複雑なものだと理解するなら、戦争は非常に起き難いものだと捉えるようになるだろう。「きっと不幸な偶然がいくつも重ならなければ戦争なんか起きないのだ」と、そのようにしか感じられなくなる。あるいは、「難しすぎて理解できない」と、考えること自体を諦めてしまうだろう。

 子供たちに「戦争は悪いことだ」としっかり教えなければならないと考えている大人はとても多いが、そこですぐに「宗教的対立」や「戦争経済」などの複雑難解な事例を挙げてそのまま説明することは逆効果だ。子供にとって戦争の話はただでさえ現実味が無い。その上さらに宗教などが絡んだ残酷な歴史として説明されても、もはや出来の悪い怪談話にしか聞こえないだろう。ますます現実味が失われてしまう。これでは「戦争は悪いことだ」と説明するために、まるで「むかしむかし、あるところで竜と鬼が争いをしていました」と話しているようなものだ。これほど効率の悪い説明は無い。



 戦争について考える際は、戦争がいかに単純な理由で、いかに身近に起きるものなのか、まず始めにそれを理解することが非常に重要になる。火事や災害、事件や事故、あるいは犯罪などに巻き込まれた際に「このままでは死ぬかもしれない」という危機感や恐怖感を抱くことがあるだろう。そんな時に、人は度々暴走する。自分が生き残るために、他人を踏み台にしてしまう。その先にあるのが戦争だ。戦争とはその程度のものにすぎない。国家の威信だの民衆の独立だの、そんな高尚な理由で起きるものばかりが戦争ではない。別に銃やミサイルが無くても、自分の拳でだって人は戦える。力の無い子供だって戦える。理念の貴賎や武器の有無が問題なのではない。大勢の人々が殺し合うという狂った惨劇、それが戦争なのだ。

 その為、たとえ子供たちに「戦争は悪いことだ」としっかり理解してもらうためであっても、その悲惨さを安易に強調することは避けなければならない。それでは、大勢の犠牲者が出るような大規模な戦闘のみを戦争だと捉えるようになってしまう。充分に悲惨な戦闘のみを戦争だと捉えるようになってしまう。だが、それは間違いだ。村と村の潰し合い、民族と民族の滅ぼし合いなどは、たとえ小規模でも充分に戦争と呼ぶに値する。「勝てば官軍」とばかりに誰もが沸き立ち自ら勇んで戦場に出るような、そんな悲惨さを微塵も感じさせないような血気盛んな状況であっても、それはやはり戦争だ。また、戦争とは国家規模的な戦闘だけを指すのだと限定的に捉えるならば、単なる一民間人に過ぎない自分の意思ではどうにもならないと感じるようになってしまうだろう。自分が戦争についてどう考えていようが、そんなことは別にどうでもいいように感じられてしまう。「自分には関係無いところで勝手に始められ、民衆の意思を無視して巻きこんで勝手に広がっていくのだ」と、そんな印象を強めるだけだ。それでは「政治家がしっかり仕事していれば戦争にならない」「自分は民間人にすぎないから考える必要はない」と思うようになる。あるいは、戦争の悲惨さを知るほどに「もし戦争が始まったら、その時は自分から進んで誰よりも狡猾で残忍にならなければならない」と考えるようになる。残忍な敵と戦って生き延びるには、敵以上に残忍になるしかないと学ぶからだ。

 戦争の愚かしさを安易に強調することもまた同様に避けなければならない。それでは、戦争とは愚かな人たちが勝手に始めた意味の無い殺戮だと捉えるようになってしまう。「戦争には意味も正義も何も無い」「昔の人はそんなことも分からないほど愚かだったから戦争を起こしてきたのだ」と、そのように考えてしまうだろう。これもまた間違いだ。どんな理由をつけたところで殺し合いを正当化することなどできないが、それでも決して「意味が無い」などと軽々しくは言えないはずである。先ほど述べたように、食糧の奪い合いは当事者にとっては命懸けだ。生きる為に仕方無く戦っているだけなのだ。それを無意味だと言うのならば、残された選択肢は潔く死ぬことしかない。自分の家族を守りたい一心で他人の食糧を奪ってしまうという行為は、それは確かに許されない犯罪行為には違いないが、それでも共感できる部分は多大にある。もし、それをも無意味だと切り捨てるのならば、それは人が持つ愛情さえ切り捨てるのだ。安易に「戦争は悪いことだ」と述べるなら、それは人が「生きたい」と願う必死の想いさえ愚かなことだと切り捨てるのである。

 このように、たとえ子供たちに「戦争は悪いことだ」としっかり説明するためであっても、安易に悲惨さや愚かしさを強調すれば、かえってその意思は伝わらない。それにも関わらず、悲惨さや愚かしさを根拠に「戦争は悪いことだ。だから絶対に繰り返してはならない」という説明を繰り返すだけの大人は多い。学校の授業ですら、そのような説明が度々さていれる。もちろん、その言葉は間違いではない。しかし、それは単に飢餓の苦しさを根拠にして「何も食べなければ死んでしまう。だから何か食べなければならない」といった程度の説明をしているようなものにすぎない。そんなことは説明されなくても分かっているだろう。子供たちが聞きたいのは、その先の話だ。例えば「食糧不足になってしまった時にはどうすればいいのか」「食糧不足にならないようにするにはどうすればいいのか」といった話だ。つまり、「戦争が悪いことかどうか」を聞きたいのではなく、戦争は悪いことだと分かった上で「では、戦争を無くすためにはどうすればいいのか」「誰もが納得できる解決法は無いとしても、少しでも被害を抑えるためにはどうすればいいのか」といった点について聞きたいのだ。「お腹がすいた」と幾ら繰り返しても、それだけで飢餓の問題は解決してくれない。それと同じように、どんなに「戦争は悪いことだ」と繰り返した所で、それだけでは戦争は無くならない。戦争について考えることとは、単に「戦争反対」と声高に叫ぶことではない。戦争が起きてしまう原因、回避する方法、妥協案などについて考え、戦争に抗う術を探ることなのである。



 何もしなくても戦争の原因となるものが全く無いような状態ならば、確かに努力する必要さえ無いかもしれない。しかし、今はそれで大丈夫だとしても、例えば異常気象が続いて食糧不足などの問題が起きた際に、その途端いきなり戦争に繋がってしまうようではあまりに虚しいだろう。天候をコントロールできない以上、食糧不足という問題はいつだって起こり得る。同じように、人類は別に完全無欠ではないのだから、いつだって何らかの戦争の火種は発生し得る。しかし、問題が発生したからといって、それが即戦争に繋がる必要は無い。導火線に火が付いてから爆弾が爆発するまでの、その間に様々な防御策を設けることはできるはずだ。単に「戦争は悪い」と言うだけで終わってしまうと、それは「異常気象のせいだ」で終わってしまう。異常気象は人間の力では解決できないし、深刻な食糧不足が起きた際には全員を助けることはできない。しかし、「だから、仕方無い」のではない。そんな状態でも、まだ足掻くことはできる。

 先ほどの例題でも「助けを求める10人の内、2人だけを助ける」という選択について挙げた。それは、当然ながら言い換えれば「8人を見殺しにする」という選択である。決して「正しい」とは言えない、とても醜い選択だ。しかし、尊い。それは紛れも無く努力なのだ。そういった領域がグレイゾーンである。どう考えても賛同も納得もできないかもしれないが、それでもそれを否定すれば、残された選択肢はさらに酷いものになる。最善を尽くした中での醜い選択、それはその醜さから批判されやすいが、むしろそこから学べることの方が多いだろう。
  • 白:何があっても絶対に人殺しなんてしない
  • 黒:生きる為にどうしても必要ならば、人殺しも仕方無い
 既に述べたように、何も考えていない状態では「白か黒か」という発想になりやすい。「どうしても真っ白が無理なら、もう真っ黒しか無い」という考え方になる。しかし、それは「全員が助かるという選択肢が無い以上、公平に全員死ぬべきだ」と言っているようなものなのだ。幾ら何でもそれは愚かすぎるだろう。「何とか2人だけでも助ける」という選択肢があるように、平和と戦争の間には様々な選択肢がある。他の選択肢の例も幾つか簡単に挙げてみよう。

 食糧不足に陥れば餓死者が出てしまうということを前提とした上で、それでも争いを回避するにはどんな方法があるだろうか。すぐに思いつくものの1つが「口減らし」だろう。直接的なものでは、幼い子供や働けなくなった高齢者を殺してしまうという方法をとる。「子殺し」や「姥捨て」などの言葉が学校の教科書でも掲載されているだろう。決定的に食糧不足になってからだと、どうしても食糧の奪い合いが劇化してしまう。これは、そうならない内に積極的に非労働者を切り捨てて人口を減らしていく方法だ。確かに残酷な方法には違いないが、事前にそれを行うことで結果的にはそれ以上に残酷な事態の発生を回避している。決して正しくもないし、賛成できるものでもない。しかし、それによってそれ以上に酷い事態を回避することができるのなら、確かにまだマシな方法だと言えるのかもしれない。毒をもって毒を制すという考え方だ。かなり黒側に寄っているが、まさに灰色と呼ぶべき選択だろう。グレイゾーンとしては分かり易い例である。

 もっとマシな例では、同じ「口減らし」にしても、事前に子供を遠くの地域へ養子に出してしまうといった選択がある。言い方によっては「家庭の事情で子供が捨てられる」ことになるが、子供を養えないような家庭が養子として貰ってくれるはずがないので、子殺しとは反対に「子供だけでも助けてもらう」という選択なのだと言える。子供を手放さなければならないのだから、それは決して幸せな選択ではない。場合によっては、それが今生の別れになるかもしれない。しかしそれでも、もしそれで子供だけでも生き延びられるのなら、負担が減ったお陰で他の家族も生き伸びられるようになるのなら、その確率がほんの少しでも上がるのならば、それはとても前向きな選択だろう。だいぶ白側に近づいたが、それでも充分に苦渋の決断だ。白と呼ぶには程遠い灰色の選択である。
 また、実際には何の役にも立たないのだが、「生け贄」も同じくグレイゾーンの発想である。生け贄自体は非常に残酷だが、もし1人の犠牲者を差し出すだけで神が機嫌を直して天候を回復させくれるのなら、それで他の人々が生きられるのならば、犠牲としては充分に安いだろう。実際に効果があるかどうかは別として、考え方としては典型的な灰色だ。

 それと同様の例が「スケープゴート」だ。つまり、見せしめ目的の処刑である。もし暴動を起こしたらこんなにも惨い刑を受けることになると、大衆に知らしめておく。これによって民衆の誰もが「あんな惨い刑を受けるぐらいなら、飢え死にした方がまだマシだ」と考えるようになれば暴動は起きない。恐怖はそれよりも大きな恐怖で塗りつぶすことができるのだ。現代ではさすがに惨い刑は禁止されているが、懲役刑に形を変えても刑罰を軽んじる者はいないだろう。刑罰にはある程度の犯罪抑止効果が認められている。問題の解決にはならなくても、問題の悪化を防ぐことを期待できるのだから、それも有効な1つの手段になる。正しいとは言えないが、間違いとも言い切れない政策だろう。

 ここまでは食糧不足になった場合の選択例だ。では、食糧不足にならないようにと考えた場合には、どんな選択肢があるだろうか。すぐに思いつくものでも「長期保存技術の確立」「品種改良」「作物の多様化」「道具や機械による作業効率の向上」「農地拡大」「貿易」などがある。

 この中でまず注目すべきは「農地拡大」だ。既に述べたように、農耕時代においては食糧の大量生産は基本方針になる。その為、すぐに収穫量の増加に直結する農地拡大は、食糧不足を解消する方法として誰もが真っ先に考える最も基本的な案だろう。しかし、農地拡大が目指すものとは即ち「領土拡大」である。古今東西を問わず、領土争いは戦争の火種の筆頭だ。食糧不足という戦争の火種を消そうとするなら、農地を拡げて食糧の生産量を増加させるのが手っ取り早い。だが、それがまた領土争いという別の火種を新たに生むのである。農地拡大も安易に正しいとは言い切れないことが分かるだろう。

 そこで次に挙げられるのが「貿易」だ。領土を争わず、それぞれの地域で採れた収穫物を交換して協力し合う。単純な方法だが、これは食糧不足という問題に対して非常に有効である。既に述べたように、近隣一体という狭い範囲で考えると、食糧不足はどこも一斉に起きるため協力できない。だが、それならば遠方まで探して豊作の地域と協力すればいい。北の国で食糧不足になったのなら、遠く離れた南の国に協力を頼めばいいのだ。これに「多様化」を加え、内陸で穀物が不作な時は海産物に頼るといったような交流と流通を確保できれば、食べられるものが何も無いという状況に陥るリスクは激減する。では、それで戦争の火種は消えて無くなるのだろうか。当然ながら、そんなことはない。貿易によって経済摩擦が起きるからだ。米1kg.と塩1kg.の価値は同じではない。あらゆる物の価値は地域や時期によって簡単に変動する。これにより、交換に有利な物と不利な物の差が生じてくる。貿易に強い地域と弱い地域が現れ、両者の間に大きな差が生じるのだ。それはすぐに経済格差や支配服従の関係などによる軋轢を生み出してしまう。どちらも戦争の火種としては定番のものだ。このように、貿易をすることに責めるべき非など何も無いが、非が無いからといって争いの原因にならないとは限らないのだ。

 このように、グレイゾーンには様々な考え方がある。「食糧不足になってしまったら、どうすればいいのか」や「食糧不足にならないようにするためには、どうすればいいのか」といった疑問からだけでも、そこから考えられることは多岐に渡る。改めて見直してみると、一見して明らかに愚かな行為に見えていたものが実は有効なケースもあれば、全く問題の無い名案に見えていたものが他の問題を誘発してしまうケースもあることが分かる。

 食糧不足になれば死者が出ることは避けられないとしても、だからと言って選択肢は戦争だけではない。過去の人々はこのような様々な方法を模索して戦争を避けようとしてきた。「人類の歴史は戦争の歴史」などと言われるほど、確かに戦争だらけではある。しかしだからと言って、過去の人々が「ただの戦争好きのバカ」だった訳ではない。口減らしや生け贄などのような誰もが顔をしかめる愚かで野蛮な行為であっても、それが戦争を回避する手段にだってなり得る。それはそれで充分に批難の的にはなるが、選択できる中でそれが最善の策だったのならば他にどうしようもないだろう。必ずしも間違っている行動が悪い結果を招くとは限らない。過去の人々はそんな苦肉の策を弄してまで抗ってきたのだ。それを侮辱してはならない。
 反対に、農地拡大や貿易といった至極真っ当な賢い行動であっても、それが領土問題や権力争いなどに繋がって余計に大きな戦争を招いてしまったケースも多々ある。戦争の他にも、例えば経済発展ばかりを追求して深刻な公害問題をもたらしてしまったことと同じように、似たような例は幾らでもあるだろう。正しいと信じて行動していても、それが必ずしも善い結果にばかり繋がるとは限らないのだ。そこで「世の中を良くしよう努力していただけだ。意図的に公害を起こした訳ではないだから、自分たちに責任は無い」などと言い訳しても通りはしない。結果として招いてしまった失敗は、たとえ悪意が無くてもしっかりと受け止めなければならない。それと同じように、そういった落とし穴に注意せず無闇に「戦争反対」と唱えれば、かえって反感を買ってしまう危険性は充分にある。現代の日本は確かに平和だし、誰もが平和を維持したいと願っているだろう。しかし、その平和の上で胡座をかいていれば、公害のような副産物を作り出してしまう危険性だって充分にあるのだ。平和を過信してはならない。

 戦争について考えることとは「戦争は悪いことだから、絶対に繰り返してはならない」という教育を鵜呑みにすることではない。過去の人々を「戦争好き」と侮辱し、現在の平和を過信して「自分たちには関係無い」と胡座をかくことではない。その正反対だ。どんなに戦争を批判しても、それで食糧不足が解決する訳ではない。火種が無くなる訳ではないのだ。それでは戦争は無くならない。グレイゾーンにある様々な考え方に触れてみると、過去の「愚かで醜い行為」からその尊さを学び、現在の「豊かな平和」に潜む卑しさに気付くことができるようになるだろう。
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