教育迷子になる前に

国語教育の目的(世界編)

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国語教育の目的(世界の場合)

確認:日本の国語

 まずは、日本の国語教育について簡単にまとめ直してみましょう。

1:国語の目的は「しっかり言葉を学ぶこと」である。
 これは学習指導要領を始めとして、様々な形でしっかり明記されています。

 さらに、何故言葉を学ぶ必要があるのか、その目的として次のように説明されています。
説明を聞いて、その要点をしっかり抑えられるようになるため。
文章を読んで、その要旨をしっかり掴めるようになるため。
つまり、目的をできるだけ明確に把握できるようになるため。

 また、それから転じて次のことも説明されています。
目的も分からないような内容では、教師としても説明のしようがない。
それでは何を勉強しているのかも分からないので、子供たちとしても勉強にならない。

2:国語は純粋な語学科目ではなく、それ以上に様々なことも学んでいる。
 国語が語学科目ならば、国語の目的は「言葉のスキルの獲得と向上」に絞られるはずです。
 しかし、国語では明らかに言葉のスキル以外のものも数多く学んでいます。
 このことから、国語は純粋な語学科目ではないことが分かります。

3:しかし、その「言葉のスキル以外の何か」については説明が無い。
 純粋な語学ではないとは言え、では「言葉のスキル以外の何か」とは具体的に何なのかとなると、それは説明されていません。
 あるいは、文学や古典を読む目的さえも「より高度に言葉を学ぶため」とされています。

4:その結果、日本の国語はあくまでも「語学+α」という位置づけになる。
 「」によって「目的すら説明できないものは学びようがない」と説明されているので、説明されていない「言葉のスキル以外の何か」を国語の目的として捉えることはできません。
 あるいは、「」によって「それらも言葉を学ぶための副教材だ」と説明されているので、国語で学ぶものは全て言葉の勉強のためだと捉えることもできます。


 以上のことから、日本の国語は、あくまでも「言葉を学ぶための科目」であるという結論になります。



世界の国語

 日本の国語は語学科目です。

 しかし、世界中どの国の教育においても、国語は単なる語学科目ではありません
 日本では説明されない「何か」についてもしっかり説明されており、目的も考え方も違います。
 では、その「何か」とは一体何なのでしょうか?
 その答えは非常に簡単です。

 Q:国語で学ぶ「それ以上の何か」とは何か?
 A:それは「自分たちが生活している社会についての概要」です。

 世界一般の国語教育において、その非常に重要な目的とは社会の概要を学ぶことです。
 日常生活における基本的なルールや文化、あるいは自然の神秘から料理や掃除の仕方まで含めたあらゆる事柄、つまり簡単に言えば「一般常識を少しずつ身に付けていくこと」が国語の目的です。
 基本的な言葉使いや習慣を身に付けさせたり、ケンカや盗みは悪いことだと道徳や倫理を教えたり、歴史や文化にも簡単に触れて社会の成り立ちについて考えさせたり、宇宙のロマンを語って聞かせたり、それらを通して子供たちに「へぇ~、社会ってこんな風にできているんだ」と感じてもらうこと、それを通して「まだ知らない面白そうなことがたくさんあるんだ」と興味関心を拡げてもらうこと、それが国語の目的なのです。
 もちろん、言葉も生活に欠かせない大切な常識の1つです。だから、当然しっかり学びます。世界では、国語は「言葉を学ぶ科目」ではなく「言葉も学ぶ科目」なのです。

 国語は、自分たちが実際に生活している社会についての概要をざっくりと学ぶ科目であり、つまりできるだけ分かりやすく簡単に学ぶための科目です。
 そのため、国語は実社会を簡略化して説明したものであり、社会の縮図のようなものと言えるでしょう。だから、「国語を見れば、その国の特徴が見える」と言われるのです。


 また、社会の縮図として全体を俯瞰するため、国語は教育全体のガイドラインとしての役割も担っています。
 例えば、単純に「海外旅行」をテーマに考えただけでも、飛行機はなぜ飛べるのかといった物理の疑問に繋がりますし、海外の文化や食生活の違いに注目すれば社会に繋がります。現地通貨との両替を経験すれば、算数が必要になりますし、経済や為替というシステムの奥深さを知ることにもなるでしょう。
 このように社会についてほんの少し考えただけでも、驚くほど多岐に渡る学問分野が絡みあっていることが分かります。

 だからこそ、まず国語で社会全体について概略的に掴んでいきます。これによって「では、次にこの点について、もっと詳しく見ていきましょう」といった形で他の科目へスムーズに移行できるようになります。
 国語は「全ての科目の入り口となり、さらに科目同士を結び付ける」という、とても大切な役割を担っています。国語教育がしっかりしているほど、勉強全体の目的や構造を見渡すことができるようになります。
 そのため、国語は教育全体を見渡す司令塔とも言うべき位置付けになるでしょう。これが「教育の基礎は国語」と言われる所以です。



疑問1:「国語」? それとも「社会」?

 恐らく、ここで1つ疑問に感じるでしょう。
社会の概要を学ぶのは、社会科の授業なのでは?」と。

 それは半分正しく、半分勘違いです。
 確かに社会について学ぶのは社会科の領分ですが、国語でも同じように社会について学びます。それぞれに違う役割があり、特に常識などは国語の担当領域です。


社会科
 社会科とは、まず社会について漠然と捉えた上で「では、もっと具体的に、より正確に社会について学んでいきましょう」という形で発展させて、特化していった科目です。「何があったか」といった客観的事実を学んでいきます。

 その反面、社会科では個人的な意見や感情は問われません。個人がどう思っていようが事実は変わらないからです。下手に感情を持ち込むと、どうしても事実が歪んで見えやすくなってしまいます。戦争や領土問題などを例に考えれば分かるように、誰だって自分たちに都合の良い見方をしたがることは明白でしょう。感情を持ち込むと、どうしても誤解や偏見を招きやすくなってしまいます。

 もちろん、自分なりの意見を持つことが悪い訳ではありません。ただ、どんな判断をする場合であっても、判断するよりも前に、まずは正確に事実を捉えるべきでしょう。間違った認識の上では、いくら考えても正しい判断などできるはずがないからです。
 この時の「まずは冷静に事実を知る」という部分を担当しているのが社会科です。考えることを否定しているのではなく、むしろ正しく考えるために、一時的に考えることを切り離して事実確認に専念している点が特徴です。

 そのため、社会科では例えば戦争について数多く学びますが、実は「戦争は決して繰り返してはならない」といった価値観を教えることはありません。善悪などの判断は社会科で教えるべき内容ではないからです。
 この点は、現役の教師でさえ誤解しているケースが少なくないでしょう。


国語
 それに対して、考える部分を担当しているのが国語です。国語では「どう思うか」という主観的な意見や感情を中心にして社会を学んでいきます。

 例えば「盗みは悪いこと」という常識を学ぶ場合、社会科では「窃盗は刑法に基づいて罰せられる」という社会のルールとして学びます。
 それが国語の場合では「友達が万引きしている現場を見てしまった時、あなたならどうするか?」「直接止めに入るべきか、それともお店の人に報せるべきか」といった形になり、他者の意見を参考にしながら自分の意見をまとめていく過程が中心になります。

 常識というものは、ただ「知識として知っていれば良い」というものではありません。「盗みは悪い」とただ知っていることと、本心からそれに賛同していることでは大きく違います。
 常識とは、ただの知識として身に付けるものではなく、自分の価値観として身に付けていることが重要になります。ただ社会について客観的に学べばいいのではなく、自分もその社会の一員になるのだという自覚を持つことが最も重要になります。だから、知識ではなく気持ちが重要になるのです。

 簡単に言うと、次のような想いが込められています。
 社会について知ることで、自分たちが暮らす社会をもっと好きになって欲しい。そして、自分も社会の一員であるという自覚と誇りを持って、できればその社会に貢献する人間に成長して欲しい。

 このような想いを込めて、意思・思想・感情など心を育てることを目的としている点が国語の特徴です。


比較
簡単にひと言でまとめると、このようになります。
社会科
社会について詳しく正確に学ぶ科目
国語
自分たちの社会を好きになるための科目

 教育でまず始めに学ぶべき社会の概要とは、人口やGDPのような客観的なデータではなく、文化や活気のような社会が持っている意思のことです。
 社会がいかにして作られ、どのような思いで成り立っているのか。人々はどんな夢を抱きながら日々の生活しているのか。それを肌で感じることで得られる感覚的な共鳴や一種の仲間意識・連帯感、自分もその社会の一員であるという自覚と誇り、そこまで含めて身に付けることが重要です。それが「社会の概要」を学んでいく目的です。

 非常に思想的・感情的であることが分かるでしょう。そのため「社会の概要」は国語の担当領域なのです。



疑問2:日本でも常識を教えている?

 ここまでの内容を簡単にまとめると、次のようになります。
日本では  国語教育の目的は、しっかり言葉を学ぶこと
世界では  国語教育の目的は、社会の概要(常識)を学ぶこと

 しかし、恐らくここで反論が出るでしょう。
日本の教育でも常識はしっかり教えている」と。

 日本の教育では、常識は国語の目的の対象にはされていません。
 しかし、教育全体の目的として考えれば、当然常識も含まれているはずでしょう。そのため「あえて国語で言及されていなくても問題ない。日本の教育でも世界の教育と同じように常識を教えている」という反論が出てきます。

 そこで、とりあえずこの反論を受け入れてみましょう。そうすると次のようになります。
日本では、常識を教えている。
世界でも、常識を教えている。
 こうして見ると、両者はほとんど同じように見えるでしょう。
 しかし、この両者の「常識」は果たして本当に同じだと言えるでしょうか?

Q:常識とは何か?

 日本と世界では「国語」の目的が違うように、実は「常識」が指す意味も違います。そのため「日本では教育全体を通じて常識をしっかり教えている」と言っても、それは世界一般の教育とは意味が違うのです。
 常識とは何か、それを確認しておく必要があるでしょう。


「常識」とは何か?

 普段から当たり前のように使われる「常識」という言葉ですが、これは非常に勘違いされやすい言葉です。

 日本では、一般的に「常識=知ってて当たり前の知識」と捉えられているのではないでしょうか。だからこそ、それが転じて「知らないと恥ずかしい」といった表現が出てくるのでしょう。この場合「知っているかどうか」が争点になります。

 しかし、これは勘違いです。
 常識の"識"とは知識のことではありません。これは意識や認識のことです。つまり常識とは、そのまま字のごとく「通常の意識」という意味です。簡単に言えば「普通の状態」のことです。


常識=知識の場合
 現在では一般的となってしまった知識を問う方の"常識"では、例えば「1万円札の肖像画で有名な"ふくざわゆきち"の名前を漢字で書きなさい」といった問題が出されます。
 意外と「」の字で間違えてしまう人も多いのではないかと思いますが、これを間違えると「常識が無い」とバカにされるでしょう。
 現在では、よくこのような形で”常識”が問われます。

 他にも「分数ができない大学生」などが問題になることから、必ずしも「知識」だけではなく「能力」も求められることが分かりますが、簡単に言えば常識とは「これぐらいは分かって(出来て)当たり前」という水準のようなものと言えるでしょう。言わば、最低水準のレベル1の知識を指します。

 そして「分かって当たり前」だからこそ、誰もわざわざ説明しないという特徴があります。このレベル1とは「全く説明されなくても分かって当たり前」のカテゴリーとされているからです。
 ここで下手に説明してしまうと、それはもう「説明されれば簡単に分かる」というレベル2のカテゴリーに上がってしまいます。
 そのため「本当に重要な常識は、誰も説明してはならない」という奇妙な構造を持ちます。よく言われる「勉強が大切なのは当たり前。当たり前だから説明するまでもない」という理屈は、この考え方に基づいています。


常識=意識
 一方、常識を意識として捉えた場合はどうなるでしょうか。ここでも引き続き「盗み」を例にして見てみましょう。

 まず、窃盗は犯罪です。これは当たり前のことでしょう。先ほどの「ふくざわゆきち」の問題と比べても、こちらの方がよほど基本的なことであり、勉強以前に人として「知らないと恥ずかしい」と言える大切な内容です。

 それを踏まえた上で、ちょっとした例題です。
Q:あなたは自分が働いている店でパンを万引きした少年を捕まえました。
 あなたは店員として、この後どのように対処しますか?

 特に難しい質問ではないでしょう。これは別にひっかけ問題でも心理テストでもありません。
 単純に考えて「警察に通報する」といった回答になると思います。他にもいくつか選択肢はありますが、どれも大差はありません。
選択肢1 警察に通報して任せる。
選択肢2 しっかり説教した上で親に引き取らせる。
選択肢3 しっかり説教した上で学校に知らせ、教師に引き取らせる。

 では、ここに少し条件を加えてみます。
条件 少年は両親から虐待されており、食事をまともに与えてもらえないため、空腹に耐えかねてパンを万引きした。
 この条件を加えても、店員としてとるべき対応は変わらないのでしょうか。

 繰り返しますが、窃盗は犯罪です。たとえどんなに空腹だったとしても、それは窃盗を正当化する理由にはなりません。それは当たり前のことです。
 しかし、このような場合であれば「犯罪者の事情なんか知ったことじゃない。何が何でも警察に突き出す」という人は少ないでしょう。少年に同情して態度を変える人は大勢いるのではないでしょうか。
選択肢4 食事を与えてゆっくり休ませ、事情を説明して少年を保護してもらうために警察に相談する。
 このような行動をとる人も、きっと大勢いるでしょう。
  • 窃盗が犯罪であることは分かっている。
  • 少年が窃盗犯であることも分かっている。
  • まして、自分はその被害者である。
  • しかし、それでも犯罪者であるその少年を助けたい。
 このように考える人は大勢います。「今は万引きのことなんかどうでもいい。まずは少年の保護を最優先に考えるべきだ」と考える人が大勢いるのです。
 これは別に不思議なことではないでしょう。ここにあるのが常識です。

 社会の中で生活する上で、確かに「窃盗は犯罪」というルールは極めて当たり前のものです。これを知らない・理解できないとなると、それは人として非常に深刻な問題です。
 しかしだからと言って、ルールを完璧に守ることが必ずしも正しいとは限りません。ただルールを守ってさえいれば、常に正しく行動できる訳ではありません。
 子供たちは、よく「人のものを盗んじゃいけないって、先生が言ってた」といった言い方をするでしょう。この場合、子供たちは知識として「窃盗は犯罪」と確かに知っている訳ですが、しかし、これは大人の指示にただ従っているだけです。「なぜ、いけないのか」と、自分では考えていません。この状態では、自分の判断でルール外の行動をすることができません。「ルールを守るべきか、それとも人の命を守るべきか」という基本的なことすら、考えられてないのです。

 もし常識を”知識”として捉えるならば、このような「先生が言ってた」レベルで充分ということになります。ルールさえしっかり守っていれば、困っている人を見殺しにしても構わないことになります。しかし、常識はそんなに甘くありません。
 自分で判断ができる者であれば、正しく行動するために、あえてルールを無視するということがよくあります。普通の人が当たり前のように、自分の判断で責任を持ってルールを無視する。それは身近によくあることです。
 ここにあるのが常識です。常識とは、自分の頭で考えられることです。

Q:常識とは何か?
A:常識とは「自分で考えられる」という普通レベルの意識


「知る」と「考える」の差

 普通に考えれば「例外を認めはじめたら、すぐに大量の例外で溢れて無法状態になってしまう。だから、まずは正しいルールを作り、そしてそのルールはどんな理由があっても守られなければならない」と断固としてルールを守る姿勢を貫くのか、それとも「ルールとは人を守るためにある。ルールのせいで人を助けられないとしら本末転倒だ。だから、困っている人を助けるためならルールなんかに構っていられない」と臨機応変に判断するのか、自分なりの回答が出るでしょう。これが「常識で考えれば分かる」と言われる状態です。

 これは、「どちらの考え方が正しいか」という問題ではありません。回答は人によって違います。
 よく「常識は国よって違う」と言われるのは、それだけ国や社会によって回答に違いや偏りがあるからです。「常識には正解など無い」という言い方もできるでしょう。常識とは「正解を知っていること」ではなく「何が正しいか、自分なりに考えられること」です。だから、常識にはバラつきがあり、その中には間違いや矛盾・対立するものも多々あります。

 ただ、もし間違えてしまったとしても、それが自分なりに考えた結果であれば納得できるし、反省もできるでしょう。そのため、たとえ結果的に間違えてしまったとしても、自分の選択であれば責任を持てます。この点は非常に大切な特徴です。
  • 自分なりに考える。
  • 自分なりの答えを出す。
  • その答えに責任を持てる。
 常識には、こういった自立した精神が求められます。
 別に難しいことではないでしょう。必ずしも正解でなければならない訳ではなく、ただ自分なりに考えるだけなら、誰にだってできます。それは普通のことです。そんな普通に考えられる状態が通常の意識であり、即ち常識です。

 こうして整理してみると分かるのは、責任という点が重要になる点から考えても、実は「常識」が求める水準はかなり高いということです。
 日本の常識を「説明するまでもない最低水準のレベル1の知識」と仮定すると、世界の常識とは「自分でしっかり考えて責任を持って行動できるレベル20の精神」といったイメージになるでしょう。圧倒的に厳しい水準です。
 これは具体的には、高校卒業レベルが一般的でしょう。高校を卒業したぐらいで、やっと「そろそろ常識が身に付いてきた」と判断してもらえるようになります。言い換えると、高校生のうちは「まだまだ未熟」と捉えられることが当たり前なのです。「子供=常識が無い」と言っても良いでしょう。
 それぐらい、世界における「常識」は日本よりも遥かに高い水準を求められます。

注意
 念のため注意しておくと、これは決して「高校を卒業すれば大人」という意味ではありません。あくまでも「高校を卒業する頃までには1人の人間として責任を持って行動できるように、しっかり学ぶ必要がある」といった意味合いです。

 この1つの参考基準になるのが「結婚」でしょう。
 現代の日本では「高校卒業と同時に結婚する」と聞くと、どうしても「まだまだ子供なのだから、もっと慎重に考えた方がいい」と感じてしまいます。つまり「高校卒業=まだまだ子供」と捉えられているのです。

 もし、教育が「子供たちを、しっかりと一人前の大人に育てること」を目的として行われているのだとすれば、その教育をしっかり受けて立派に卒業した者を「まだまだ子供」と捉えるのはおかしな話でしょう。「まだまだ子供」の者をそのまま卒業させてしまったら、それは教育の放棄に他なりません。
 教育を立派に卒業した者は、その時点ではまだ確かに未熟な点が多々あるかもしれませんが、それでも「とりあえずは大人の仲間入り」となるはずなのです。教育を卒業した者を子供扱いすることは失礼にあたります。
 この時の「とりあえずは大人の仲間入り」が常識の基本ラインです。

 一方、現代の日本では、高校時代にしっかり勉強して優秀な成績を修めて卒業したとしても、その後国立大学に進学したとしても、しっかり就職したとしても、「まだまだ子供」と見られるケースが多いでしょう。
 つまり、それが意味しているのは、日本の教育は「子供たちを、しっかりと一人前の大人に育てること」ではなく、あくまでも「勉強を教えること」を目的としているということです。
 そのため、日本での高校卒業程度では、常識の水準には届きません。


参考:常識がない例
  • 極度の飢餓状態
  • 怒りに我を失った興奮状態
  • 酔っぱらって判断できない酩酊状態
  • 緊張や恐怖で考えられない錯乱状態
  • 他人に判断を全て任せてしまう依存状態
  • ただ黙って周囲の意見に合わせるだけの隷属状態
  • まだ自分では判断できない幼児
  • 一方的に自分の主張をするだけで、他者の意見を聞かない子供
 これらは「普通の状態」ではありません。即ち、常識が無い状態です。
 日本のように常識を知識とした場合、こういった精神状態は常識とは何の関係も無いことになります。怒りに我を失っても、酔っぱらって判断力が低下しても、それでも別にその人が持っている知識力まで低下する訳ではないからです。
 そのため、どんなに暴挙を働いても「知識のある大人が狂っただけ」「常識のある大人がバカなことをしているだけ」ということなります。つまり、「しっかりと常識のある犯罪者」という存在さえも、何の矛盾も無く当然のように成立することになります。たとえ殺人鬼であっても、常識人として認めることが可能です。

 しかし、それはさすがにおかしな話ではないでしょうか。常識人と言えば「まともな人」のことでしょう。殺人鬼が「まともな人」のはずがありません。
 では、何故まともではないのか。それは当然「精神と行動が、まともではないから」です。「知識が足りないから」ではありません。このことからも、「まとも」であるかどうかの判断基準は、知識ではなく精神にあることが分かります。どんなに頭が良くても、精神が異常な犯罪者を「まとも」とは呼べません。そのため、「犯罪者=常識が無い」という構図になります。

 問われるのは知識ではなく精神です。そのため、常識は一時的な精神状態の変化にも連動します。どんなに頭が良い人でも、酔っぱらっている時は「一時的に常識を失っている状態」ということになります。


常識を教える教育とは?

 こうして落ち着いてに比較していけば、「日本でも"常識"を教えている」と言っても、その目的が世界の教育とは正反対であることが分かるでしょう。
 知識ではなく「考える」という観点から考えた場合、日本の"常識"とは「考えないこと」になり、世界の常識では「考えること」になります。

日本の場合 ⇒「正しいこと」を教える
"常識"を教え込む。子供たちに正しいことをしっかり教えて、大人が教えた通りに正しく行動できるようにさせることが目的。まず社会の価値観があり、子供たちをその社会に適応させるための考え方です。
⇒極論を言えば、大人の指示に子供を従わせることが重要です。そのため、必ずしも子供たちの意見を聞く必要はない点が特徴になります。強制や支配も1つの方法として可能なのです。重要なのは「大人=正しい」という前提であり、それに子供を従わせることです。そのため、子供が反論することはNGであり、自分の意見を持つ必要もありません。「大人の威厳」や「厳しくて怖い先生」など、命令できる人が重宝されます。

世界の場合 ⇒「何が正しいか」を考える
自分で考える習慣を身につけさせることが目的。「自分はどう思うか」を中心とした考え方です。
⇒「何が正しいか」を各自が自分なりに考えてみることが重要で、考え方は人それぞれ多種多様になります。それらの意見を衝突させて言い争いになるような状況も肯定的に捉えている点が特徴です。「大人たちの考え方は間違っているのでは?」といった疑問を持つことも大歓迎。また、子供の内にしっかり間違えておくことも重要と捉えます。いかに子供たちの意見を引き出すかがポイントになるので「くだらない子供の話にも真剣に向き合ってくれる大人」が重宝されます。
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比較
日本の"常識"は、誰にでも通じる万人に共有される知識を指します。そして、万人向けだからこそ、特徴がありません。例えば、ある"常識"が老若男女に関係無く共有されるためには、そこに「男らしさ」や「若者らしさ」などがあってはなりません。それでは女性や老人からの支持が得られないからです。全ての人に共有されるためには、あらゆる特徴は排除されなければなりません。そのため、日本の"常識"は無色透明に近い価値観になります。
 一方、世界の常識では、各自の意思や意見に注目します。各自がそれぞれ自分のカラーを明確に持っいる点が重要であり、個人差が大きいことにこそ価値があります。1人1人がしっかり自分の意見を持っている、そんな個人が集まってこそ社会が作られていく、という考え方です。そのため、決して万人に共有されることはありません。
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例:いじめについて考える場合
日本の場合 ⇒「いじめは絶対に許されない行為だ」と徹底的に教え込む
社会のルールとして、とにかく何度でも繰り返して教えます。
 教える側である大人からしてみれば、これは極めて簡単で当たり前のことを言っているだけにすぎません。難しい点は全く無いし、反論の余地も無いはずです。そのため、いくら子供であっても理解できないはずがなく「当たり前のことなんだから、これぐらい守れ」「とにかく言われた通りにしろ」といった教え方になります。
 ただその一方で「では、実際にいじめを見つけた場合はどうすればいいか」といった具体的な質問には答えないことが多いでしょう。「具体的な行動はその時の状況次第だから、その場で臨機応変に対応すればいい」「細かい話はひとまず置いておくとして、ダメなものはとにかくダメだ。それだけ理解すればいい」といった回答に終始する傾向にあります。
 そのため、子供たちは「言っていることは分かるけど、どうすればいいのかは分からない」という悩みによく直面します。「結局、大人は単なるキレイ事を言っているだけ」という印象になりやすいでしょう。

世界の場合 ⇒具体的な質問について、意見を出し合って考える
例えば「いじめを暴力で止めてもいいのか」「ケンカした相手を、こっちの怒りが治まるまでしばらく無視した場合、それもいじめになってしまうのか」といった様々な事案について意見を出し合います。
 こういった議論を通して「いじめに万能な解決策など無いかもしれないけど、それでも自分たちにできることは色々ある」ということが少しずつ見えてきます。必ずしも正解と呼べる選択肢は無いかもしれませんが、それでも自分なりに正しいと思う方法を見つけることはできます。その方法について友達と検討することもできます。
 この場合、意見は各自バラバラになり、統一的な見解を導くことは期待できません。そのため、大人でも「正しい考え方」を提示することができません。また、中には過激な意見が出てくる場合など、注意が必要な点も少なくないでしょう。
 しかし、実際に行動に移せる具体的な指針を分かりやすく多数提示できる点や、実際に行動してみて成功を喜んだり失敗を反省したり、それを次回の為の新たな指針として活用できたりする点などは、非常に大きなメリットになります。


Q:日本の教育において、果たして本当に常識は教えられているのか?

 ここまで「日本と世界とでは常識の定義が違う」という点を確認してきた訳なので、「果たして日本でも常識は教えられているのか?」という疑問に答えるためには、まず常識の定義から考える必要があり、答えるのは少々厄介です。

 ただ、どちらにしても、とりあえず言えることは「日本の教育では、子供たちは無責任になりやすい」ということです。

 日本の教育においては、子供を教育に従わせることが重要です。子供のワガママを許さず、反論も許さず、無駄口も許さず、しっかりと教え込むことが重要になります。大人たちは毅然とした態度で臨み、たとえ全く教育を信用できなくても「とにかく我慢して勉強しなさい」といったメッセージを繰り返し強く与えます。

 当然ながら、これでは子供たちはすぐに反論も質問もしなくなります。我慢するからです。
 口を開いただけで反抗的態度と見なされ兼ねませんし、「文句があるなら、君は勉強しなくていい。教室から出て行け」と見放されてしまう危険もあります。それでは、黙って先生の指示に従うしかありません。
 また、従ってさえいれば「良い子」と評価してもらえます。ただ黙って従う方が得策でしょう。
 そして、あくまでも我慢して従っているだけなので、責任など持てるはずがありません。
  • 自分では考えない。
  • 社会のルールや大人の指示に従う。
  • 自分の意思とは関係なく従っているだけなので、責任は持てない。
 このように、常識を知識と捉えて強く教え込もうとすると、かえって考えるチャンスは失われ、結果の正否に関わらず、無責任になる可能性は高まります。自分で考えて正しいと思ったから行動するのではなく、黙って指示に従っているだけだからです。
 もし悪い結果になった場合でも「悪いのは命令した大人」「大人に無理矢理従わされていただけ」という考え方になるでしょう。
 このような結果、子供たちの判断基準は「先生が言ってたから」レベルに成り下がり、依存と隷属の状態に陥ります。

 結果として、定義が異なるこの質問に対して、次の2通りの回答をすることができます。
  • 日本の教育では「自分で考え責任をもって行動する」という常識は教えていない。
  • 日本の教育では「黙って従っていれば責任もとらずに済むこと」を常識として教えている。
 どちらにせよ「責任」や「自立」は教えられていません。
 その意味では、やはり「世界の国語教育」と「日本の国語教育」の目的は大きく異なっているという結論になります。

世界の国語教育

 国語教育の目的について確認してきた結果、簡単にまとめると次のような対比になります。
  • 日本の国語教育は、しっかりと言葉のスキルを身に付けさせることを目的としています。
  • 世界の国語教育は、自分で考えて判断し責任を持って行動できるように育てることを目的としています。

 目的が根本から大きく異なっていることが分かるでしょう。


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