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教育迷子になる前に

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教育迷子になる前に


ここでは「どうして勉強しなくてはいけないのか?」という定番の疑問について考えていきたいと思います。


はじめに

 ここでは「教育には色々な考え方がある」という前提のもとで話を進めていきます。


 例えば、国によっても教育の考え方は大きく違います。
フィンランド 勉強面は基礎の徹底に留め、それよりも自主性や個性を伸ばすことに重点を置く。
ドイツ 職業訓練なども行われていて実用的・実践的。「社会人になるための訓練」という意識。
アメリカ 教育を通じて各自に自信を持たせつつ、さらに強いリーダーシップを持つ人物を育成する。
インド IT先進国を目指しているので、特に英語や数学に力を入れている。
中国・韓国 学力中心の教育で、非常に強い競争主義・学歴主義。


 教育学という学問的な考え方も様々あります。
プラグマティズム 経験と勉強の循環を重視。勉強ばかりに偏りがちな近代教育に批判的。
シュタイナー教育 学力よりも知性を重視。豊富な自然体験や芸術作業を通して感性から育てる。
モンテッソーリ教育 自発性を重視しつつ、そのための方法に子供同士の学び合いを用いて社会性を養う。


 一般社会からの要請でも様々な教育観が形作られていきます。
エリート教育  量よりも質。少数でも構わないので優秀な人材を育成する。そのため弱者は切捨て。
平等主義 能力に関係無く全員に同じ教育をする。勉強する権利は平等だが、苦手分野でも自分のペースで勉強することはできない。
能力別編成 飛び級や留年を積極的に採用。勉強のペースは個人でバラバラ。その反面、学習到達度は全員が一定水準をクリア。


 日本の教育に限って見ても、時代によって変化していることが分かります。
~1990年代  学力重視の学歴社会。エリート教育や詰め込み教育が多い。
2002年度~  ゆとり教育。いじめや不登校などの問題に対処するために「心の教育」を強化。
2011年度~  脱ゆとり教育。学力重視に回帰したいが、心の教育も必要。「結局、全部教えるしかないんだ」的な考え方。


 塾や予備校と学校、さらに大学との間にも大きな差異があります。
学校  全人教育。勉強だけではなく感性や徳性も重要。人間としての総合的な育成が目標 ⇒「生きる力」
塾   大半が勉強専用。そのため勉強効率は学校よりも高い。学力・成績の向上のみが目標。
大学  研究機関。研究者たちが協力するために集まった環境。教育はあくまでその副産物。


子供たちから見た授業形態でも分類できます。
消費する授業  説明を受けることを主体とした受け身の授業。消費なので「楽で楽しいこと」が基本条件になる。
創造する学習  自らチャレンジすることを主体とした能動的な学習。挑戦なので「難しくて失敗ばかり」が普通。


 また、そもそも一般人と文部省の考え方にも大きな隔たりがあります。
一般人  学力重視。学校とは勉強するところ。子供はもっと勉強するべき。
文科省  学習姿勢の構築が目的。学校とは生涯学習の入り口。大人こそ勉強して手本となるべき。


このように、教育には実に様々な考え方があります。
簡単なイメージ:教育観の違いをグラフにすると、こんな感じ?

ひと口に「教育」と言っても、その形は千差万別。


目的の有無

 教育には様々な考え方があります。
 それを踏まえた上で、改めて問題提起です。

Q:どうして勉強しなくてはいけないのか?

 この疑問に対して、一般的によくある回答として次のようなものがあります。
A:子供は黙って勉強すればいいんだ。

 本当によく耳にする回答だと思いますが、しかし、これが一般的になっている状態は非常に深刻な事態だと言えます。
 何故なら、このように何の説明にもなっていない脆弱な返答が意味しているのは、即ち勉強の基本的な目的すら定まっていない、あるいは分かっていないことを意味するからです。
 それでは、子供たちに勉強を強要していながら、しかし同時に「勉強なんてどうでもいい」と暗に述べているようなものです。

 例えば、社会科の授業で「戦争」について学ぶ場合、「戦争が起きても勝てるように学ぶ」ことと「戦争を起こさせないために学ぶ」ことでは、学ぶ目的が大きく違うでしょう。どちらも大枠では「戦争」という同じジャンルについて学んでいるかもしれませんが、目的が違えば実際に学ぶ具体的な内容や学び方が大きく変わります。それによって得られる知識、意欲、思想などについても同様に違ってきます
戦争が起きても勝てるように学ぶ → 攻撃がメイン。兵器開発・侵略戦略・支配の効率化など。
戦争を起こさせないために学ぶ  → 和平と防御がメイン。経済格差と協力・貿易外交・異文化理解など。
 勉強の基本的な目的を説明することもできない状況とは、この例で言えば「授業を真面目に聞いてさえいれば、戦争について賛成しようが反対しようがどちらでも構わない」と言っているようなものです。授業がそのような無目的な姿勢で行われていれば、当然その授業から学ぶ子供たちも「重要なのはテストで良い点数を採ること。それ以上は、別に戦争になんか何の興味無い」と感じるようになるでしょう。

 学校教育の目的は「勉強」なのか、それとも道徳や対人関係なども含めて「総合的に人格を育成すること」にあるのか、そういった考え方の違いは子供たちの理解・意欲・姿勢・目標・成長などにも非常に大きな違いをもたらします。目的が違えば、それに伴って過程や結果も変わります。
 基本的な目的が定まっていないというのは、その違いについて考慮すらしていないことを意味します。それでは教育になりません。

 これは教育に限らず何にでも通じることですが、基本的な目的の有無は非常に重要です。
 目的の無い努力は、努力が空回りするだけで成果は得られません。何らかの形で結果を得られたとしても、それが良いものなのか悪いものなのか、必要なものか無駄なものか、その判断がつきません。状況を改善しようにも、それ以前にまず何を「善」として評価すべきなのか、その方向性すら定まりません。

 このように、基本的な目的さえ定かではない活動は、その存在意義すら疑わざるを得ないでしょう。



説明の必要性

 もう1つ、よくある回答として次のようなものがあります。
A:勉強する目的は、自分で見つけなさい。

 この回答は決して間違いではありません。しかし、この回答は単体で述べても役には立ちません。

 先ほど述べたように、目的の有無は非常に重要です。それは教師側のみならず、当然子供たち側においても同様です。
 教師だけがどれほど情熱を持って教育していても、子供たちにやる気が無ければ効果はあがりません。そのため、子供たちの「やる気」は現代教育の非常に重要なテーマになっています。何とか子供たちのやる気を引き出そうと「自分の目的を見つけて勉強に取り組みなさい」と説くのは自然なことだと言えます。

 しかし、だからと言って、それは「子供たちも目的を持つことが重要である」と述べているにすぎず、決して「子供たちが自分の目的を持っていれば、教師側は教育の目的について説明しなくてもいい」という理屈ではありません。双方共にしっかり目的を持っている必要があります。
教育=教師 × 子供 教育は「教える側」と「教わる側」の相互作用。どちらか一方でも、やる気ゼロだと教育にならない。

 「A:勉強する目的は、自分で見つけなさい」という回答は、その前提として、まず先に教師側がしっかりと説明していなければなりません。
 勉強を通じて子供たちに自分の夢や目標を見つけさせること、それは教育のとても大切な役割です。つまり当然ながら、教育とは大人が子供を誘導することであって、子供が大人を誘導することではありません。まず先にしっかりしなければならないのは大人であり、その逆はありえません。
 大人たちがまず手本となることで、子供たちそれぞれが自分の目的を見つけられるように手伝う。それが教育のとても大切な役割です。大人側がまずしっかりと説明して積極的に手本を示していない限り、子供たちに「A:勉強する目的は、自分で見つけなさい」と述べることはできません。

 教育は、教える側と教わる側のコミュニケーションが基本になります。
 そのため、教師側が教える目的を持っていても、子供たちが学ぶ目的を持っていても、それだけでは不十分です。それぞれが独自に目的を持って、バラバラに努力していては教育になりません。教師と子供たちとが目的を共有し、協力関係を築くことが不可欠です。
教育の範囲=教師の目的 ∩ 子供たちの目的 教育が有効に機能する範囲は、教師と子供たちの目的意識が重なっている場所だけ。

 このことから、各自で目的をただ持っているだけでは不十分であり、しっかり説明して互いの目的を近づけていく作業が必要だと言えます。もし「勉強する目的は、自分で見つけなさい」と述べるだけで、教師側が考えている勉強の目的についてのきちんと説明しないのならば、どんなに情熱があっても教育は成り立ちません。


 このように、「Q:どうして勉強しなくてはいけないのか?」という疑問は、昔からある定番な疑問として、単なる子供の疑問として軽く扱われがちですが、それに反して非常に重要な本質的な疑問です。
 この疑問に大人たちがどう向き合っているか、その姿勢を見るだけでも、その国や時代において教育がどれほど大切にされているのかを伺い知ることができます。


当たり前?

 繰り返しますが、教育には実に様々な考え方があります。だからこそ、教育の目的を明確にし、それをしっかり説明して共有する必要があります。学校が、あるいは自分が、どの考え方に賛同しているのかを把握していないと、どんなにコミュニケーションを繰り返しても齟齬や誤解だらけになってしまうからです。

 しかし、それに反論する人も数多くいるでしょう。
A:勉強が大切なのは当たり前。当たり前すぎるから説明するまでもない。

 確かに、子供のワガママや屁理屈に付き合って、当たり前のことまでいちいち説明していたらキリがありません。
 そもそも教育は「子供たちがまだ知らないことについて教える」という過程が中心になります。「子供が嫌がっているから教えない」では教育になりません。たとえ子供たちが嫌がっても、まずは教えてみないことには始まらないと言えるでしょう。このようなことから「子供のワガママに耳を貸すべきではない」「当たり前のことまで、いちいち説明していられない」という反論が生じるのも頷けます。

 しかし、ここには注意点があります。
 まず、確かに「いちいちは説明していられない」にしても、だからと言って「全く説明しなくても構わない」ということにはならない点です。説明が無いといつまでも疑問が残ってしまうため、かえって子供たちはいつまでたってもズルズルと質問し続けてしまいます。「いちいちは説明していられない」のならば、尚のこと始めにしっかり説明すべきと言えるでしょう。
 もう1つは、その当たり前のことを本当に説明できるのか、という点です。説明を省略するのと説明できないのとでは意味が違います。説明できない人の場合、普段の言動や行動が矛盾しやすくなる上、その矛盾を指摘されても本人にはそれを理解できません。このような人から何を言われても、たとえ正しいことを言われたとしても、子供たちはウンザリするだけでしょう。もし今回は正しかったとしても、それはたまたまのまぐれであり、どうせ次にはまたそれと矛盾することを言うかもしれないからです。たとえ正しくても信頼などできません。このような事態を避けるためにも、たとえ説明を省略するとしても説明できることは必須です。

 そして、ここでさらに確認が必要になるのは、勉強が大切であることは「本当に当たり前なのか?」という点です。
 何度も繰り返すようですが、教育には様々な考え方があります。
 学校と塾を比較しても勉強の目的は大きく違いますし、同じ学校の授業においても教師側の考え方と通う子供たちや保護者側の考え方は大きく異なっています。立場の違い、見方の違いで「当たり前」の意味する内容も当然異なります。「正しい教育」にもたくさんの種類があるのです。
 では、それらの中でどれが「当たり前」なのでしょうか?

 例えば、現状では塾の方が学校よりも効率よく成績をアップさせることができますが、では学校は塾の勉強法を取り入れるべきでしょうか。フィンランドの教育は世界一の水準とも称されていますが、では日本はすぐにでもそのフィンランドの教育を模倣すべきでしょうか。
 当然ながら、答えはどちらもNOです。何故なら、目的が異なっているからです。
 目的の異なる考え方を混同してしまうと、目的が分からなくなって矛盾が発生してしまいます。それでは教育が混乱してしまうので、子供たちはそれ以上に混乱してしまいます。「ゆとり教育」はその典型と言えるでしょう。

 ↓これらは全部、考え方がバラバラ。1つ1つは、どれも”正しい”。
学校 エリート教育 脱ゆとり教育
能力別編成 フィンランドの教育 創造する学習
 このように様々ある中で、仮にどれか1つが「当たり前」であるならば、その他のものは全て「当たり前」ではありません。「当たり前」として選べるのは1つだけです。基本的な考え方が違うので、2つ以上選んでしまうと矛盾が生じてしまいます。
学校 + 塾 + フィンランド + エリート教育 = ?混乱?
教育の考え方は、足し算的に考えることはできない。たとえ1つ1つは正しくても、それらを単に組み合わせるだけでは「より良い教育」にはならない。

 そして、ここで重要になるのは「それを子供たちが分かるのか」という点です。
 たとえ大人にとっては「当たり前」であっても、大人だけが分かっているだけでは教育になりません。子供たちも、それを理解する必要があります。どれが「当たり前」で、どれが「当たり前」ではないのか。それを子供たちが理解・共有・区別できなくてはなりません。
 何の説明になしに、子供たちにそれができるでしょうか?

 「A:当たり前すぎて、説明するまでもない」というのは、そういうことです。
 「一切何も説明しなくても、全ての子供たちは勉強の大切さに自然に気が付く」という期待の上にしか成立しません。子供たちから「どうして勉強しなくてはならないのか?」という質問によって説明を繰り返し求められているにも関わらず、です。
 そんな期待の仕方は、無理以外の何ものでもないでしょう。

 もし、本当に「勉強が大切なのは当たり前」だとするならば、それを説明することなど簡単にできるはずです。それにも関わらず「子供たちにはあえて説明しない」という選択をすることにどんな意味があるのでしょうか。
メリット  説明する時間と手間の省略できる。
デメリット 勉強が嫌いになる。教育を信頼できなくなる。

 このように、メリットとデメリットの差は、あまりに大きすぎます。

 もし、本当に「当たり前」のことを説明するだけならば、年度の始めにでも簡単なオリエンテーションの場を設けるだけで充分でしょう。もし、たったそれだけの時間と手間を惜しんだがために、多くの子供たちが勉強自体を嫌いになってしまうかもしれないとしたら、割に合わないにもほどがあります。
 あるいは「しっかり説明しようと思ったら、いくら時間があっても足りない」としたら、それは「勉強」というテーマが実は相当に難しいという意味であり、決して説明不要な「当たり前」などではないことになります。なおさら「説明なしでも理解しろ」という考え方がいかに愚かで横暴か、それが際立つでしょう。大人たちでさえ説明に苦労するならば、余計に子供たちには、どんなに時間かけてでも、しっかり説明しなければなりません。

 もし、ここで「どうせ理解できないんだから、説明なんてするだけ無駄」と反論するとしたら、教育に価値はありません。
 教育とは「分からないことを分かるようになるため」に行われる活動です。子供たちから「分からないから教えて」と頼まれているにも関わらず、それに対して「そんなもの分かる必要無い」なんて答えるとしたら、教育など存在する価値すらありません。

 このように「当たり前すぎるから説明するまでもない」なんて考え方は愚策と言うほかありません。
 当たり前であるならば、当たり前だからこそ、始めにしっかり説明すべきです。


「はじめに」のまとめ

 教育には実に様々な考え方があります。
 だからこそ、自分はその中でどれを正しいと思っているのか、それを考えなければなりません。

 現在の日本において、教育に対する需要と期待は非常に高いと言えます。
 しかし、それは前向きな期待ではなく、「今の教育ではダメだ」という不安の表れでしょう。
 では、何が問題だと思いますか? どうすれば良いと思いますか?
 そういった点を整理していかないと話が前に進まないのは当然でしょう。

 簡単に言えば、次の3点。
  • 目的 :子供たちをどのように育てたいのか?
  • 内容 :そのためには何を教えるといいのか?
  • 方法 :具体的にどんな方法が適しているのか?
 これらを整理できないようでは、教育の改善などできるはずがありません。

 そして、これらの疑問を最も簡単な形でまとめて表現しているのが「Q:どうして勉強しなくてはいけないのか?」という疑問です。
 これは日本の教育の未来を左右するほど非常に重要な疑問であると言えるでしょう。


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