Scarborough Fair

ジブリ映画とオカルティズム ハウル編

最終更新:

scarboroughfair

- view
管理者のみ編集可
 ジブリ映画とオカルティズム ⑦

 ハウル編



『ハウルの動く城』。
ダイアナ・ ウィン・ジョーンズ作 『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作とした作品。
こちらも「魔女の宅急便」に続き、黒魔法の使い手をメインキャラに据えた、わかり辛い話である。
(ちなみに作中最大の魔力を持っているのはハウルでも荒地の魔女でも
 ヤリマン…もといマダム・サリマンでもなく、主人公のソフィーだという。
 だとすればこれは三人の魔女による魔女の物語ともいえる)

元々宮崎氏は製作に関わっていなかったらしいが、彼が関わるようになった後半部では
西洋魔術的なおどろおどろしいイニシエーションの儀式が強調して描かれるようになった。

イニシエーションとは“知識”を持たぬ外部の者から見るとチンプンカンプンで
意味不明な描写の連続だが、“内部”の者にとっては明確な意味を持った儀式になる。
だが、知らぬものにとってもそれは無意識に働きかける。
このイニシエーションについては後述する。

                ☤

さて、『ハウルの動く城』の作中には案山子が登場する。
カカシが若い女性の旅を助ける話といえば、誰もが思い浮かべるのが
1890年にアメリカで出版され、世界中で読み継がれている児童書『オズの魔法使い』であろう。

ではオズの魔法使いの作者、ライマン・フランク・ボームとはどういう人物なのかというと、
ヘレナ・P・ブラヴァツキー婦人という胡散臭い人物が創設した
『神智学協会』という魔術結社のメンバーなのである。
そして作者はこの作品を「純粋な霊感を受けて著した」と言い、
神智学教会の会報誌はこの作品を『最初から最後まで神智学的アイデアで漲った
神智学的寓話とみなすことができる』と断言して激賞している。

それもその筈、この物語は寓話の皮をかぶった、神智学の教本なのである。

『オズの魔法使い』の粗筋を簡単に述べると以下の通りだ。
『虹の彼方』の世界に行くことを夢見る12歳の農家の娘ドロシー・ゲイルは
ある日竜巻によって異世界に飛ばされる。
そこで北の善い魔女が、この黄色のレンガ道に従って進み、エメラルドの都に向かえば
元の世界へと戻す力を持つオズの魔法使いに出会えるだろうと助言する。

ドロシーは黄色い道を辿って旅し、その途上で
自分たちに欠けている脳、心、勇気を手に入れたいと望む
案山子と人形と獅子に出会い、これらと共に更に道を進む事となり、
その行く手を阻む西の悪しき魔女の試練に立ち向かう事となる。
……

ドロシーのいた物質世界に対し、オズの世界とは霊的世界を指す。
黄色いレンガの道とは、永遠の神の都へと上昇しつつも続く黄金の小道の比喩で、
神智学の中でも「黄金の道」という同じ概念が登場する。

かかし、ブリキのきこり、そして臆病なライオンという奇妙な登場人物は、
イルミネーションへの探求を完了するために
入会者たちに必要とされる資質を欲する者として象徴化されたものだ。

自分に欠けたものを満たしつつも、一つの外面的に拡張する螺旋として始まる
黄色いレンガの道を辿るとというのは、誕生と魂の死の輪廻への神智学的信念を表し、
魂が物質界から霊的世界へと上昇しながら自己を進化させることを表す。
いわゆるアセンションである。

ドロシーの霊的上昇を妨げるのは、東と西の邪悪な魔女たちで、
東西という水平枢軸は邪悪な物質世界を意味している。
対して彼女の霊的上昇を助けるのは、北と南の善き魔女で、
南北という垂直枢軸は上へ上へと続く霊的世界を意味している。

そしてその旅の果てに存在するエメラルドの都とは、宝石に覆われた仏教の極楽浄土、
同じく宝石に覆われた聖書の新エルサレムであり、
そこに住む大魔法使いとは義の太陽イエス・キリスト=大日如来に他ならない。

いわば『オズの魔法使い』とは、何も知らない子供たちに
こうした魔術的奥義をすりこみ、洗脳させるための「宗教書」なのである。

それを焼き直して再構築されたのが『魔法使いハウルと火の悪魔』であり、
そこに着目して作られた映画が『ハウルの動く城』だ。

                ☤

オズの魔法使いでは案山子とあと2人の仲間、及び善き魔女と悪しき魔女が登場したが
この作品でも善悪の魔女と案山子のほか2人の仲間が登場する。
カルシファーとマルクルだ。

カルシファーは魔法使いハウルと契約し、その心臓を得た火の悪魔だ。
カルシファーのモデルはその名が示す通り光を齎す者=ルシフェルの前身である「ルシファー」であり、
ギリシア神話の、人類に火を与えた神プロメテウスである。

名付け親はハリーポッターと同じ魔術国家イギリス (近代メーソンの本拠地でもある) の
女性作家ダイアナ・ジョーンズだが、偶然にも日本語で「火(カ)・ルシファー」という暗合となっている。

ユダヤ教のルシファーとギリシア神話のプロメテウスは、構造的に同じ存在である。

ルシファー=サタンはいわば原生の人間に智恵を与えた「親」とも言える存在。
プロメテウスはゼウスと共に現在の人間を作り出した存在。

サタンは神を試して失敗し、地に堕とされ、
その結果本来永遠の生命を与えられる筈だった人類は、楽園を放逐され、死すべき体となった。
プロメテウスはゼウスを試して失敗し、磔にされ、
その結果永遠の生命を得られるかもしれなかった人類は死すべき体となった。

神は巨人族ネフィリムとともに、堕天使たちに文明の悪しき知識を吹き込まれた人間たちを
ノアの大洪水によって一掃した。
ゼウスは巨人族ギガスととともに、プロメテウスに文明の悪しき知識を吹き込まれた人間たちを
デュカリオンの大洪水によって一掃した。

そのサタン=プロメテウスがふたりの主要登場人物として作中に登場する。
ひとりは火の精霊、ひとりは様々な姿に身を変える小さな魔法使い。
この両者は殊更女子供に人気が出るような造形と性格になっているのだが、
その実どちらも本質が悪魔である事に変わりはない。

なお、子供の方は原作ではマイケル(大天使ミカエル)という名前だが、
この映画ではマルクル、つまり生命の樹の最下層にある、スタート地点にして
最も神から遠い存在、マルクトをもじった名がつけられている。

                ☤

この作品のクライマックスは、ソフィが過への扉の中で
ハウルとカルシファーの出会いを覗くシーンである。

暗黒に閉ざされた湿原の中で、ただの少年だったハウルが
天から落ちてきた炎カルシファーと出会い、心臓を捧げる契約を結び、
魔術師として“誕生”する。

いうまでもなく、これはフリーメーソンなどに代表される
秘教結社のイニシエーションの儀式である。

その結社に入るまではただの俗人の1人に過ぎない。
しかし暗闇の中で入会者は過去の自分と決別し、
組織に魂(心臓)を捧げる誓いを行い、
光明と出会って新しく“生まれ変わる”。

カルシファーは天から落ちてきたが、ルシファーもまた天界から落とされた。
またイルミナティのグランドマスターの1人であるレオ・ザガミによると、
イルミナティでは人類は天より現れた生命と混血して生まれた生物なのだという。
要するにそうした奥義を、日本中の人間が見るアニメ映画を通して
知らぬうちに広く告知しているというわけである。

(原作ではハウルはその頃既に魔術師で、更なる強い魔力を欲して
 カルシファーを追い掛け回した挙句契約を結んだのだが、
 宮崎は映画化に当たってわざわざこの部分を作り変えた)

 カルシファーは「星の子」「流れ星」と呼ばれる。
 聖書ではルシファーは暁の明星(金星)と呼ばれる。
 イエスは「私はサタンが流星のように落とされるのを見ていた」と言っている。

 小説でもそうだが、カルシファーにあまり心を預けすぎると、
 心を乗っ取られ、化け物になってしまう。
 一方で聖書の悪魔は最初は親切で頼りになるとして表れ、人間の信任を得る。
 しかしそれに頼りすぎると、徐々に精神が錯乱し、しまいには廃人になるか死亡してしまう。

 こうした悪魔を「天使」と呼んで尊び、その力によって奇跡的な力を見せたり、予言を行ったり、
 この時代には知られていなかった医療技術を以って村人を治したりしたが、
 それからほどなくして不遇の死を遂げてしまった人間の例は幾つもある。
 「聖母マリアを見た」と言ってファティマの予言なるものを世に示したが、
 続々と全員夭折してしまった少女たちもその一例である。
 繰り返すが、カルシファーとはサタンの象徴であるのだ。

                ☤

この作品にはもう1人サタンが登場する。
「善き魔女」マダム・サリマンである。
日本人はサタン=悪魔というと漠然と悪いイメージしか持っておらず、
せいぜい人間をたぶらかす程度のせこい小悪党程度のイメージしか無いであろうが、
聖書ではそれとはまったく対極的な存在である事が明かされている。

『次に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
 この世の全ての国々とその栄華とを見せて言った。
 「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」
  するとイエスは彼に言われた。
 「サタンよ、退け。
  “主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ”と書いてある」』
 (マタイの福音書 4章8~10節)

『また、悪魔はイエスを連れて行き、
 またたくまに世界の全ての国々を見せて こう言った。
 「これらの国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。
  それは私に任されているので、私がこれと思う者に与えているのです。
  ですからもしあなたが私を拝むなら、全てをあなたのものとしましょう」

イエスは答えて言われた。
 「“あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい”と書いてある。」』
 (ルカの福音書 4章5~8節)

これらの箇所でイエスは悪魔に従い、忠誠を誓うことに対する
明確な反対を述べてはいるものの、
悪魔の告げた、「この世界は私に任されている」という件に関して何ひとつ否定はしていない。

この世界の統治を任されているのは悪魔であり、
その悪魔に忠誠を誓い、権能を与えられた王や貴族、富豪たちによって
この世は支配され、運営されている──
それが聖書 (特に世俗と癒着したヴァチカンによって歪めれる以前の原始キリスト教) の見解だ。

そのため別の箇所(コリントの手紙Ⅱ 4章4節)でも
聖書はサタンを「この世の神」と呼んでいる。

『“この世の神”が不信者の思いを晦ませ、
 神の形であるキリストの栄光に関わる、福音の光を輝かせないようにしているのです』
(コリントの手紙Ⅱ 4章4節)

それゆえにイエスは「この世を友とする者は神を敵とする」と別の箇所で言っている。


 さて、『ハウルの動く城』の話に戻るが、
 戦争を起こしている国王を陰で操っていたのは魔女サリマンであった。
 国王はどう見ても頭が弱く、権謀術数に満ちた狐狸蛇蝎の巣である
 宮廷で生き残れるような人間には見えないよう描かれている。
 その国王が国王として君臨し得ているのは、サリマンという強力な後見人あっての事であろう。
 いわばサリマンこそが陰の実権者であり、黒幕であり、戦争を起こした張本人なのである。

 聖書では「サタンに忠誠を誓った王たちがこの世界を支配する事を(神から)許されている」
 としている。
 いわばサリマンとはサタン(もしくはその代理人)という位置であり役割なのだ。

                ☤

 では、一体何のために戦争を行ったのか?
 王国の勢力を増すため、あるいは権益を守るためとも考えられるが、
 いつでも戦争を止められたという事は、サリマンがこの戦争の両方の当事者を操り、
 戦争そのものをコントロールできる立場にあった事を意味している。
 そのような立場にあってわざわざ戦争を行ったというのは、とりもなおさず
 戦争そのものが目的だったという事だ。
 となれば、軍需産業や復興事業などで儲ける目的もあったのだろう。

 過去、実際にそうした目的で必要もない戦争などが行われた。
 特に欧米のユダヤ財閥は対立し合う両勢力に武器の支援を行い、
 どちらが勝っても儲けられる仕組みを作り上げて莫大な利益を上げた。

 『聖書』でも、イエス・キリストは、連中の正体について言及し、気をつけるよう警告している。

『また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
 “初めであり、終わりである方、一度死んで、また生きた方が言われる。
 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。…
   また、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、
  かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。…
   見よ。悪魔はあなたがたを試すために、
  あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている」”』   (ヨハネの黙示録 2章8~10節)

『また、フィラデルフィヤにあるにある教会の御使いに書き送れ。
 “聖なる方、真実な方…彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、
 その方がこう言われる。
 「わたしは、あなたの行ないを知っている。…
  見よ。サタンの会衆に属する者、すなわちユダヤ人だと自称しながら実はそうでなく、
  嘘を言っている者たちに、わたしはこうする」”』

   (ヨハネの黙示録 3章7~9節)

 ユダヤ人でもない(白人系)のにユダヤ人(黄色人系)だと自称している者たちの正体は、
 悪魔崇拝者であり、サタンの使徒だと言っているのである。

 そうした連中と同じ行動原理を持つマダム・サリマンという白人は、
 極論を言えば、アメリカやヨーロッパなどの政権を陰で操り、
 戦争を引き起こして莫大な利益を上げてきた白系ユダヤ人の比喩ではなかろうか。

                ☤

 さて、この映画のストーリーや人物の根幹が『オズの魔法使い』にある事は既に述べたが、
 ハウル城のデザインもまた、宮崎駿によるものではない。
 フリーメーソンであり、シェイクスピアの正体とも言われる
 フランシス・ベーコンの著書 『New Atlantis』 の表紙の絵から取ったものである。
 ここにもオカルトの深い影響が見て取れる。

 その他本作にはいちいち突っ込んで行くときりがないほどいろいろな隠された意味があるが、
 いちいちひとつびとつ解き明かしていけば異様に長くなるので長いので割愛する。
 いずれにせよこの作品の本質は、悪魔側の視点に立って描かれた
 黒魔術教団の広報兼プロバガンダ映画という事である。
 魔術師と少女のラブストーリー云々だの、反戦メッセージ云々だのという
 一般に行われている解釈は皮相のオマケだけに着目したものに過ぎないのだ。






                            ☞ジブリ考察その⑧ 指輪物語編




─────────────────────────────────────




















目安箱バナー