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ジブリ映画とオカルティズム 魔女の宅急便編

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 ジブリ映画とオカルティズム ⑥


 魔女の宅急便編


『魔女の宅急便』。
角野栄子氏による児童書原作作品で、タイトルが示す通り魔女の物語である。

「魔女」や「魔法」と言えば現代において、まるで歓迎されるべき奇跡や
羨むべきその体現者のように扱われているが、本来最も忌むべき行為であり、
『聖書』では魔法を使った者は地獄に落ちて永遠に焼かれるとされている。

そもそも人間に本来そのような奇跡的な力など備わっていない。
では魔法とは何かというと、神を裏切り、悪魔に魂を売り渡して契約を結んだ者が、
悪魔に頼んで使って貰っている悪魔の力の事なのだ。
だからこそ「魔法」なのである。
これに対してはユダヤ教の時代より『モーセ五書』などで強く禁じられている。

例え神や天使を名乗る存在、仏や菩薩を名乗る存在、精霊や妖精を名乗る存在、
宇宙人や宇宙意思を名乗る存在、霊魂や動物霊を名乗る存在が相手であっても、
それと語りかけ、帰依し、契約を結んではならない。
なぜならそれは姿を変えた悪魔だからだ。
キリスト教でも「悪魔は光の天使を装って現れる」と言い、それらとの交信を禁止している。

しかし神側の命令に逆らい、自分の意のままにできる奇跡の力が欲しいという
浅薄な慾望に駆られて、禁忌を犯し、儀式によってそうしたものと交わった
忌むべき存在が、本物の「魔法使い」や「魔女」なのだ。

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中世ヨーロッパでは謂れなき男女が「魔女」の烙印を捺され、
共同体から抹殺されたり、暴行されたり財産を奪われたりしていた。
その野蠻で迷信的、残酷な行為から、それらを批判する向きがあるのは当然の事だが、
そこから更に飛躍して、魔法や魔女文化を擁護する意見すらあるのは行きすぎであろう。
そうした事を主張する輩は大抵が無神論者で、魔法なるものをそもそも信じておらず
ただの迷信、文化のひとつと捉えているが、しかしその行為や儀式そのものが
大問題であるのだ。

世界的にヒットしたラノベ兼映画に、たくさんの少年少女を魔法使いに養成し
彼らを活躍させて英雄のように描く 『ハリー・ポッター』 シリーズがあるが、
ヴァチカンがこれを咎めている。
これらに対しファンは激怒して抗議し、無心論者の日本人は冷笑したが、
ヴァチカンの批判の裏には紀元前から続く、悪魔と交わる事への警鐘がある。
悪魔の力を学びこれを使う者は、もはや最後の審判で救われる見込みはない。
ただ永遠の獄炎へ続く道が伸びているのみなのである。
(尤もヴァチカンこそ…であるのだが)

その魔女を、当時の眼から見ても時代遅れのオールドスタイルで登場させ、
ヒロインとして描いたのが『魔女の宅急便』だ。
表層は新生活を始めた1人の少女の葛藤と成長劇で、視聴者の共感と感動を生む
名作であるのだが、ここにも様々なオカルトワードが埋め込まれている。

魔女も元々あのような服を着ていたわけではない。
にも関わらず服装がテンプレ化したのは、それが反道徳の象徴であるからだ。

ユダヤ・キリスト教では女の天使は存在しない。
受胎告知をしたガブリエルは安産の守護天使のように見なされるようになり、
女性信者獲得のため女体化されて描かれる事もあるが、元々天使に性は無い。

さて、神であるイエスが人間として受肉し、処刑された後に
不死の「復活体」として蘇ったように、高位の天使の正体とは、
聖人の「復活体」であるというユダヤの伝説がある。

それによると天界の大戦争でルシフェルに勝利したミカエルは、
その功績により初めて肉体を得る資格を得、
神によって肉体を創造されて最初の人間アダムとなった。
(これらの事は「ヨハネの黙示録」や「ダニエル書」にそれとなく記されている。)

またその子孫である第二の太祖ノアも、
その前身は「回復者」を意味する名の大天使ガブリエルであり、
生きたまま昇天した大預言者エノクは大天使メタトロンとなり、
同じく言者エリヤはサンダルフォンになったという。

つまり、これらの天使は性は無いが、その魂は「男」なのである。

(ちなみに仏教でも女の仏はおらず、極楽浄土にも女はいない。
 女が行っても男に変化するのである。
 観音菩薩は女性でもあるかのように描かれるが、こちらもその慈悲心を
 女性に例えただけで、女性信者獲得のためにそう描かれる事が多いだけである)

女性差別のように聞こえてしまうかも知れないが、
その対極の存在、悪魔の使徒だから魔女という象徴は「女」なのである。

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キリスト教では神天使、天に上げられた者たちは輝く白の衣を纏う。
その対極の存在を示す象徴ゆえに魔女は黒い衣を纏う。

神は天使をしもべとし、その対極の存在のサタンはサタンは悪霊をしもべとしている。
その雛形である魔女も使い魔を使う。

なお、ユダヤ教によればエジプトは神の対極の存在である、
魔術の蔓延る王国と化していたが、そのエジプトでは猫を重用し、
猫頭の女神などを祀っていた。
またヨーロッパでも猫はその気まぐれでずる賢く夜を好む性格から、
忠実な犬の対極に位置づけられた。
そこから黒猫は魔術使い、魔女の使徒として好まれて描かれるようになった。

ヨーロッパでは箒は家庭の平和と衛生の象徴とされている。
その対極の存在だから魔女は箒に跨る。
跨るという行為は、汚い部分を箒に押し付ける事でそれを侮辱しているのである。

ヨーロッパ(に限った事ではないが)では、夫に貞淑に尽くし、法律を守り、
地に足のついた生活を営むのが女性の嗜みだとされている。
その対極の存在だから魔女は地上の法から離れて空を飛び、
悪魔を囲んで乱交パーティを繰り広げる。
キリスト教徒が毎週神の御前でミサを行う対極を行って、
悪魔を囲んで黒ミサを行うのだ。

よく魔女が契約を結ぶ悪魔が黒山羊で描かれているのは、
聖書において善人を大人しい白い羊、悪人を気性の荒い山羊に例えているからで
白の対極の存在として黒い毛並みにし、
平和の象徴の白鳩の対極の存在として黒い蝙蝠の翼を生やさせ、
長いローブを纏った男(天使)の対極の存在として
全裸の女性の肉体として描かれている。

言ってしまえば「悪魔」の絵も「魔女」のスタイルも、
「吸血鬼」や「狼男」「ゾンビ」などと同じく、キリスト教の神や天使、聖人らの
鏡写しとなんる対極の存在として創作されたものであるのだ。

(吸血鬼が血を吸うのは旧約聖書で血を食べる事を禁じているため、
 その向こうを張った存在として創作されたためであり、
 光を嫌ったり十字架に弱いのは、“義の太陽”イエスの対極の存在であるからで、
 狼男は悪魔の使徒の人間が獣の刻印を押捺されているので、
 その逆を行って人間が獣に変じるようにしたのである。)

それが示すものはキリスト教や道徳観の否定と破壊である。
黒い衣を纏い、箒で空を飛ぶ魔女のスタイルにはそうした意味がこめられているのだ。

ちなみに『魔女の宅急便』では、「黒はオンナを美しく見せる」とかいう意味不明な理屈から
最初から最後まで主人公の少女にこのスタイルを貫き通させている。
尤も、女性が自らの美を知りこれに自己陶酔し男への誘惑に使うようになったのも、
『聖書』外典によれば、元はといえば神に反逆した堕天使シュミハザが
人間に教えた事であるのだが。

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欧米の子供たちが幼い頃から『オズの魔法使い』を読んで秘教の奥義に触れ、
『ハリー・ポッター』を読んで魔法使いや魔術といういかがわしいものに対して
拒否感を抱かず、むしろ羨望するように“教育”される。

同様に『魔女の宅急便』も、視聴者に対してそういった影響力がある事は否み得ない。
そもそも日本の子供たちは西洋の度もたち同様に、物事の判断がつく以前に、
数々の魔女アニメ、魔法アニメなどを見て、無意識下に
それらに対する興味や関心を刷り込まれるようになつているのである。。

例えば時代を遡れば、某黒魔術系アニメの影響で、日本中の女児がヒロインを真似して
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン」という変身呪文を唱えた事があった。
(ちなみにこれは原作にはなくアニメ版になって追加された呪文)

この一見何の意味もないように見える呪文の正体は、
ユダヤの絶対神の名を示す4文字「テトラグラマトン」の転訛である。
つまり日本中の女児がまったくそうと知らずに、“変身”するために
ユダヤの絶対神の名を唱えてそれに祈り続けていたのである。

某黒魔術系アニメの影響で、日本中の男児が主人公を真似をして
「エロイムエッサイム エロイムエッサイム 我は求め訴えたり」
という悪魔召還呪文を唱えた事があった。

主人公が悪魔側の魔術師であり、悪魔召還の呪文を真似する事自体アレだが、
実はこのエロイム(エロヒム)とは別に悪魔の事ではなく、
元はユダヤの絶対神の複数形をさすヘブル語なのでである。
つまり日本中の男児がユダヤの神に求め訴え続けていた
(祈りを捧げていた)わけである。

われわれ日本人は幼い頃から知らぬうち、にユダヤ、キリスト教、西洋魔術などの
オカルトによって“教化”されているのである。
宮崎映画の根底をなすメッセージ、登場人物たちの行動原理も、
そうした教典に添ったものであり、日本人は幼い頃からそれを見て、
それを「自分自身の行動規範」として取り込んでいるのである。

日本のような無宗教系国家においては、ある意味宗教よりも、
アニメの哲学的、精神的な影響力は大きい。
同様に作品を通じて視聴者を感化させ“洗脳”する力も大きい。
それゆえに宮崎氏のようなトップクラスのアニメクリエイターは、単なる娯楽作家ではなく、
裏の意味において、ある意味ひとつの宗教の“教祖”ともいえる存在なのである。



                            ☞ジブリ考察その⑦ ハウル編




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