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ジブリ映画とオカルティズム もののけ姫編

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 ジブリ映画とオカルティズム ⑤

 もののけ姫編



『もののけ姫』。
『千と千尋の神隠し』が、様々な日本の神話、伝承などを
継ぎはぎして作られたパッチワーク作品であるというのは有名だが
この作品もまた、猪笹王の伝説、神武天皇や源頼光による土蜘蛛征伐、
デイダラボッチ伝説、日本書紀のウケモチノカミの死の箇所など、
日本古来の様々な神話や昔話を継ぎ接ぎして作られた大作である。

もつとも、それらは枝葉末節に過ぎず、
根幹となっているのは世界最古の物語と言われる
『ギルガメッシュ叙事詩』である。
サタン崇拝主義者発祥の地と言えるバビロニア。
その神話の元になったシュメールの王の物語だ。

それについて述べる前に、まずは少し
宮崎駿という人物について触れておきたい。

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『ラピュタ』の項でも簡単に記したが、
宮崎駿という人物には左傾化した思想が見られる。
共産主義、無政府主義、共同体国家思想などだ。

またサヨクに共通して見られる事だが、彼らは
(中国や韓国の武装化は大歓迎する癖に)
軍国主義を毛嫌いする。
そのためか宮崎が手がけた『ナウシカ』『豚』
別監督のもと、途中まで完成していたのに
宮崎が途中参入して大きく脚本を作り変えた『ハウル』
などには、こうした反戦思想が色濃く見られる。

「『ナウシカ』の、平和に暮らしていた風の谷へのトルメキアの軍事侵略は、
先の大戦における、中国に対する大日本帝国の侵略の比喩であり、
トルメキアを壊滅させる事によって、戦争の愚かしさを説いたのだ」
という左からの意見が昔からよく聞かれる。

(実際には中国は英独仏露など、欧米列強によって
 幾重にも侵略・占領された植民地であり、日本軍は侵略戦争の側面も確かにあったが
 何り亞細亞共同体の樹立のためにそれらを解放しに行ったのだが)

この意見の是非はともかくとして、宮崎はミリタリーオタクのくせに
日本軍に対し並ならぬ嫌悪感を抱いている様子があるのは事実である。

もっとも宮崎駿は従軍経験があるわけでも、多感な青年期に戦争を迎えたわけでもない。
彼は一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の四人兄弟の次男に生まれ、
太平洋戦争中であっても何不自由なく幼年時代を過ごした。
学習院大学時代から社会主義思想に傾倒するようになり、
東映動画入社後は結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任、
投影という組織に対して激しい組合活動を行って対抗している。
日本軍を激しく嫌悪するようになったのは、こうした青年時代に左翼思想に当てられたからだろう。

さらに「進歩的知識人」が分析するところによると、『豚』は時期的に湾岸戦争、
『ハウル』はアフガニスタン戦争に対するアンチテーゼ作品なのだという。

「『ラピュタ』の軍隊もまた、“平和”な中国に侵略して略奪の限りを尽くす
 日本人の蛮行を描いたものだ」という説まで広く罷り通っているほどである。

そうした意見もあって、ジブリ映画は「反戦」という名目のもとに
日本の弱体化を目論むサヨク連中やそのバックのユダヤ、
ユダヤの代理機関として活動している某朝鮮系カルト教団の面々によって持て囃され、
後に彼らをスポンサーにつけて大きく成長する事となる。

日本の軍国主義化を警戒する特亜ベッタリのメディア群が、
ジブリ作品をアニメ映画としては異例なくらいに大々的に取り上げているのも
内容的に面白いからというだけの理由ではなく、特に子供やアニヲタ、
左巻きの人々に効果的な思想作品だからだ。

また、サヨクの特徴のひとつとして、彼らは天皇家を強く憎む。
『ハウル』の国王といい、ロムスカ・ウル・ラピュタといい、ヴ王といい、
もののけ姫の「天朝様」といい、ジブリ作品でも戦争を起こす側の王は、
愚かな存在として描かれ、最後に破滅するか目論見がポシャってしまう。

この天皇家に対する憎悪の象徴が、日本の伝承における“鬼”である。

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 少し長い話となるが、「鬼」のルーツについて述べたい。
「鬼」といえば日本の御伽噺や伝説には欠かせない存在である。
 羅生門の鬼、大江山の鬼、藤原千方の四鬼、今昔物語集の羅刹国、
 こぶ取り爺さんの鬼、安達ヶ原の鬼婆…。
 様々な説話があるが、中でも最も有名な「鬼」といえば、桃太郎に退治された鬼であろう。

 さて、その桃太郎の物語のモチーフとなったのは岡山の「温羅(うら)」伝説である。

『祟神天皇の時代、百済から「ウラ」という鬼が吉備(きび)の国にやって来て国を築いた。
 その髪は赤く、身の丈は4メートルもあったという。
 これを征伐するため大和朝廷は幾度か軍隊を派遣したが、ことごとくウラに破られてしまう。
 そこで、孝霊天皇の皇子である「五十狭斧彦命(イセサリヒコノミコト)」が
 これを討伐に赴く事となる。

 この戦いで五十狭斧彦命が勝利し、ウラの首を刎ねて「吉備津彦命」と名乗る。
 しかし、刎ねられたウラの首は、いつまでも吉備津彦命をうらみ、大声を発するので、
 吉備津彦命はその首を吉備津神社の御釜殿の下に埋めたという』

 この吉備津彦命が物語で言うところの桃太郎、温羅が鬼のモデルである。

 鬼が島(シマとは領地の事)とは吉備の事であり、キビダンゴの名もここに由来する。
 なお、「桃太郎」とは「鬼を祓う男」の意味である。
 中国では桃は鬼を祓う辟邪の力があるとしているため
 (映画「霊幻道士」でも桃の剣でキョンシーと戦っている)
 物語化するにあたって、覚えにくい本名にかわって、象徴的なこの名を与えたのだろう。

 対する鬼が日本において角を生やし虎の腰巻を巻いているのは、
 元々中国において鬼(クイ)とは不可視の悪霊の事であり、
 日本では隠(おに)と呼ばれ、艮(うしとら)=鬼門よりやって来る不吉な存在だった。
 そこでわかり易くビジュアル化する際に、丑(うし)の角を生やし、
 寅(とら)の皮を巻いた怪物「鬼(おに)」が創造されたのである。

 さて、この温羅という鬼の正体は、百済からやってきた移民の長であった。
 伝説で鬼が「金棒」を持っているのは、彼らが製鉄技術を持った集団で、
 豊かな広葉樹林に覆われていた当時の日本に、タタラ場を築き、
 練鉄(ねりがね)を製造していたからにほかならない。

 伝承では温羅は渡来後に地元の阿曽郷の神官の娘・
 阿曽媛を妻に娶ってその権威を受け継ぎ、地元に渡来人の王国を築いたという。
 しかし大和朝廷の軍によって彼は殺され、集落は虐殺され、タタラ場は壊滅した。

 桃太郎伝説から察するに、大和朝廷の軍は吉備津彦による本隊だけではなく、
 吉備国から見て戌(いぬ)、申(さる)、酉(とり)の方角にある国々を味方につけ、
 これらの国と合従連衡して「鬼が島」を攻めたようだ。
 そしてこれらの同盟における報酬は「きびだんご」に象徴される
 吉備国の農地と作物だったろう。

 そして吉備津彦の軍は「鬼」(百済移民)を退治(大量殺戮)し、
 “改心”させ(大和朝廷に絶対服従の約束を取りつけ)、
 略奪の限りを尽くして「珍しい宝物」を持ち帰ったと思われる。
 これに対し、片目を射られ、首を刎ねられた長の温羅は
 死んだ後も首だけになって恨み続けたという。

 なお、「ウラ」むという言葉はこの温羅の呪詛が語源で、
 後に「怨」の字を当てて「怨む」とし、
 「祟り」という言葉も大和朝廷に皆殺しにされたタタラ集団に由来する。
 これら弾圧され虐殺された部族を大和朝廷は「賤民」に落としめてこき使ったが、
 一方でこれらの部族の反乱と、悪霊「タタリ神」の祟りを恐れていた。

 要するに鬼とは元々架空の存在でもあったが、同時に
 天皇家に歯向かう実在の人間の比喩でもあったのだ。

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 さて、『もののけ姫』の話に戻るが、この作品の中に、
 温羅伝説をそのまま焼き直したような『鬼』が登場する。
 『エボシ御前』。
 彼女は中国から戻ってきた製鉄集団の長であり、地侍と戦う反逆者である。
 彼女は 天朝様(大和朝廷)に歯向かって
 その獲物を横取りしようとした結果失敗し、
 しまいにはこの行為が裏目となって片腕を失ってしまう。

 片目を射られた温羅、片腕を切られた茨木童子のように、鬼の物語には
 体の片方の××を討伐軍との戦いで失ってしまうものが多いが、これはその暗喩であろう。

 エボシ御前は非常に気風が良く腕っ節も強く、弱者を守り、
 皆に慕われる美人の姐御として描写されているため、
 視聴者は彼女に対して好意を寄せる者が殆どだろう。
 しかしそれこそがまさに宮崎の仕掛けた印象操作であり、
 彼が天皇家と温羅側、どちらかと言えば温羅側にシンパシーを抱いている事の証左でもある。

 この作品において天皇家は相対的にほぼ全ての人物の「悪」として描かれる。
 主人公であり、ジブリ作品中最高のイケメンであるアシタカに対し
 多くの視聴者が共感し、思い入れを抱いたた事だろう。
 しかし彼は大和朝廷との戦いに敗れ、東北の僻地にまで逐いやられた
 蝦夷の末裔であり、彼にとって天皇家は旧い恨みを持つ仇敵なのだ。

 そのアシタカの仲間であるもののけ姫サンは、森の神側の存在で、
 必然的に森の神の首を狙う天皇家は“大敵”という事になる。
 地侍と訌争を繰り広げる、“鬼”であるエボシ御前にとっても、
 敵の君主である天皇家は敵であろう。

 それはとりもなおさずこうした登場人物に共感する映画の視聴者にとっても
 天皇家は敵として認識されるという事である。

 早い話、政治問題になるのではっきりと明言されていないというだけで、
 自然環境の破壊云々という表層の問題を別にすれば、
 「天皇家=真の黒幕にして最後の敵」という
 構図がこの作品の裏に隠されているのである。

 このもののけ姫に限らずジブリ映画は、ナウシカにせよラピュタにせよハウルにせよ、
 視聴しているうちに知らず知らずのうちに旧日本軍や天皇家に対する
 嫌悪感、拒否感、あるいは不信感が植えつけられる仕組みになっているのだ。
 (特にハウルは映画化に当たって、原作にまったく登場しない
 空爆やら戦争シーンやらをつけ加えるほどの念の入りようだ)

 『インセプション』である。

 それこそが在日朝鮮・韓国人らの幹部で構成されたカルト教団・創〇〇会が
 絶大な影響力を持つ洗脳装置として、ジブリを後援する
 大きな理由のひとつとなっているのだ。
 (もっとも、戦時中のように天皇家の全てを肯定し、神聖化し、
 崇拝するつもりなどサラサラないので
 彼らの持つ反戦、反天皇という考えを完全に否定するつもりはないが)

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『もののけ姫』には「鬼」をモチーフにした存在だけでなく
数多くの「もののけ」が登場する。
では、「もののけ」とは一体何なのか?

一般には魂を持たない物質が長い年月の末に、自我に目覚めて
活動するようになった「物の怪」、つまり付喪神のようなものとされているが
その由来は古代日本において、大伴氏に並ぶ最強の武装集団だった
物部(もののべ)氏である。

武術集団であった物部氏は男らしい(夫)という意味で「もののふ」と呼ばれた。
また古代においては戦には武力だけでなく“呪力”も必要とされ、
古代の戦は呪術合戦であったのだが、物部氏はこの点でも絶大な力を持った
呪術集団であった。

物部氏は天皇家に次ぐほどの力をもった豪族であった。
歴代天皇は物部氏の女を娶るのが古代の不文律だった。
少なくとも初代神武天皇から9代開花天皇までは、
みな物部氏やその同族から皇后を輩出している。

これほどの権勢を誇った物部氏だが、搦め手で日本の権力中枢を篭絡し、
そのまま日本という国家を乗っ取るべく、大陸から渡来した新興宗教「仏教」を
擁してこれを利用する蘇我氏との宗教戦争によって、
物部氏は大敗を喫する事になる。
この事件によって大部分の物部氏が落ちぶれてしまった。

しばらくして物部氏宗家として石上氏が復権。
645年、大化の改新ののち、石上麻呂は政治家のトップである左大臣にまで上り詰める。
今後も物部氏の繁栄が続くかと思われたが、大きな障害が現れる。
天才・藤原不比等である。

奈良時代の最高実力者である藤原不比等が右大臣になると、状況が一変。
藤原京から平城京へと遷都が行われた際、石上麻呂は留守役として
そのまま旧都へと置き止めされてしまう。
宗家を支える物部氏もその多くが藤原京に留まる事になり、
政治の中枢における影響力が一気に激減。
物部一族の顕著な衰亡が始まった。
爾後、もののべ家は盛隆する藤原一族から
「もののけ」として賤民のような扱いを受ける事になる。

つまり、かつて強大な権力と武力を持っていたが、凋落して
天皇家から目の敵のようにされた呪術集団こそが「もののけ」の正体なのだ。

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『もののけ姫』には朝廷(天皇家)に逆らった一族が続々登場する。
例えば冒頭に登場する、ナゴの守が変化した『タタリ神』である。
目を爛々と赤く輝かせる土のように真っ黒い巨大な蜘蛛の姿で登場し
アシタカやエミシ一族を追いかける。

上古において、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対して
朝廷は「土蜘蛛」という蔑称を用いた。
『古事記』や『日本書紀』をはじめ、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、
各国の風土記などでも頻繁にこの名が用いられており、
山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、ほぼ全滅させられたという。

彼らにしてみれば大陸から九州北部に渡来し、そこを基点に
日本各地を侵略していった天皇一族の方が忌むべき侵略者であるのだが、
歴史とは常に勝者によって作られ、勝者の目線で記されるものである。

土蜘蛛の中でも特に有名なのは奈良県の葛城山にいたという部族である。
彼らはクズ(国樔)と呼ばれ、日本書紀では尻尾を持った存在として
猿と同類のように記され、現に日本書紀では大和の先住民を、
「人にして人に非ず」としている。

彼らは人間以下の存在として蔑まれ、殺戮され、
奴隷階級に落とされて徹底的に搾取された。
以降、日本で「クズ」と言えば支配階級から見て
「ゴミのような存在の賤民」を指す言葉となった。

国樔人の村は吉野川上流の山々にあった。
彼らは葛(かずら)を衣服の原料にしていたが、
ここから葛という植物もまた、後世において「クズ」と呼ばれるようになってしまった。

この辺りにある葛城山や金剛山には昔から鬼が住むと言われていたが
これも吉備の温羅同様、大和朝廷から蔑まれた人々をさしていう隠語である。
さらに中世には土蜘蛛と呼ばれた諸部族は、巨大な蜘蛛の妖怪として
描かれる事になり、ついにもののけのレベルにまで落とされる。
その恨みつらみたるやどれほどのものであったろう。

『もののけ姫』において宮崎は、この朝廷に弾圧され、土地を奪われて
一族を殺戮された土蜘蛛たちを、タタリ神という形で登場させ、
その怨嗟を語らせ、なおも熄える事のない凄まじい呪いを
主人公であるアシタカの腕に仮託し、彼の行動原理とした。
それは朝廷主体で書かれてきた歴史の見直しと、反天皇思想を訴えたものであろう。

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なお、アシタカをはじめとする東日本に住んでいた「蝦夷」たちもまた、
本来何の罪もないのに、朝廷から何度も大規模な討伐軍を差し向けられて
虐殺された被差別部族である。

渡来人による政権である大和朝廷は先住民族を「根」と呼んで差別し、
彼らを東北の隅にに追いやった後、何重にも城砦を築いてこれを隔離した。
岩手や青森あたりに「一の戸(へ)」「二の戸」…「八戸」とあるのは、
当時存在していたバリケード(関所)の名残で、
こうして「根」に蓋をする事を「根蓋(ねぶた)」と呼んだ。

抑圧された先住民族は当然幾度も反乱を行ったが、
大和朝廷は彼らを服従させるため大軍を派遣し、現地で大虐殺を行った。
こんにち行われる「ねぶた祭り」とは、日本の先住民族を大殺戮した
この「戦勝」を記念して、朝廷の威光を示すための祭りである。
討伐軍の司令官(征夷大将軍)である坂上田村麻呂が
巨大な像となって山車を飾り、メインストリートを練り歩くのは、そのためである。
独裁国家において支配者の権威を示すための軍事パレードのようなものだ。

全国の子供たちに語り聞かされる「桃太郎」も、実は同様に
古代の大和朝廷による大殺戮の物語なのだが、日本ではそういう話が
さも素晴らしい事のように持てはやされ、大きな祭になっているのである。


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『タタリ神』の姿のモチーフは、先に述べた通り土蜘蛛一族がモデルである。
しかしその元の姿である巨大な猪たちは、日本各地に伝わる
様々な昔話がモデルになっている。
たとえば『笹猪王』の伝説だ。

奈良県吉野郡伯母峰峠で、ある侍が笹の塊を背負った巨大な猪を発見し、
鉄砲で撃った。
深手を負った猪は強い恨みを抱きながら逃亡し、
人に化けて温泉で傷を癒した。
しかし宿屋の主人に正体を見破られてしまい、
「俺を撃った侍の鉄砲と犬を取り上げて持って来い。
さもなくば恨みを晴らすため村人を食い殺す」と脅した。

主人がこれに応じなかったため、猪笹王は
一つ目で一本足の巨大な鬼(一本ダタラ)に化けて
人々を食い殺して回ったが、丹誠上人という高僧によって
封印されてしまったという。

一本ダタラの正体はタタラ場で働く鍛冶師だとか、
日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神である
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だとか言われている。

タタラ場で生み出された鉄砲によって大怪我を負い
化け物に変化して人を襲うようになった
ナゴの守の話とそっくりである事がわかるだろう。

古来から「野猪」は、何かに化けて人を騙す動物として語られていた。
一種の図鑑である『和名類聚抄』では、「毛群類」の項目で、
人を騙す高等順に「狐」「ムジナ」「野猪」とというランキングがつけられている。
なお、「野猪」とは、同書に書かれた「猪」とは別の生物らしい。

猪神の話は「草猪(くさいなぎ)」という名で『今昔物語集』
巻第二十七にも登場する。
人を呼び止めてからかった罪で殺されてしまう野猪、
夜な夜な病死体を覆う青白い光を放つ野猪が退治される話などだ。

いずれにせよこうした話に共通するのは、どの猪も
人間によって殺されたり、退治されたりしてしまういう事だ。

例外ともいうべき話もある。
猪は山の神でもあり、かつて日本東西の諸部族を
武力と奸計によって征服していった英雄ヤマトタケルを殺したのは
伊吹山に住む巨大な白猪であった。
この猪は氷を操る力ょ持っていたらしく、氷雨を降らして
ヤマトタケルを悩ませ、ついには死に至らしめる。
大和朝廷に征服され、蹂躙されてきた被差別部族たちにとっては
恨みを晴らした英雄のような存在でもある。

『もののけ姫』作中には冒頭でアシタカの村を襲ったナゴの守とは別に、
鎮西(九州)猪族の総大将である「乙事主」という猪神が登場する。
ヤマトタケルを殺した白猪のように、白みがかった灰色の毛並みをしている。

実際に九州には猪を祭る神社が多く、大分県大野郡の
熊野神社の元宮には大量の狼の下顎骨が祭られ、
宮崎県西宮市の眼鏡神社では、今でも猪の生首を神に供えて祭りをしている。

しかしこの乙事主ですら、『もののけ姫』では人間たちとの戦の中で
命を落としてしまう。

自然界にあっては、人間とは非常に非力な生物であり
広大な森に住まう強大な生物たちに立ち向かう術がほとんどなく、
それゆえ古代人は自然に屈服し、神や動物たちを崇め、
共存をはかってきた。

ところが人が武器を発明し、これがどんどん発達して弓矢を、
ついには鉄砲を生み出すに至って、森の猛獣は
女子供ですら指一本で殺せる程度の存在にまで凋落してしまった。
神と人の立場は逆転し、人々は自然に対する畏敬を忘れて
これを一方的に征服し、やがては駆逐してしまうようになった。

神を奉っていた森への畏怖から
森との「共存」へ、さらに神を失った森の「征服」へ、
そしてやがては「滅び」へ──
そこへ至る転換期を描いたのが『もののけ姫』という作品であるのだ。

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さて、最後に本題に入る。
『もののけ姫』という全体のストーリーの原型だが
これは5000年以上もの前に書かれた人類最古の叙事詩
『ギルガメッシュ』である。

この話は中東がまだ豊かにして雄大な緑に覆われていた時代、
卑小でちっぽけな人間が、そこから感じる強烈な圧迫感、抑圧感から、
その「支配」から逃れようとした1人の男の、「自由」を求める物語でもある。

当時のメソポタミアには巨大なレバノン杉の原生林があった。
中でもシュメールの主神エンリルが半神半獣の
巨大な森の怪物フンババによって、数千年もの間守らせている
人間にとって禁域である「神々の森」があったという。

これに対し、都市国家ウルクの王であるギルガメッシュは
金属を精錬して武器を作り、
「人間は今まで長い間自然の奴隷であった。
この状態から人間を解放せねばならない」といった
妙な使命感をもって森を征服しに出向いた。

ギルガメッシュは毛むくじゃらの野人であり、無二の親友である
エンキドゥと共に森の守護者フンババを殺そうと奮戦し、
ついにはフンババの首を切り落としてこれを絶命させる。
そして青銅の斧によって森の樹木を伐採し、自然を「征服」する事に成功する。

しかし守護者である神獣フンババを殺した呪いによって
エンキドゥは死に、ギルガメッシュは失意のうちにウルクに帰還する。
そして次の言葉を吐いて息絶える。

「私は人間の幸福のためには、いかなるものをも犠牲にしてかまわないと思っていた。
 しかしフンババの命だけでなく、(森に住まう)無数の生き物の命をも奪ってしまっていた。
 やがて森は無くなり、地上には人間と、人間によって飼育・保護された
 動植物しか残らなくなってしまうだろう。
 それは荒涼たる世界だ。滅びへと通じる道だ…」

以上が『ギルガメッシュ叙事詩』の主なあらましで、
人間の愚かさと自然保護を訴えた作品であるが
同時にもののけ姫の根底をなすストーリーそっくりである事がわかるだろう。

『もののけ姫』のストーリーは以下の通り。

タタラ場から作り出された金属製の武器を手に、
エボシ御前らは神の森の征服に乗り出す。
そしてその守護者であるシシ神の首を狙って、御前や
天朝の軍が、森を守ろうとする神のごとき巨大な獣たちと
激しい戦いを繰り広げる。

やがてシシ神は首を切り落とされ、その凄まじい呪いによって
森を急速に枯らしていき、そこに住まう生物たちをも無差別に殺していく。
サンは育ての親であり、無二の親友である
毛むくじゃらのモロの君を失い、やがてシシ神は力尽きて消えてしまう。

そこから先にあるのは「神のいない時代」であり、
森がその神秘性を失い、人々によって一方的に伐採されていくだけの
殺伐とした時代だった…
というものだ。

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1950年代には25億人に過ぎなかった地球の総人口は、
わずか60年後の2013年には70億人にも到達したとされる。
人口爆発に正比例して、この一世紀の間に
地球の緑地面積は急速に減少していった。

そのような意味から、自然保護の大切さを社会ら訴えるのは間違いではなく、
人類最古のエコロジー物語である『ギルガメシッシュ叙事詩』をリメイクして、
かつてないほどに自然環境の保全と再生が必要になったこの時代に
広く人口に膾炙する形で公開したのは正しいだろう。

しかしこの作品は自然環境保護作品であるとともに、
反天皇作品であり、また宮崎映画お得意の「神」「権威」「管理者」を殺す
サタンの物語でもある。

『聖書』において人類は悪魔の誘惑によって「自由」を手にし
緑の楽園である神の元を離れたが、それによって全地で
悪が猖獗を極め、一度洪水で滅ぼされるほどの事態に陥った。

『ギルガメッシュ叙事詩』でも、「自然」という「神」に対し
これを殺して「自由」を得ようとしたギルガメッシュは
結局としてその後に続く人類の歴史の中で、甚大な環境破壊を齎してしまう。

「自由の国」を標榜する世界最大の軍事国家でも、
「自由」を広めるなどと称して世界中で膨大な数の侵略戦争や謀略を繰り返し
社会を混乱に陥らせ、数多くの無辜の人々の命を奪ってきた。

「自由」とは、元々神に背く事から生まれた思想であるのだが
使い方を誤れば恐ろしい結果を齎してしまうものなのだ。

なお、『聖書』ではヨハネの福音書8章などで、
「キリストが罪を十字架で背負われたので、あなた方は自由だ」
としているが、といって「自由だから何をしてもいい。
犯罪行為をしてもいい」という意味にはならない。

『律法の管理下にあるわけではなく、
 恵みの下にある自由を持っているからといって、
 わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。…
 自分の体を義の下僕として捧げ、浄くならねばならない』
 (ローマ人への手紙 6:15~23)
『あなたがたは自由人として行動しなさい。
 その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい』
 (ペテロの手紙第一 2:16)
など、自由とは本来善に使うべきものであると規定しているのだ。

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なお、シシ神の森を守る聖獣であり、ダイダラボッチの正体?でもある
シシ神は、前述したギルガメッシュ叙事詩に登場する
半神半獣のフンババがモデルである。
また、同時にケルト神話に登場する、聖なる森を統治する
巨大な牡鹿の角を持った獣たちの王、ケルヌンノスであろう。

この神は豊穣と多産を司る一方で、同時に死を司る冥府の神でもあった。
『もののけ姫』作中でアシタカが言った
「シシ神は生と死そのものだ」という言葉は、
限りない恵みと破壊をもたらす自然の象徴であるとともに
キリスト教の布教とともに排斥され失われた、
この森と大地の神ケルヌンノスを指して語ったものだろう。



                            ☞ジブリ考察その⑥ 魔女の宅急便編




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