(03)188 『幽霊ビルと“未来”』



目覚めの悪い朝だった。

光井愛佳は、たった今まで見ていた悪夢を思い出しながら額の汗を拭った。

いや、“悪夢”で片付けられるならばどうということはない。
このまま忘れてしまえばいいだけだから。
だが、愛佳にとってこれはただの“悪夢”として片付けられるものではなかった。
何故ならば、それはこれから起こるべき“未来”の出来事だったから。


プリコグニション―いわゆる予知能力。

愛佳に幼いときから備わっているそのチカラは、長らく愛佳本人を苦しめてきた。
苦しみのあまり死ぬことすら考えるほどに。
だから愛佳にとってこの能力は、憎むべきものでしかなかった。

だが、今は違う。

「明日を知ってるのはあなただけ。自分で変えるんだよ」

リーダー・高橋愛のその言葉が愛佳を救ってくれたから。
“視え”た未来から目を背けるのではなく、向き合うことで明日も・・・それに自分も変えてゆくことができるのだと知ることができたから。


そして・・・

「愛佳ちゃんのそのチカラ、能力。未来予知という個性」

忌むべき存在でしかなかった能力を“個性”と表現し、その能力に振り回されないように優しく指導してくれた新垣里沙のおかげで。


「こんな私でも誰かを救えますか?」

その問いに対し、愛はもちろんだと即答した。
だが、里沙のおかげで随分能力を制御できるようになった今も、正直自分には自信がない。
本当にこんな私に誰かを救うことなんてできるのだろうか。
ふと自問する瞬間が訪れることもあった。

昔に比べれば、随分前向きな懊悩ではあったけれど。


そんな折に見た“悪夢”・・・いや、訪れうる“未来”。

それは自らの死のビジョンだった。


「自分が死ぬとこなんて見るもんちゃうなあ・・・」

小さくつぶやきながら、愛佳はゆっくりと体を起こした。
頭の芯がまだ少し重い。


崩れ落ちるビルの瓦礫に埋まり、血を流して倒れている自分の姿が脳裏によみがえる。
視界がブラックアウトしていくときの恐怖の感情と共に。
死がこれほどに怖ろしいものだと知っていれば、きっとかつての自分も死を考えることなどなかったに違いない。

しかし、全身に冷や汗をかいてはいたが、愛佳はこの“予知夢”を必要以上に怖れてはいなかった。
これは不可避の未来ではないのだから―と。

自分の行動によって“未来”が変わる経験を、愛佳は何度かしていた。
今回だって、あのビル―廃墟となった町外れの幽霊ビルだったように思う―に行きさえしなければ、そして“未来”の中でとった行動をとらなければ自分が死ぬことはない。


そこまで考えて、愛佳はふと思った。
自分が変えた“未来”は一体どこへ行くのだろうと。
既に変えてしまったかつての“未来”はどこに消えたのだろうと。

自分には“未来”を取捨選択することができるのだ・・・と改めて気付き、愛佳は自らがまがい物の神のように思えて少し気分が悪くなった。


「ほんま最悪の朝やわ・・・」

深くため息をつくと、愛佳は汗で濡れた体をシャワーで洗い流すべくゆっくりと立ち上がった。


       *  *  *


身の入らぬ授業を終え、愛佳は帰途についた。

今日は喫茶リゾナントへも少し足は向けづらい。
愛は勝手に心を読んだりはしないだろうが、きっと自分の様子の違いに気がつくだろう。
おそらく里沙ならばもっと確実に。
2人や他の仲間に要らぬ心配をかけたくはなかった。


郊外にある自宅に向かう電車の中、愛佳は今朝感じた疑問についてまた考えていた。

自らが選ばなかった“未来”はどこに行くのか。
いや、そもそも“未来”はいくつもあるものなのだろうか。
本当に自分なんかが勝手に“未来”を選んでもいいのだろうか。

窓の外を流れる景色のように、次々と頭の中を流れていく疑問。
その答えは出るはずもないまま、やがて電車は愛佳の降りる駅のホームにすべり込んだ。
手にしたカバンを持ち直し、ホームに片足を下ろした瞬間“それ”は来た。

すっかり慣れたその感覚の中、愛佳はいつものように“未来”を視た。
そして、今朝の恐怖とはまた違った種類の恐怖に凍りつく。

「新垣さん・・・!?」

慌てて携帯電話を取り出すが、充電が切れていたことを思い出して唇を噛む。
話し相手がいなかった以前の愛佳にとって、一応持ってはいたが携帯電話などはずっと無用の品だった。
そのときの癖が抜けず、充電を忘れてしまうことは今でもしばしばだった。
だが、このときほどそれを後悔したことはない。

プルルルルル・・・

そのとき、発車を知らせるベルがホームに鳴り響き、愛佳は反射的にたった今降りたばかりの電車に飛び乗った。
2つ先の駅・・・あの幽霊ビルの最寄り駅へと向かうために。


       *  *  *


「なんで新垣さんがあんなところに・・・?」

駅の改札をくぐり、記憶の中にある幽霊ビルへと向かって走りながら愛佳はつぶやいた。

さっき“視え”たビジョン。
それは里沙が幽霊ビルに入っていく映像だった。
愛佳が瓦礫の下敷きとなって死ぬ“悪夢”の中のあの幽霊ビルに。

あんなところにどんな用事があるのかは分からない。
だが、そのままにしておけば里沙が死んでしまうかもしれない。
あの幽霊ビルが崩れ落ちるのは間違いない“未来”なのだから。

自分が勝手に“未来”を変えてもいいのかは分からない。
だけど、この“未来”だけは絶対に変えなければならない。
自分が「誰かを救う」などとはおこがましいけれど、今里沙を救えるのは自分だけなのだから。


やがて“見え”てきたビルは、愛佳の目には死神が手招きしているように映った。
当然だ。
自分があそこで死ぬ様子をはっきりと“視た”のだから。

「大丈夫や。最後の行動さえ間違えへんかったら・・・」

自分にそう言い聞かせながら、愛佳は死神の下へと飛び込んだ。
恐怖はもちろんあったが、不思議と迷いはなかった。


廃墟に特有の臭気と肌寒さが包みこんでくる。
薄暗さに一瞬目が慣れず、愛佳は立ち止まって瞬きをした。

徐々に慣れ始めた目に映る死神の棲み処。
だが、その視界に里沙の姿はない。
それほど広くない1階部分をざっと見て回るが、まったく気配はない。

(もしかしたらまだ来てはらへんのかも・・・)

一瞬そう思った愛佳は、それをすぐに打ち消した。

(ちゃう。私の“視た”ビジョンでは、新垣さんがこのビルに入ったとき、まだこんなに日は傾いてへんかった)

急速に落ちてゆく太陽を確かめながら愛佳は確信した。
新垣さんはもうこのビルの中にいる。

愛佳の視線が中央にあるコンクリート製の階段に移る。
次の瞬間、愛佳は迷わず階段を駆け上がっていた。


       *  *  *


「来た・・・」

階下の物音を耳にした里沙は小さくつぶやいた。
新たな指令を伝えるからと突然呼び出されたこの廃墟のビル。
組織の誰が伝令役を務めるのかは聞かされていなかったが、誰が来ても気が重いことに変わりはない。

「・・・・・・?」

組織の人間が来たと緊張した里沙だったが、すぐに様子がおかしいことに気付いた。
ビルに入ってきた気配は1階を探し回っている。
組織の人間であれば、自分が最上階の5階にいるのはすでに承知のはず。
ではあれは何者・・・?

先ほどとは違う意味の緊張に体をこわばらせたとき、謎の気配が階段を駆け上がってくる音が聞こえた。

「新垣さん!おられたら返事をしてください!」
「・・・この声・・・愛佳!?どうして?」

それと同時に自分を呼ぶ聞き覚えのある声が廃墟に響き渡り、里沙は驚くとともに少しうろたえた。
どうして愛佳がここに?まさか予知?わたしが組織と会うことを?
いやそれはありえない。組織に関することは予知できないように暗示をかけてあるはず。
だけどだったらどうして?

思いがけない事態に一瞬混乱したが、里沙はすぐに我に返った。
どちらにしろこのままでは愛佳に見つかるのは時間の問題だ。
そのときに黙って待ち構えているのはあまりに不自然だ。
こちらからも声をかけなくては。

そう判断した里沙は、小さく息を吸い込んだ。


       *  *  *


階上から自分を呼ぶ声が聞こえ、ちょうど2階に着いたところだった愛佳は足を止めた。

やはり新垣さんはこのビルの中にいた。
まだ姿は確認できなかったが、とりあえず間に合ったことに安堵する。
だが、本当に安堵できるのはこのビルの外に出たときだ。

“未来”の中の日の傾き具合と、「現在」のそれから判断して、おそらく残された時間はそれほど長くない。

「新垣さん!早くビルの外に!このビルはもうすぐ崩れます!」

愛佳は階上の里沙に向かって必死に叫んだ。


       *  *  *


「このビルが!?」

どういうこと?
里沙の頭は再び混乱する。

だが、体は瞬間的に動いていた。
必死で叫ぶ愛佳の声にはそうさせるだけの説得力と信頼感があった。


       *  *  *


「新垣さん!急いでください!」

階段を下りてくる里沙の足音がスローモーションのようにもどかしい。

やがて、ようやく里沙の姿を確認した愛佳は、一瞬目を合わせて頷き合うとすぐに自らも1階に向かって走り出した。
何しろ“未来”の中で血を流していたのは自分なのだから・・・


一足先に愛佳が1階の床に降り立ち、後ろを振り返った瞬間それは起こった。


爆発音―
コンクリートが砕けて降り注ぐ様子―
里沙の短い悲鳴―

ほとんどそれらを同時に認識しながら、愛佳は行動していた。
“未来”の中で自分がしたバッドエンドへの行動そのものを。


“未来”の中で、愛佳は崩れかかる階段へと向かって引き返し、そして瓦礫の下敷きとなった。
だから、それさえしなければ大丈夫だと愛佳は自分に言い聞かせていた。
だがその“未来”は、たった今「現在」になろうとしている。

(なんで自分が“未来”の中でこんな行動をとったんか、もうちょっと考えてみるべきやった。アホやなあ私)

今にも降り注がんとしていた瓦礫を、寸前で突き飛ばした里沙の代わりに自らの体に浴びながら、愛佳はそう思った。
全身が痛み、意識が遠のいていく。

だが、“未来”の中で感じた恐怖は不思議となかった。
あったのは、里沙の命を救えたことに対する安堵の思いだけだった。


       *  *  *


大音響とともに落ちてきた巨大な瓦礫の山と、自分をかばい血を流して倒れている愛佳を目の前にして、里沙は呆然としていた。

「愛佳・・・どうして・・・」

おそらく愛佳には“視え”ていたのだ。
こうなることが。
それでも自らの危険を顧みずに、助けに来てくれた。
こんなわたしを・・・

自分が愛佳に刷り込んだ偽りの“信頼”
それはこの子にここまでさせるほどのものだったのか。

自分の能力の・・・そして自分の存在そのものの忌まわしさに、里沙は吐き気にも似た不快感を覚えた。


いいの?わたしはこのままで本当に・・・


答えは出ないまま、とにかく瓦礫を浴びて倒れている愛佳の傍にしゃがみ、傷の具合や呼吸の様子を調べる。
そこかしこから痛々しく血は流れているが、大きなケガはないようで、特に脈も呼吸も乱れてはいない。

(よかった。ひとまず命に別状はなさそう。でも・・・それにしてももし・・・)

安堵のため息をついた里沙は、ほんの少し離れたところ―ついさっきまで愛佳が立っていたところから2,3歩行ったところで山を作る巨大な瓦礫を見て改めて慄然とする。
もしも愛佳があそこで階段に戻らずに出口へそのまま向かっていたならば・・・

わたしは今頃どんな心境でここに立っていただろう。

敵が1人減ったことを喜んでいただろうか。
それとも・・・


「まったく何考えてるのかしらこの子。おかげで計画が台無し」

だが、そこまで考えたとき、里沙の思索はその声によって遮られた。

聞き覚えのあるその声。
誰が来ても気が重い・・・そう思ってはいたけれど、その中でも最も会いたくない一人。


「あなたが・・・これを?」

声の方を振り返り、その長身を見上げるようにして里沙は訊ねた。
訊ねるまでもなかったが。


「そ。里沙ちゃんを利用させてもらって、そこの予知能力者さんに消えてもらおうと思ったんだけど」

あまり変わらない表情と妙な抑揚のしゃべり方は相変わらずだ。
元々里沙はそれらがどうしても好きになれなかった。
だが、今はそれよりも話の内容に言い知れない不快感を覚えた。

「・・・上からそんな命令が出たんですか?まだそこまでの警戒レベルには達していないと報告しておいたはずですが」

不快感をそのままに、里沙は挑むように長身の女を睨みつける。

「ふ~ん。言うようになったものね。・・・立場をわきまえた方がいいんじゃないの?里沙」

神経質に片方の眉をピクピクとさせながらそう言う女を見て、里沙は確信した。
これは組織としてではなく、個人的な行動なのだと。

「自分の他に予知能力者がいるのが気に入らないんですか?」

それも自分よりも優れた予知能力者がね・・・と、里沙は心の中で付け加えた。


「里沙・・・アンタまさか組織を裏切るつもり?」

ほとんど変わらない表情の中、片眉と口元だけが痙攣するように動くのは不気味だ。
やはりどうしたってこの人のことは好きになれそうにない。
そう思いながら里沙は言った。

「勘違いしないでください。わたしは組織に忠実に動いています。今、組織に逆らっているのはむしろあなたでしょう?このことも報告しますか?」

その言葉に、女の眉と口元の痙攣がピタリと止まる。

「あたしの予知は完璧。その子がそうやって死なずに済むのだってちゃんと予知してた」

突然矢継ぎ早に話し始めた女を、里沙は黙って見つめる。

「そう、あたしはその子が死なないのを知ってた。運よくアンタを助けるため階段に引き返したことによって。アンタなんか放っておいてそのまま出口に向かえばもっと大きな瓦礫の下敷きになってもらえるのに。だからあたしは今朝その子に夢を見させた。階段に引き返したら死ぬという嘘の予知夢を。テレパシーを使える部下に命令して。簡単に騙されてたわねその子。低レベルな予知能力者ね、あたしとは違って。自分の予知と他人の念波の区別もつかないんだから。挙句、そこまで手間をかけたのに結局引き返すんだからやってられないわ。思考レベルまで低すぎてついていけない。あたしならあんな馬鹿げた行動は絶対にしない。でもその馬鹿な行動のおかげで助かったんだから馬鹿な自分に感謝しないとね。・・・で、結局あたしの予知通り。あまりに完璧すぎるのよあたしの予知は。あたしは神よ。組織の他の誰よりも優れている。後から入ってきてえらそうにしているあんなやつらよりも」

最早、女の目は里沙を見ていない。
その瞬間、里沙は初めてこの女のことを少し気の毒に思った。
結局はこの人も孤独なのだろう。
自分と一緒で。


「神なんかとちゃう・・・」

そのとき、自分の腕の中で、小さくそれでいて力強い声がして里沙は目を見開いた。


「愛佳・・・大丈夫?」

思わずそう声をかけた後、里沙は愕然とした。
愛佳はいつから目を覚ましていたのだろう。
自分の正体を知ってしまったのだろうか。
もしそうなら・・・自分のとるべき道は・・・?

「大丈夫・・・みたいです。私生きてるんですか?絶対死んだと思ったのに・・・。それよりあの人は・・・あの人が新垣さんや高橋さんたちが戦ってる敵の?」

痛むのか、顔をしかめながら愛佳は里沙に訊ねる。
その言葉に芝居の色はなく、本当に今しがた目を覚ましたようであった。

安堵と罪悪感の入り混じった複雑な感情の中、里沙は黙って頷いた。

異世界と交信しているかのようだった女の視線が愛佳に移動する。

「何て言った?神じゃない?ふん。あんた程度のレベルじゃ分からないでしょうけどね。未来をも自由に選べるこの能力は神そのものじゃない。未来を創っているとすら言えるこの能力は神だからこそ許されたチカラなのよ」

確信に満ちた口調で話す女。
だが、愛佳はゆっくりと首を振った。

「ほんまの意味で未来なんて選べへん。きっと自分の意志で選んだと思った“未来”も、元々選ぶようにできてたってだけの話なんやと思う」

「は?何ワケの分かんないこと言ってんの?いくら低レベルのアンタだって未来を変えたことくらいあるでしょ?」

「うん。ある。“未来”は自分で変えられる。でも未来は一つ・・・ってことや」

「・・・話すだけ時間の無駄だったわ。レベルが低すぎてとてもじゃないけどついていけそうにない」

そう鼻で嗤うと、女は振り返りもせず立ち去った。


黙ってそれを見送った後、里沙は腕の中で小さく咳き込む愛佳の声に我に返った。

「愛佳、すぐにみんなに連絡して来てもらうからね」

そう言いながら、慌てて携帯電話を取り出す里沙に向かい、愛佳は微笑んだ。

「新垣さん・・・ありがとうございます。新垣さんのおかげで私は自分の能力が・・・自分のことが好きになれそう」

「愛佳・・・」

そう言って再び意識を失った愛佳の重さを腕に感じながら、里沙は言葉をなくして固まっていた。

かつて感じたことのないほどの罪悪感に押しつぶされそうになって。
自らの能力と存在に、再び言い知れない不快感と嫌悪感が湧きあがるのを抑えきれずに。


“未来”は自分で変えられる。
でも未来は一つ。

さっきの愛佳の言葉が耳によみがえる。


私の向かう未来には一体何があるのだろう
私が進むべき道は本当にこれでいいのだろうか・・・


呼び出し音の鳴る携帯電話を耳に当てながら、里沙の心の一部は葛藤の淵へと沈んでいった。




















最終更新:2012年11月23日 11:07