(20)226 『禍刻VII―Black and white brute―』



 ―― 雪になるカモしれないナ

重そうな鈍色の空をゆっくりと歩きながら見上げ、李純(リー・チュン)はふと祖国の空に思いを馳せた。

この国に初めて来たときに一番驚いたのは、空の抜けるような青さだった。
だが今はその清々しさは片鱗もなく、唯々胸苦しくなる冬天が広がっている。

空を見上げたために無防備となった頸部に冷たい風が触れる。
その、体の心まで沁み入ってきそうな凛冽たる空気に、純は思わず肩を窄めた。


「うん。降るらしいよ、今夜」

そのとき、この灰色の冬空にそぐわない明るい声が背後から聞こえ、純は怪訝そうに振り返る。
そこには柔らかな笑みを湛えた見知らぬ若い女の姿があった。

 ―― 何者ダ?能力者カ・・・・・・?

やや警戒の色を浮かべる純に対し、女は笑顔のままで言った。

「そう、ボクも能力者。遠隔通信能力(メンタル・テレパシー)―」《―言葉を交わさずやりとりできる能力・・・のね》

前半は耳から、後半は頭の中に直接声が聞こえ、純は少し目を丸くした。

「それから前半部分の問いに対しての答えだけど・・・」

対して、女の目は静かに細められる。

《李純、ボクは“キミを殺す者”だよ》

純の目がさらに大きく見開かれたとき、女の姿はすでにその眼前にあった。

直後、至近距離から放たれた顔面への突きを、純は咄嗟にそのベクトルを変えることで逸らした。
相手が体勢を崩した刹那の間に、すでに拳が届きあうほどに近づいていた間合いをさらに詰める。
即座に飛んできた右からの打撃を下方向にいなし、そのことにより相手が続けて放とうとしていた蹴りを封じる。
そしてそれと同時に、制圧した相手の腕の上を滑らせるようにして掌底突きを放った。

「ぐっ・・・!」

瞬間的に無理やり肩を入れることでその打撃から急所を守った女は、その衝撃で後ろに弾け飛んだ後、さらに2,3歩後退した。
純はその後を追うことはせず、静かに構えながら改めて呼吸を整える。

「太極拳・・・か。なかなかの使い手じゃん、李純。正直びっくりしちゃった」

さらに間合いを広げた後、女は感心したような声を出した。
場違いなほどの明るい声色は変わらない。

「ちょっと油断してたよ。だけどもうキミの攻撃が当たることは・・・ない」

次の瞬間、再び2人の間合いは一気に詰まった。
先刻と同じ軌道で飛んできた相手の右拳を回り込むように、純はその腕で柔らかく円を描く。
それは先ほどのように拳の方向を逸らし、同時に即座に反撃へと繋がるしなやかな攻防一体の動きであった。
だが・・・

「!!?」

いつの間にか目前に迫っていた思わぬ方向からの拳を辛くも逸らし、純は太極拳のセオリーに反して大きく後ろに飛び退いた。

 ―― 何が起こっタ?確かニ右拳が飛んできていたハズ。なのに何故・・・

理解のできない現象に戸惑っている純を嘲笑うかのように、「惜しい」と呟きながら女は左拳をブラブラとさせている。

「種明かし・・・しようか?」

女は楽しそうにそう言うと、純に向かって拳を突き出す真似をする。

 ―― また・・・?

純は一瞬違和感を覚え、直後にその原因に気付いた。
いつの間にか突き出された拳が左右入れ代わっている。

「相手の攻撃を先読みして防御する・・・それは武術の基本だし、太極拳は特にその傾向が強いよね」
「・・・・・・・・・」
「キミはボクの気の流れや予備動作からボクの攻撃を予測し防御した・・・そう思っているはず」

そこで女はいったん言葉を切り、ニヤリとした。

《でもね李純、実際にキミが“予測”したと思ったのはこんな風にボクが送った通信(テレパシー)。つまりキミは瞬間的に錯覚させられたんだよ》

「錯覚・・・?」
「そうだよ。ボクは《右拳で攻撃する》という通信を送るとともに、実際には左で攻撃した。効果は見ての通りだ」

言いながら、女は再びその場で“実演”してみせる。

「・・・・・・器用なやつダ」
「褒めてくれてありがとう。・・・ちなみにわざわざ種明かしした理由はね、種が分かってても無駄だから。対応できないから」
「・・・・・・・・・」
「あ、分かってたんだ。そう、達人になればなるほど幻惑させられざるをえないのがこの技だからね」
「その上お前ハこちらの心を読む・・・カ」

《その通り。よく分かってるじゃん》「・・・自分には勝ち目がないってことが」

楽しそうに笑いながら言うと、女は嘲るように付け加えた。

「獣化すれば?迷ってないでさ。他に手はないんだから」

「・・・そうするしかないようダ。できれバ殺したくハなかっタ。だが・・・仕方ないナ」

そう呟く純に、女は相変わらず馬鹿にしたような視線を注いでいる。
その視線を真っ直ぐに見つめ返し、純は獣となる覚悟を決めた。

次の瞬間、僅かに前傾の姿勢をとった純の体中の筋肉が膨張を始め、着ていた服がはじけ飛んだ。
同時に、白銀と漆黒の体毛が全身を覆い、鋭い爪や牙が生え揃ってゆく。

―大熊猫(ジャイアントパンダ)

暫時の後、殺意を剥き出しにしたその凶暴な獣のシルエットが、刻々と暗さを増してゆく冬天の下に浮かび上がった。


「へぇ~さすがの迫力。パンダって間近で見ると意外と凶暴そうなんだね。それともただキミが凶暴なだけ?あははっ」

だが、その巨体を目の当たりにしても、女に焦りや恐怖の色は見られない。
女のその余裕ある表情に、純は獣化した後も即座に攻撃には移らず、その場で相手の様子を窺う。

如何に攻撃の先読みを封じられようが自身の攻撃を先読みされようが、獣化した今の状態であればほとんど関係ないはず。
人間の徒手による打撃がこの獣化後の体に効くはずがないし、ましてやこの巨体から放たれる打撃を生身で受けきれるはずはない。
にも関わらず、目の前の女の余裕は変わらない。

 ―― まだ何か隠しテいるのカ・・・?

「さぁね。でもどっちにしろパンダになっただけじゃボクは殺せないよ?・・・来なよ?」

僅かに警戒の色を見せる純を挑発するかのように、女は再び拳をヒラヒラさせる。
それに応えるかのように黒白の猛獣はその牙を剥き、一声哮ると女へと襲い掛かった。

巨体に似合わぬ敏捷さで瞬時に間合いを詰めた獣の腕が冷たい空気を引き裂く。
だが、その鋭い爪が女に届くと思われた瞬間、黒白の猛獣はその腕を寸前で止めた。


《だから言ったじゃん。『パンダになっただけじゃボクは殺せない』って》

 ―― 何ダ・・・!?これハ一体・・・!?

純の目の前にあるのは、もはや“ヒト”ではなかった。
純と同じく・・・いや、遥かに禍々しく凶悪な獣。
獣と呼んでいいのかすら分からない。

《合成獣(キマイラ)・・・ってとこかな。つまり最新のナノテクノロジーってやつだよ、李純》

振り下ろされた大熊猫の腕を止めたもの・・・それは純の意思ではなく、その「現代の魔獣」の腕だった。

《この姿・・・キミは醜いと思う?ボクは思わないな。むしろ美しいとすら思うよ。“機能美”というやつだ》

 ―― 美しイ?これがカ・・・?

《そうだよ。例えばほら、今このキミの攻撃を軽々と受け止めたゴリラの腕・・・素敵だと思わないか?》

 ―― ・・・・・・お前はどうかしているナ。

《やっぱり分かんないか、かわいさだけが売りのパンダくんには。それに・・・今のこの現状も分かってないね》

 ―― ・・・何ダト?

《キミは絶体絶命だと言ってるんだよ、李純。ボクには本来の能力があることを忘れた?それにもはや肉体的にもキミに勝ち目はないんだよ?》

 ―― ・・・・・・・・・

《キミの「獣化」なんて能力は、現代科学の前ではあってもなくても同じってことさ。しかもパンダなんて間抜けな獣じゃどうしようもないよね》

そう“言う”と、「魔獣」は軋るように“笑っ”た。


 ―― お前ハ太極拳のなんたるかを知っているカ?

《・・・・・・・・・は?》

唐突に飛んだ話についていけず、女は一瞬何を言われたのか分からなかった。
純はそれに構わず、“言葉”を継ぐ。

 ―― 太極ハ万物の根源ナリ。ここカラ陰陽の二元生ずるナリ。・・・お前ハ「太極図」を見たことがあるカ?いわゆる「陰陽魚」というやつダ

《・・・いきなり何を言ってるんだ?》

 ―― 黒ハ陰、白ハ陽ダ。その気ガ盛んになったリ、それぞれを飲み込もうトする様子を表したのガ太極図ダ

《だから一体何を・・・》

 ―― 陰極まれバ陽に変ジ、陽極まれバ陰に変ズ。陰の中にモ常に陽在りて後に陽に転ジ、陽の中にモ常に陰在りて後に陰に転ズ。それハ永遠に繰り返されル

《・・・それがどうしたのさ》

 ―― 太極拳ハその前提に立っていル。「太極」を具現化したものガ太極拳ダ。「陰」と「陽」の混沌たル秩序ガそこに在ル。・・・だから私ハ修練しタ

《いい加減にしろよ。そんなことはどうでもいい》

 ―― では何故「パンダ」なのカ・・・分かるカ?

《・・・・・・・・・は?》

再び話題が唐突に変わり、女は再び思わず聞き返す。
それに対して返された純の“声”は、形容しがたい不気味な凄みを伴って女の頭の中に響いた。

 ―― お前ハ「獣化」の本当の意味を何も分かっていナイ

《何だって・・・?》

意識ごと飲み込まれそうな理解のし難い恐怖に囚われながら、女は辛うじて問い返した。

 ―― お前の“それ”ハ「獣化(セリオモルフォシス)」ではナイ。ただの「変態(メタモルフォシス)」に過ぎナイ

《な・・・・・・何が違うっていうんだ!ボクのこの躯の方が何もかもキミより上・・・》

 ―― やはりお前ハ何も分かっていナイ。「獣」の本当ノ恐ろしさヲ・・・・・・

   ザワリ・・・

直後、女は純の意識の中で何かが蠢くような気配を感じ、身動きすらできなくなるほどの戦慄に襲われた。

 ―― 何故「パンダ」なのカ・・・その答えハ、「黒」と「白」すなわち「陰」と「陽」の混沌たル秩序ガそこに在ルからダ

《ひ・・・・・・》

 ―― その均衡ガ保たれていれバこそ、私は完全な「獣」にならずに済ム。だが・・・・・・

      ザワ・・・ザワザワ・・・

 ―― 「陰」が「陽」を完全ニ飲み込むトキ・・・ケモノノシンジツノスガタガムキダサレル・・・・・・・・・・・・・・

《あ・・・あ・・・あぁぁ・・・うああぁぁぁぁぁっっ!!!》

闇・・・闇・・・闇・・・・・・
果つる底なき漆黒の常闇の世界・・・・・・

女は、純の中に「それ」を“見”た。
存在ごと何もかも押し潰されそうに暗く、昏く、冥く、どこまでも闇いその“世界”を・・・・・・



   *   *   *

純が意識を取り戻したとき、いつものように全ては終わっていた。

自分の中の“漆黒の猛獣”が行なった惨劇を目の当たりにして、純は深いため息を吐く。
紛れもなく自分がやったことだという自覚はありながら、同時に信じたくはない。

その巨体から繰り出される質量ある打撃は発勁のごとく内部から相手を破壊し、その鋭い牙と爪は外部をズタズタに引き裂いていた。
おそらく早い段階で絶命したであろう相手を執拗に蹂躙し尽したその様は、およそ人間の所業とは思えない。


「私ハ・・・・・・獣ダ。どうしたっテ私の中ノ「闇」は消えナイ・・・」

 ―― だから私は黒白の猛獣に化するのだ
 ―― 「陰」と「陽」―「闇」と「光」を内包させあう、その獣に・・・・・・



今や完全な漆黒に覆われた冬天からは、白いものがちらつき始めていた―――





















最終更新:2012年12月14日 01:05