(19)620 『蒼の共鳴特別編第7夜-その空深き紺碧の-』



“60分7,000円”などと書かれた看板を持って立つ客引きの姿、道行くサラリーマンに猫なで声を出す水商売の女性が目に付く街。
数多くの居酒屋が建ち並ぶ街の喧噪から少しばかり離れたところに、一軒の中華料理屋があった。

六階建てのさほど大きくはないビルの一階にある、中華料理屋“謝謝-シェイシェイ-”。
連日連夜、安価でありながら確かな味、気のいい主人の話術に惹かれて通い詰める客は後を絶たない。


「お待たせシましタ、水餃子にナりまスー」

たどたどしい口調とは裏腹に、訪れた客のテーブルへときびきびと料理を運ぶ一人の少女。
どこか愛嬌のある顔立ちと、その真面目な働きぶりは訪れる客の心を少し温かくしていた。

お昼時と夜の六時~九時頃は、主人と奥さんが二人がかりで料理を作っている。
そのため、少女は一人でフロアに立って料理出しから会計、客が帰った後のテーブルの片付けまでこなしていた。
目の回るような忙しさでも、少女は笑顔を絶やすことなく客の一人一人に心の籠もった接客をする。

夜の十時を過ぎ、客のピークも過ぎたのを確認した少女は奥の厨房にと引っ込んだ。
少女が引っ込むのを待っていたかのように、小柄な店主は少女へと賄いののったお盆を手渡す。


「ありがとう、おじさん」

「いやいや、今日もよくやってくれたよ。
今日はもう大丈夫だから、早く帰って体を休めなさい」


厨房に響くのは―――中国語だった。
客に料理を出している時とはうって変わって、滑らかに紡がれる言葉。
少女は微笑みながら、主人と奥さんに向かって再度ありがとうと言ってから厨房の奥にあるドアへと消えていく。

備え付けの、古いエレベーターに乗った少女は5という数字を押した。
程なく、少女は五階へと辿り着く。


エレベーターを降りた少女は、そのまま一番奥にあるドアまで歩いていって鍵を開けた。
お盆を一旦下駄箱の上に置き、鍵を閉めた少女は電気を点けてからお盆と共にリビングへと歩く。

この歳の少女が住むにしては、かなり立派な部屋だった。
少々古い印象はあるものの、風呂トイレ別の1LDKという間取り。
駅から少し離れているとはいえ、この条件で部屋を探したらとてもバイトだけでは住めない家賃がかかるだろう。

バイトである少女がこの部屋に住める理由は、店主の好意によるものだった。
ビルのオーナーでもある店主が、中国から出てきた少女を住み込みのバイトとして雇用してくれたおかげで、
少女は衣食住に困ることなく生活できている。

テーブルに盆を置き、少女はキッチンで手洗いを済ませる。
店の売りである羽根付き餃子にレタスチャーハン、スープとデザートというかなり豪華な食事を少女は楽しんだ。

テレビを見ながら一人で食べる食事。
だが、料理の美味しさと店主の気遣いのおかげで、不思議とわびしさを感じたことはなかった。

食事を終えた少女は、台所へと食器類を運んでそのまま洗い出す。
洗い終えた食器類を拭き、お盆の上にまとめた少女はテレビを消して寝室へと向かった。

着替えを持ち、風呂場へと姿を消した少女は四十分後に紺色のジャージ姿でリビングへと戻る。


(今日はもう面白いテレビもなさそうだし、日記を書いて寝よう)


適当にチャンネルをザッピングした後、少女はテレビを消してリビングの電気も消した。
そのまま、少女は寝室へと行き、パソコンの置かれたデスクの前へと座る。

バイト代を貯めて買ったのだろうか。
黒く大きなタワー型のデスクトップPCは、見た目だけならかなり高性能に見える。
少女はパソコンを起動し、数十秒後、今度はブラウザを立ち上げてブックマークから自分のブログへとアクセスした。


全ユーザーに非公開のブログ。
少女は毎日、その日あったことをブログに簡潔に記すのが日課だった。
メモ帳にテキストとしてまとめてもよかったのだが、ブログ形式だと読み返したい日付の日記を探しやすい。

たどたどしい手つきで、時折手を止めながら少女は日記を書いていく。
母国語である中国語ではなく、日本語で書かれた日記の内容は非常に明瞭であった。


『きょうはもくようびだった。
いつもよりもきょうはおきゃくさんがおおかった。
つかれたけど、おじさんのつくってくれたりょうりおいしかった。』


漢字が一切使われていない日記だったが、これだけの内容を打つのも少女にとっては一苦労だった。
店主も奥さんも少女と同じ中国人で、周りに日本語の読み書きを教えてくれる人間はいない。
むしろ、その環境を考えれば上出来とさえ言えた。

もう一言何か付け加えようと、画面とにらめっこしながら少女は過去を思い返していた。


 * * *


少女が生まれたのは、中国にあるとある都市だった。
事業家であった両親の元、少女は何一つ不自由なく成長していく。

いずれは、大学まで進学して両親の役に立てるような大人になろう。
幼いながらも、少女は既に遠い未来まで見据えて勉学に励んでいた。

親思いの優しい少女。
だが、少女は十歳になる頃に両親の手によって、施設へと入れられたのだった。


いい子にしていれば、必ず迎えに来るからねと言った両親。
その言葉を信じて、少女は一人健気に施設での日々を過ごす。

少女は知る由もなかった。
経済的に困窮していたわけでもない両親が、何故施設に少女を預けたのか。

それは、少女の身には…常人では到底理解しがたい“超能力”というものが備わっていると知ったからだった。

少女を成人まで立派に育て上げるという“契約”の元、多額の金銭を得た両親。
そんな上手い話には裏があるに違いないと、少女が両親に引き取られてから数年、
両親は密かに探偵を雇い少女の身元に付いて調べていた。

その結果、両親が知ったのは―――少女が、人の手によって造られた“超能力”を有したクローンであるということだった。

元々、金に困っていたわけではなく、純粋に子供が欲しかっただけだった両親にとって、少女はただの“化け物”でしかない。
今はまだ能力に目覚めることなく、両親の言うことにも従順だが…成長したら、どうなるか分からないのだから。

そんな“爆弾”を抱えて生活するくらいなら、契約破棄になろうとも少女を捨てた方が賢い、そう判断した両親は少女を施設へと入れたのだった。


 * * *


少女が施設に入れられてから実に九年もの月日が経過していた。
最早、少女も今更両親が迎えに来るとは思ってもいなかった。

能力にも目覚め、もうじき二十歳の誕生日を迎える少女。
少女のいる施設は、成人になったら出所しなければならない決まりだった。

今は何故、両親が自分を施設へと預けたか分かるくらい成長した。
だが、少女はそれでも…出所した暁には、両親の元へと赴き問い質すつもりだった。


超能力が使えるとはいえ、実の子を何故こんな施設へと預けたのか。
答えてくれるかも分からないし、そもそも両親に会わせて貰えるのかも分からない。
それでも、少女はそうしなければ前に進めない、そう感じていた。

蒸し暑く、寝苦しい夜だった。
少女は夜中に起き出して、少しでも涼を取ろうと施設内をうろうろしていた。

歩き回るうちに、涼しい風が漏れているドアを発見した少女。
その風に身をさらそう、そう思った少女はドアへ向かってゆっくりと、足音を立てないように近づいていく。

ひんやりとした風に眼を細めた少女は、ドアの隙間を覗き込んで―――声を失った。

そこには、筒型のガラスの中に閉じこめられたおびただしい程の―――人の山。
もう死んでいるのだろう、何かの薬液につけ込まれたその人の山に少女は吐き気を堪えるのが精一杯だった。

この部屋は一体何だ。

覗き込んではいけないと本能が告げていても、少女は部屋の中を注視せずにはいられない。
おびただしい筒型のガラスで出来た“装置”の中に、先日成人して出ていったはずの友人の姿を見つけて、少女は思わず口元を押さえた。


「…どうだ、実験の方は進んでいるか?」

「はい、ミティ様。
実験の方は順調ですよ、次は李純という念動力使いの少女が対象です」

「そうか、しっかり頼んだぞ。
この施設とお前には“素晴らしき主”も一目置いている。
いい結果を出せば、それだけお前の組織内での立ち位置も変わるぞ」

「承知しておりますとも。
では、また後日」


遠くから聞こえてきた会話の内容に、少女はその場に座り込まずにはいられなかった。
一体何をされるのか分からないが、次にあの装置の中に入れられるのは自分ということは分かる。

ドアの隙間から見えた、冷酷な表情を浮かべた黒いドレスの女性。
そして、普段は少女“李純-リー・チュン”に一般常識などを教えている初老の男。

やがて、女性はその場から“消え”、後に残った男はニヤニヤと笑いながら部屋の奥の方へと消えていった。

逃げなければ、ここから逃げなければ。
おそらく、否、確実に…二十歳の誕生日を迎えたその日のうちに、自分はあの男に殺されてしまうに違いない。

例え、能力―――“念動力-サイコキネシス-”を使って男を殺したところで、それで事態が解決するとは思えなかった。
むしろ、余計に自分の立場を危うくするだけだろう。

ならば、出来るだけ遠くへ―――この国から出て、異国の土地へ。
誰かを手にかけたりしなければ、おそらく自分への捜査はぐっと小規模なものになるはずだ。

死にたくなかった。
楽しいことも悲しいことも何も知らず、施設という“箱庭”の中で育ってきた少女。


この世界から飛び出して、もっとこれから…輝かしい人生を歩もう。
そう思った矢先の出来事は、二十歳前の少女には余りにも残酷だった。

震える両足に力を込めて、少女は立ち上がる。
お金も何も持たない少女は、そのままそっと施設から抜け出した。


 * * *


何処をどう走ったのかさえ分からない。
人の出入りの少ない小さな通用門から抜け出し、ひたすら走った。
なるべく遠くへと、少女はひたすら夜中のうちに走り続けた。

昼間は物陰に隠れ、ひたすらじっと夜を待った。
夜になったら、犬も寄りつかないような汚く汚臭のする裏通りを駆け抜けながら街から街へと移動する。

施設から抜け出してから三日目、少女はボロボロだった。
服は埃と汗に汚れ、足には擦り傷が幾つも生まれ…とてもじゃないが、“普通”には見えない状態。

それでも、少女は空腹に足をよろめかせながらも夜の街の裏通りを歩いていた。
よたよたと、時に地面の小石に足を躓かせながらも少女は必死に歩き続ける。


だが、少女の体は既に限界を超えていた。
三日間飲まず食わず、夜は一睡もすることなく走り続けた少女。

足がふらつき、意識が朦朧とする。
それでも、少女はひたすら足を前へと踏み出しながら―――ついに、その場に倒れた。


 * * *


「…こ、こは、天国、か…?」

「いいえ、ここはちゃんと現実の世界よ…あなた、大丈夫?」


自分の不確かな声に返ってきた柔らかい声に、少女は目を開けて声がした方を向いた。
目の前が暗くなって、もう駄目だと意識を手放したことしか覚えていない。

だが、柔らかく微笑む女性の姿に、どうやら自分は命拾いをしたのだということは分かった。
鼻をひどく刺激する、美味しそうな料理の匂いに腹の音が大きく音を立てる。


「起きたばっかりだけど、その調子ならご飯食べれそうね。
持ってくるから、ちょっと待ってなさい」


そう言って、女性は一旦部屋から出ていく。
数分後、少女の前に並んだのは豪華とは言えないが、出来たてほやほやの料理に少女は我を忘れてむしゃぶりついた。


その見事なまでの食べっぷりに、女性は何か作ってくるから待ってなさいと苦笑いしながら再び奥へと引っ込む。
十数分後、山盛りの料理を抱えて出てきた女性にありがとうと声をかけて、少女は再び我を忘れてむしゃぶりつく。
空腹だったと言うことを差し引いても、施設で出されていた食事よりも断然美味しい料理だった。

空腹を満たされ満足げな表情を浮かべる少女に、女性は苦笑いしながら話しかける。


「あなた、あんな裏路地に倒れてたけど…一体何があったの?
たまたま私が通りかかったからよかったけど、あのままだったらあなた死んでたわよ」


その優しい声に、少女は信じて貰えないかも知れないけど、と前置きして今までのことを簡潔に伝える。
施設に入れられたこと、もうすぐ施設を出所出来ると言うときにたまたま知ってしまった、施設の“裏の顔”。
死にたくなかったから、命がけでそこから抜け出してきたのだと告げた少女は、震える己の肩をきつく掴んだ。

その余りにも真剣な姿に女性は少女が言っていることは妄想などの類ではなく、真実なのだと直感する。
少女の言っていることが真実である以上、ここにこれ以上匿っていては少女も…そして自分の身も危険だ。

だからと言って、この少女をこのまま放り出すわけにもいかない。
どうしたらいいのかと考えを巡らせる女性に、少女はこの国から出ることが出来ればきっと追っ手を振り切れるはずだと告げた。
その言葉に、女性はしばし黙り込んだ後口を開く。


「…どうなるか分からないけど。
私の親戚に、日本で働いている小父さんがいるの。
その人がいいって言えば、あなたをそこに送り出すわ」

「…何故、そこまで見ず知らずの人間に親切にする?
そもそも、私が言っていることが本当であるかも分からないのに」

「何故って…そんなこと言われても、ねぇ。
誰かを助けるのに理由がいるなら、私はあなただけじゃなくて、他の誰かも救えないわ。
助けたい、そう思うからそうするだけよ」


女性の言葉に、少女の目から零れだした涙。
女性は少女を抱き寄せると、大丈夫、きっと上手くいくわと告げた。

一晩明けて、少女は女性の手引きによって船に乗って日本へと渡る。
もう二度と踏むことがないかもしれない大地を見つめながら、少女は未来への期待と不安を募らせたのだった。

女性の親戚である中華料理屋を営む夫婦は、少女にとても優しくしてくれた。
昔、事故で子供を亡くしていた夫婦にとって、少女はただの住み込みのバイトではない。
自分達の実の娘であるかのように夫婦は少女に優しく接し、少女もまた、その優しさに応える。

あの辛い逃亡劇が嘘だったかのように、異国の地で少女は穏やかに暮らしていた。


日記を書き終えた少女は、保存するというボタンを押した後、PCの電源をオフにする。
物思いに耽っていたせいか、気がつけばもう日付が変わっていた。


明日も、昼前には店に行って仕込みの手伝いから始めなければいけない。
眠くはないが、そろそろ寝るべきだろうと、少女はベッドに潜り込む。

柔らかな布団と、温かさに意識が徐々に微睡んでいった。


 * * *


翌日、少女は朝の八時に起床し朝食を済ませると、すぐさま食器類ののった盆を持って階下の中華料理屋へと降りる。
既に店主と奥さんはランチタイムに向けて材料の仕込みを始めていた。

おはようございますと声をかけ、すぐさま少女はその中に加わる。
安価かつ美味いということもあって、ランチタイムも長蛇の列が出来る“謝謝”。
今のうちに仕込めるだけ仕込んでおかないと、昼になっててんてこ舞いするのが目に見えている。

黙々と作業する夫婦に倣うように、少女もまた仕込みを手伝いつつ、テーブルを拭いて周り、備品を補充して回った。

数時間後、怒濤のようなランチタイムを終えた少女は、奥の厨房で賄いを食べる。
今日も、足繁く通う常連客、常連客に連れられてやってきた新規の客のおかげで大繁盛だった。

賄いを食べ終えた少女は、夜に向けて休憩を取りに自室へと戻る。
夕方になったらまた、夕食タイムへ向けて仕込みをしなければいけない。
体を休めて、その時間を無事に乗り切れるようにしなければと、少女は携帯のアラームをかけてベッドに横になる。

二時間後、アラームの音と共に起床した少女は、寝惚け眼をこすりながら再び階下へと降りた。
厨房では相変わらず、店主も奥さんも仕込み作業に精を出している。


「ジュンジュン、悪いけど“芝麻醤-ジーマージャン-”が切れたから買ってきておくれ。
なくても代用できなくはないけど、やっぱりお客様には美味しいものを食べて欲しいからねぇ」

「分かりました、おばさん。
あの店のやつですよね」

「そうそう、あそこの店のは本場中国の味だからね。
頼んだよ、ジュンジュン」


奥さんの声に、分かりましたと再び少女―――“ジュンジュン”は奥さんからお金を受け取って店を出た。
夜の繁忙時までに戻って手伝わねば、と足を進めるジュンジュン。

店を出て、五分程経っただろうか。
目的の中華調味料を扱う店へと向かうジュンジュンの目の前に、必死の形相で走ってくる少女が現れた。

その真剣な表情に、一体彼女に何があったのかと思わず心配するジュンジュン。
普段なら、誰とすれ違おうとも気にも留めないジュンジュンは少女とすれ違った瞬間―――その場に立ち止まった。

ジュンジュンの心を揺さぶる、大きな声。


『早くいかんと、愛ちゃんとガキさんだけじゃきついっちゃ!さゆと絵里は来るのに時間かかるだろうし』


何故、彼女の“声”が聞こえるのだろう。
切羽詰まったその声は、ジュンジュンの心を激しく揺さぶる。

ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても―――彼女は自分と同じ“能力者”。

買い出しを頼まれていたことを忘れ、ジュンジュンは少女の走っていった方向へと走り出す。
あまり足は速くないのだろう、走って数十秒程でジュンジュンは少女を視界へと捉えた。


そのまま数分、付かず離れずと言った距離を維持しながらジュンジュンは少女の後を追い続けた。
やがて、少女とジュンジュンの目の前に現れたのは―――“黒い障壁”。

躊躇うことなく、目の前を走っていた少女はその障壁へと両手を突き出し…無理矢理こじ開けて体をねじ込んだ。
少女が消えると同時に、再びその障壁は元通りの形へと戻る。

ジュンジュンはその場に立ち止まり、どうしようか考える。
少なくとも、この障壁の内部に入ったらそう簡単に出られそうもない。
この障壁を作り上げた能力者を倒せば出られるだろうが、そもそも、勝てるような相手なのだろうか。

少女の心の声が蘇る。

あの、切羽詰まった感じ…ひょっとしたら彼女とその仲間はかなり格上の能力者と戦っているのではないか。
自分が加勢したところで勝てるような相手ではない可能性も充分ある。

脳裏を過ぎる、女性の声。
助けるのに理由がいるなら、誰も助けることは出来ない。
ただ助けたい、それだけのことなのだ、と言って微笑んだ女性。

ジュンジュンは己の胸に問う。
確かに、あの少女とその仲間を助ける理由は―――ない。
だが、助けたい、漠然とだがそう思う。

ジュンジュンは息を大きく吸い込むと、その障壁に両手をかけた。
侵入者を阻むように元の形状を維持しようとする障壁に抗うように、ジュンジュンは両腕に力を込めて障壁を引き裂いて体をねじ込んだ。

障壁を引き裂き、異空間内へと入り込んだジュンジュンの目の前では激しい攻防が繰り広げられている。
傷だらけになりながらも、果敢に黒い服に身を包んだ女性へと飛びかかる少女達。

常人では考えられないような速度での拳と能力の応酬に、ジュンジュンは魅入られずにはいられなかった。
おそらく、この目では完全に視認しきれない程の攻撃の応酬が繰り広げられているのだろうが…それら全てを完全に見切ることは難しかった。


戦況を見つめるジュンジュンの視線は、傷だらけの少女達から黒衣の女性へと向く。
刹那、ジュンジュンの脳裏に蘇る―――あの日の夜。

冷酷な表情を浮かべて微笑んでいた、黒衣の女性。
そして、今、少女達へと氷塊を生み出し攻撃を加える女性は、身に纏う服こそ違えど確かに同じ顔をしていた。

体が震え出さずにはいられない。

日本へ渡り、ようやく平和な暮らしを手に入れられたと思っていたのに。
彼女がここにいるということは、ひょっとしたら自分の居場所はとっくに割れているのかもしれなかった。

数人の能力者相手に、たった一人で互角以上に渡り合う女性。
この能力者を相手にして、果たして勝てるのだろうか。
先程までの戦意は喪失し、ジュンジュンの心を支配するのは恐怖だった。

刹那、油断していたジュンジュン目がけて、鋭く尖った氷塊が飛んでくる。

反射的に両腕を顔の前で交差した瞬間、ジュンジュンの視界に飛び込んできたのは―――先程の、小柄な少女だった。


「ああああああああ!!!」


ジュンジュンを庇ってその攻撃を受けた少女は、その場に膝を付く。
背中から流れ出した血が、その氷塊の鋭さを視覚的に伝えてきていた。

ジュンジュンは素早く少女の元に駆け寄ると、そっと少女を抱き締める。
突然の事態に沈痛な表情を浮かべるジュンジュンに向かって、黒衣の女性は笑いながら口を開いた。


「馬鹿じゃないの、仲間でもない人間庇ってダメージ食らうなんて。
もっとも、馬鹿じゃなきゃ―――うちらダークネスに盾突くわけがないか」


あの夜と何ら変わらない、冷たい声に。
そして、自分を庇って傷ついた少女の姿に―――ジュンジュンの中を駆け巡る、激しい感情。


「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」


激しい感情と共にジュンジュンが目覚めた第二の能力は“獣化-メタモルフォシス・トゥ・ビースト-”であった。
その名の通り、動物へと変身することが出来る超能力であり…変身することで、人間では考えられないような身体能力を一時的に得ることが出来る超能力。
だが、身体能力が飛躍的に向上する反面、自己の意識を保つことが出来ずに凶暴化するというデメリットもあった。

白と黒の体毛に覆われ、最早人間とは言えない姿になったジュンジュンは、咆吼と共に女性に向かって駆け出す。
突然の事態に焦りながらも、女性は獣化したジュンジュン目がけて幾つも氷塊を生み出しては放ち続けた。

普通の人間の体だったら、その攻撃に傷だらけになっているはずだった。
だが、ジュンジュンはその攻撃をもろともせずに女性へと一気に詰めよって“前足”を一閃する。


「ちぃ!
こんな能力者がいるなんて…!」


焦ったようなその声に耳を傾けることなく、ジュンジュンはひたすら前足を振るって女性に攻撃を加える。
一撃一撃の重さは、例えるならば巨大なハンマーを思い切り振り下ろされているかのようだった。
留まることを知らない攻撃に、徐々に女性の眉間に深い皺が生まれる。



「…避けて!」


その声が聞こえた刹那、ジュンジュンは反射的にその場にしゃがみ込む。
しゃがみ込んで数秒後、女性の体を突き抜けてたのは―――鮮やかな黄色の“閃光”。

その場に霧散していく女性を見つめながら、ジュンジュンは自分の体が通常の状態へと戻っていくのを感じる。
数秒程で人間に戻ったジュンジュンは、自分の身を覆っていた服が破けていたことに気付き、思わずその場にしゃがみ込んだ。

羞恥の余り、恥部を隠して目を伏せるしかないジュンジュンの肩に、柔らかい感触が生まれる。


「キミより背が低いけど、ぎりぎりこれで全部は隠れると思うから。
後、これ…これで、ズボンとか買って」


低く、それでいて優しい声のトーンにジュンジュンは目を開いた。
目の前で微笑むのは、自分とそう歳は変わらないであろう少女の姿。

手渡された数枚の紙幣を受け取るか迷った挙げ句、ジュンジュンはそれを受け取ることを選択する。
買い出し以上のお金を持っていない上、全裸となってしまったジュンジュンにとって、
その数枚の紙幣があれば何とかズボンやカットソーが買えなくもない。

肩にかけられたコートに袖を通しボタンを閉じながら、ジュンジュンは自分を庇って傷ついた少女の元へと歩み寄る。
傷が深いのであろう、意識を失って横たわる少女を抱き締めながらジュンジュンは大粒の涙を零した。


「…よかったら、話してくれないかな。
あいつを見た時から、キミの心、すごい乱れてるのが伝わってきたんだよね。
ひょっとしたら、キミにとって有益なことを教えられるかもしれない」


そう言って、真摯な表情を浮かべてジュンジュンを見つめてくる少女に、ジュンジュンは自分の過去を全て話した。
たどたどしい日本語で紡がれ、時に数秒、数十秒程黙り込むこともあるジュンジュンの言葉に、少女も…そして、敵の女性を
閃光で貫いた少女も小さく頷きながら耳を傾ける。

何とか、全てを伝え終えたジュンジュンに向かって、コートを渡した女性は口を開いた。


「キミがいた施設は…ダークネス関係の施設である可能性が高いね。
今日会った敵にキミが見覚えがある時点でかなりその可能性は高い、あの女性は―――ダークネスの一員だから。
で、これはあたしの考えついた可能性なんだけどさ…多分、キミの住んでいる場所からそんな離れていない場所に敵が現れたってことは、
そのうち、キミやキミに近しい人間に危害が加わる可能性がある」

「そレは…」

「うん、言い切りたくないけど…キミが働いている中華料理屋のご主人と奥さん、その二人に危害が加わらないとは言えない。
キミは、あたし達の心の声…“共鳴”が聞こえるみたいだから、キミが望む望まないに関わらず…あいつら“ダークネス”の人間は、
キミを亡き者にしようと動くと思う―――そして、キミに関わった人間も」


沈痛な表情を浮かべる少女に、ジュンジュンは何も言えなかった。
中国を抜け出し、平和な生活を送っていた矢先にこんな事態に巻き込まれ、挙げ句、
自分や、自分の大切な人間に危害が加わると言われて何か言葉を紡げるような状態ではない。

目の前が暗くなるような感覚を覚えたジュンジュンに向かって、別の少女が口を開いた。


「なぁ、そのまま一人じゃ…今日よりも強い敵が現れた時、どうしようもないよ。
自分の命も、大切な人の命も危うい…やから、あーしらと一緒にダークネスと戦おう。
一人一人の力は大したことないかもしれんけど、皆で力を合わせたらきっと何とかなるよ」


その言葉に、考えさせて欲しいと言うのがやっとだった。
黙り込むジュンジュンから傷ついた少女を受け取った二人は、ジュンジュンに思い思いの言葉を紡ぐ。

そのコートは返さなくても大丈夫だから。
無理にとは言わんけど、よかったらあーし達と一緒に戦おう。

二人の言葉を背に、ジュンジュンは重い足取りでその場を後にした。


 * * *


ズボンとカットソーを買い、頼まれた調味料を買ってとりあえず店に戻ったジュンジュン。
ギリギリ繁忙時前に帰って来れたとホッとしたジュンジュンに、奥さんも店主も口々に何処に行ってたのかと、心配したよと口を開く。

その言葉に、後で話すとだけ答えてジュンジュンは一旦自室へと戻り、着替えて店へと戻る。
徐々に店内を埋め尽くす客、そしてテーブルが空くのを今か今かと待つ客の姿を見ながらジュンジュンはいつものようにフロアを仕切った。

ジュンジュンが繁忙時に間に合ったため、今日も何とか普通に営業することの出来た中華料理屋“謝謝”。
この日最後の客が会計を済まして出ていったのを見計らい、ジュンジュンは店主と奥さんに事情を説明する。

詳しい事情を知らされないままジュンジュンを引き取った夫婦は、ジュンジュンのいうことを半信半疑で聞いていたが。
超能力が使える証拠にと、ジュンジュンが使わなくなった古い中華鍋を手を一切触れることなく真っ二つに折り曲げたことから、
ようやく、ジュンジュンの話が現実の話であると認識した。


「ジュンジュン…お願いだから危ないことはよしておくれ。
あんたにもしものことがあったら、あたしは一体どうしたらいいんだい?」


ジュンジュンにしがみついて泣き出した奥さんの姿に、ジュンジュンの胸は熱くなる。
親戚の紹介とはいえ、いきなりやってきた自分にとてもよくしてくれた恩人、否、最早家族とさえ言える人。
この人達に危害が加わるのは、どうしたって許せそうもなかった。

決意を胸に口を開こうとしたジュンジュンの言葉を遮るように、店主が口を開く。


「お前の言いたいことはもう分かっているよ、ジュンジュン。
俺が言えることはただ一つ…無茶だけはするんじゃないぞ。
お前の代わりに誰かを雇うことは出来ても、お前の存在に代わるものはないんだからな」

「ありがとう、おじさん、おばさん。
大丈夫、私は一人じゃない…仲間がいる。
彼女達と一緒なら、きっと大丈夫だから」


そう宣言したジュンジュンの瞳は強く光り輝いていた。


 * * *


あの日から数日後、何かあってもすぐに仲間達の元に飛び出していけるようにと、店主は一人バイトを雇ってくれた。
その心遣いに感謝しながら、ジュンジュンは新しく入ったバイトに仕事を教える。
繁忙時の目が回るような忙しさが軽減された上に、いい話し相手が出来たことが素直に嬉しい。
今まで以上に張り切ってフロアに立つジュンジュンの姿を、夫婦は優しい眼差しで見つめていた。


数日間は新人に仕事を教えながら、前と変わらない忙しい時間を過ごしたジュンジュン。

そして、ようやく“謝謝”の定休日である火曜日になった。
“約束”の時間までの間、忙しかった分の骨休めとして家でゆっくりと過ごす。
部屋を掃除し、洗濯物を片付け、いつもよりも長めの午睡を取ったジュンジュンが動き出したのは、夕暮れ間近だった。

黄昏の街を、ジュンジュンは駅に向かって歩く。
ゆっくりと歩くジュンジュンの右手が持っているのは―――クリーニング屋の袋だった。

目的地は電車を使わずとも歩いていけなくもない距離にあったが、この辺りの地理を完全に把握しているわけではない。
駅から電車に乗って、そこから歩いた方が迷わずに目的地につけるだろう。

コートのポケットに入っていた、小さな紙片。
そこに書かれていた番号へと電話したジュンジュンは、“彼女達”が集う場所の住所とそこに行くための道のりを知ることができたのだった。

中国にいる女性、そして自分を受け入れてくれた夫婦を守りたい。
彼女達を守るために“仲間達”と共に戦うことも、今まで受けてきた恩に報いることの一つなのだと思いながらジュンジュンは電車に乗り込む。

電車に揺られるジュンジュンの目に映った空は、もう夜が近いことを思わせる濃紺の空だった。




















最終更新:2012年12月02日 13:46