(17)193 『蒼の共鳴特別編第4夜-桜花繚乱-』



活気溢れる声が響く、学生達の集う街。
数多の大学が存在し、勉学に青春にと励む若者達が毎日のように公共機関に揺られてやってくる。

少女もその幾多の大学生の一人である。
高卒よりは大卒の方が将来有利だろう、その程度の感覚で何となく進学しただけであったが。

幼い頃からああなりたい、というビジョンがあったわけではない。
このまま何となく卒業して、何となく就職してそのうち結婚するのだろう。

大きな幸せではないかもしれない。
だが、大きな幸せを得る可能性がある代わりに深い悲しみも訪れる可能性もある人生よりは、
今のぬるま湯のような人生でもいい、常々少女はそう思っていた。

―――もう、あんな想いはしたくない。

少女の脳裏を過ぎる悲しみの記憶、それが心を締め付けるよりも早く、少女は思考を切り替えることになる。

家に帰宅しようとする少女の目の前に立つのは、首から幾重にもネックレスを着けたひょろひょろとした男。
脱色して大分経つと思われる金髪はくすみ、根本は黒々としている。
大して筋肉が付いていない、薄い胸板を見せつけるようなシャツの着こなし。
反射的に、この男気持ち悪い、少女はそう思う。

早足で、男の横をすり抜けるように歩道を歩く少女。
何事もなく無事に通り過ぎることは許されず、腕を掴まれた。
ぞわぞわと鳥肌が立つ感覚を覚えながら、少女は男の方を振り返る。


「ねぇ、俺と一緒にどっか遊びにいこうよ。
飯おごるよ」


言葉自体は柔らかいのに、有無を言わせないだけの圧力を感じさせる声に体が震える。
小・中・高と女子校に通っていた少女は男性に対する“免疫”が殆どなく、ただただどうしていいのか戸惑うばかりだった。
今までの人生で関わってきた男性はというと、幼い頃に別れ別れになった父親と学校の教師程度である。
彼らはこんな風に少女に言い寄ってきたことはただの一度もない。

怖い。

遊びに行こう、そう言っているが―――それだけでは済まないのではないか。
優しげに微笑んでこそいるものの、瞳の奥に輝く光はどこか怪しさを孕んでいる。


(助けて、誰か!)


男は何も言おうとしない少女を半ば無理矢理引っ張るように歩き出す。
少し頭の回転が遅そうだが見た目はかなりの上物、このまま逃すには惜しかった。
抵抗する様子もない、ならこのまま押し切ってしまえばどうとでも出来るだろう。

自然と口元に浮かんでくる笑み。
男の頭の中は既に少女をどう“料理”するかしかなかった。


「…離しなさい」

「は?」


声が聞こえた方を振り返り、男は絶句した。


先程まで震えていたとは思えない妖艶な微笑みを浮かべて、少女が男を見上げていた。
その微笑みの妖しさはとても先程の少女と同一人物には思えない程である。
少女の“急変”に半ば呆気に取られた男の耳を揺らすのは、凛とした“女性”の声だった。


「聞こえなかったかしら?
離しなさい、そう言ったんだけど」

「さっきとはえらい違いじゃねぇか。
そっちが本性ってか……!!!」


それ以上男は言葉を紡ぐことを許されなかった。
一瞬で男の腕を振り解き、少女は男の胸ぐらを両腕で掴む。
少女を振り払おうと男が動くよりも早く、少女は男の急所を躊躇うことなく蹴り上げた。

痛みに男がその場にしゃがみ込んだのを見つめる少女は、追い打ちをかけるように地面に手を突く男の手を容赦なく踏みつけた。
思わず情けない声を上げる男に、少女は“宣告”する。


「今すぐ立ち去りなさい。
今度目の前に現れたら―――このくらいじゃ済ませないわ」


低く、殺気すら感じさせる声に、男は慌てて立ち上がってよたよたと走り去っていく。
その情けない後ろ姿を見届けた少女は、軽く息を吐いた。


「―――あれ?
さゆみ、どうしたんだろう…」


気がつけば、男は既にいない。
さっき、確かに男に腕を掴まれた、そこまでははっきりと覚えている。

だが、その後の一連の出来事を少女―――道重さゆみは一切覚えていなかった。
いつまで経っても慣れることのない、時折さゆみに訪れる一時的な“記憶喪失”。

何をしていたか思い出せない気持ち悪さにイライラしながら、さゆみは足早にその場を後にした。


 * * *


さゆみが生まれたのは、とある県にある病院を経営する家であった。
祖父は地元でも有名な病院の院長であり、一族の殆どが医療機関に従事している。
さゆみも、いずれはそういった職業に就くはずだった。
その運命の歯車が狂いだしたのは、一体どこからであっただろうか。

それはさゆみが生まれてから6年目、後2ヶ月で7歳になろうかという、緑の眩しい季節のことであった。


『お母様、大変なの、この子怪我してるの!』

『あら…これでは死んでしまうわ、獣医さんに見せにいかないと…』


母親の声に、さゆみはわぁわぁと泣き出した。
死というものがどのようなことかは理解できなくとも、何か恐ろしいものであることを感覚的に掴んだのか。
壊れたように泣き出したさゆみの肩を抱きしめながら、母親は消えゆく命を静かに見守っていた。


さゆみの手の中で身じろぎすらしない、羽根を赤く染めた雀。
油断している時に猫にでも傷つけられたのか。
ボロ布のような雀の姿は、素人目にはとても助かるようには見えなかった。


『すずめさん、死んじゃやだ…』


聞く者の心を震わせるような涙声。
その刹那だった。

さゆみの体からゆらゆらと淡いピンク色の光が立ち上り、雀を包み込む。
突然の不可解な現象に母親は言葉を失い、ただただ光に包まれた雀を見つめるしかなかった。

数秒、いや数十秒経っていたかもしれない。

先程までピクリとも動かなかった雀は、突然―――さゆみの手の中から飛んでいった。
瀕死だったとは思えぬくらい、力強く空へと飛んでいく姿をさゆみは無邪気な微笑みを浮かべて見つめる。

この子は“神の子”なのだ。

一連の“奇跡”を見ていた母親はそう確信する。
何とかして、この力を役立たせることは出来ないだろうか。

無邪気に笑うさゆみを横目に、母親の中で何かが徐々に崩壊していった。



 * * *


幼いさゆみには過酷な日々が始まった。
傷つく雀を助けるべくさゆみが解き放った力―――治癒能力-ヒーリング-。

自己又は他者の怪我や病気などを癒やすことができる超能力であり、その力の効力は能力者自身によって変わる。
さゆみは他者救済型であり、自身の傷を癒すことは出来なかった。
そして、外傷以外の治癒…病気を治癒することも出来ない、そのことは幼いさゆみには理解出来ないことだったが。

一般人はけして入院することのない特別病棟へと急遽設けられた、治癒室。
その部屋で何が行われているかは、当事者以外誰も知ることのないことである。

特別病棟へと、連日連夜運び込まれるのは特殊な事情で外傷を受けた者達ばかりだった。
そして、患者達は必ずその部屋へと運び込まれる。

その頃から、病院内で奇妙な噂が出回ることとなった。
特別病棟へと運び込まれた重症患者が次の日にはもう退院しているという、ホラーのような噂。
一体、治癒室で何が行われているのか。

―――それは、さゆみの治癒能力を利用した闇治療であった。

治癒能力を行使する対象は、裏社会に生きる者達。
法外とも言える報酬の代わりに瞬く間に傷を治してくれるという、彼らからすれば奇跡のような話だった。

その評判を聞きつけた者達は連日連夜、さゆみの都合などお構いなしに訪れる。
例え眠りに就いていても、報酬に目のくらんだ両親に叩き起こされ治癒を強制させられた。

それでも両親が望むならばと力を使い続けたさゆみの体に―――ある日、異変が起きた。


奇跡の力、治癒能力。
その能力は精神力を消耗するものであり、精神力の消耗はそのまま能力者の体力を奪う。
力を使えば使うほど精神状態は千々に乱れ、幼いさゆみの体力…否、生命力を削り取っていった。

それでも、さゆみは望まれるがままに力を使う。
己の命を削り取られる感覚を覚えながらも、目の前で苦しむ者を救うがために。

だが、さゆみの体はもう限界であった。

最後の一人を治療し終えたさゆみは、食事を取ることすらなく這うように自室へと戻る。
これ以上能力を行使し続ければ、死ぬかもしれない。

苦しかった。

しばらく何もしたくない、そう思ってしまう程にさゆみは疲弊していた。
それでも、彼らは―――両親は自分のことなど構いもせずに、患者が来ればさゆみを治療へと赴かせるに違いない。

助けてあげたい。
苦しい。

二つの相反する感情に翻弄されながら、さゆみはゆっくりと微睡みの世界へと足を踏み入れようとしていた、その時だった。


『さゆみ、お母さん怪我しちゃったの、治してちょうだい』


連日の治癒行為でさゆみが疲弊していることに、母親が気付いていないわけがない。
淡いピンクの、桜色とも言ってもいい美しい奇跡の力。

その力に魅入られた母親は気付かない。
さゆみの体を思いやることのない、自分勝手な言葉―――それが、この日々の終焉を告げる引き金となった。


『―――もう、お母様の言うことは聞けません』

『さゆみ、何言ってるの、早くこの傷を治してちょうだい。
お母さんの言うこと聞かないと、お母さん怒るわよ……さゆ、み?』


指の腹から伝う、一滴の血。
その、些細すぎる傷を見せつけるようにさゆみに詰め寄った母親は、さゆみの様子がおかしいことにようやく気がついた。

見た目は、いつものさゆみと何も変わらない。

だが、さゆみから放たれる空気の質が明らかにさゆみのものではなかった。
ゆらゆらとさゆみの体から立ち上る桜色の光は、いつもの温かさを感じさせない。

夜空の下に咲き誇る桜の如く、幻想的でありながら畏怖の念を抱かせるような得体の知れない美しさ。
その光に見入っていた母親は、いつの間にかさゆみが手を伸ばせば触れられる距離に近づいていることに気がつかない。


『これ以上さゆみの力を利用しようというのなら―――』


数瞬の間を置いて、さゆみはゆっくりと勿体ぶるように傷ついた母親の指に手を伸ばす。
何だかんだ言って傷を治してくれるのか、そう母親が安心した刹那。


『きゃあああああああああああ!!!』


一瞬で、さゆみの小さな手の中に包まれた指が―――消失した。
痛みはない、だが精神的ショックは余りにも大き過ぎた。
へなへなとその場に座り込む母親に、さゆみは妖艶に微笑みかける。


『今すぐさゆみを解放してください、もう十分富は手に入れたでしょう?
さゆみと縁を切り、今後一切近づかない、そう誓ってくれるのであれば命を奪うことはしません。
でも―――そうしないと言うのであれば、私はあなたを…あなたの存在を“消去”することになりますよ』


その声音はとても今年で7歳になる幼子のものとは思えぬほど低く、鋭い。

“神”の逆鱗に触れた。

その事実に母親の体は震えるしかなかった。
ここでさゆみの…否、神の言うとおりにしなければ間違いなく自分は殺される。

驕れるものも久しからず。
栄華を極め贅を尽くすような人間はその勢いも長くない。
ましてや、今の富は自身の力ではなくさゆみを利用して得たのだ。

これ以上の富を望み、さゆみを利用し続けることを神は許さない。
そうしようとするのであれば、今目の前に立つ神は自分をこの世から消し去る、そう言っているのだ。

恐怖に震える母親に微笑みかけながら、死んでしまってはその富も何の意味もないでしょうと呟く。
その言葉が引き金となり、母親は指の消された手を隠しながら立ち上がった。


『分かりました、すぐにそのように致します―――神よ』


そう言って母親はバタバタとさゆみの寝室を出て行く。
滑稽な後ろ姿を嘲笑いながら、さゆみは布団に吸い込まれるように倒れ込んだ。


物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-。
過度の治癒能力により、生物・無生物を問わず、全ての物質を崩壊させる超能力である。

さゆみは、治癒能力を行使する必要など微塵もない母親の傷、それに対して過剰なまでに傷を癒す力を注ぎ込むことにより、
細胞を破壊し分子結合を無理矢理寸断させたのであった。
その結果、母親の指はまるで消しゴムで擦ったかのように綺麗さっぱりと消え去ったのである。

さゆみの本来持つ治癒能力とは真逆の力。
ギリギリまで追い詰められていた状態のさゆみに、母親が止めを刺さなければ目覚めることはなかったであろう破壊の力だった。


『さゆみ、“お姉ちゃん”が守ってあげるからね…もう、大丈夫だからね…』


さゆみの口から飛び出した不可解な言葉は、誰の耳にも届くことなく虚空へと消え去った。


道重家から解き放たれたさゆみは、東京に住む道重家とは縁もゆかりもない一般女性に引き取られた。

有名百貨店に入っているとあるテナントの従業員であった女性は、訳の分からないまま東京に来ることになったさゆみを、
優しく包み込むように育て上げた。

さゆみの持つ治癒能力を知っても、母親のようにその力を利用することなく、寧ろその力を誰にも使ってはいけないと諭し。
放任するわけではないが過保護にならない程度の距離を保ちながら、女性はさゆみに接し続けた。

小・中・高と、さゆみは特に優秀な成績を修めることもない代わりに落第するような成績をとることもなく、
いたって平凡な少女としてさゆみは育っていく。

そんな平凡な生活は、さゆみが大学受験する年になって壊れることとなった。


さゆみを育て上げてくれた女性が病に倒れたのである。

幸い、女性が働けなくなっても問題ない程度の貯蓄はあり、生命保険にも入っていたため、
金銭的な問題にさゆみが悩まされることはない。
だが、日に日にやせ細り衰えていく女性の姿はさゆみの心を大きく揺さぶるには十分すぎた。

学校に行くのを止めたら許さない、その言いつけを幾度となく破ろうかと思った。
それを実行出来なかったのは、女性に見捨てられたくなかったからである。

道重家、否、両親に捨てられた自分。
その上、女性から見捨てられるようなことがあっては、それこそ生きていける気がしない。
傍に居て支えたいのに支えることの出来ない辛さに心を乱しながらも、
さゆみは毎日学校に通いきっちり授業を受けてから女性の元へと現れる。

女性が倒れてから数ヶ月の時が過ぎた。
さゆみは大学受験し、何とか浪人することなく現役合格を果たした。

結果を報告しに病室を訪れたさゆみが見たものは、今までにないくらい苦しそうに呻く女性の姿。
慌ててナースコールしながら、さゆみはけして使ってはいけないと言われていた能力を解き放つ。

だが、さゆみは自分の能力がどのようなものであるか把握していなかった。
さゆみの治癒能力では外傷以外の治癒…病気を治癒することは出来ない。
それでも必死に女性に癒しの力を注ぎ込むさゆみを押しのけるように、医者が飛び込んできた。

緊急手術することになり、女性は病室から手術室へと運び込まれる。
去り際に、医者はさゆみに向かってこう言った。


『手術が成功してもおそらく余命は3ヶ月もないでしょう』


何故、自分の力は病気を治すことが出来ないのだろう。

幼い頃に傷を治療しに来ていた大多数の人間を助けることは出来た。
さゆみにとっては、何の関わりもない人間達。

その人達を救うことが出来て、何故、一番救いたい人間を助けることが出来ないのか。

手術室前の簡素なベンチに座り、さゆみは歯を食いしばる。
何も出来ずに、ここで待つしかない自分。

ダンッ!

後ろ手で壁を殴りつけ、さゆみはそのまま頭を抱え込む。

何が神様だ。

一番大切で救いたい人間を救うことも出来ない、こんな自分が神様なわけない。
さゆみの心は圧倒的な無力感に支配されるしかなかった。


その後、手術は無事終了し、女性は病室へと戻された。

だが、医者の言う通り、女性は3ヶ月も経たないうちにこの世を去った。
奇しくも、その日はさゆみの高校の卒業式―――桜の花弁が舞い散る穏やかな春の日であった。



 * * *


帰り道を急ぐさゆみは、ふと、周りの空気がいつもと違うものであることに気がつく。
この世界には自分以外の人間はいないのではないだろうか。
そう思ってしまうほど、辺りは不気味な静寂に包まれていた。

怖い。

周りを見渡しても、誰もいない商店街の通り。
時刻は午後4時25分、主婦達がこぞって買い物をする時間である。
どう考えても、この時間に人一人見かけないのはおかしい。

ふと、近くの八百屋の方に目を向ける。

誰もいない。

八百屋とは反対にある魚屋を見ても―――誰もいない。
一体全体、何がどうなっているというのか。

刹那、さゆみの心に届く―――誰かを呼ぶ叫び声。
無視することなど出来ないくらい、鋭く響き渡る声に導かれるようにさゆみは走り出す。

誰か、ねぇねぇ、誰か。

誰かというのが自分のことであるのかは分からない。
だが、耳に聞こえるのではなく脳に直接届くような声は、さゆみと同じ―――能力者に違いない。

けして早いとは言えない速度で、さゆみは商店街を必死に駆け抜けた。




 * * *


商店街を抜けた先にあったのは、いつもなら大勢の人が集う駅前広場。
さゆみも普段利用している、大学への最寄り駅。
だが、さゆみの目の前に広がっていた光景は普段の光景とは余りにもかけ離れていた。

目の前では二人の少女が血を流しながら、黒いボンテージスーツに身を包んだ女性と“戦っていた”。

女性から放たれる深い闇色とも言うべき、禍々しい光。
女性が少女達に手を翳す度に、闇色の光は鋭い刃状に変化して少女達を襲う。

直撃したら、まず行動不能になるであろう。
その威力の強さは、少女達が避けた後に深く抉れる壁や、真っ二つに割れてしまう柱を見れば十分すぎる程伝わってきた。

体が震える。

今までこういった事態には遭遇したことはない。
能力者、というものが自分以外にもいるとは思ってはいたが、こうして直に見るのは初めてのことであった。

形勢は女性の方が有利であるのはさゆみにも見て取れた。
二人の少女が反撃することを許さない速度で、その手から放たれる闇色の刃。

自分にもあの女性のような力があれば、助けることが出来るのに。
脳裏を過ぎる、あの寒い冬の日。

無力さに打ち拉がれ、何も為す術のないままただ黙って手術が終わるのを待っているしかなかった自分。
あの時と同じように、自分はこのまま何も出来ないままこの戦いを見届けるしかないのか。


「―――捕まえた。
いいなぁ、その白い肌…綺麗ね、羨ましくって―――殺したくなるわ」

「毎度毎度、人質取るとか…本当、汚いな、あんたらダークネスってのは」

「名前からしてやり口汚いことくらい分かるでしょうが、愛ちゃん…」


何処かコミカルな会話の内容を咀嚼する余裕はなかった。
女性のものとは思えぬほどの力で身動きを封じられ、挙げ句殺したくなると言われて余裕を持てるような神経は持ち合わせていない。

その腕から逃れようと必死に四肢に力を込めても、びくともしない。
元々、さゆみは運動は出来ない部類な上に、その非力さを級友に笑われることもあった程である。
女性から放たれる殺気に、さゆみの心は震え上がった。


「さてー、早く終わらせないと、デートに遅刻しちゃう。
分かってるわよね、攻撃を加えようとしたり防御の構えを取ろうとするなら…この子の首を落とすわよ」


その言葉に、二人の少女は構えを解いた。
女性は満足げに微笑むと、無数の闇色の刃をその場に生み出し、少女達目がけて解き放つ。
少女達の肩に、脇腹に、けして浅いとは言い難い傷が生まれていく。

わざと、クリーンヒットさせていない。

じわじわと嬲るように、少女達の体を傷つけていくような攻撃にさゆみは憤りを覚えずにはいられなかった。
人質がいることをいいことに、自身の愉悦のままにあえて直撃させないでいる。

モノトーンの服を着た長い茶髪の少女がその場に崩れ落ちた。
そして、アースカラーのトレンチコートに身を包んだ少女は、大きく肩を切り裂かれて膝を付く。


「まったく、こんな人質なんて気にしないで攻撃してくればいいのに。
見ず知らずの他人の命のために自分の命を危機にさらすなんて、本当理解に苦しむわ。
弱い上に甘ちゃんだなんて、本当―――存在価値のない、つまらない子達」


言葉と共に、女性の体から放たれる闇色の光がより強く、濃いものとなる。

止めを刺そうとしているのだ。

さゆみは震えながら、心の中で強い叫び声を上げる。
神様、お願いだから彼女達を助ける力を私に下さい、と。

女性の体から、大きな闇色の刃が放たれようとしたその時だった。


「―――離しなさい」


その声が人質に取ったさゆみのものであると気がついた女性は、攻撃を止める。

辺りの空気が震えた。
リィリィと音を立て、さゆみの体から淡い桜色のオーラが解き放たれる。
夜の闇に浮かぶような、儚くも美しき幻想的な桜を思わせる光に、女性は戦いの最中であるというのに意識を逸らした。


「離さないなら―――消せばいいだけの話ね。
圧倒的な力を持ちながら人質を盾に敵を嬲る、卑しいにも程があるわ」


声と共に、さゆみは女性の腕を掴みその力を解き放つ。
物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-。
過度の治癒能力により、生物・無生物を問わず、全ての物質を崩壊させる超能力を。


女性の体を覆う桜色の光。

何が起こったのか分からないまま、女性の体はさゆみの力によって消え去った。


「物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-使い…すごい…」


アースカラーのトレンチコートに身を包んだ少女の呟きに、さゆみは妖艶な微笑みを浮かべた。
先程まで恐怖に震えていたとは思えぬ程の妖艶な微笑みに、少女は心を奪われずにはいられなかった。

さゆみはゆっくりとした足取りで少女達の元へ近づき、その場に座り込む。
訝るような視線を感じながら、さゆみは口を開いた。


「…傷深そうね。
待ってて、今さゆみに替わるから」

「へ、何、どういうこと…?」

「私はさえみ…今あなたの前に立っている少女の裏の人格。
さゆみが危機に陥った時のみに現れる人格よ。
このこと―――さゆみには内緒にしていてね」


その声と共に、さゆみ、否さゆみの裏の人格である“さえみ”は消えた。
途端、表情が幼くなり、纏う空気も柔らかなものとなる。

呆気に取られた少女―――里沙は、おそるおそるさゆみへと声をかける。


「あのー、さゆみ、ちゃん?」

「へ、どうしてさゆみの名前知ってるんですか?
…あー、またさゆみ記憶ないよって、大丈夫ですか!」


声音すら先程のものとは違い、どこか甘ったるい声になっていることに里沙は苦笑いした。
圧倒的な力で敵を消し去ってしまった時とは、まるで別人―――“さえみ”の言っていたとおり、さゆみと彼女は別の人格なのだろう。
さゆみにそう言われたことで忘れていたはずの痛みが蘇り、里沙は顔を顰めた。

闇色の刃で切り裂かれた肩に滲む血の量はかなりのもので、さゆみが顔面蒼白になるのも無理はなかった。
この傷では、傷が塞がるのに二週間、完全に元通りに動かせるようになるにはそれからさらに時間がかかるに違いない。
その間、また戦いに巻き込まれたら―――リゾナンター、最大の危機であった。

傷ついた里沙、そして地面に横たわる少女―――愛はまともに戦えない状態である。
そして、残された仲間はというと、一人は攻撃能力が使えず、もう一人はある意味最強の攻撃が出来る反面、
その攻撃には大きなリスクを伴う。

まずいな、と里沙が呟いたその時だった。


「―――待ってて、今すぐにさゆみが治しますから」


その声に、里沙は耳を疑わずにはいられない。
先程敵を消し去った力、物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-。
“さえみ”とさゆみは人格が違えど、肉体は同一である。

さゆみも“さえみ”と同じように物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-しか使えないのではないのか。
里沙の考えを吹き飛ばすように、さゆみの体からゆらゆらと柔らかな光が立ち上る。


敵を消し去った光が宵闇に咲く桜ならば、今さゆみから放たれる光は陽光の下で満開に咲き誇る桜。
その温かな光に、里沙は思わず目を伏せた。

流れ込んでくる、傷を癒してあげたいという優しい想い。
数十秒で里沙の体に生まれていた肩の傷、そして細かな傷は一切消えて無くなっていた。

さゆみはそのまま、今度は里沙よりも少し離れたところに倒れている愛の元へと駆け寄り、
里沙にしたのと同じように光を翳す。


「…物質崩壊-イクサシブ・ヒーリング-、その逆はヒーリング、か。
なるほど、治癒が出来ればその逆も然り、というわけね。
―――でも、何故、さゆみちゃんの中にもう一つ人格が出来たんだろう…」


里沙の呟きはさゆみに届くことなく夕闇へと溶け消えた。


 * * *


授業を終えたさゆみは、けして早いとは言えない駆け足で大学を後にする。

早く、彼女達に会いたい。

さゆみを助けるために命を賭けてくれた人達。
自分のこの力は、きっと、彼女達を助けるために神様が授けてくれた力なのだ。

自分は神様なんかじゃない、治せないものもある。
だが、そのことはもうさゆみの胸を締め付けるようなことではなかった。


自分の力を真に必要としている人達がいる。
その人達の為に力を使うことを、きっと、天国にいる女性も望んでいてくれているはずだ。

涼やかな秋の風を感じながら、さゆみは今確かに、失ったものを埋めてくれるような充足感を感じていた。


リゾナンター五人目の仲間となった道重さゆみ。
その身に宿す力は、癒しか破壊か。

―――その答えを知る者はない。



















最終更新:2012年12月02日 13:36