(16)633 『蒼の共鳴番外編-金木犀香る夜明け前-』



「最悪…」

もう何度目になるか分からない寝返りをうちながら、少女は吐き捨てるように呟いた。
体は疲れて睡眠を欲しているというのに、目は冴えていく一方だった。

大きな溜息をついて、少女は布団の上に身を起こした。
途端に、少しひんやりとした空気が華奢な少女の体を包み込む。
腕をそっとさすりながら、ロフトの明かりを付けるべく少女は暗がりの中をおそるおそる歩いた。

パチン。
音と共に瞬時に部屋に溢れる蛍光灯の明かりに、少女は眩しそうに顔を顰める。
原色のジャージ姿の少女は物音を立てないようにそっと、家を抜け出す準備をした。

上着の右ポケットには紫のエナメル地の財布、左ポケットには細かな傷が幾つか付いている銀のMDプレイヤー。
最後に、穿いているジャージのポケットにラインストーンでデコレーションされた携帯を仕舞い、少女は再びロフトの明かりを消した。

音をなるべく立てないように、慎重にロフトとリビングを繋ぐ梯子を下りていく。
時刻は夜の2時過ぎだった。
少女と共にこの家に住む“主”はもう、とっくに夢の世界へと旅立っているに違いない。

深夜に抜け出した“くらい”でどうこういうような主ではない。
ただ、気を遣わせたくはなかった。
眠れないくらい何かに思い悩んでいるのでは、などとは思って欲しくない。

眠れないから、何となく散歩をしてみたくなった。
それだけのことだった。

主が目覚めた気配はない。
少女は静かに一階へと続く階段を下り、そのまま裏口から抜け出た。


夜風にのって漂ってくるのは金木犀の香り。
甘い香りに誘われるように、少女は香りが強くなる方へと歩き出した。

服越しにでも感じる風は、夏の頃と比べると幾分カラッとしていた。
その風の心地よさに目を細めながら、少女はやがて来るであろう冬に想いを馳せる。

今年は雪が降るだろうか。
あれだけ寒かった去年の冬は、雪は降りこそしたものの積もることはなかった。

窓の外を眺めていた“彼女”の横顔を思い出す。
ふにゃりとした微笑みを浮かべながら、皆で雪合戦したいなぁと言っていた。

今年こそは、その願いが叶ってほしい。

少女は祈るように、目を伏せる。
その時だった。


「あれ、れーな、こんな時間に何してるの?」

「…絵里、絵里こそこんな時間に何してると?」


少女―――田中れいなの前に現れたのは、今まさに頭の中で思い浮かべていた彼女“亀井絵里”だった。
れいなと似たようなジャージに身を包み、手にはコンビニの袋を持っている。

絵里はふにゃふにゃと笑いながら、スッピンれいなだーとれいなの頬に手を伸ばして軽くつねってきた。
スッピンで何が悪いとー、と、れいなは自分より幾分か背の高い絵里の頬に手を伸ばして同じようにやり返す。

先程までの気持ちを洗い流すような温かさが自分の心に生まれたのをれいなは感じた。
そして、この温かさが絵里の心に生まれたことも。


“共鳴”という絆で結ばれ合う仲間達―――リゾナンター。
その中でも、絵里とれいな、そしてここにはいないがもう一人“道重さゆみ”は共鳴の相性がいいもの同士だった。

言葉よりも、速く。
心と心が一瞬にして繋がり、想いが増幅されて自分の中に湧き出す感覚に戸惑うことはなくなった。

だが、こういう嬉しいという感覚が繋がり合う時の気恥ずかしさには未だに慣れない。
絵里は照れくさそうに微笑むれいなの手を取って歩き出した。
一瞬遅れて、れいなも絵里に倣うように歩き出す。

月明かりと街の街灯に照らされた歩道を、お互い無言のままで進んでいく。
何か話さないと間がもたない、という感覚はない。

毎日のように“喫茶リゾナント”で顔を合わせて、取り留めのない会話を交わしているのだ。
今更、何か話を振ろうにもお互いネタはない。

ある意味、それは幸せなことかもしれなかった。


 * * *


辿り着いたのは、れいなが毎朝ランニングの締めに立ち寄る高台にある公園だった。
無論、こんな時間に人がいるはずもなく、二人の歩く足音だけがやけに大きく聞こえた。

ニスが剥がれ掛かった、古びたベンチにもたれかかるように座った。
れいなは何となく、天を仰いだ。

星なんて数えられる程にしか見えない夜空、銀色に光る月。
金木犀の香りが微風にのって、れいなの鼻をくすぐる。


物音一つしなかった。
お互いの呼吸が聞こえてしまいそうなくらい、辺りは静寂に包まれていた。

何故か不意に切なくなって、れいなは隣に座る絵里の手をキツく握りしめる。
握り返してくる手の力強さに、少しだけ泣きたくなった。


「なぁ、絵里。
今年は雪、降るといいね」

「そうだね、折角元気になったから皆と一杯はしゃぎたいし。
早く冬来ないかなー」

「れーな、誰にも負けんからね、もちろん、絵里にも」

「えー、れーな寒がりじゃん、動きが鈍くなってるところをすかさず絵里が仕留めるよ?」


絵里の楽しそうな声がれいなの耳をくすぐった。
まるで、今吹いている風のような、柔らかい声。
不意に頬を伝ったのは―――涙だった。


「―――絵里も、さゆも、愛ちゃんもガキさんも小春も愛佳もジュンジュンもリンリンも、皆れーなが守る」

「絵里も、れーなも、さゆも愛ちゃんもガキさんも小春もみっつぃーもジュンジュンもリンリンも、皆を守るよ」

「う、ん…」


今日のれいなはへたれーなだね、そう言いながら絵里はれいなの肩を抱き寄せた。
その言葉に、うっさいとだけ返してれいなは唇を噛みしめた。


金木犀の香りが悪いのだ。
甘いのに何処か胸を切なくさせる香り、そのせいで何だか泣いてしまっただけ。
そんなこと、言わなくてももう絵里には伝わっている。


「れーな、早くダークネスを倒して…皆で一緒に毎日楽しく過ごそうね」

「…分かっとーと、絵里に言われんでも」

「ダークネスを倒しても、皆ずっとずっと一緒だよ」


だから、泣かなくてもいいのだと言外に込められた想いに、れいなは答えすら返せずに涙を押し殺した。
自分でもよく分かっていなかった気持ちを言い当てられて、欲しかった答えを与えられて。
嬉しいのに切なくて、どうしていいのか分からなくなる。

ずっと見えない振りをして押し殺して、そんなものは最初からなかったかのように振る舞ってきた。
でも、本当はずっと―――不安だったのだ。

共鳴という絆で結ばれ、闇へと立ち向かうために集まった仲間達。

じゃあ、闇を倒してしまえばどうなるのか?

戦う必要がなくなれば、皆一緒にいる必要もなくなる。
超能力を使うことなく、普通の人間と変わらないように人生を過ごしていくだけ。

それが当たり前のことだと分かっていても、嫌だった。
ずっとずっと、皆と一緒に居たい。
大切だから、その日が来ることを何処かで恐れていた。

平和に暮らしていける世界を望みながら、何処かで戦い続ける日々が続けばいいと願っていた。


だが、恐れる必要はないのだと絵里は教えてくれた。
戦いが終わったからといって、皆で築き上げてきた絆が消えるわけではないのだと。
れいなが願うように、皆も戦いが終わった先の未来も共に生き続けたいと願っているのだと。

幸せなのに、切なくなるのは。
この今ある幸せがいつまでも続くとは限らないからだった。
命を賭けた戦いに身を投じている以上、いつ誰かが、いつ自分が命を落としてしまうか分からない。

幸せな未来が欲しい。
闇を打ち払い、輝くような未来を実現出来るだけの力が欲しい。

今、肩を抱いて必死にれいなに大丈夫なのだと伝えてくる絵里も、今はここにいない他の仲間達も。
皆の体だけじゃなくて、心も守れるだけの強さが今欲しい。


「だあああああああ!
うじうじ泣いてるのは性に合わんと!!!
絵里、今からランニング行くよ!」

「え、ちょ、今何時だと思ってるの、れーな!」

「何時とか知らん!
とにかく、走って体力付けて、それから格闘術の特訓!
―――誰よりも、れーなは強くなるっちゃ」


そう言っていきなり駆け出したれいなの背中を慌てて追いかけながら、絵里は小さく微笑んだ。
へたれーな、なんて言ったけれど。
見た目よりも脆いところもあるけれど、それ以上に絵里や皆を惹き付けるのは貪欲なまでに前を向いて走れる素直な心だった。

きっと、その心一つで。
れいなは自分の想い描く未来へと進むために、目の前の壁を突き崩しながら突っ走っていくに違いない。


「あー、れーな、待ちなさーい!」


負けたくない。
その背中に遅れたりなんかしない。

その隣に立って、れいなのことも皆のことも守ってみせる。
そしていつか―――今日のことを思い出して、あんなこともあったねと笑い合う未来を手に入れたい。

前を走る小さな背中に追いつくために加速する。
昔のように、少し走るだけで心臓が悲鳴をあげることはなかった。

いつか、その未来へ。
あの背中に追いつければ、きっと叶うはず。

―――二人はまるで風のように、夜明け前の街を駆け抜けていった。























最終更新:2012年12月02日 13:04