(16)504 『蒼の共鳴番外編-不器用オレンジ-』



喫茶リゾナントは今日も仲間達の温かい声が響いていた。
日は少し傾き、少しずつ黄昏が近づいてきている。
愛佳は広げていた勉強道具を片付けて、さっと席を立った。


「あれ、みっつぃーもう帰るの?」

「…もうすぐ中間テストなんです。
ここ最近課題以外に勉強する余裕あらへんかったし、試験勉強しようかと思って」


愛佳のその言葉に、みっつぃーは偉いなぁと言いながら絵里はニコニコと微笑んだ。
いつもならその笑顔に偉いでしょーと返すだけの余裕があるのだが。

愛佳はその言葉には応えずに、またテスト期間が明けたら来ますねーと言って足早にリゾナントを出ていった。


「ガキさん、何かみっつぃーおかしくなかったですか?」

「あー、店に来た時に小テストの成績があんまりよくなかったから、勉強せんとなぁって言ってたよ。
もっとも、あの子のよくないってのは…うちらにしたら羨ましいレベルだと思うけどねー」

里沙はそう言ってコーヒーカップに口を付けた。
それに倣うように絵里もティーカップに口を付ける。
口の中に広がるダージリンの香りに、絵里は猫のように目を細めた。

ティーカップを両手で大事そうに包み込みながら、絵里は溜息を付く。
少し成績が落ちたからとはいえ、愛佳の態度は少しばかり気になるものだった。
あそこまでピリピリした愛佳を見るのは始めてのことであった。

いつもの愛佳なら、勉強中に話しかけられてもニコニコと笑って応対してくれる。
だが、今日の愛佳は顔にこそなるべく出さないように気をつけていたが、明らかに苛立っていた。


絵里には、何故愛佳がそこまで苛立っていたのかは想像もつかないことだった。
幼い頃から心臓病を患い、小、中とまともに学校に通うことが出来なかった絵里。
勉強についていくどころか、時には激しい発作に襲われ何週間も入院を余儀なくされてきた絵里にとって、
愛佳のように健康な体で毎日学校に通えるだけでも羨ましいことなのだ。

ましてや、愛佳の成績は都内有数の進学校の中でもトップクラスである。
今のままの成績を維持出来れば、余裕で国立大にも進学できるに違いない。

たった一回の小テストが悪かったくらいで、何故あんなにピリピリしなければならないのか。
そもそも、そこまでテストの出来を気にするのであれば最初から家に帰っていればよかったんじゃないのか。

何だか無性に腹が立ってきた。
絵里はティーカップを置くと、ちょっと出てきますと言ってリゾナントを飛び出していく。
ドアが閉まった音と同時に、残された七人はそれぞれ顔を見合わせて苦笑いした。


「絵里があんなに怒るのは珍しいの、みっつぃー大丈夫かな?」

「んー、そうは言っても、ああなった絵里はそうそう止められんし…愛佳が泣くようなことがあったら慰めればいいったい」

「…逆に、亀井さんが泣かされちゃったりして」

「どっチも意外ト気が強イ、口喧嘩で済ムといいガ」

「アー、リンリン心配になっテきまシた」


口々に思い思いのことを話しながら、皆の中に生まれていくのは二人への心配の気持ちであった。
皆を横目に、里沙は苦笑いしながら愛に視線を向けて口を開く。


「…愛ちゃんは、あの二人どう思う?」

「んー、ま、世の中終わりよければすべてよし、なんて言葉もあるし。
大丈夫でしょ―――うちらが築き上げてきたもんは、ちょっとした喧嘩くらいじゃビクともせんよ」


そう言って不敵に微笑む愛にそうだねと微笑み返しながら。
里沙はコーヒーカップに口を付けて、残った中身をぐいっと飲み干した。


 * * *


「ちょっと、みっつぃー、待ちなさい」

「…亀井さん、何ですか?
愛佳早く家に帰りたいんで、どうしてもっていう用事じゃなければまたの機会にしてほしいんですけど」


走ること数分、駅のロータリーでようやく絵里は愛佳に追いついた。
不機嫌そうな態度を必死で隠そうとしているが、やはり愛佳は苛立っている。
その苛立ちが伝染したかのように、絵里の表情は自然と険しいものになった。

十数秒程度の短い沈黙。
普段は穏やかに笑っている絵里の鋭い視線を見ても、愛佳は表情を変えることはなかった。
何も言い出さない絵里に痺れを切らした愛佳は、じゃ、またそのうちと言って踵を返す。


「待って、みっつぃー。
ちゃんと話そうよ、絵里このままじゃすごく嫌だ」

「何で亀井さんがそんなに苛立ってるか分かりませんけど、愛佳は亀井さんに話すことないですし。
子供じゃないんですから、我が儘言って困らせんでくださいよ」

「―――どっちが我が儘なのよ。
テストの出来がちょっと悪かったくらいでイライラしちゃうみっつぃーの方がよっぽど我が儘じゃん。
人にあんな態度取るくらいだったら最初からリゾナントに来ないで家に帰って好きなだけ勉強してればよかったじゃない」

「そうですね、そうしてればこんなところまで亀井さんに追いかけられることもなかったし。
じゃ、お言葉に甘えて愛佳は帰ります」


もう話すことは何もないと言わんばかりに、絵里に背を向けて歩き出そうとした愛佳は不意に足を止める。
苛立つ愛佳の心に届く―――絵里が泣いている気配。
愛佳は舌打ちしたい衝動を堪えて、絵里の方に向き直った。

泣きたいのは愛佳の方だった。
確かに今日、自分は苛立っていた。
だが、何故ここまで責められた挙げ句に泣かれなければならないのか。

周りからの視線が痛い。
愛佳は泣き出した絵里の手を掴んで、とりあえずここから離れようと歩き出した。
どこでもいい、とりあえずここよりも人がいない場所へ行こう。


少し早足で歩き出したというのに。
絵里はしっかりと愛佳に遅れることなく付いてきた。


 * * *


「…ここならええか」


愛佳が絵里を連れてきたのは、駅から十五分程離れたところにある河原だった。
日は傾き、雲はオレンジ色に染まり始めている。
愛佳は絵里の手を離して、振り返った。
その頬に残る涙の跡が痛々しかった。

愛佳は溜息を付きながら、ハンカチを土手に敷いて腰を下ろした。
それに倣うように絵里も腰を下ろす。

何を話せばいいのか分からなかった。
お互い、何でこんな風になってしまったのか見当もついていない。

苛立っていた気持ちは何処かに消え失せた。
だが―――代わりに生まれたのは何とも言えない苦々しい空気だった。

早く帰宅して試験勉強をしなければ、という思考は愛佳の中からは既に消えている。
今はただ―――絵里と仲直りがしたかった。

苛立った気持ちをぶつけたくなかったから、早く帰宅しようとしたのに。
何故絵里は…自分が苛立っていることに気付きながらも追いかけてきたのだろうか。

絵里もまた、愛佳と仲直りがしたいと思っていた。
よく分からない苛立ちに突き動かされるように愛佳を追いかけ、結果、愛佳も自分も傷つくようなことになってしまった。


確かに、自分は怒っていた。
だが、何故そこまで怒っていたのか―――その答えを導き出した絵里は、思わずフフッと声に出して笑ってしまう。
その笑い声に、何で笑っているのかと言わんばかりに絵里の方を見つめる愛佳の頬を、絵里はそっと手を伸ばして撫でた。


「ごめんね、みっつぃー」

「…こっちこそ、ごめんなさい」

「何かさ、絵里、何でこんなことしちゃったんだろうって思ったんだけどさ。
絵里、みっつぃーのこと、すごく羨ましかったからなんだろうなって」

「羨ましい?」


愛佳の言葉に、そう、羨ましかったのと言って微笑む絵里。
みっつぃーのように勉強漬けは嫌だけど普通の学生生活を送ってみたかったなと言う絵里に、
愛佳はようやく、絵里が何故そこまで苛立っていたのかを知って頭を抱えたくなった。

絵里と比べたら、如何に自分が恵まれていることか。
普通の学生生活を送りたくても、患った心臓病のせいで学生生活の大半を病室で過ごした絵里。
そんな絵里からしたら、たかが小テストの点数が悪かったくらいで苛立つ愛佳の姿はさぞかし不愉快だったに違いない。
黙り込む愛佳に、絵里は優しく声をかけた。


「…勉強が出来るってこと、すごく大事なことだと思うよ。
でも、何かさっきまでのみっつぃー見てると、それでいいのかなって言いたくなる」

「でも、折角勉強して入った学校やし…それに、いい成績取れると嬉しいから」

「そうじゃなくてさ、あー、うまく言えないんだけど。
もう少し、みっつぃーはテキトーになるべきだと思う」

「テキトー、ですか」

「そう、テキトー。
勉強するなとかそういうことじゃないよ、勉強するのはみっつぃーの勝手だし。
ただ、あんな風に苛立ってるみっつぃーなんて、絵里も…皆も見たくないと思うよ。
悪かったから努力する、それはそれでいいんだけど…気持ちをもっと大らかに持ってないと、みっつぃーパンクしちゃうよ」


絵里の言葉は愛佳の心にスッと、入り込んできた。
まるで、そよ風がそっと吹き抜けていくかのような言葉に、愛佳の涙腺は不意に緩んだ。
声を出さずに泣き出した愛佳の肩を抱き寄せ、絵里は愛佳が泣きやむのを待つ。


「今日、担任に呼び出されたんですわ。
最近戦いが続いて、まともに睡眠取れんまま学校に行ってて…今日、たまたま担任の授業の時にうとうとしてしもうて。
授業中に眠ってしまうくらい勉強に励んでるんやったらええけど、最近お前小テストの点数悪いぞって言われて…。
それで、今日はちょっと…態度に出てしまうくらい苛々してました、ほんまごめんなさい」

「そっか…それなら怒ってもしょうがないよね。
絵里がみっつぃーの立場でも、やっぱり苛々してたと思うもん。
…いっつも頑張ってるもんね、それなのにそういう風に言われたら苛々しちゃうよね、ごめんね、みっつぃー」


絵里の柔らかい声に、愛佳はついに声を上げて泣き出した。
あれ、こうなるはずじゃなかったのにと言って焦ったような声を出す絵里にしがみついて、愛佳はひたすら涙を流す。
優しく愛佳を抱き締めながら、絵里は真剣な眼差しを愛佳に注いだ。

その小さな肩に、どれだけの物を背負っているのか。
ただでさえ能力が使えるという理由でいじめを受けて育った愛佳は、リゾナンターという居場所を見つけることが出来た。
だが、リゾナンターとして戦いながら普通の学生生活を送ることはどれだけ大変なことだろうか。

ましてや、愛佳の進学した高校は都内有数の進学校である。
いつも愛佳はリゾナントに居る時は、勉強道具をテーブルに広げて熱心に勉強していることが大半だった。
リゾナンターとしての自分、そして普通の高校生である自分を両立するために身を削りながら頑張っている愛佳。

楽な方に流されてしまえばいい、なんて無責任なことは言えなかった。
人に強制されたわけじゃない、愛佳自身が望んで選んだことなのだから。

ならば、自分に出来ることは。
愛佳が一杯一杯になってしまわないように、たまには喧嘩する覚悟で溜まったものを吐き出させることだ。
愛や里沙のように、上手には立ち回れないけれど。
上手く言ってあげられなくて、今日のように気まずい思いを味わうことになるとしても。
それで少しでも愛佳の心が楽になれるなら、それで十分だった。


どれくらい時間が経っただろうか。
気がつけば、空は随分赤く染まっていた。

愛佳の手を取り、そっと絵里は愛佳を立ち上がらせる。
空だけでなく、そこにいる人間すら赤く染めるようなオレンジの日差しに愛佳は小さく笑った。


「…オレンジ、ですね。
亀井さんの色…すごくすごく温かい、優しい色や」

「もー、褒めたって何にも出ないよー。
それより、みっつぃーそろそろ帰らないと遅くなっちゃうよ」

「…そうですね、でも…今日はもういいです。
亀井さん、一緒に―――リゾナントに帰りましょう?」


愛佳の言葉に、今日一番の笑顔で絵里は頷いた。
どちらからともなく手を繋ぎ、温かな日差しをその身に浴びながら二人の姿は小さくなっていった。



二人の奏でる温かな心の旋律に、リゾナントに残っていた七人は微笑む。
二人が帰ってくるなら、美味しい晩ご飯作らんとねと言って厨房へと引っ込むれいなの後を追いかけるさゆみ。
顔を見合わせて微笑み合う、小春、ジュンジュン、リンリン。

里沙のコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを注ぎながら、愛は里沙に向かってウィンクをした。


『な、言ったとおりやろ』

『そうだね…さて、帰ってきたら何て言おうかな』

『決まっとるやろ…』


ドアが開いた音と同時に、七人は一斉にドアの方に向かって大きな声をあげた。








「「「「「「「―――おかえり!!!!!!!」」」」」」」




















最終更新:2012年12月02日 13:02