(13)637 『蒼の共鳴番外編-懐かしく愛おしい記憶-』



その日、里沙は訓練を終えて自分の部屋へと向かっていた。
まだまだ、教えてもらった通りに動けているとは思えないけど、
努力すればした分だけ、思った自分に近づけている気がして。
また夜にでも訓練をしようと思いながらタオル片手に歩く里沙の耳に届く、優しい歌声。


(誰だろう、すごく綺麗で優しい声だなぁ)


その歌声はそっと、里沙の心を包み込むような温かさを持って辺りに響いている。
まるで歌手のような、聴く者の胸を打つ歌声に引き寄せられるように、里沙は声のする方へと歩みを進めた。
一歩一歩歩みを進めるごとに大きくなる歌声。
その歌声に酔いしれながら、里沙は基地の中にある中庭へと足を踏み入れた。

里沙の目に飛び込んできたのは、よく見慣れた後ろ姿。
短い栗色の髪の毛が風に揺れていた。
そして、風に乗って辺りに響く優しい歌声。

その歌を邪魔することは憚られて。
気配を殺しながら、里沙はその場に座り込む。
目を伏せて、その歌声に耳を傾ける里沙。
心地よいメロディは、疲れた里沙の心を静かに、確かに癒していく。

心の中の澱を拭い去るような歌声に、いつしか里沙の頬に光を反射しながら筋を描く涙。
悲しい時にだけ涙は流れるものではないのだと、その歌声は教えてくれているようだった。
やがて、途切れる歌声。



「あれ、ガキさん、いつの間にいたんだべ」


そう言って、里沙の方に歩いてくる彼女。
ともすれば、自分よりも年下に見える彼女。
出会った時の神々しさを感じさせないくらい幼い微笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄ってきて。
その微笑みに、自然と自分の口元に笑みが浮かぶのを感じながら、里沙は答えを返す。


「こんにちわ、安倍さん。
実はさっきからそこで、歌を聴かせてもらってました」


里沙の言葉に、もー、と言いながら里沙の肩をペシペシと叩く仕草。
その仕草は、同性であっても思わず可愛いと思ってしまうくらい、幼くて微笑ましい。
とてもじゃないが、あの日里沙を絶望から掬い上げた人とは思えなかった。

安倍さんと里沙が声をかけた彼女…安倍なつみは、微笑みを崩すことなく里沙の目を覗き込む。
綺麗な瞳だなと、自分で感じていることなのに他人事のように思いながら、その瞳を見つめ返す里沙。
里沙の肩に触れていた手が、そっと里沙の頭へと伸びる。
二度、三度、軽く頭をポンポンと叩かれる感触。


「んー、ガキさん、疲れてるんじゃない?
訓練はもちろん大事なことだけど、無理しすぎると自分のためにはならないよ」

「でも、早く、皆のためにも役に立ちたいですし」


心からの言葉だった。
あの日、里沙を絶望から掬い上げてくれたなつみが居る組織である、『M』。
そこに集う人達の優しさに、期待に応えたいと想う。
一日でも早く、皆の助けになりたい。

なつみは微笑みを崩すことなく、頭に置いていた手をそっと里沙の頬へと滑らせる。
そして、もう片方の手も里沙の頬へと沿えて。


「ちょっとぉ、あへさん、はなしてくらはいー」

「あのね、役に立ちたいとかそういう考えを持つことは確かに大事なんだけど。
でも、少しでも早くとか、そうやって自分を追いつめていこうとしなくてもいいんだよ。
自分のペースでいいの、今は緊迫した場面じゃないから」

「そうなのかもしれませんけろ、っていうか、はなしてくらはいよー」


なかなか自分の頬から手を離そうとしないなつみに、頬をつねられたまま声を出すものだから。
間抜けな返事になってしまうのは仕方がない。
仕方がないのに、里沙に対して遠慮することなくお腹を抱えて笑い出すなつみ。

心の底から楽しそうに笑うなつみの姿に。
頬をつねられて間抜けな姿を晒してしまうことになったことすら、何だか許せてしまう。
不思議な人だなと、改めて想った。

初めて出会った時、銀色の光をたなびかせて目の前に降り立った背中。
その時とはまるで違う、無邪気で幼い姿。
だけど、同じ人なのだと普通に思えるのは。
その背中に羽が生えているように見えるからかもしれないと、漠然と思った。


ようやく頬から手を離してもらった里沙。
お返ししてやろうと、手を伸ばせば。
笑いながら里沙の手を取って、ちょっと散歩に付き合ってもらおうかなと言うなつみ。
散歩って何処へと聞き返すよりも先に、なつみの体から放たれる銀色の光。


「ちょ、浮いてる浮いてる!何で!」

「地面を歩くのも好きなんだけどねー、あたし、空の散歩も好きなんだよねー。
と、いうわけで、ガキさんあたしの散歩に付き合って」


そう言って、なつみは里沙を抱えて上空目指して浮上する。
いつの間に、言霊能力を発動したというのだろうか。
言霊を発した様子はどこにもないのに、何故空を飛ぶことが出来るのだろう。
考え込む里沙を見て、なつみは微笑みながら口を開く。


「ふふ、言霊を発する時の力、それを応用させてもらったんだべ。
あたしの、事象を具現化する力、それを上昇する力に変換してるんだ」

「そんなこと出来るんですね…すごいなぁ…」

「といっても、さすがに本来の力の使い方を無理矢理変えてるから
浮いたり、ちょこっと動き回るくらいしか出来ないんだよねー。
マンガみたいにビューンって速度で飛び回るのはさすがに無理だなぁ」


なつみはそう言いながら、里沙が怖がらない程度の速度でゆっくりと上昇を続ける。
300メートルくらい上昇しただろうか、この辺でいいかなと言って。
里沙の体を支えてくれていた腕がスッと離れて、口をパクパク開いて焦る里沙。
だが、里沙が思ったような事態にはならなかった。


「あれ、何で」

「んー、自分だけじゃなくて他の人にも上昇する力を付与できるのかなって試してみたんだけど。
案外出来るもんだねぇ」


笑いながらサラッとすごいことを言ってのけるなつみ。
血の臭いなんて感じさせない、ともすればこの人は本当に能力者なのだろうかと思うくらいなのに。
あの字は本当なのだと、改めて思い知らされる。

「銀翼の天使」と、他の組織から恐怖と畏敬の念を込めてそう呼ばれるなつみ。
戦うことなくとも、そのすごさをこうして見せつけられて。

また、なつみだけではない、『M』に集う能力者達は少数精鋭と呼ぶに相応しい強い能力を持った者達の集まりなのだ。
ただの洗脳しか使えない自分が、本当にこの集まりの中にいていいのだろうかと心底想う。
圧倒的と呼べるような力を持たぬ自分は、ここにいる意味があるのだろうか、と。
落ち込む里沙の耳に届く、なつみの声。


「ガキさん、ほら、見て見て。
こんだけ高いところにいると、色んなものが見えるよね。
ほら、あそこの人洗濯物干してる。
あ、あっちの人は今から何処か出かけるのかな、楽しそうだよね」


なつみの声に、里沙は視線を右に左にとずらして。
自分も目がいい方だとは思っていたけど、よくそんなに見えるものだなと感心する。
その人達に視線を向けながら、なつみは再び口を開いた。


「こういう穏やかな世界で、能力者もそうでない人達も仲良く暮らしたいよね。
今はまだ難しいけれど、いつかはそういう風になったらいいなって想う。
ねぇ、ガキさん。
ガキさんは今、ここにいていいのかなとかそういう風に悩んでるみたいだけど。
力の強さだけが全てじゃない、ガキさんの気持ちがあたしや皆と同じならそれだけで充分ここにいる理由になるんだよ。
強いことは大事なことかも知れない、でもそれを全てにしたら大切なことを見失っちゃう。
今のガキさんに必要なのは力の強さじゃない、色んなことを経験して学んでいくことだよ」


なつみの言葉に、里沙の目元にこみ上げてくる熱い滴。
声を出すまいと唇を噛みしめる里沙の横で、なつみは再び歌い始める。
温もりに溢れる歌声に込められる想い。
あの日と同じように抱きしめられながら、あの日とは違った涙を流す里沙。

一緒に訓練をしているわけでもないのに、何で彼女はここまで自分が抱えていた悩みに気付くことが出来るのだろう。
そして、ここまで里沙の心に響く言葉を与えることが出来るのは何故なのだろうか。
なつみが精神感応の能力を持っているなんて話は聞いていない。
それなのに、まるで里沙の心を読めるかのように里沙の心に降り注ぐ、温かな想い。

この人の想いに応えられるだけの人間になりたい、改めてそう想う。
強くなることばかりに気を取られて、見失っていそうになっていた道。
口癖のようになつみの言う言葉の意味が、ようやく分かってきたような気がした。

強い力だけでは叶えられない大きな願いが、確かにある。
力はその願いを叶えるのに必要な要素かもしれないが、その力を使いこなすに充分なだけの心、
それを育てることの方が大事なのだ。
強い力はいとも簡単に人を狂わせる、だからこそ、その力を正しく使うために心を育てなければならない。


―――今はまだ、強い力を求めて自分を追い詰める時期ではないのだ。


髪を撫でられ、背中をさすってもらい。
落ち着いてきた里沙の耳に届く、もうちょっと一緒に散歩しようかという柔らかい声。

帰ったらきっと、2人揃って何処に行っていたんだと怒られるんだろうなと思いながら。
その声に、とびきりの笑顔で里沙ははい、と返事を返した。


* *



報告書を書く手を止め、懐かしい記憶に目を細めていた里沙。
あの頃から随分時は流れて、今となってはあれは本当のことだったのだろうかと思うような日々が続いている。

『M』の崩壊、囚われたなつみ、何一つ変わることのない世界。
それでも時は流れ、今という時間を生きていかなければならない。

温かな声が離れていても聞こえてくる。
あの温かな日々によく似た、温かさ。
その温もりに心の全てを委ねて生きていけたらいいのに。

里沙の脳裏に蘇る、拘束具をつけられた痛ましいなつみの姿。
かつて「銀翼の天使」と恐れられた彼女は、その美しい羽根をもがれて飛ぶことはもう叶わなくなった。
自分に力があったのなら、そんな真似をさせたりはしなかったのに。

今も一人孤独に居住室で過ごしているであろうなつみ。
例え、なつみとは共鳴することは出来なくても、同じように孤独な環境に身を置くことが。
それが正しいことなのかはともかく、これが囚われているなつみに自分がしてあげられる唯一のことだから。
聞こえてくる温かな八つの声が奏でる旋律。


―――その旋律に耳を塞ぐように、里沙は音楽のボリュームを上げて再び報告書を書き始めた。




















最終更新:2012年12月02日 12:55