(12)799 『蒼の共鳴番外編-温かな孤独-前編-』



喫茶リゾナントは本日定休日である。
定休日ではあるが、店内には数人の人影があった。


「えーとな、ジュンジュン。この字は書ける?」

「うー、チョと、難しイけど、書いてミる」


幼稚園生が使う、平仮名の書き取り練習帳。
もっとも、それを使う人間は20歳だったりする。
ジュンジュンは一生懸命、示された文字をその通りに再現しようとしていた。

その隣では、リンリンが黙々とノートを広げて文字を綴っている。
平仮名と簡単な漢字を交えて、文章を書いているようだ。
ジュンジュンと比べると進みが早いのは、リンリンは家でも勉強をしっかりしているから。

ジュンジュンも家で勉強しないわけではないのだが、1時間もすると飽きてしまう。
そんな調子だからか、会話の方はそれなりに出来るようになってきたものの文字の読み書きはなかなか上達しない。
日本に住む以上、会話だけじゃなくて読み書きも出来た方がいい。
そう勧めたのは愛なのだが、今ジュンジュンとリンリンの目の前にいるのは愛佳であった。

愛はリゾナントの店長としての仕事があるので定休日くらいしか教える暇がないが、その点、
愛佳は毎日のようにリゾナントに来れる。
しかも、それなりの進学校に通う身となれば―――愛佳が教える方が適任と言えた。

愛佳は自分の宿題を黙々と片付けながら、同時にジュンジュンとリンリンに日本語を教える。
前に、何故か小春が妙に自慢げに話してくれた。
みっつぃーはすごい賢いんだよ、一杯一杯勉強しないと合格できない学校に通ってるんだよ、と。

視線を少しずらして、愛佳の広げている教科書に視点を合わせる。
5秒もしないうちに目眩を感じる文字の羅列に、ジュンジュンは大人しく自分の目の前にある練習帳と格闘することにした。


「ジュンジュン、綺麗に書けたね。じゃ、次は…高橋さんのフルネームに挑戦や。
リンリンは、そやねぇ…自己紹介の文とか書いてみよかー」


自分の勉強をしながらも、2人のことに目を配っていた愛佳。
愛佳のその言葉に2人ともはーいと返事して、それぞれ与えられた課題に取り組み始めた。
愛佳もまた、宿題の続きを片付けていく。
店内には、シャープペンシルを走らせる音しかしない。


* *



今日は自分でも上出来かもしれないと、ジュンジュンはニコニコしていた。
愛佳に言われたことをバッチリ片付けることが出来たし、平仮名でリゾナンター全員の名前を書くことも出来た。
平仮名はもうバッチリ書けるようになったみたいやし、次からは漢字も少しずつやっていこかという愛佳の言葉に、
ジュンジュンは飛び上がって喜んだ。

日本語の読み書きという点では、リンリンに遅れていたものの。
ようやく先を行くリンリンの姿が見えてきたということが素直に嬉しかった。
リンリンもまた、ジュンジュンが追いついてきたことを素直に喜ぶ。
ジュンジュンが自分より遅れていることを密かに気にしていたのを、リンリンは気付いていたから。

皆それぞれの課題が終わって一息つく頃、辺りはすっかり暗くなっていた。
愛が作ってくれた晩ご飯を3人仲良く食べて、少しくつろぐ。
さゆみや絵里と一緒に外でご飯を食べてきたれいなも戻ってきて、店は一気に騒がしくなった。
若干たどたどしさは残るものの、皆と日本語でコミュニケーションをとれるのが楽しくて。
気がついたら、もうすぐ夜の11時といったところだった。


「今日は午前様コース確定やなぁ。
愛佳、そろそろ帰ります」

「愛佳、大丈夫?結構遅い時間だし、1人で帰らせるのは心配っちゃ」

「大丈夫ですよ、何かあったら呼びますし。んじゃ、おやすみなさーい」


そう言ってリゾナントを後にする愛佳。
大丈夫かなぁと言ってそわそわと落ち着かないれいなを、愛が宥めている。
戦闘能力がない愛佳を1人で帰らせるのが心配になるのは、皆同じ。
ジュンジュンは手に持っていたバナナをリンリンに手渡し、バッグを手に取った。
突然のことに、リンリンはポカーンと口を開けてジュンジュンを見返す。


「高橋サン、田中サン、ジュンジュン、光井サンを送ってくルだ」

「え、でもジュンジュン帰りどうするとー?
愛佳の最寄り駅着いたら、下りの最終間に合わんっちゃ」

「ジュンジュン、20歳だかラ平気。
マンガ喫茶、泊まッテ、明日の朝帰れバ大丈夫」


ジュンジュンはそう言うと、愛佳を追いかけて走り出す。
残された愛、れいな、リンリンは顔を見合わせて首をかしげた。
仲が悪いということはないが、特別仲がいいというわけでもない愛佳をジュンジュンが送りに行く。
珍しいこともあるものだといった表情の2人に、リンリンは笑ってこう言った。


「いつも私達の勉強見てくれル光井サンに、ジュンジュン、感謝ノ気持ち一杯デす。
だから、ジュンジュン、光井サンを送りに行っタんだと思いまス」

「なるほどね。しかし、ジュンジュンがバナナを人にあげるとは思わなかった」

「それよりも、れーなのこと田中さんって言えたことにれーなは驚いたけんね」


散々な物言いだが、愛もれいなも優しい目をしていた。
そして、リンリンは―――渡されたバナナを食べていいのか迷っていた。


* *



駅が見えてきた。
それと同時に、小さな背中も。
どこか寂しそうな空気を背負っている背中に向かって、ジュンジュンは走りながら声をかける。


「光井サン、ちょっと待つダ!ジュンジュンも一緒、付いていク!」

「ちょ、ジュンジュン。声大きい」

「あ、ごめんなさイ」


愛佳の言葉に、ジュンジュンはシュンとなる。
その姿が大型犬が耳をたれているように見えて、愛佳は苦笑した。
自分より5つも年上なのに、どこか幼いジュンジュン。
愛佳はジッと、ジュンジュンを見つめ返した。


付いていくと言っていたが、ここから愛佳の最寄り駅までは2時間強。
着く頃には、下りの最終がなくなっていることだろう。
それなのに付いていくとジュンジュンは言う。

愛佳は苦笑いしたまま、ジュンジュンに声をかける。


「付いていくって、付いてきたらうちに帰るの明日の朝になるで?
泊まるところもないのに付いてきたらあかん」

「大丈夫、ジュンジュン、マンガ喫茶、泊まル。
んデ、明日の朝一で電車乗っテ帰ル、そう決めタ。
だかラ、ジュンジュン、光井サンに付いていク」

「マンガ喫茶も最近はあんまり治安よくないんやで。
一般人相手やから何かあっても能力使えへんし…うちは1人でも大丈夫やから
ジュンジュンはきちんとうちに帰りぃ」

「やだ、ジュンジュン、光井サン送るノ。
光井サン1人の時に何かあったら、大変だかラ」


ジュンジュンの意思の強い瞳に、愛佳は小さく笑う。
一度こうと決めたら、覆さない。
そういう意思の強さを持っている、ジュンジュンは。
その眼差しの強さに愛佳は根負けした。


「分かった。でも、マンガ喫茶やと何かあったら大変やし、
今日は愛佳の家にお泊まりしてや」

「光井サンの家、泊まっテもいいでスか!
ジュンジュン、とても嬉しイ、ありがとウございマす」


小さな子供みたい、と愛佳は思った。
そのくらい幼い笑顔ではしゃぐジュンジュンを見て、泊めるくらいでそんな喜ばなくてもと苦笑いする愛佳。
愛佳はそのまま、ジュンジュンの手を取って歩き出す。
不思議そうな顔をしたジュンジュンに、愛佳は聞き取れるかどうかくらいの声で呟いた。


「手繋いどかんと、迷子になられても困るし」

「?」


改札を抜けて、自分の乗る路線のホームへと人波をかき分けるように歩いていく。
愛佳に置いて行かれないよう、愛佳の手をしっかりと握ってジュンジュンも後を付いていく。
リゾナントから徒歩15分程度のところに住んでいるジュンジュンからしたら、
愛佳を送るのは軽い小旅行みたいなものだ。
しかも、初めてリンリン以外のリゾナンターの家に泊まる。
ワクワクする気持ちが抑えられなくて、ついつい微笑んでしまうジュンジュン。

ホームについて程なく、電車がやってきた。
ぎゅうぎゅうに人が乗っている電車を見て、愛佳は低い声で今日どっか事故でもあったんかなぁと呟く。


「事故があルと、電車が混むンでスか?」

「全部が全部そうなるとは限らんけど、大概は混むなぁ。
ジュンジュン、悪いけど今日はずっと立ちっぱなしやで」


そう言いながら、愛佳はたまたま空いた乗降ドアの隅っこを陣取ってジュンジュンを抱き寄せる。
訳が分からず、とりあえず愛佳にくっつくジュンジュン。
ジュンジュンが乗った後もどんどん人が乗り込んで、ぎゅうぎゅう詰めになったところで電車のドアが閉まる。
程なく動き出す電車。

電車が揺れる度に、ジュンジュンや愛佳の方に人の重みがのしかかってくる。
愛佳は何も言わなかったが、ジュンジュンは愛佳が押しつぶされないようにとドアの手すりの部分と
椅子の手すりの部分に手を伸ばしてつっかえ棒のようにした。
自分が押しつぶされないようにそうしてくれてると気付いた愛佳は、小声でジュンジュンに話しかける。


「ジュンジュン、別にそんなことしなくてもええよ。
こういうぎゅうぎゅう詰めは慣れっこやから」

「光井サン、ジュンジュンよりも小サくて、か弱イ。
だからジュンジュンは光井サンを守ル、光井サンは何モ気にしナくてモいい」


そうすることが当たり前と言わんばかりのジュンジュンに、愛佳は小さくありがと、と言う。
普段、愛佳はれいなや小春と一緒にしゃべっていることが多く、ジュンジュンやリンリンとは
日本語を教えるということ以外で話すことが少ない。
こういう形で一緒に行動することがなければ気付かなかったであろう、ジュンジュンの優しさ。


駅で声をかけられた時は、少しびっくりしたけれど。
ジュンジュンに付いてきてもらってよかったなと、愛佳は小さく微笑んだ。
1人で帰るのが寂しいと思うくらい、今日ははしゃいだから。

―――電車は2人を乗せて、終着駅を目指して走り続ける。


* *



ようやく、2人は終着駅―――愛佳の家の最寄り駅へと到着した。
都心のベッドタウンなだけあって、ここで降りる人間は多い。
二時間程立ちっぱなしで、さすがに足が棒みたいになった2人。
足の痛さに顔をしかめながら、2人はホームに降り立った。

少し前を歩く愛佳を見ながら、ジュンジュンは愛佳をすごい人なんだなと改めて思う。
こんなに長い時間電車に揺られて学校に行って、沢山の宿題をやりながら自分とリンリンに日本語を教えて、
家に帰宅する頃には日付が変わっている、かなりのハードスケジュール。
自分とリンリンに日本語を教えるのは毎日というわけではないにしても、正直きついと思う。
それなのに、愛佳は顔色変えることなくきびきびと歩いていた。

その姿に、ジュンジュンは小春のことを思い返した。
彼女もまた、ハードな環境に身を置いている。
性格的には似ているところなどないように思える2人だけど、
置かれている環境のハードさは似ているのだなとジュンジュンは小さく笑った。

改札を抜けて、2人は無言で夜の歩道を歩いていく。
何か話さなくちゃと思う反面、話さなくてもどこか心地よい空気に2人は身を浸していた。
共鳴という得体の知れない感覚が、会話することなくとも2人を繋ぐ。




















最終更新:2012年12月02日 12:50