(24)326 『心に点る炎』



 ―今ここにいるのは“本当の自分”なのだろうか。それともそんなものは最初から存在しなかったのだろうか。

わたしはわたしが分からない。分からなくなってしまった。
今ここにこうして居るわたしは、一体何者なのだろう。

カウンターの上にポツリと置かれた、洒落たデザインのキャンドルをぼんやりと見ながら小さくため息をつく。
わたしはまるでこのキャンドルのようだ。
外観は綺麗に飾り立てられていても、肝心の火は点っていない。
そこに存在している意味がない―――


幼い頃からわたしは「手のかからないかしこい子」だった。
大人の言うことをよく理解し、それに従順に従ってきた。
そんなわたしを、周囲の人間は口々に褒めた。わたしもそれが嬉しかった。

だけど―――周囲の期待に応えようとすればするほど自分は自分でなくなっていった。

笑いたくもないときに笑い、喜びたくもないときに喜び――
悲しいときにも笑い、泣きたいときにも喜び――
他人の表情を窺いながら、そんなことを繰り返しているうちに、わたしはわたしを見失っていった。

有名進学校に進み、トップクラスの成績を維持したまま最難関と言われる大学の試験にパスした“わたし”
明るい性格で友人も多く、教師からの人望も厚かった“わたし”

・・・という“わたし”をくる日もくる日も演じてきた――そして演じ続けているわたし。
何一つ中身のない、同じ毎日を繰り返しているだけの、この先もずっとそうなのであろう―――わたし。
そのことに気付いたとき、世界から色は失われた。

 ―わたしは誰のために生きているのだろう。わたしは何のために生きているのだろう。

以来、答えを得るべくもないそんな疑問だけが、わたしの中にこだましている。


隣に座った中国人らしき少女が話しかけてきたときも、わたしの心は虚ろだった。
にこやかに対応する“わたし”を、わたしはまるで人ごとのように感じていた。

「何かよくナイことガありマシタか?」

しばらくの後、その少女が少し曇った表情で唐突にそう訊ねてくるまでは――

わたしの心は、少女のその言葉と表情に少なからぬ衝撃を受けた。
“わたし”はいつものように完璧に振舞っていたつもりだった。
これまで、“わたし”の笑顔が心からのものであることを疑った者などいなかった。
なのに――

だが、直後にその原因に思い当たったわたしは、少女の言葉に驚いた自分がバカバカしくなった。
アルコールだ。
20歳の誕生日を迎えた今日、初めて口にしたアルコールが、これまで隠してきた感情を微かに露出させてしまったのだろう。
それだけのことだ。

それと同時に、律儀に20歳を迎えるまでアルコールを口にしなかった“わたし”の空々しさを改めて感じ、絶望的な気持ちになる。

だが、周囲の人間に失望されれば、自分の存在の意味は完全に無くなる。
わたしは周囲が期待する“わたし”でいなければならないのだ。
だから、アルコールは二度と口にするべきではないだろう。
わたしがこの先もずっと“わたし”であるために――

そんな内心はもちろん完全に覆い隠し、“わたし”は隣の少女に明るく笑いかけた。

「えーっ?そんな風に見える?だって今日はわたしの記念すべき20歳の誕生日なのよ」
「オー、お誕生日デスか。おめでとうございマス」
「ありがとう。あ、一人で飲んでるのはそれが小さい頃からの夢だったからよ。あちこちからの誘いを断わってわざわざ一人になったの」

そう、それは事実だ。正確には、虚しい祝いの言葉など聞きたくはなかったから――なのだけれど。


しかし、おどけたような仕草と共にそう言った“わたし”に返ってきたのは、再びの思いがけない言葉だった。

「孤独は周りの人が作ルものではないデス。自分自身が作りマス」
「・・・・・・!」

“わたし”ではなく、紛れもなくわたしに向けられたその言葉に、思わず息を呑む。

――孤独―― そう、わたしは孤独だったのだ。

両親の、友達の、たくさんの人の笑顔に囲まれながら――わたしは孤独だった。
何故なら、皆が笑顔を向けているのは、わたしではなく“わたし”なのだから。

わたしの心を虚しくしていたものの正体を、わたしは今初めて理解した気がした。
でも――

「わたしのせい・・・だっていうの?」

わたしは“わたし”の仮面を脱ぎ去り、思わずそう問い返していた。

この虚しさが・・・この淋しさが・・・わたしのせい?
わたしがずっと孤独だったのは・・・わたし自身のせい?
冗談じゃない・・・!

わたしはずっと努力してきたのだ。
周りの期待に応えようと。
周りを失望させないようにと。

なのに、周りの人は誰もわたしのことなんて見てくれていなかった。
“わたし”のことしか。
だからこそわたしはずっと孤独だったのだ。
そしてこれからも―――


知らず、睨みつけるようにしていたわたしに対し、少女は強く・・・それでいて優しげな目をしたまま、静かに肯きを返した。

「あなたのコトをみんなが見てイナイのではなく、みんなのコトをあなたが見てイナイのだと思ウ」
「わたしが・・・みんなのことを見ていない?」
「そうデス。だからあなたはあなたのコトちゃんと見てくれてイルたくさんの人に気付いてイナイ」
「・・・分かったようなことを言うのね。さっき会ったばかりのあなたにわたしの何が分かるって言うの!?」

感情をこんなにストレートに露わにしたのは久しぶりだった。
いや・・・初めてだったかもしれない。
でも、不思議とそんな自分への戸惑いはなかった。
腹を立てて声を荒げながらも、どこか心地よかった。
これも――こんな気持ちになっているのもアルコールのせい―――?

「似ていマシタから。あなたの笑顔は――少し前までのワタシにトテモ」

――いや、アルコールのせいなんかじゃない。
目の前の少女のその言葉を聞いた瞬間、わたしはようやく理解した。

これが人と触れ合うことなのだと。
そうすることで初めて、わたしがわたしとして存在する意味があるのだと。
孤独であやふやな存在の自分は、少女の言うようにわたし自身が作り出していたのだと――

いつの間にか涙を流していたわたしにそっとハンカチを渡し、少女は自分の過去について少しだけ語ってくれた。

ずっと自分だけしか信じられずに生きていたこと。
故あって中国から日本に来たときのこと。
そして、初めてできた「トモダチ」のこと――

「ジュンジュンはワタシに『護って』言いマシタ。でも・・・ワタシもジュンジュンに護られていマス」

「トモダチ」の名を大事そうに口にする少女の笑顔は、柔らかい慈しみに包まれていた。


「わたしも・・・あなたみたいな笑顔ができるようになるかな」

呟くようにそう言ったわたしに、少女はそれまで以上に力強い言葉を返した。

「もちろんデス!バッチリできマス!」
「ば、バッチリ?・・・・・・そうかな。ありがと。・・・ところであなた・・・えっと」
「銭琳言いマス。リンリンと呼んでくだサイ」
「じゃリンリンさん、あなた・・・いくつ?わたしより若く見えるんだけど」

そう、今さらながら、どう見てもこんな店に一人でいていいような年齢には見えない。

「実はワタシも今日が誕生日デス。18歳になりマシタ」
「え?そうだったの?それはおめでとう。お祝いが遅れてごめんね。・・・でも・・・その・・・」

彼女の前にあるグラスに自然と目が行く。

「あ、コレはただの烏龍茶ですカラ。日本は未成年お酒ダメなのバッチリ分かってマス」
「そっか。・・・でもじゃあなんでわざわざこのお店に?お酒飲めなきゃあまり意味ないと思うんだけど」
「それはバッチリ分かってナイ人が一方的に『コノ店デ待ッテロ』と言って電話を切ったからデス」
「それってもしかして・・・」
「ハイ。さっき言ってたジュンジュンのことデス。しかも自分で言っておいて遅刻デス。いつもこうデス」
「ふふ・・・それはひどいね。だけど・・・大切な人なんだ。そっか・・・そういうのが友達なんだよね、ほんとの」

「ハイ!」と幸せそうに肯くリンリンという少女のその笑顔は、まるで目の前に揺らめくキャンドルの炎のような温かさに満ちていた。

―――って嘘!? いつの間に!?

先ほどまでは火が点っていなかったはずのキャンドルにオレンジ色の炎が揺れているのを改めて確認し、わたしは思わず隣に目をやる。


そこには―――先ほどまでと同じように、今日18歳になった少女の柔らかく温かい笑顔があるだけだった。




















最終更新:2012年12月02日 07:56