(22)864 『異聞、「AとR」』



突然、ぶわっと景色が見えた。軽い頭痛があった。気の早い桜がちらちらと、蕾を開かせている。
その風景の中で、少女は己の脳裏に飛来したものを見た。

夕暮れ、廃ビル、二人、たたかい

「なんや…今の」

それは―――









「服従か死か、二つに一つよ」

黒衣の粛清人の言葉には欠片程の虚勢もない。そのままの事実を淡々と述べるような口調だった。

「どっちもごめんやな、あたしは」

そう言って、リゾナンター高橋愛は軽く顎を引いて敵手を見つめる。
そのまなざしに、一切の迷いはない。

夕陽に染まる廃ビルに、しきりと風が吹いている。
風は、エントランスから階段、崩れかけの壁、割れた窓ガラスのあいだを無計画に吹き通り、
向かい合う二人の間の空気をがむしゃらに引っ掻き回していた。

でたらめに吹きすさぶ風の中、二人は身じろぎもせずに視線を交わしている。
どちらが先に動くか、それをこの二人の様子から察するのは難しい。
静かに、機をうかがっている。たたかいは、目に見えない所でその序曲を奏で始めた。

粛清人R―新垣里沙は袖口から伸びる鋼線にそろり、そろりと、意識を忍ばせる。
高橋愛は、黒衣の粛清人を見据えたまま、そっと心を澄ませた。
高橋愛の精神感応能力が新垣里沙の心の声をそっと、彼女に届ける。

「手足の一本でも切り落とせば、大人しくなってくれるかしら」
(右からけん制をかけて左で絡めとるか?)
「随分と物騒やな」
「大人しく従ってくれれば物騒な真似しないで済むんだけどねえ」
(あと半歩、間合いを詰めて…)
「何で、あたしをそこまで付け狙う?」
「決まってるじゃない。――あなたが必要だからよ」
                (あなたが必要だからよ)


―何?

ぞくり、とした感覚が全身を駆け巡った。
それと同時に粛清人の袖口からひゅん、と音を立てて鋼線が走る。
鋼線が頭部をなぎ払う瞬間、愛は瞬間移動能力を発動し空間を跳躍した。

―後ろに回って…!

背後から後頭部めがけて蹴りを叩き込む…つもりだった。

「あら、真ん前」
―?

自分の目の前に粛清人がいる。一瞬、目を疑った。
その隙を逃さず粛清人のつま先が愛のみぞおちを捉える。強烈ではないが、速くて正確な蹴りだった。
愛の体がくの字に折り曲がり、そのまま襟首を掴まれた。
粛清人の顔が息がかかるほどの所にある。

「私の心、もう一回読んでみる?」
(あんた、心にひびが入ってるわね)

―こいつ…サイコ・ダイバーか!

粛清人は瞬間移動能力の発動に合わせて意識の触手を使い、愛の精神を“引っかいた”のだ。
走り幅跳びの踏み切りの際に横から足を引っ掛けるようなものと言えるだろうか。
この“邪魔”により、愛は粛清人の背後に跳ぶはずが、
真正面に無防備な姿を晒してしまうという結果に陥った。

僅かな労力で愛の最大の武器の一つである瞬間移動を無効化し、読み取らせた心の声はブラフ。
粛清人Rこと新垣里沙は、愛がこれまでに出会ったどの敵よりも、
能力者同士のたたかいに熟達していた。


「ちいっ!」

愛は鋭く呼気を吐いて、腹部にめがけて膝蹴りを叩き込むが、粛清人は身をひねってそれをかわし、
トントンと後ろに二、三歩下がって距離をとる。格闘戦では分が悪いと思ったのだろう。
しかし、粛清人のやや厚い唇には余裕の微笑が浮かんでいた。

「あんた、サイコ・ダイバー相手だと致命的ね」
「…心のひびの事か」

幼い頃に封じ込めたi914と、愛本人の精神の間には深い亀裂が入っている。その部分はどうしても脆い。
つまり、精神干渉能力を操る粛清人にしてみれば弱点が丸見えなのである。
餌食にしてくれと言っているようなものだ。愛の背中につうっと冷たい汗が滴り落ちる。

「あんたがいくら強くても、そのひびがある限り勝ち目はないわよ」
「そうかもしれんなあ」
「だったら」

愛を見つめる粛清人のまなざしに、ふとかなしみの色が宿った。

「大人しく組織に従いなさい。高橋愛からi914に戻れば、そのひびはふさがるのよ」
「アホらしい。結局あたしじゃなくてあたしの力が欲しいだけなんやろ」
「同じことでしょうが」
「ふん」

愛はあざ笑った。

「まあ分からんやろうな、本当の仲間を持った事のない人間には」
「仲間なら私にだって」
「そりゃあんたが役に立つからさ、そうじゃなくなればどうだかね」
「違う」
「違わん、所詮組織の人間や」
「馬鹿にするな!あの人はそんな人じゃない!」


粛清人の瞳がぎらり、と怒りの炎に染められていく。

「おー図星を突かれて怒っとるわ。あたしは別にあの人の事なんか知らんのに」
「この!」

粛清人は怒りに任せて精神干渉能力を発動し愛の心のひびをおもいきり“ぶん殴った”。
一瞬風が凪いだ。
しん、と辺りが静まり返り、高橋愛が白目をむいてその場に崩れ落ちる。

「絶対に許さないんだから…!」

粛清人の頬が薄く紅潮しているように見えるのは夕陽のせいだけではない。
所詮組織の人間と言われた“あの人”こそが暗闇の中で生きてきた新垣里沙の心に一輪の花を咲かせてくれたのだ。
彼女を侮辱されるとかっと頭に血が上ってしまう。
完全に冷静さを欠いた行為である。普段ならもっと巧妙に相手の心を乗っ取れるはずだ。

コンクリートに横たわり、びくんびくんと痙攣している愛の傍らに立って、粛清人はため息をついた。
愛は口を半開きにして大量のよだれを垂らしている。
精神を破壊してしまったかもしれない、そうなればi914の力は失われてしまう。
凝っと、愛の顔を見つめた。

―やりすぎたか…

後悔の念がふつふつと湧き上がって来た瞬間、高橋愛がぎょろり、と眼を見開いた。
いや、これは愛の眼ではない。闇の底から這い出してきた獣のような眼をしている。
得体の知れない恐怖が、新垣里沙の全身を包んだ。

―i914!


里沙が叩き込んだ精神への一撃が起爆剤となって、i914が精神の奥底から解放されてしまったのだ。
爛々と眼をぎらつかせながら、i914は右手から『光』を放つ。
反射的に里沙は鋼線を走らせる。

「あっひゃああ!!」
「ちいいっ!!」

里沙の心臓へ向けて放たれた光の矢と愛の喉めがけて走る鋼線。
衝突する二つの宿命は
最早取り返しのつかない段階に達していた。






「ダメね…これは」

薄暗い部屋の真ん中に小さいテーブルがあり、その上に水晶の玉が乗っている。
テーブルを挟んで椅子に腰掛けた黒髪の女と、ダークネス最強の能力者―安倍なつみが向かい合っていた。

「どうだった?」

心配そうな口調でなつみが口を開いた。
その声を受けて黒髪――飯田圭織がなつみの目を見つめながら言った。


「新垣とi914…高橋愛だっけ?相打ちだわ。最悪ね、これじゃ何もかもパー」
「そう…」
「ってことは、やっぱ吉澤じゃなくて新垣を監視者として派遣すべきね」
「あの子を派遣したらどうなるの?」
「それは私の力じゃ分からないわよ。知ってるでしょ?」

飯田圭織の能力は『占い』
予知能力の一種で、二つの選択肢のうちどちらかを選んだ場合の結果を見ることができる。
今回は、諜報機関の長である吉澤ひとみと、それに次ぐ地位の新垣里沙、
高橋愛監視の候補者として名前の挙がっているこの二人のうち、吉澤を派遣した場合の結果を見たのだ。

「私が見られるのはどちらか片方だけ、吉澤の分を見ちゃったんだから新垣のは無理よ」
「何とかならない?」
「だから出来ない。先のことが全部分かったらそれこそ本物の神様よ」
「ねえ…あの子は優しい子だから、スパイにはあんまり向いてないと思うの」
「能力は十分高いと思うけど」
「きっとね…あの子対象に情が移っちゃうわ。でもね、よっしぃなら割り切れる、ちゃんと任務を全うできる」
「その割り切れる吉澤を派遣したら最悪の結果になるって言ってるでしょ」
「でも、あの子を派遣したからって上手くいくとは限らないんでしょ」
「他に適任者がいない」
「それはそうだけど、でもあの子はまだ」
「なっちさあ…あんた何のために組織にいるの?」
「…世界を守るため」
「だったら早く話を通してきなさい」

なつみはしばらく美しい闇色の瞳を伏せて考え込んだ後、ようやく薄暗い部屋をあとにした。

「全くもう…優しいんだから」


その日、新垣里沙に正式な命令が下された。
――i914こと高橋愛に近づき、監視せよ。と――





「なんやったんやろう…今の」

光井愛佳は空を見上げた。透き通るような青だった。白い雲が風とともに動いている。
彼女には不意に未来の光景が見える力がある。しかし、それとは少し違うものだという感覚があった。
一つ、二つ…いやもっと多くの運命が動き出す瞬間を目の当たりにしたような気がした。
心が風にざわめいている。いつか脳裏に映った二人に出会うことがあるのだろうか。
いつか一緒にこの空の青を見上げる日が来るのだろうか。


―――その日少女が見たものは、訪れることのなかった未来の記憶。




















最終更新:2012年12月01日 20:52