(22)304 『A-gain 愛よ再び(3)』



―喫茶リゾナント

愛の最も大切な場所。
いつもの見慣れた風景が色とりどりの柔らかな日差しに包まれてきらきらと輝いている。
それはまさに、空間という名の宝石であった。

愛を除いた仲間達がそこで談笑したり、コーヒーを飲んだり等
それぞれ思い思いにくつろいでいる。
愛佳の解いている数学の問題集を横から覗いてみると、問題も回答もでたらめだった。
あくまで愛の記憶とイメージの世界なので本人の関知しないところは正確に再現されないのだ。

―愛ちゃん数学苦手だもんねえ…

自分の事を棚に上げて、無事に戻れたら後で言ってやろうかと
ちょっとした悪戯心が芽生えそうになった時、自分の怒鳴り声が聞こえてきた。

「コラー!カメー!小春ー!なーにやってんの駄目でしょうがー!」

腰に手を当ててぷりぷり怒っている。これが、愛のイメージなのだろうか。

―私あんなにガミガミしてるかな?

そう思われているんだから仕方がないのだが、いまいち釈然としないものがある。

―いけない。ここにいつまでも居る場合じゃなかった。

ふと気を抜くとつい長居をしてしまいそうになる不思議な魅力がここにはあった。
しかし今は時間がないのだ。外でさゆみが気力を振り絞っていることを忘れてはならない。
里沙はリゾナントの仲間達に語りかけた。


「ねえみんな聞いて。愛ちゃんはどこにいるの?」

その声に仲間達がいっせいに反応する。

「あ、ガキさんだ」
「あら、私だ」
「新垣さん何で羽なんか生やしてるんですか?」
「本当だー、凄ーい」
「何だニーガキ、私の獣化能力に憧れてソンナ格好してるか」
「ちょっと、みっともないからそれ取りなさいよ。私」

―もう…みんなのん気すぎる。

愛にとってこの姿が彼女たちの全てということではないのだが、
喫茶リゾナントに居るときは皆このように平和なイメージが大部分を占めるのだろう。

「あのね。どこかに裂け目があると思うんだけど、知ってる人いない?」
「裂け目?」
「こう、引っ掻いたようにざくっと」
「見てないなあ」
「あるはずなのよ」
「じゃあ、探そうか」

八人と一人がかりでテーブルやカウンターの下、厨房、さらにトイレに至るまで
店中をくまなく探してみたがそれらしいものは見つからない。

「おかしい、絶対にあるはずなのに」

この喫茶リゾナントよりも上層の工場跡にはあったのだ、ここに無いわけがない。
しかし、いくら探しても空間の裂け目が見当たらない。
時間ばかりが過ぎて、里沙の瞳に焦りの色が濃くなる。


その時、声を上げたのはもう一人の里沙だった。

「あ、ひょっとして地下じゃない?」
「地下?」

―トレーニングルームか!

急いで喫茶リゾナント地下のトレーニングルームに向かうと、そこに空間の裂け目があった。

「あった…よかった…」

里沙の口から安堵のため息が漏れる。

「じゃ、気をつけてね。私」
「うん、ありがとう。」
「あといい加減その変な羽とりなさいよ」
「あんまりガミガミしちゃ駄目よ。私」
「それはお互い様でしょうが」
「ふふ。じゃあね」

自分の奇妙な見送りを受けて、里沙は傷口のトンネルをくぐった。


トンネルを抜けた途端、ねっとりとした感覚が里沙の全身を包む。
里沙の目に映るのは殆ど原形をとどめていない記憶の断片や、過去のイメージ等だ。
それに愛自身の性格を形成する様々な要素が入り混じっている。
個性の貯蔵庫、言うなれば精神の内臓とでも形容できるかもしれない。
この場に漂う意識の密度が非常に高い為、それがねっとりと纏わり付くように感じる。
相当深い所まで来たようだ。
通常ならば曲がりくねった精神の回廊を通らなければならないので
ここまで到達するのに30分近くかかる。


しかし、今回は10分も要していない。
i914の力の発動によりできた傷跡を直進して来れたということと、
田中れいなの共鳴増幅能力で力を強めてもらっているという二つの要素が里沙に幸いした。

―この分なら間に合うかもしれない。

里沙はさらに奥へ、下へと向かって飛び続ける。
この空間の最下層に近いところに、一人の少女が膝を抱え、恐怖に震えていた。

―あれは…!

見覚えのある顔がそこにいた。

「アイちゃん!」

幼い頃に愛が心の奥底へと封じ込めたi914の力を司る少女。

「お姉ちゃん!」

アイと呼ばれた少女が里沙にすがり付いてきた。

「どうしよう、私が死んじゃう!私が死んじゃうよう!」
「アイちゃん大丈夫。落ち着いて、ね?」
「ねえ私のせい?私のせいで私が死んじゃうの?」
「違うよ。アイちゃんのせいじゃない。違うよう。ほら、もう泣かないで」

里沙はアイを抱きしめて、彼女の髪をそっと撫でる。

「ねえアイちゃん、愛ちゃんはどこにいるの?」
「…海の底に沈んでいった」
「海の…」


里沙の意識が一瞬硬くなった。
精神の深層のさらに下方に、人間のあらゆる感情や、原始的な衝動が生み出される源泉が存在する。
そこは人間という存在の最も根深いものの一つ、混沌が支配する領域だ。
感情と衝動が無秩序に渦巻くカオスの海。
いかなる理性も、常識も通用しない神秘の象徴。
渦巻く混沌と同量の危険が潜む海。
そこに愛がいる。
里沙もあらかじめ覚悟していた事だ。
さゆみの力が届かないのは愛の魂がきっとこのカオスの海に沈んでいるからだとは思っていた。
覚悟はしていたが、自信があるわけではない。

「じゃあ私、ちょっとそこに潜って愛ちゃん連れてくるから、ちょっと待っててね」

それでも里沙は少女に不安を与えないように、買い物にでも行くかのような口調で言った。

「無理だよう、お姉ちゃん」
「絶対戻ってくるからね」
「お姉ちゃんまで帰れなくなるよ」
「アイちゃん、私が約束を破ったことあった?」
「え?」

粛清人との対決の直前に里沙は愛の精神に潜り、この少女に力を貸してくれるよう頼みに行ったことがある。
その時、約束したのだ。また、会いに来ると。

「…絶対帰ってきてね。お姉ちゃん」

里沙はこくりと頷いて、少女の鼻先を小指で撫でた。

「指切りしよう」


里沙は翼を広げ、さらに下へと飛び立った。
ほどなく、混沌の海が眼前に迫ってくる。
里沙は海面の間際で翼を消し、腰から下を魚のそれに変える。
おとぎ話に出てくる人魚の姿になると同時に、サイコ・ダイバーは混沌の海へと身を投じた。

恐怖。歓喜。怨嗟。慈愛。希望。絶望。
破壊。渇望。闘争。憤怒。そして、かなしみ。

ありとあらゆる感情、衝動が荒れ狂い、濁流となって里沙に叩きつけられる。
その一つ一つが激烈でなまなましい。
もしこの精神の暴風雨に飲み込まれたら、常人なら十数秒、
経験を積んだサイコ・ダイバーでも数分と持たずに発狂するであろう。
しかもそれは海に浸かっているだけの状態でだ。
さらにこの中を泳ぐとなればそれだけで既に狂気の沙汰と言える。

しかし、里沙は混沌の中を真っ直ぐに進み続ける。
彼女の生まれ持った芯の強さのなせる部分もあるが、
それ以上に、渦巻く高橋愛の感情のその全てが、里沙にはただ、ただ愛おしかった。

新垣里沙はずっと灰色の世界で生きてきた。
組織の黒と、安倍なつみの白。
その二つが混ぜ合わさった灰色に、鮮やかな黄色の光を与えてくれたのが愛だった。
そして、心響き合う仲間達。

オレンジ、ピンク、青、赤、紫、濃紺、深緑。

世界は、色彩に溢れたものとなった。

里沙を支えるもの。
それは、世界に対する愛しさだ。



――色彩に満ちた世界は、なんと美しいのだろう!

その思いが、彼女に力を与える。
その思いが、胸を高鳴らせる。
その思いが、道を開く。

さらに速度を高めて、愛の元へと海中を疾走する。
カオスの海さえ、里沙は越えていく。

しかし、限界という名の絶望は静かに、そして確実な足取りで、すぐそばまで忍び寄っていた。


「ぶふっ」

さゆみの口から、苦悶の声が漏れた。
見ると、大量の鼻血が噴き出している。
過剰な能力の使用で、脳が負担に耐え切れなくなってきているのだ。
両手がふさがっているため流れ落ちる血を拭うこともせずに、さゆみは力を振り絞り続ける。

「さゆ、大丈夫?」
「大丈夫、まだ、まだもつわ」

段々と視界が霞んできているが、まだやれるはずだ。

―ガキさん、急いで…

れいなの悲痛な思いが月光に溶けて、空中に漂う。
その頃、ついに里沙は、愛を見出した。

愛は、混沌の闇の中でひっそりと眠りに落ちていた。


「愛ちゃん…ねえ、起きて」

朝だよ。と、言うような口調で語りかける。
ゆっくりと、愛が目を開いた。

「ガキさん…あれ、あたし…何でこんな所に?」
「大丈夫?早くつかまって」

里沙が差し伸べた手を掴んだ瞬間、愛はようやく己の身に降りかかった事態を思い出した。

「里沙ちゃん!」
「何よう急に」
「何でこんな所におるの!」
「あなたを助けに来たんでしょうが」
「無茶や!」
「今更無茶も何もないでしょ。ここまで来ちゃったんだから」
「それはそうやけど…あんま心配かけんといてな」
「もう、それはどっちの台詞よ」

このちょっとずれたやり取りが、里沙にはなんとも楽しく、懐かしい。

「帰ろう、愛ちゃん。リゾナントへ」
「うん」

カオスの海からさえ抜け出せれば、さゆみの力が届くはずだ。
その後はゆっくり帰ればいい。


一瞬。

ほんの一瞬。
極度の疲労が里沙から集中力を奪った。
限界が、牙をむいた。

―しまった!!

ほんのまばたき程の時間、しかしそれは致命的な瞬間だった。
二人は荒れ狂う激流に翻弄され、流され、もみくちゃにされた。
かろうじて出来た事は、離れ離れにならぬよう、きつく手をとり合うことだけだった。

完全に方向感覚を失ってしまった。
どっちが上で、どっちが下かわからない。

「ごめん、愛ちゃん。帰り道が分かんなくなっちゃった」

里沙は静かに、愛を見つめる。
愛は黙って、里沙の手を握った。


「さゆ!頑張って!!」

れいなの悲痛な叫びが工場内に響いた。
さゆみの鼻から流れ落ちる血が、彼女の胸元まで赤く染め上げている。
目がうつろになって、口を開くたび声にならない呻きがもれる。

―死なせない

その一念だけがさゆみの全てを占めていた。
悲壮なほど結晶化した思いが、その手からほとばしる。
しかしそれも最早もう、いくらももたないだろう、というのはれいなの目に明らかだった。
胸をかきむしりたくなる程のもどかしさに身をよじる。
さゆみの、愛の、里沙の、彼女たちの苦痛を肩代わりできるものならしてやりたい。
三人の壮絶な姿がれいなの胸を抉る。
れいなの心が悲鳴をあげた。絶叫であった。

―誰か!ねえ、ねえ誰か!!

「愛ちゃん!」

聞こえてきたのは、れいなの耳がよく知っている声だった。
絵里が、パジャマの上からカーディガンを羽織って、息を切らせながら駆け寄ってくる。
病室から抜け出してきたのだろう。
すぐ後に、小春、愛佳、ジュンジュン、リンリンも続いて三人のところへ走ってきた。


「高橋さん…」

愛の姿が先程自分が見た予知とぴったり重なっている。
愛佳の胸がぎゅっと苦しくなった。

「絵里、みんな…愛ちゃんが」
「れいな、ごめんね遅くなって」
「さゆが必死に治してるんだけど全然傷がふさがらなくてそれで
ガキさんが愛ちゃん助けに行ったっちゃけどまだ…」

感情が先走りすぎて言葉が上手く出てこない。
絵里は黙ってれいなの言葉を聴いていた。

「小春」
「はい」
「二人に言いたいことがあるんでしょ?じゃあ、今言いなさい」
「今、ですか?」
「今言わないでいつ言うのよ」

小春はゆっくりと頷いて、愛と里沙の傍らに立って、意を決して大きく息を吸い込み、
そして、腹の底から声を張り上げた。


「帰ってこーーーーーーい!!!!」


小春の叫びを皮切りに、仲間達が次々と思いを声に乗せる。
口から発せられる言葉は違えど、思いは一つだった。



「んー、もうちょっとだったんだけどなあ」

里沙が愛を見つめ、苦笑を頬に浮かべた。

「ごめん。あたしのせいで里沙ちゃんまで…」
「そういう事言わない」
「でも」
「こうなったらいちかばちか、当てずっぽうで行くしかないわね」

どの道このまま留まっていても望みはないのだ。
ならば最後の力を振り絞って賭けに出るしかない。

「どっちに行けばいいと思う?」
「そんな…あたし選べんよ」
「愛ちゃん…私、愛ちゃんとだったらどこまでも行けるから」

里沙はそう言って、ちょっと照れたように笑った。
一番大切な人の中で、海の藻屑と消えるのもそう悪いものではないんじゃないか?
という思いがあった。
二人は見つめ合って、決意を固める。

その時、混沌の暗黒に、光が差した。



オレンジ、ピンク、青、赤、紫、濃紺、深緑。


七色の光が、闇を照らす。

「里沙ちゃん…あれ…」
「綺麗…」

人間の精神の最も深いところまで、人の思いが到達するなど常識では考えられない。
心響き合う共鳴者だからこそ、それを可能にしたのだ。
いや、それを可能にするからこその共鳴者、と言っていいだろう。
そしてこれこそがリゾナンター最大の武器、絆だ。


「行こう。愛ちゃん」
「行こう。里沙ちゃん」

行こう。光の差す方へ――



「ふさがった!!」

さゆみが声を上げた。力がようやく反応したのだ。
愛の顔色にみるみる生気が戻っていく。

「やった!」

仲間達から歓声が上がる。その場でうれし涙を流す者、隣の仲間と抱き合う者。
安堵が、喜びが、町外れの工場跡に沸騰した。


リゾナント・ブルーに輝く青い月が、愛の生還を、共鳴する9人を、
何も言わずに優しく照らしていた。





















最終更新:2012年12月01日 16:52