(22)114 『少女 マリコ』



新垣里沙は憔悴していた。

スパイとしての2重生活が、里沙の精神を、じわじわとすり減らしている。
リゾナンターとしての生活に苦痛は無かった。むしろ幸せな…、楽しいと言ってもいい日々が続いていたはずだった。

しかし…、『仲間』たちと大きな声で笑いあった次の瞬間、里沙は凍りつくような嫌悪に捕われる。
自分のその笑顔が、裏切りの『仮面』の上でしか成り立たない物であることに気付き、その空虚さを思い知るのだ。

自分を慕ってくれる声も、笑いかけてくれる笑顔も微笑みも、全ては自分が被っている『仮面』に向けられたもの…。
『仮面』を剥ぎ取られた時…。自分に向けられるのは、それは憎悪。そして軽蔑。あるいは…恐怖。

『仲間』たちとの楽しい時間の中で、里沙は常にその裏側にある破滅の予感に怯え続けていた。

その夜も、喫茶「リゾナント」で過ごした楽しい時間の、何倍も重い自己嫌悪を心に抱えて、里沙は冷たい雨の中を一人歩いていた。


最近、リゾナンターのリーダーである高橋 愛の様子に変化が現れていた…。
喫茶「リゾナント」で過ごしている時、あるいはリゾナンターとしての作戦行動を取っている時…、里沙はふと自分の『仮面』を意識し、強烈な自己嫌悪にとらわれる。
その視線の先には、常に高橋愛の姿があった。

しかし、最近…。里沙が自己嫌悪に陥り、その笑顔を凍りつかせる時、その視線の先にいる愛もまた、何かに怯えるかのような、不安げな表情を見せている。
愛もまた、以前とは明らかに違う『何か』を感じ取っているように見えた。

「…私がスパイであることに気付いたのだろうか…?」
高橋愛には『精神感応』の能力がある。しかし、しかし、里沙もまたそれをブロックするだけの能力はあるはずだった。
そしてまた、愛も理由無く他人の精神を覗く事は無い。里沙にはその確信があった。

ではなぜ…?
理由はわからなかった。だが、愛が何かに気付いた事、そして恐らくは里沙の『仮面』が剥がされる日が近づいている、と言う事は間違いないように思われた。

ふと、里沙は繁華街のメインストリートの横の、階段を下りた路地にある小洒落たショットバーの看板に目を止める。

「…お酒で辛さを忘れる事なんて、本当に出来るのかな…?」

里沙は成人してはいたものの、本格的に酒を飲んだ事も無く、酩酊、泥酔に至る事は今までになかった。
その店は、設えも洒落ており、女性が一人で入るのにもさほど抵抗は感じられなかった。
激しくなってきた雨を避けるかのように、里沙は店の入り口へと歩みを進める。


期待に違わず、店内には女性の客も多かった。そして一人で訪れた里沙も特に珍しがられる様子も無く、カウンターの席へと案内される。

「ちょっと強いお酒を…」
と里沙がバーテンバーに言いかけた時、カウンターの反対側から女の声が飛んだ。
「もっと強いお酒をちょーだい!!」

里沙が声のした方を見ると、カウンターの反対の端に若い女がいた。
赤いライダージャケットにたくさんのアクセサリー、黒のミニスカートに網タイツという派手な格好の女が、バーテンダーとなにやら揉めている様子だった。

「…あ、すいません、あのお客さん、かなり酔われてるみたいで…。ご注文、何でしたっけ?」
バーテンダーに問われて、里沙は同じように「強いお酒を」と言うのも気恥ずかしく、意に反したオーダーをしてしまう。
「…じゃあ、カシスオレンジを…」

甘いカクテルを飲みながら、これじゃなかなか酔えそうもないな…。そう思いながら、里沙は先程の女のほうをチラチラと見ていた。
女はかなり泥酔した状態でありながら、さらに強い酒を要求してはバーテンダーに諌められているようだった。
女はしばらく騒いでいたが、しまいにはあきらめたらしく、ふらつく足取りで店を出て行った。

「…あんまりみっともいいものじゃないな…」
泥酔してみたい、という気持ちもすっかり萎え、里沙は早々に店を出る事にした。


まだ降り止まない雨に天を仰ぎながら、暗い路地に歩み出る。
メインストリートへの階段を上がろうとしたとき、ふと、暗い路地の隅にわずかに動く影を見つけた。
「…?」
里沙が目を凝らして見ると、それは土砂降りの雨の中、傘もささずにしゃがみ込んでいる女の姿であった。

「…あれは、さっきの…?」
里沙は思わず歩み寄って、傘を差し掛ける。だいぶ前に店を出て行ったはずの、さっきの女だった。
「どうしました…?大丈夫ですか?」
里沙が声を掛けると、女は顔を上げた。女は号泣していた。
雨と涙でぐしょぐしょに濡れた顔は派手な化粧もすっかり落ち、まるで童女の様に幼い表情を見せている。

明らかに未成年…、それもひいき目に見ても17~18歳位に見える少女は、泣きながら夢にうなされるようにつぶやいていた。
「裏切っちゃった… 裏切っちゃったの…」
少女の言葉に里沙は凍りついた。自分の心の奥底を見透かされたような気がした。

… … …


1時間後、少女は里沙のマンションにいた。シャワーを浴び、里沙から借りたパジャマを着た少女はいっそう幼く、愛らしく見えた。
「何があったの…? まだ未成年なんでしょ? …あんなお酒の飲み方をしたらだめじゃない…」
年下らしい事がわかった事もあり、里沙は少しお姉さんぶって少女を諭す。

「…すみませんでした…」
熱いシャワーでだいぶ酔いも覚めたらしい少女は、ポツリポツリと話し始めた。
しかし、彼女の話はその幼い表情には似つかわしくないものだった。
少女の名はマリコ。話を聞けばまだ17になったばかりだと言う。

マリコの両親は早くに離婚し、父親の顔は知らないと言う。中学になる頃、新しい父親が現れたが、マリコとは折り合いが悪く、お決まりの不良化への道を歩んだ。
中学を卒業すると同時に家を飛び出し、中学時代にやさしくしてくれた先輩の、一人暮らしの部屋へと転がり込む。

中学時代には「天使」とも呼ばれた先輩は、意外にも風俗嬢となっていた。
「…だって、お金が欲しいじゃない…?」
そううそぶく先輩に違和感をおぼえながらも、先輩の止めるのも聞かず、マリコは年齢をごまかし、尊敬する先輩と同じ風俗店で働き始める。

愛らしいルックスもあり、そこそこ人気も出たマリコは、小金を稼ぐようになっていった。
幼い精神(こころ)に不釣合いなお金…。マリコの生活はさらに荒れていった。

まもなく、見かねた先輩が真実をマリコに打ち明ける。彼女は自分の父親の病気の為、看病に追われる母親に代わって、医療費の全てを稼ぎ出そうとしていたのだった。
「あんたはこんな所にいちゃいけないのよ…」
彼女は、マリコの新しいバイト先も、新しいアパートも探してきてくれていた。


心を入れかえ、新しい生活を始めたマリコは、バイト先で新しい恋を見つけた。
平凡だが真面目な大学生…。だが、少し年上の彼のやさしさは、父親の愛情に飢えて育ったマリコにとって、大きなやすらぎとなった。

…しかし、マリコの心の中に、今は忘れたい過去となった風俗店での経験が、暗い影を落としていた。
それが決定的になったのは、皮肉にも彼の家に招かれた時だった。

「…だって…。みんな良い人なんですよ…?」
そう、少女は言った。
お姉さんのようにやさしかったと言う母親や、自分の義理の父とは似つかない、気さくな父親と接しながら、自分の過去が、いっそうの嫌悪と共に思い出されてきたのだと言う。

立場は違えど、里沙には少女の心情が理解できるような気がした。
「…でも…、それは過去の事でしょ? 誰にでも過ちはあるよ? むずかしいかも知れないけど、それは忘れた方がいいよ…」
里沙は少女の肩を抱いて言った。

「…いいえ…。もう過去じゃないんです…」
少女の目から、再び涙がこぼれだす。

その日以来、彼となんとなく距離を置きはじめたマリコのもとに、知らせが届いた。あの先輩が、過労で入院したと言うのだ。
父親の治療費の為、休みもなく、かなりの無理を重ねていたらしい。
先輩を病院に見舞い、眠る彼女の痩せた横顔を見たマリコは、ある決意をする。

その足で、かつて勤めていた風俗店を訪れ、しばらく入院する事になった先輩に代わり、再び働かせて欲しいと頼み込んだのだった。
先輩の為に、入院の費用、父親の治療費を代わりに稼ぎ出そうというのだ。
彼とはもう続けられない…。マリコは哀しい決意を固めていた。


…それ以来、バイトを止め、彼の電話を着信拒否にしたマリコは、それでも断ち切れない思いに苦しめられていた。
…会いたい…。どんなかたちでも、もう一度会って話がしたい…。
しかし、その日マリコは決定的な事実を知る事になった。街中で、以前のバイト先の同僚に偶然出会ったのである。

「…お前、こんなところで何してるんだよ…? 今、風俗にいるって本当なのか? お前が店に入るのを見たってヤツがいるんだよ…。 しかも、実はずっと前からだって言うじゃないか?」
「連絡も突然取れなくなったって…、ひどいヤツだなお前…。アイツ、えらく落ち込んでるぞ? からかったのかも知れないが、アイツは純情なヤツなんだ…。 あんまりひどい事をするなよ!」

彼の友人でもあるかつての同僚は、マリコを強い口調で非難した。
…だが、その事以上に、彼を傷つけてしまった事、裏切ってしまった事に対する痛みが、マリコの心をズタズタに引き裂いていた。
慣れない酒を飲んでもみた。飲み続けてみたが、胸の痛みはいっこうにやわらぐ事はなく…。
土砂降りの雨の中、置き去られた幼子の様に泣き続ける事しか、もはやマリコには出来なかった…。

… … …

話し終えた少女は、涙で顔をグシャグシャに濡らしながら、
「もう彼には、会えません…。もう二度と…。こんなにひどく傷つけてしまったら…」
そう言い続けていた。

「…でも、それでいいの…? 今でも…、彼がとても好きなんでしょ…?」
里沙は少女にやさしく問い掛ける。
「…はい…。大好きです…。…でも…、でも…!」
少女は泣き続けるばかりだった。

「わかった…。でも、今日はもうゆっくり眠りなよ…。明日、落ち着いて考えてみて…。本当にそれでいいのか…」
里沙は来客用の布団に少女を寝かしつけた。
泣き疲れたのか、少女は程なくかすかな寝息を立てて眠りについた。

… … …


里沙は夢を見ていた。

夢の中で、里沙はいつものようにリゾナンターの『仲間』たちと作戦行動を取っていた。
しかし、なぜかマリコが着ていたようなライダージャケットに身を包み、戦っているメンバーたちの表情は、いつもと違っていた。
戦闘中とはいえ、その表情は妙に冷たく、心の『共鳴』が伝わってこない。

「ねえ…? みんな、どうしたの…?」
里沙がメンバーに歩み寄った時…。突然ビジョンが切り替わる。
マリコと出会った暗い路地の階段で、メンバー達が土砂降りの雨に打たれていた。

愛が、号泣している。れいなが、声を押し殺すように、唇をかみしめながら泣いている。メンバーたち全員が、降りやまぬ雨に全身を打たれながら、深い哀しみを湛えた眼で里沙を見つめ、…泣いていた。

そのとき、里沙は、自分の最も恐れていた事が、何であったのかに気付く。
『仮面』を剥ぎ取られた時…、自分に向けられる『憎悪』、そして『軽蔑』、あるいは『恐怖』…。
里沙が真に恐れていたのは、それではなかった。

真に恐れていたもの…、それは、『仲間』たちの心を襲う、深い『哀しみ』…。
夢の中の『仲間』たちは、深い哀しみに心を打ち抜かれ、泣いていた。
心の痛みが、泣き顔から、里沙を見つめる眼差しから、里沙の心に流れ込み、
耐えられないほどに締め付ける。

『哀しみの共鳴』…。
8人の哀しみの共鳴を一身に受けた里沙は、凍りついたように動けなかった。
涙を流す事も出来ず、喉が締め付けられ、呼吸さえも出来ない。
苦しさが加速していき、胸が潰れそうに痛む。
里沙は心の中で「許して…」とつぶやくのがやっとだった。

… … …


「いやああああああああああ!!!!!」

叫び声を上げ、里沙はベッドの上に起き上がる。

夢の中では流す事の出来なかった涙が、顔をグシャグシャに濡らしている。
喉がからからに渇き、全身が冷たい汗で濡れていた。
ふと手を見ると、握りしめた指の爪が手のひらにくいこみ、手のひらから血が滲んでいる。

まだ外は薄暗い。

カーテンからさしこむほのかな光で部屋の中を見ると、すでに布団はたたまれており、少女の姿はなかった。

布団の上にたたまれたパジャマが置かれていた。
その上に置かれた小さなメモには、「本当にありがとうございました」
とだけ、拙い文字が書かれていた。

「…マリコ… それでいいの…?」
里沙はそうつぶやきながら、自らも1つの決意を固めていた。

… … …

数日後、里沙はからっぽになったマンションの自室にいた。
もう一度ゆっくりと部屋を見渡すと、照明を消し廊下へと出る。
そして、今までの思い出に鍵をかけるかのように、ゆっくりとキーを回した。

今日、里沙はある決意を胸に、「リゾナント」へと向かう。
外へ出ようとすると、いつかのような土砂降りの雨が降り続けていた。

空を見上げ、里沙はつぶやく。
「…ねえ… マリコ… 本当にそれでいいの…?」
それは、まるで自分に言い聞かせているかのように響いた。




 ・・・to be continued to the story in your mind.





















最終更新:2012年12月01日 16:38