(17)927 『禍刻V―Thanatos in the future―』



日付が変わろうとしている。

自分の他には誰の姿もないオフィス街の中を、駅へと向かって一人歩きながら、光井愛佳は時計の針を眺めていた。
蒼黒のビル群に切り取られた夜空には、どこか濁ったような光を放つ満月が浮かんでいる。

 ――なんか不吉な色調(いろ)の月やな。

手首の時計から目を離し、その月を見上げながら胸のうちで呟いた愛佳は、思わず苦笑を浮かべる。
「不吉」などという曖昧な言葉は、自分にとってほとんど意味を持たないことを思い出したからだった。

愛佳にとって、「縁起がいい」「嫌な予感がする」などといった表現は本来無縁と言える。
そのような漠然とした表象ではなく、はっきりとした映像として“未来”が“視”えるのだから。

それでも、朝淹れたお茶に茶柱が立っているとなんだか嬉しいし、入院見舞いに鉢植えを持ってこられたらきっと嫌な気分になるだろう。
人間というのは不思議なものだ。

 ――そろそろや。

そんなことを考えながらも再び時計に目をやっていた愛佳は表情を引き締め、ぶら下げたカバンを握る手に力を込める。

 ――3、2、1・・・0!

声なき秒読みをしていた愛佳は、カウント0の一瞬前に身体を半回転させ、カバンを持った手を振り上げた。
布地を引き裂く音が静まりかえったオフィス街に響き、同時に愛佳は僅かな狼狽の気配を感じた。

だが、その気配は瞬時に遠ざかり掻き消える。
後には、愛佳の“身代わり”となったカバンとともに、置き土産が残されていた。

コンバットナイフ――

それは明らかに殺傷を目的とした形状の、禍々しく鋭利な置き土産だった。


「あーあ。カバンと辞書に穴があいてしもた・・・。まだ割と買うたばっかりやったのに」

カバンに垂直に突き刺さったナイフを少し眉をしかめて見遣った後、愛佳は虚空に向かって話しかけた。

「それにしても見事に迷いがありませんね。完全に愛佳のこと殺す気ぃで来はったんやな」

姿も返事もない相手に対し、愛佳は一人のんびりと話し続ける。

「当然それなりの自信と覚悟があってのことやろうけど・・・・・・ちょっと相手が悪かったんとちゃいます?」

愛佳の声のトーンが微かに低くなる。
声は、傍らの建設中のビルに反響して尾を引いた。

「“不可視化能力(インビジブライズ)”・・・でしょ、そちらさんの能力。自身の姿と、触れているものを見えへんようにできるってやつ」
「・・・・・・少しお前のことを見縊っていたのは確かのようだ」

暫時の沈黙の後、虚空から声が聞こえ、愛佳はやや斜め方向へと体を向けた。

「あ、そっちにいはったんですか。話しにくいからちょっと姿現しませんか?それとも怖いですか?」
「挑発には乗らないよ、光井愛佳。自らのアドバンテージを放棄するほどバカではない」
「そうですか。まあ愛佳みたいな若い美人さんを前にしたらそら顔は出せませんよね、オバちゃん」
「・・・たまたま初撃を回避できただけで随分威勢のいいことだな」
「姿隠して後ろから不意打ちするだけしか能のない人にこれ以上のかける言葉はあらへんと思いますけど」
「・・・やれやれ。随分と調子に乗らせてしまったようだ。そろそろその口閉じてもらった方がよさそうかな」
「そう言いながらえらい警戒してますね。・・・多分こう思ってはるんでしょう?」

僅かに口の端を持ち上げ、愛佳はシニカルな笑みを浮かべる。

「『こいつはどこまで“未来”が“視”えているのだろう』――って」


「・・・・・・返事がないとこみると図星ですか?不安なんでしょ?自分の行動がどこまで見通されてるか」

返事のない虚空に向かい、愛佳は一人話し続ける。

「予知能力者相手にするんは初めてですか?・・・まあ初めてでしょうね」

全く声のトーンを変えずに話していた愛佳は、突然身体を沈め、カバンの持ち手を強く握ったまま円転した。

「ぐっ・・・・・・」

鈍い衝突音と呻き声が静まりかえったオフィス街に一瞬響き、すぐに霧散した。
目に見えぬ相手が、再び慌てて距離を取る気配が伝わる。


「あんたは予知能力者を相手にするということの意味をなんにも分かってへん」


ゆっくり振り返りながらそう静かな声で言う愛佳の姿が、月の光に照らされて妖しげに揺らめく。
先ほどまでの皮肉な微笑も消え去り、静かな無表情を湛えたその姿は、満月夜のひんやりとした空気を纏ってぞっとするような光景を描き出していた。

「不可視化しようが気配を殺そうが無意味やってそろそろ気付いたらどうですか?結局それは“現在(いま)”でしかないんやから」

再び静寂が辺りを支配する。

「・・・予知能力者というやつはどいつもこいつも偉そうで反吐が出るな」

やがて、吐き捨てるような口調の声がその静寂を破った。


「ふーん。他に予知能力者の知り合いがいはるんですか」

愛佳の声にやや感情が戻る。
だが、それも僅かの間のことだった。

「ふん、知り合いには違いないな。そいつは自分のことを“神”と称している。自分は未来をこの手に収めた存在だと。・・・どうやらお前もそのクチらしいが」
「・・・・・・神なんかとちゃう」

一瞬、辺りの空気が凍りつきそうなほど冷たい声が、無表情の愛佳から発せられた。
愛佳は静かに言葉を継ぐ。

「そのお知り合いとは話が合いそうにないですね。愛佳は自分を神やと思たことなんて一度もない」
「ならば何だ?普通の人間だとでも言う気か?常人に見えないものを“視”ることのできるお前が」
「・・・・・・普通やとは思いません。“神に選ばれた人間”・・・そうは言えるかもしれんけど」
「ははっ!そうきたか!笑わせてくれるな光井愛佳。神じゃないけど神に選ばれたお偉い人間サマってわけか」
「偉い?愛佳はそんなこと一言も言うてへん。神に選ばれたら偉いなんて誰が決めたんですか?」
「ご高説だな。偉いと決めるのは自分じゃない、周りが勝手に崇めるだけだ・・・というわけか」
「・・・・・・言うだけ無駄なんは分かってましたけど・・・会話が成立せえへんのは不快ですねやっぱり」
「さすが予知能力者様は何でもご存知だ。我々とはレベルが違う。なにしろ未来を改竄することさえできるんだからな」
「改竄?・・・未来は最初から一つや。“未来”を変えることはできても本当の意味で未来が変わるわけとちゃう」
「低レベルな我々には予知能力者様の高尚なお話は理解できそうもないな。分かるのは、神様ぶって悦に入っているお前らには反吐が出る・・・それだけだ」

やり取りのうちに、やや激しかけていた愛佳の声のトーンが再び温度を失う。

「・・・・・・取り消す気ぃはないですか?今の言葉」
「おや、神様のご機嫌を損ねてしまったようだ。天罰が怖いな」

冷笑するようなその声に愛佳は一瞬下を向いてため息を吐き、顔を上げると静かに言った。

「いくら待っても誰も来ませんよ」―――と。


動揺の気配が夜気を伝わってくる。

「初撃を失敗した時点でお仲間さんにメールで連絡をとったことくらいお見通しです。無駄に喋って時間を稼いでることも。そやけど待ち人はここには来れません」

虚空に向かい、淡々と愛佳は“予言”を告げる。

「ふん・・・ハッタリを言っても無駄だ。なんとか未来を変えたくて必死なんだろうがな」

そう鼻で嗤う声の端には、言葉を発した本人も気付かないほどの微かな不安が滲んでいた。
数瞬の沈黙の後、愛佳は軽く息を吸い込み口を開く。

「さっきから『未来を改竄する』だの『未来を変える』だの言うてはりますけど、そもそも未来ってどういうもんやと思ってはるんですか?」
「はっ。そんな高尚かつ無駄で無意味なことなど考えたことはないな」
「未来は唯一無二の存在や。でも愛佳ら予知能力者の“視”る“未来”は無数の“可能性”のうちの1つにすぎひんのです」
「で?」
「簡略化して言いましょか。例えばサイコロを振ったとき、どの目が出るかによって“未来”は6つある。そやけど実際に出る目=未来は1つやいうことです」
「だから?」
「それを踏まえて、『1』の目が出て欲しいのに他の目が出るいう“未来”が“視”えたとしたら・・・どうします?」
「さあ?投げ方を変えるとか?あ、でも“未来は唯一無二の存在です”でございましたっけか」
「いえ。“未来”は変えられる。そやから言わはったとおり『1』の目が出る投げ方をすればええんです。その投げ方をひたすら探して」
「そのとても分かりやすいお話がどうかなさいましたのですか?」
「まだ分からへんのですか?自分でさっき言うてはりましたけどほんまに低レベルですね」
「・・・なんだと?」

「あんたは予知能力者を相手にするということの意味をなんにも分かってへん」

愛佳は静かに先ほどの言葉を繰り返した。
辺りを覆う闇ですら後退しそうなほどの、凄みのある不気味な空気をその身に纏って。


「愛佳は未来を変えられるわけやない。そやけど・・・・・・自分の思い通りの未来を選び取ることはできる」

言葉を失くした相手に対し、一転、嫣然たる笑みを浮かべて愛佳は告げる。

「すなわち・・・“予知能力(プリコグニション)”――“予め未来を知る能力”は、“予定能力(プリディシジョン)”――“予め未来を定める能力”と同義やいうことです」
「思い通り・・・だと?は・・・はは!バカな!お前が未来を創っているとでも言う気か?」

言葉とは裏腹に震え始めた声を置き去りに、愛佳は続ける。

「明日買い物に行く予定、これからご飯を食べに行く予定、来週末旅行に行く予定・・・・・・人は普通、自分のことしか“予定”はできませんよね?そやけど・・・・・・
予知能力者はその気になれば、他人の“予定”も組むことができる。ロマンティックな言い方してほしいんやったら、他人の運命を左右できる・・・ってとこですね」

抗い難い不可思議な説得力を持って、愛佳はそう厳かに宣言した。

「他人の運命を左右できる・・・だと?ふざけるな!お前ら予知能力者はどこまで尊大で傲慢になれば気が済む!何が『自分は神ではない』だ!」
「・・・神なんかとちゃうからそう言うてるだけです。・・・・・・神なんてクソくらえや」
「どこまでも不遜だな光井愛佳。自分は神を越えた存在だとでも言う気か。これ以上は聞くに堪えない」
「・・・心配せんでももうすぐ聞かんで済むようになりますよ。この話聞かせるときは“予定”を組み終わった後ですから」
「何・・・?」
「言うたでしょ?愛佳にはできるんですよ。例えばサイコロで『1』の目が出る未来を選び取ることも・・・・・・あんたがこの場で死ぬ未来を選び取ることも」
「ふざけ・・・」
「時間、場所・・・他にも色んな要素が組み合わさって今この状況がある。そして今もひたすら愛佳が選んだ未来に向かってる。・・・つまりあんたの“死”に」
「あ、ありえない!そんなこと・・・」
「主観的にはそやろな。そやけど人が死ぬんは当たり前のことや。生きてる限り死は常に隣り合わせなんやから。死が『ありえない』なんてことが逆にありえへん」
「お、お前が・・・お前らがそんなに偉いのか!お前らに何の権利があって・・・」
「時間です」

死はいつでも不意にやってくる。

建設中のビルから、一本の鉄材が落下した。
まるで、その下に“運悪く”立っていた者の命をただ奪うためだけの如く―――


「“神”とやらがほんまにいるんやったら・・・」

“不可視化能力”が解けて現れた、鉄骨に貫かれた女の無残な姿を眺めながら、愛佳は吐き捨てるように呟く。

「こんな光景が見れてさぞかし喜んでるんやろな。それともこんな程度は見飽きたとでも言わはるんやろか」

もし存在するとすれば。

この世界を創るだけ創って放置し、気分のままに適当に管理しているだけの神。
自分やその他数人に気まぐれに特別な力を与え、それが為に苦しんでいても、その理由すら説明しない神。
残酷な過去を背負い、過酷な現在を懸命に生き、それでも明日を見据えていた《あの人》の命を思いつきで奪った神。
恐らくは自分の創った世界で自分の創った者たちがもがき苦しむのを、薄ら笑いを浮かべながら眺めているに違いない神。

この世の中のどんなものよりも穢らわしく、醜い存在――それが愛佳の中に在る“神”だった。

そんな神に行き当たりばったりに選ばれ、その暇つぶしのためだけに生きている自分。

「・・・・・・神なんかとちゃう」

その神と同列に扱われるなど冗談ではない。
様々な感情が渦巻く中、胸から鉄材が突き出た女に、愛佳は再び吐き捨てるようにそう呟いた。

そう、自分は神などではない。絶対に。
強いて言うならば・・・・・・

「あんたにとっての“死神”ではあったかもしれへんな」

女が遺したナイフをハンカチを使って引き抜きながらそう言うと、それを無造作に持ち主の脇に放り投げる。
そして踵を返し、静かに歩き出した。

不吉な色調(いろ)の月明かりに照らされた幽闇の中を―――





















最終更新:2012年11月25日 22:04