(17)640 『禍刻IV―Flame burn down all―』



「どうした?何泣いてる?」

夕暮れの迫る茜空の下、道端で一人泣いている幼い少女に、銭琳(チェン・リン)は思わず声をかけた。

同じ視線の高さになるようしゃがみ込み、優しく微笑んで首を傾げる「お姉さん」に、少女はしゃくりあげながらも拙い言葉でその理由を話す。

「そうか。お母さんに叱られて家を出てきたか。でも、今頃きっとお母さん心配してるぞ?」
「しん・・・ヒック・・・ぱい?」
「そうだ。もうすぐ日が暮れる。だから家に帰ろう」
「でも・・・おかあ・・・さん・・・きっとミクのこと・・・きらいに・・・なったんだもん・・・ウッ・・・ウッ・・・」
「嫌いになった違うよ。お母さんが怒ったのはミクちゃんに立派な大人になってほしいからネ」
「りっぱな・・・おとな?」
「『正しいことは正しい。いけないことはいけない。』それがちゃんと分かる大人が立派な大人だ」
「わかんないよ・・・・・・ゥゥ・・・」
「アイヤちょっと難しかたか。とにかくお母さんはきっともう怒ってないよ。だってミクちゃんのこと大好きだから」
「・・・ほんと?」
「ミクちゃんがちゃんと今日のことごめんなさい言ったら大丈夫だ」
「うん、ミク、ちゃんとごめんなさいする」
「おう!いい子だ!・・・お。あれ、ミクちゃんのお母さんじゃないか?」
「えっ?あっ!ほんとだ!おかあさん!」

傾いた日に照らされた母親の顔が安堵の表情を浮かべていることを見て取り、琳は静かに微笑む。

母親の元に駆け寄った少女が母親に身振りを交えて懸命に何か話している。
やがて、母親は少女の頭を抱き寄せながら琳の方に向き直り、申し訳なさそうな表情と共に会釈をした。
微笑みながら会釈を返し、少女に小さく手を振る。

少女が満面の笑みで手を振り返すのを確認した琳は、再度軽く母親に会釈をすると、踵を返し歩き出した。

先ほどまでとはうって変わった厳しい表情で―――


    *  *  *


「好久不見了,銭琳」
「・・・・・・一年ぶりだな」
「ふん、もう言葉マデすかりこの国に馴染んダカ。銭家の“継承者”ヨ」

完全に日も落ち、煌々たる満月の明かりに照らし出された幽闇の中、琳は一人の女と対峙していた。

「・・・私を呼び出した理由を聞こう、王翠英(ワン・ツェイイン)」

 王翠英――かつての朋輩であり、同士であり、好敵手であり・・・ある事件以降袂を分かつこととなった相手。

「思い出話をする気もない・・・カ。まあイイ。では手短に用件を済ませヨウ。・・・我らの組織の一員とナレ、琳」

 ――もう、互いに交わることはないだろう。

「・・・・・・貴様、自分が一体誰に何を言っているか分かっているのか?」

 ・・・そう思っていた。

「無論ダ。お前の力が加われば、我らの計画の実現はより容易くナル。・・・こちらへ来い、琳。私はお前を殺したくはナイ」

 もしも交わることがあるとすれば―――

「もしも用件がそれだけならば、もう話すことはない。帰らせてもらう。今度こそもう二度と会うこともあるまい」

 それはどちらかが滅するときになるであろう―――とも。

「・・・・・・残念ダ。ならば死ネ、銭琳。愚かなる者ヨ!」

翠英の全身から立ち昇る殺気に満ちた気を感じながら、琳は小さくため息を吐き、覚悟を宿した目で“敵”を見据えた。


「破ァァ!!」

瞬時に間合いをつめてきた翠英が、殺気をそのまま叩きつけてくるかのように手刀を突き出す。
手刀が琳の胸を貫いた・・・と見えた瞬間、琳の体は半回転してそれを躱し、同時にがら空きとなった相手の側面へ打撃が飛ぶ。
だが、それは身を低くした相手の頭上の空気を抉っただけに終わり、今度は下方向からの蹴撃が琳を襲う。
打撃を放った琳は、その勢いで相手の上を弧を描くようにして飛び越え、それを避ける。
着地と同時に振り向きざまの回転裏拳を放つ。
しかしその拳も目標に届くことはなく、同じく琳の着地と同時に放たれた相手の掌底突きによって相殺される。
瞬間、体勢を崩した琳を再び強烈な蹴撃が襲う。
咄嗟に防御した腕越しに激しい衝撃が伝わる。
反射的に自ら後ろに飛びのくことでその威力を軽減させたものの、琳の腕には鈍い痛みが痺れとともに残された。

「少し腕を上げタカ・・・さすがダナ。とは言えまだまだワタシの敵ではナイ」

ほんの数瞬の攻防を終え、間合いの外に相手が去ったことを確認すると、翠英は楽しそうに笑みを浮かべた。

「だがやはり死なせるには惜シイ。もう一度聞くが我らの同志になる気はないカ?琳」
「ない。何度も言わせるな」
「何故ダ。それほどの力を持ちナガラ、何故それを自分のために使わナイ」
「・・・私の力は私のためにあるのではないからだ」
「自己を殺して生きることに何の意味がアル」
「貴様には・・・分かるまい」
「琳、お前は間違てイル。お前が真に立つべき場所は我らの隣ダ。何故それが分からナイ」
「『正しいことは正しい。誤っていることは誤り。』・・・それが分からずに邪道を往く貴様に立つべき明日などない」
「・・・未だに亡き母の教えとやらに掣肘せられて自らを見失うカ。愚かさは母譲りダナ、琳」
「・・・今の発言を撤回しろ、翠英。さもなくば・・・殺す」
「できるものならバ、やてミロ。愚かな銭家の娘ヨ」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、赤々とした紅蓮の炎が闇を引き裂いた。


―念動発火能力(パイロキネシス)

琳が 持つ、銭家の歴史の中でも前例のないほどの強力なチカラ。
掌に握り込んだ物体を媒介として発生する、全てを焼き尽くす火炎。

琳の怒りを具象化したかのようなその炎は、一直線に翠英を呑み込んだ――かに見えた。

だが直後―――突如炎はその鎌首を翻し、琳を襲った。

「くっ・・・!」

突き出された琳の掌から新たな炎が生まれ、ぶつかり合った2匹の炎は相殺された。
熱波にゆがむ景色の向こう、冷笑を浮かべた翠英の前に、薄黄色に光る“壁”が浮かび上がっている。

「“反能力光壁(リフレクト・ウォール)”――安ぽい怒りのあまり、ワタシの能力を忘れタカ。お前の炎はワタシには通じない」
「貴様・・・そのチカラ・・・」
「そうカ。お前は“消能力障壁(イレース・ウォール)”しか知らないのだたナ。・・・あれは能力の一部に過ぎナイ。切り札は隠すものだからナ」
「・・・・・・・・・」
「絶望に言葉もないカ。・・・これが最後の勧告ダ。我らの仲間とナレ、銭琳。決して悪いようにはしナイ」
「・・・何度も言わせるなと言ったはずだ、王翠英。それに私はもう決めている。貴様を殺すと」
「なるホド。ならばもう何も言うマイ。自らの愚かさを呪いながら死ぬがイイ」
「死ぬのは貴様だ、翠英。切り札を持つのが自分だけなどとは思わないことだ」
「・・・何ダト?」

揺らめく炎に照らし出された琳の顔が、立ち込める熱気の中、それとは対照的にどこまでも冷たい表情を湛えているのを翠英は見て取る。
微動もしない水面のようなその表情から、翠英は琳の覚悟を改めて知らされた。

「愚かナ・・・」

微かに呟いた翠英を、再び紅蓮の炎が襲う。
“反能力光壁”を展開するべく自らのチカラを解き放つ瞬間、翠英は微かな違和感を覚えた。


琳の掌より放たれた炎は一直線に翠英へと向かい、その燃え盛る体内に獲物を取り込まんとする。
だが、炎が獲物にたどり着くより前に、先ほどと同じように薄黄色に輝く障壁がその行く手を遮った。

刹那――

炎はまるで生き物のように蠢き、障壁を避けるようにしてバラバラに分かれた。
そしてそれは各自が意思を持つかのように、唖然とする翠英を八方から襲う。
あっという間に、翠英の姿は炎の体内に消えた。

「・・・・・・!?」

―だが直感的に、琳は今の攻撃が失敗に終わったことを悟った。
同時に迎撃の態勢をとる。

直後、翠英のいた場所を中心に、幾本もに分かれた炎が激しく噴き上げた。
明々と照らされた闇の中、弾き返された炎が時間差で琳に飛来する。

「っっっ!!」

相殺しきれなかった炎が身体を焼き、強烈な熱波は琳の小柄な身体を吹き飛ばした。
地面に叩きつけられて背中を強打し、絶息する琳のもとから小さな赤瑪瑙のペンダントが転がる。
転がり続けたペンダントはやがて、薄闇の中に悠然と立つ翠英の足に当たって止まった。

「今のがお前の切り札とやらカ、琳。見事だ。だが残念だたナ。言たはずダ。『切り札は隠すもの』ト。“反能力光球(リフレクト・ボール)”――それがワタシの真の能力ダ」

足元のペンダントをゆっくり拾い上げると、翠英は再びその能力を解き放った。
薄黄色の光の膜が、翠英を中心に球状に広がる。

「お前の炎はワタシの“光球”に全て弾かれタ。切り札が敗れた今、お前にもう為す術はナイ。・・・何か言い遺すことはあるカ?」

地面に倒れ臥す琳に、翠英は静かにそう訊ねた。


「それは・・・母の形見・・・だ」

苦しそうに身体を起こしながら、琳は翠英の手元に視線を注いだ。

「形見?・・・ふん、先ほども言たが、未だ母の影を背負い続けるような弱い精神だからお前は負けるのダ」
「・・・そうかもしれない。私は未熟だった」
「ようやく悟タカ。ほんの少し遅かたナ。だがもしお前が・・・」
「貴様を殺す――そう言いながら、私にはその覚悟が足りていなかった。その為に何かを捨てる覚悟も。人は何かを捨てなければ・・・前には進めないのだな」
「・・・・・・何ダト?」
「『切り札は隠すもの』――だったな、翠英」
「っ!琳、お前――」
「再見、王翠英」

言葉と同時に、薄黄色の球体の中が赤瑪瑙のような鮮やかな赤の炎に包まれた。

赤々と燃え上がる球状の炎――

その、ある種壮観たる稀覯の景色は、ほんの一瞬だけその姿を現し、すぐにその形を崩壊させた。
炎を包み込んでいた薄黄色の光の膜が――その術者とともにこの世から消滅したためであった。

「“遠隔発火能力(リモート・イグニション)”――特殊な媒介を通じて、離れたところに炎を発生させる――それが私の本当の切り札だ、翠英」

全てを焼き尽くす紅蓮の業火。
その残り火に照らされて揺らめく琳の表情は、どこか淋しげだった。

―やがて炎はすべて消え去った。
後には、いつしか月さえも雲に覆われた、悠久の闇だけが残る。

 ――先に地獄で待っていろ、翠英。私もそのうち行くことになるだろうから・・・

それはあたかも、全てを燃やし尽くす炎でも滅せない、銭琳の心の内の闇を象徴するかのようであった―――






















最終更新:2012年11月25日 21:25