(17)029 『禍刻 I ―Photon like a devil―』



「あら。お早いお着きですね、i914」

白衣に包まれた腕を持ち上げて眼鏡の位置を直しながら、“Dr”は口の端を微かに動かして皮肉に微笑んだ。
その視線の先には、今しがた“出現”したi914・・・高橋愛の姿が、そして白衣の裾が触れそうなその足元には、小刻みに痙攣する新垣里沙の姿がある。

「・・・毒・・・神経ガス系・・・?」

里沙の様子と辺りに漂う微かな臭気、そして白衣の女の手中にある噴霧器から類推し、愛はそう呟いた。

「ご名答。さすがはわが組織の“最高傑作”だけあるね、i914。優秀優秀」

噴霧器を投げ捨て、パチパチと手を叩きながら白衣の女は微笑む。

「・・・ただし、既製のものじゃなくて私のオリジナルの毒だけどね。遅効性にして長生きできるようにしてあるから安心して。解毒剤はそう簡単に作れないけど。つまり・・・」

そう言いながら、白衣の女は胸元辺りを押さえる。

「この解毒剤がなければ里沙も・・・もうすでに吸い込んじゃってるあなたも死ぬしかないってわけ。あ、それから」

白衣の女は勝ち誇ったように言うと、自分の耳元を指差す。
そこには小さなピアスが光っていた。

「見える?“Especial Anti-Resource System”――略称“EARS”。私が開発した“抗能力装置”。この意味が分かるi914?」
「・・・あーしらの能力は通じんって言いたいんやろ?」
「ふふっ・・・その通り。さあ、毒に侵された体で能力を封じられてどう戦う?マインドコントローラーさんはこの通りだったけど」

足元に転がる里沙をつま先で軽く蹴りながら、白衣の女は嘲るように笑った。


「“抗能力装置”か。なるほどガキさんがやられるわけや。でも・・・・・・“EARS”とやらについてわざわざ自分から教えてくれるのは解せんな」

そう言いながら、愛は白衣の女に探るような視線を向けた。
微かに狼狽の気配が伝わり、愛はその理由を知った。

「なるほど。抑え込めるんは精神系の能力に限られるいうわけか。あわよくば瞬間移動の能力も使えんと思わせたかったいうとこやな」
「あら、なかなか優秀ね。でもどうする?どちらにしろあなたの能力は対象者を連れて“飛ぶ”際にはその対象者の同意が必要となるはず。喩えできたとしても・・・」
「自分を“飛ば”したら解毒剤は手に入らん・・・そう言いたいんやろ?」
「へえ~大したものね。正直そこまで頭が回るとは思ってなかった。でも・・・その賢い頭でこの危機を乗り越えられるかしら?」

小馬鹿にしたように白衣の女は愛を嘲笑う。
幼い頃よりどこでも常にトップの成績を収め、現在も組織の“筆頭Dr”を自認する女には、他者の思考など蔑視の対象でしかなかった。

「是非ともあなたも研究材料になっていただきたいな。とっても興味深いし。特別に麻酔無しで脳切開してあげる。
手術台に載せたとき、i914サマがどんな表情をするか想像すると今からゾクゾクするなぁ。興奮しちゃう。
あなたをバラバラに解剖したら瞬間移動能力の秘密もこの手にすることになるし。あー楽しみ。科学って素晴らしいと思わない?」

余裕の笑みを浮かべてまくし立てる白衣の女に、愛はしばらく黙って視線を注いでいた。
やがてその肩が小刻みに震えだす。

「ふふっ・・・ふふふ・・・あはははは!」

突然笑い出した愛に、白衣の女は意表を突かれ、同時に何故か言いようのない恐怖を覚えた。

「何がおかしいの?怖さのあまり頭やられちゃった?それとも毒が頭に回っちゃった?」

先ほどまでの余裕を失くしつつも、それを無意識に隠そうと虚勢を張る白衣の女に、笑いを止めた愛は一転真顔で唐突に問い返した。


「“瞬間移動”って言うけどあんた“瞬間”の意味は知ってる?」
「・・・・・・は?いきなり何言ってるの?」
「“瞬間”いうんはあくまで“一瞬”とか“刹那”いう意味で、決して“0(ゼロ)”やないんよ」
「それが何だっていうの?」
「例えば今あーしがあんたのとこまで“飛んだ”として・・・そやね、およそ0.00000002秒かかる。それの意味するところが分かる?」
「・・・・・・光速かしら?」
「お、さすがやね。秒速30万km、それがあーしの“瞬間移動”に許される限界。やから正確にはあーしのは“光速移動”なんよね」
「で?結局それがどうしたっていうの?」
「つまり“瞬間移動”言うても“消え”て“現れ”るわけやないんよ。あーしはその刹那の時間もちゃんと存在してる。“移動”の間もずっと」
「だからそれが・・・」
「ほやから物質を構成する素粒子をすり抜けるくらい小さい粒子になって“移動”するんよ、いつもは。“ぶつか”らんように」
「・・・・・・!?」
「ほやけど素粒子にわざと“ぶつかりながら”移動することもやろうと思えばできるんよね・・・・・・こんな風に」
「っっ!!待・・・」

白衣の女は、目の前の愛の姿が一瞬光に包まれ、その光の粒子が一斉に自分に向かってくるような錯覚を覚えた。
だが、それはもちろん言葉の通り錯覚であり、実際には目視することなど適わぬ速度で光の粒子に貫かれた白衣の女は、次の瞬間には全身に目に見えぬ無数の孔を穿たれて倒れ伏していた。

「がッ・・・・・・ごほっ・・・がほっ・・・」

形容しがたい異常を体が叫び、白衣の女は血を吐いて噎せ返った。

「致命傷にはならんようにしたつもりやったけど・・・ちゃんと生きてるみたいやね。おめでと」

表情を変えずに自分を覗き込む愛に、白衣の女はかつてないほどに恐怖した。
そしてそれは同時に自尊心をこの上なく傷つけ、耐え難いほどの憤怒と羞恥を与えた。

「じゃ、解毒剤もらえる?嫌や言うなら残念やけど今度は手加減せんよ?」

だから、そう言いながら差し出された愛の手に、白衣の女は恐怖と怒りに震える手で胸元から取り出したものを躊躇なく突き刺した。
即効性の毒を仕込んだ注射針を。


「油断したね!あはははははは!死になさい!このあたしをバカにした報いを受けなさ・・・???」

白衣の女は首を傾げた。
愛の方に差し出したはずの自分の右手が見えなかったから。

・・・いや、“見えない”んじゃない。
“存在しない”のだ。
右手が・・・・・・無い。

「あぁぁあぁぁぁぁあああっぁ!!!!」

白衣の女が自分に起こった出来事を理解するのと、“無くなった”右手が元あった場所から鮮血が噴出すのは同時だった。

「何を!?何何何をっっ!!??」

血走った目で白衣の女が睨んだ先には、里沙を伴い吹き出る鮮血がかからない位置まで退避した愛の姿があった。

「『何をした?』って訊きたいんか?あーしは正当防衛や思ってるけど。あ、そういう意味やなくて?・・・・・・“部分移動”させたんよ。あんたの肘から先を」
「そ、そんなごどがっ!!」
「できるなんて知らなかった?それ以前に対象者の同意が必要なはずだった?・・・あんたが知らんことは世の中にまだまだたくさんあるみたいやね」
「・・・・・・・・・ッッッ!」
「よかったのー。今日は色々勉強できて」

皮肉な笑みを浮かべる愛に対し、それでも白衣の女はギリギリのところで最後の理性を保っていた。
自分がまだ優位にあることを確信していたから。


「あは、あはははは!勝ったつもりでいるんでしょうけどね!お前の負けよi914!お前や里沙が吸い込んだ毒の・・・」
「解毒剤なんて持ってきてない。そう言いたいんやろ?」
「・・・・・・ッ!?」
「なあ、あんたいまだにその“EARS”とかいうのが効いてるとでも思っとるん?」
「な・・・・・・」
「言うとくけど最初からあんたの心の声なんて丸聞こえやよ。欠陥品やねソレ」
「けっかんひん・・・?・・・な・・・そんな・・・ありえない!」
「そんな玩具であーしの能力が抑えられると本気で思ってたん?ピエロやねあんた」
「貴・・・様・・・・・・貴様ぁっっ!!」
「あさ美やったらきっともっと完璧なもん作るよ」
「・・・・・・!!」
「あんたあさ美にライバル心持ってるんやろ?あっひゃー!!笑えるのー。ありえん。勝負にもならんわ」
「殺す!殺す殺す殺す!“造られた人間”の分際でこの私を・・・」

「死ぬのはあんたの方や」

白衣の女の表情は、背後から聞こえたその無機質な声に凍りついた。
自分の首から下が“消え”たことにも気付かないまま・・・・・・


   *    *    *


「里沙ちゃん。だいじょぶか?」

愛は、苦しげに横たわる里沙の耳元で囁き、それからゆっくりとその唇を青ざめた里沙の唇に重ねた。
里沙の頭を優しく抱えるようにして、里沙の中に自らのそれを送り込んでゆく。

「んっ・・・んんっ・・・・・・」

里沙の眉が苦しそうに動き、しばらく後に穏やかな表情となる。
荒かった呼吸も治まり、激しく脈打っていた心臓の鼓動も落ち着きを取り戻した。


「あーしは“造られた”ときに大抵の毒やらウィルスの抗体を持たされてるんよ。最後の最後までピエロやったのー」

里沙との“キス”を終えた愛は、首から上だけの“Dr”に向かい、静かに微笑む。

「あんたがただのピエロやったらあーしも笑って済ませたけど・・・・・・里沙ちゃんを巻きこんだんは笑えんよ」

愛は表情を消して、名も知らぬ“Dr”の元に歩み寄る。
次の瞬間、そこにはもう何も存在しなかった。

「じゃあ帰ろっか里沙ちゃん」

優しく微笑むと、愛は里沙を抱き上げ、次の瞬間光の粒子となり掻き消えた。


後には、最初から何もなかったかのような静寂と闇だけが残っていた―――





















最終更新:2012年11月25日 19:48