(14)602 『魔法なんていらない -4-』



望楼らしきものがそびえ立ち、複数の棟が入り組んだ外見から西洋の城と見紛うたが、その建物は
里沙や愛たちが寝食を共にしていた『M。』の研究施設だった
月明かりは勿論のこと、星一つさえ輝いていないから、その概要など見えないはずなのに、里沙の
視界に圧し掛かってくる

――はっ!!

今になって里沙は気付く
愛の哀しい記憶の追体験から抜け出した事で、いつのまにか自分の肉体を取り戻していた事に

――身体はある、といってもここは愛ちゃんの精神の中だから、仮の身体なんだろうけどね
どうせならもうちょっとメリハリのある身体にならなかったのかしら

切迫した状況からは場違いな暢気な思いに捉われていると、施設の建物の中から人の悲鳴が聞こえた
悲鳴というよりも絶叫に近い
禍々しい空気が中から漂ってくる

――こ、これは
どう考えても、この中に入らなければ事態は進展しないってことよね
怯えはあった
でも愛のことを救わねばという使命感の方が、遥かに上回っていた
この施設に入所してから、実質軟禁状態が続いていたので、内部への経路を使ったことは殆ど無い
入所した時の微かな記憶を頼りにエントランスへと向かった

表向きは殆ど公共施設のそれと殆ど変わらない構造だった
正面のドアは自動だったはずだが、その前に立っても何の反応も無い

「頼もう」って言ったって開くはずも無いか
分厚いガラスの表面に掌を押し当てて、横向きに擦らして入り口を作ることにした


――お、重たい
里沙は自分の細い身体を滑り込ませるだけの隙間を開けるだけで、息も絶え絶えになった

――何で愛ちゃんの精神の中なのに、こんなに疲れるの
スーッと壁を通り越せないもんかしら
至極真っ当な疑問を抱いたが、やがて一つの解答を導き出す
この固さは愛ちゃんの心のガードの固さを意味するのかも
だとしたら、愛ちゃんを目覚めさせるのも苦労するかも

照明の点いていない暗いエントランスの中を進みながら、初めて里沙は自分が愛のことを救い出す
為の具体的な手段を持ちあわせていないことに気付いた

――連れ戻して、安倍さんに愛ちゃんのことを紹介するって、一体どうしたら
安倍にはそう約束したものの、それが叶えられる可能性は極めて低そうだ
暗い館内を一歩ずつ、歩みを進めるたびにその思いは募る
でも後悔する気持ちは不思議と湧いてこなかった
自分の身の安全よりも、愛のことを救うという結果よりも、愛の為に行動を起こさずにはいられなかった
それが本当の所だ

――私って、こんな人間だったかしら、もっと薄汚くて、ずる賢かったと思ったけど
自分は変わったのか、それとも変えられたのか
その答えもこの愛の精神世界の中で見出せるかもしれない
でも、今は愛を探すことが先決だろう
この愛の精神世界の中で、愛を見つけること
今、自分が存在する世界全てが、愛の精神世界の中なのだから、既に愛の精神は里沙の存在を認識
しているだろう
なのに、何の反応も無いということは、愛の本質、愛の魂と接触しなければならないということか
――きっと、あの部屋ね
"i914”の部屋に行けば、愛と会える
――待っててね、愛ちゃん


暗く無人のフロアをエレベーターの前までたどり着いた里沙は落胆する
エレベーターは稼動していない
閉ざされた頑丈な鉄の扉は、里沙のことを嘲笑ってるようだった

――まあこんなことだろうと思ってたけど
"i914"の部屋は13階にある
非常階段の場所を捜しながら里沙は思った
――もしあの甘えん坊に会えたら、叱ってやらなきゃ
愛に会う、それだけが里沙の行動を支える原理だった

非常階段を一段一段登っていくうちに、音が聞こえた
軋みを感じた
それは愛の精神が発する悲鳴なのか
息も絶え絶えに13階にたどり着いた時、その感覚は最大級で里沙の心に響いた

「ひっ!」
13階のフロアに足を踏み入れた瞬間、今度は里沙が小さな悲鳴を発していた
愛の精神世界の中に再現されたこの施設の中では、これまで誰とも会っていなかった
なのに目の前に1人の男が立っていた
その服装から見て研究員らしかった
里沙はその顔に見覚えがあった
愛を手術台に縛りつけ、血液を採取したり、様々な検査を施した人間の1人だった
敵か、味方か、どう反応すべきかとまどう里沙の目の前で、研究員は崩れ落ちた
駆け寄ってみると、その背中に大きな穴が開いていた
――これはっ!

ようやく里沙は気付いた
このフロアの床に何人もの研究員が倒れてる事に
彼らは一様に身体に穴が開いているか、一部が完全に欠落していた

――これは、全部愛ちゃんのやったことなの



ここは現実の世界じゃない
愛ちゃんの精神世界
だからこれは現実のことじゃない
愛ちゃんの心の中のこと

自分に言い聞かせる里沙だったが、何人もの研究員が息絶えて倒れている凄惨な光景には心が震えた
”グォーン”
不気味な音が響き、建物が揺らいだ気がする

急がなくちゃ、愛ちゃんに会わなくちゃ
里沙は"i914"と表示された部屋のドアの前に立った

ドアに手をかけると、再び施設の建物が揺らいだ気がした
―開けっ!!
これまでの経緯から、ここでも抵抗があることを覚悟していたが、意外なほどすんなりと開いた

「愛ちゃ…」
「誰やっ」
落ち着いて声をかけようとした里沙だったが、機先を制するかのように、誰何の声が降ってきた

「わたしだよ、里沙だよ、新垣里沙」
「里沙? ああそんな名前のやつもおったなあ」
「何言ってるの、私のこと忘れたの」

「さあなあ、それにあーしのことを愛ちゃんとか言ってるけど、あーしの名前はi914
地上最悪の能力者や、って」
「何、言ってるの、あなたは愛ちゃんでしょ
高橋愛、それがあなたの名前でしょ」


「何訳の分んないこと言ってるの、帰ろうよ」
「帰る、どこに?
ここがあーしの居場所や、ここは暗くて落ち着くし
もう誰もあーしのことを虐めんし、あーしも誰も消さんでいい
こっから出る気は無いよ」
「愛ちゃん…」

「またそんな呼び方するんや
早く帰れ、そうやないと…」
「そうじゃないと…」
「あんたも消すで、ここの人間みたいに」

「あんたらが悪いんや、あんたらと会うまでは何とかうまくいってたんや
あんたらと会って、そいで、そいで…」
「愛ちゃん」
「もうええ、あんたが出て行かんのやったら、あーしが消える
あーしが自分のことを消すまでや」
そう言うと、愛は自分の指先を自分の額に向けた

「待って、愛ちゃん、話を聞いて
それであなたの気が変わらなかったら、あたしのことを消していいから」
必死な里沙の呼びかけに、生気の無い目線で応える愛

里沙は懸命に言葉を捜していた
愛の決意を翻させるような言葉を
だが何も出て来ない

「何や、何も話されんのか
ここまで来たということは、あーしがされた事もあーしがやった事も見てきたんやろ
何か勘違いしとるかもしれんけど、あーしは犬やら男の人やらを消した時、結構楽しかったんや
あーしより大きいやつの身体に、穴を開けるんは気持ちよかったわ
あひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ」


暗い室内に愛の乾いた笑い声が響く
建物全体が大きく揺れ動いた

「嘘だ」
「何が嘘や」
「私は”力”を使ったときの愛ちゃんの心の中を覗いてきたよ
誰かを消そうとしたときの愛ちゃんは泣いてたよ、苦しんでたよ」

「あんたに何がわかる、何が…」
声を荒げる愛

「誰かを消すことが本当に楽しいなら、こんな闇の中にいる必要ないでしょ
出ていって誰でも彼でも消せばいいじゃない」

「調子のいい事いうなや、勝手に人の心の中に踏み込んできて、何でや」
「何でって理由が要るの、好きな人を助けるのに理由なんて要るの
私のことを助けてくれた人が私にいったの、もっと素直になれって
お日様の光を浴びてる草花のようにって
だから愛ちゃん、私はあなたの太陽になってあなたを照らすから」

「ふふふふふ、太陽やって。 あんたがあーしの太陽やって
あんたに何が出来るん、人の心に踏み込むだけの薄汚い力しか持ってないあんたがあーしの太陽になるって
ふざけたらいかんわ。 もうええわ。
消す、全部消す、あんたもあーしも」

――ダメか、自分では精一杯言葉を尽くしたつもりだったけど、愛の心には届かなかったみたいだ
安倍さんには大きなことを言ったけど、あたしには無理だったのか
すみません、安倍さん。 愛ちゃんを紹介するって約束は果たせそうにありません

里沙の心は絶望の色に染まる
施設全体を揺れ動かす轟音は止むことを知らない


――死ぬのかな、私
ここは愛ちゃんの精神の中だけど、ここで愛ちゃんに消されたり、建物の下敷きになったら、私の意識は私の肉体に戻れないのかな
そうなったら、私の肉体はただ呼吸をするだけの存在になるのか、それとも徐々に息が絶えてしまうのか
落ち着こう、こんな時は落ち着こう。 せめて最後は心静かに消えてゆこう
私の人生で何か楽しかった事を思い出そう
安倍さんとの思い出は楽しいけど、もう会えないと思うと辛い
もっと馬鹿らしいこと、笑えることは無かったか

「ふっ」
「何や、何がおかしいんや」
「ふふ、いやね、君に消されるのか、この建物の瓦礫に生き埋めになるのかしらないけど、どっちにしろ面白可笑しい最後の方が
いいじゃん」
これまでと少し違う里沙の様子に戸惑う愛

「だからこれまで生きてきた中で一番面白かったことを思い出してたんだ。 するとね大変な事を思い出したんだ、愛ちゃん」
「何や」
「フランスの首都ってどこか知ってる、愛ちゃん」

「パリやろ」
「ピンポーン、じゃあ中国の首都は」
「何や、怖くておかしくなったんか」

――そうかもしれない、生還の望みが薄くなったので、テンパッてるんだろうな、きっと
「いいから答えてよ、愛ちゃん」
「北京やろ」
「正解だよ、愛ちゃん。 でもね私は初めてこの質問された時は、フランスの首都はジュマペールだって、中国の首都はチャンポンチャン
だって答えたの。 バカだよねえ、私って」


「ああん」怪訝そうな目で里沙を見る愛

「私、バカのくせにあなたのことわかろうとしてた。 助けてあげようって思ってた。
でも無理だったんだ、最初から。 あなたのことをわかろうなんてね」

「来るなや」
近づいてくる里沙に声を上げる愛。

「いいよ、あなたの”力”を使っても。 あなたに消されるなら私、本望だから」

愛は両手を里沙の方に向けた。 その指先はわずかに震えていた。
里沙が近づくごとに、震えは大きくなっていく
その震えが最大級になった時、里沙は愛の目の前に立っていた
里沙はゆっくりと愛の左手に手を伸ばす
愛はその手を振り払おうとしたが、里沙の手は離れなかった

両掌で包んだ愛の左手を、自分の左胸に押し当てて、里沙は言った

「感じるよね、私の胸の鼓動」
「あ、ああ」
「じゃあ、こうしたらどう」

言うなり、里沙は愛を抱きしめた

「は、放せや」
愛は振りほどこうとしたが、里沙は放さない

「もっと強く感じるよね、お互いの鼓動。 愛ちゃんの心臓、強く早く脈打ってるよ
それに感じるんだ、愛ちゃんの哀しみも。 何か伝わってくるものがあるんだ」




















最終更新:2012年11月25日 16:54