(14)563 『Wingspan 第二章』



無機質な印象しか与えない廊下を全速力で走り抜ける女がいた。
おっとりした顔立ちに似つかわしくない吊上げたまなざしを貼り付け、
その動線にばたばたという激しい音を立てながら。

やがてその音は止む。
どうやら目的のものを見つけたようだ。

「―――これはどういうことですかっ!」

薄闇の中、心底面白そうな表情の女が鏡の前で何かを観察している。
その口元は弓型に歪み、最高のエンターテイメントを見やるのに相応しいもので。

そこにバンッ!と空を切り裂くが如く飛び込んだのはドクターマルシェ。
麗しい黒髪が衝撃で乱れるのも気に留めた様子はない。

「ノック位しなさい。マルシェ?」

ちらりと突然発生した音源を見やると腕を組み視線を元に戻す。
薄く笑うのを止めない女にマルシェは少しのいらつきを感じ、不快だというアピールをする。

女の視線の先。
それはマジックミラーになっており、その向こう側にはマルシェが先ほどまで血眼になり捜していた里沙の姿があった。
先ほど鍵がかけられていたため侵入できなかった部屋に居たことにマルシェは小さく舌打ちをする。
里沙の意識はあるように見えた。
だが意識の有る無しなどは別に、明らかに様子がおかしい。



身に纏うものは多少破れがあり、戦闘の後というのを伺わせる。
何よりその表情は……そう、必死で何かに耐えているような。

同時に湧き出す疑問。
この姿を見て女が何故こんなに面白いものを見るのような目線で見るのかが解せない。
ずれた眼鏡をかけ直す仕草もつい神経質なものになる。
ひとつ深呼吸をし、女に向き立つ。

「貴女とRが里沙ちゃんを浚ってきたと部下から聞きましたが?」
「あら、お耳が早いこと。でもあの子は自分から、自分の意思で戻ってきたの。
 浚ったなんてどこから出た話かしらね?」

そんなはずはないだろう。
第一、こんなすぐに露見する嘘で誤魔化される訳にはいかない。
残された者たちがそれを知ったとあれば……

―――ひと波乱どころでは済まないだろうともう一人の、かつての知人を想う。

「では、今の彼女の様子の原因は?」
「全ての質問にいちいち答えなければならない道理はないわね。私だって忙しいの。
 ……あぁ、マルシェ。そうそう、薬品ちょっと借りたわ」
「……はぁ?」



会話が噛み合っているようには思えない。
……完全に遊ばれている……もしくは本題をかわされている事にまた不快感。
それに薬品を借りたとは? 何を、とは言わない。

これ以上単純に聞いたところで答えは返ってこないだろうと踏んだマルシェは別の角度から攻めることにした。

「誰の指示ですか、一体向こうで何が起こっているんですか!」
「少し落ち着きなさい、あれは完全に向こう側に……敵側についている」
「そう言ったのですか!?里沙ちゃんが」
「啖呵きられたわよ。組織へは戻らないんだって。
 一応言っておくけど手を出さないでね」
「……っ」

里沙が造反しつつある。
そんな噂ぐらいはマルシェも聞いていた。だが、まさかこんな方法をとるとは―――

目の前に広がる一方的な支配は仮定を肯定へと導くものでしかなく、苦々しいものが胸の奥から込み上げる。
しかし表情でそれを露出する程に場数を踏んでいないわけではない。
ポーカーフェイスは嫌というほど叩き込まれてきたのだから。
マジックミラー越し、里沙の姿から一時も視線を外さない女はそんなマルシェの意図に気付く筈もなく。



「なんてことを……」
「裏切り者だけど、せめて死体は奇麗な方がいいからね」
「……ほう」
「まぁ、3日後にはミティと同じね。何度も復活できる不死者(アンデッド)へと。
 そして、永遠にその魂をあの方の為に捧げることになる」

あの方。
言葉どおりにとるならこの組織を統べる存在であるダークネスを指すだろうが
それには弱冠……含みに違和感がある。
この女と里沙を繋ぐもの。推測が正しいならば。

「……前から聞きたかった、貴女が安倍さんをそこまで神聖視する、その理由を」
「………………答える道理も義理も貴女にはないわね」

重く、冷たく言い放たれる。
だが、一瞬瞳が泳いだのをマルシェは確認した。
お互い視線が正対していなかったからこその綻び。
正直、答えが返ってくることなど期待していなかったからこそ、
その態度で何か幾分かの思惑があるのだと推し量るには容易い。

勿論一瞬の後、ポーカーフェイスを繕う女も犯した失態に気付きばつが悪かったのだろう。

邪魔が入り気が削がれたと言わんばかりにこの空間で二度目の視線をようやく投げかけると
その場を後にしようと、出口と女の直線上に立つ乱入者を横切りすれ違う。

「もう一度言う。あれに手出しは無用。聡明なマルシェ様」

そう、マルシェの耳元で言い残して。



ギィィ と錆び付いた蝶番の擦れる音が不協和音を奏でる。
まるでマルシェの心に渦巻く疑心を代弁するかのように。

マジックミラーの向こうでは里沙がハンカチかタオルのようなものを口に当て、
顔をしかめ必死に何かに耐えている。

暫く見ない間に、里沙は痩せすぎと表現されるほど、袖から覗く腕は細い。
外傷は額。脚。腕。だがあの様子からすると外傷は関係ない。
例えるならば、薬品を吸入しているかのような―――

女が言っていたことが本当ならばこのままだと里沙は……絶命するだろう。

それに思考が行き着いたと同時にマルシェの身体は必死に壁を叩いていた。

マルシェの耳に弱々しい空気音―――例えるならば風船から空気が抜けるようなそれが微かに聞こえた。
隣の部屋、つまりこちらからでも聞こえるのだ、向こうでは既にどれだけ充満しているのか。

こうしていてもらちがあかない。
そう判断すると同時に身体は動き出していた。
……命は失われてからでは遅いのだ。



「里沙ちゃん!聞こえる?匂いはどんな感じ?」

壁を叩く。力の限り。

「答えて!痛い!?」

弱々しく、一時の猶予も持さないであろう里沙が弱々しく頭を上下に振る。

ガスは刺激臭の気体と仮定する。
かつ痛みを伴う毒性があり、うちのラボに存在していた薬品だとしたら……

(何だっけ、早く)
(考えろ、思い出すんだ!)
(何のためにこの頭脳があるんだ!)
(守るためじゃないのか!大切なものを!)

……っ!!

まさか、正体は塩酸ガス!?

気体の状態で吸い込むと肺の中の水分と反応し、塩酸と二酸化炭素を生む薬品!
もしそれなら、早くしないと手遅れになる……っ!

「里沙ちゃん!今すぐ少しでも高いところへ上がって!聞こえる!?里沙ちゃん!」

あれは空気より重かったはず。
マルシェは全力で鏡を叩く。拳くらいで済むなら壊れても構わなかった。



鏡の向こうの身体はどうやら聞こえているのだろうか、ふらふらと口元を押さえ逃げ惑う。
危なっかしい足取りで簡素な机の上に這いずり上がる。
ほんの少し、時間が稼げたのか。
いや、実際問題彼女の命がは崖っぷちに立たされているのは未だ何も変わっていない。

馬鹿正直にこの部屋の鍵を取りにいっている間に里沙の容体が悪化して手遅れになってはいけない。


残された一つの方法。
この向こうにある、里沙を蝕み続けるものの正体の構成を突き止めることができれば。

直ぐにドアをこじ開けることは出来る。
だが根本的な解決にはならないだろう。
生身では薬品名が解ったとしてもどうにもできない状態だからこそ迷っている暇は無い。

かっと目を見開き、能力を解き放つ。

(能力……忌わしいチカラ……でも、でも)
(助けたいんだ、里沙ちゃんを)
(今から私は―――能力を使う)

その網膜に映るもの全てを構築しているものの正体を―――視る。



勢い良く大量の情報が強制的に流れ込んでくる。
その眩暈を遣り過ごすとミラー越しの空間には
自然中の大気にはあってはならない種類・量の原子が暴れている様が写る。

―――視えた。

「―――原子たち、私に従いなさい!」

宣言に応えるように暴れまわるそれらはぴたりとなりを潜める。
その様にニィ、と口角が無意識に引き上げられた。

「よろしい。君達は私の支配下にある」

まず行うべきは空間に浮かぶ水素と塩素を認めると分離させ、引き離す。
目に映る全ての物質はマルシェの操るまま式を変えていき
彼女の身体の周りに充満する劇薬物を中和させていった。

「いい子達ね。しばらくじっとしてなさい」

再び全力で壁を叩く。
満足に呼吸も出来ず、今にも崩れ落ちそうな里沙の顔色はチアノーゼが現れ始めていた。

「もう大丈夫。息をしてもいいよ!」

それが向こうにも聞こえたようで、瞬間ためらったのち大きく呼吸を取り返す。



酷い咳音がこちらまで届いた。
同時に崩れ落ちる彼女。
もし、自分がここに辿り着かなかったら―――  と想像すると
背筋にぞくりと悪寒が走る程、恐ろしくなった。

リゾナンターは誰が欠けてもいけない。
彼女たちにとって一を失うこと、それは全てを失うと等しいから。

……その中に己が居ることは既に叶わず、叶えるつもりもないけれど。

もしかしたら誰も見ることが叶わなかった世界に彼女たちなら辿りつけるのではないか。
非科学的な事は信用するに値しないが、科学ですら100%の事象など碌にありはしないのだし。
マルシェの思考はこの行動の理由をそう意味付けた。

何よりマッドサイエンティストに不可能はないのだ。
そう言い聞かせる。

白衣は翻り、今度こそ里沙の元へ赴くべく歩を進めた。






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最終更新:2012年11月25日 16:50