(14)236 『哀しきスパイ』



リゾナントでないある喫茶店で、新垣里沙は案内された席に着くと、アイスカフェオレを注文した
今日もリゾナントで過ごした時間は楽しかった
もっと長くいたかったけど、今日はダークネスに定期報告を送らなければならない日
もっと居ればいいのにという仲間の言葉を振り切ってリゾナントを出て来た
自宅として使用しているマンションに帰って、レポートの残りを完成させて、暗号変換機を組み込んだ
PCでメールを本部に送れば、嫌な仕事は終わる
だがリゾナントで吸った空気をそのままに帰っては、とてもじゃないけどそんな辛い仕事はできない
この時間はリゾナンターのサブリーダーからダークネスのスパイへと切り替える為に必要な時間
そんなものが必要なほど非情になりきれない私は、愚かで哀れなスパイ

注文を終えた後、里沙は目で見えるもの、耳で聴こえるものの中に危険な要素は無いかを確認する
それが終了すれば、精神干渉の網を広げる
本格的に人の心を操作するほど、強くでは無く、浅く薄く
高橋愛の精神感応のように、他人の心を正確に読むことは出来ないが、自分に不信感や害意を持つもの
の有無を探索する事ぐらいは出来る
誰にもバレてなどいないことはわかっている
だけど用心深く、注意深く振舞う癖
いつからこんな習性が身についたんだろう
私は生まれながらのスパイってことなのか
自嘲の笑みが浮かびそうになるのを抑えながら、あの日のことを思い出す
『M。』で初めての模擬戦を行った日
あの日もこんなに暑い日だったと思う



里沙と愛が『M。』の訓練施設で初めて戦闘訓練を行った日
その対戦相手を教官から聞いた時、里沙は思わず息を飲んだ
吉澤ひとみと石川梨華
圧倒的な身体能力と敵を混乱させる催眠術の使い手、吉澤ひとみ
吉澤には劣る身体能力を努力でカバーし、敵の肉体を砕く念動能力を持つ石川梨華
補助的な能力と戦闘系の能力者の組み合わせという点、息の合ったコンビネーションという点で
当時の『M。』に属する能力者の中で最強のタッグチームといえた

里沙がコンビを組む愛は
「ふーん、凄いのう」と他人事のように関心を見せない

里沙は焦った
―確かにどうやっても勝てる相手ではない
しかしこの訓練での結果は自分の評価に大きく影響する
敵わなくてもせめて一泡吹かせたい
そう思った里沙だったが、肝心のパートナーの愛がこの調子では、期待できそうに無い
何とか作戦を練ろうと思って、頭脳の明晰さでは同期で一番の紺野あさ美に相談しようとしたが、
小川麻琴とのコンビで先に訓練を行った彼女が、訓練相手の放った挑発の言葉

「お前ら、ゴキブリなんだよ」に激昂し、正拳突きの連打で相手チームを医療室送りにするという
暴挙を行った為、謹慎させられているという事を知り、諦めた

こうなったら考えてもしょうがない
自分の感性に従って行動するしかない
覚悟を決めて訓練開始の時を待った

訓練は室内での戦闘を想定して行われた
照明もなく真っ暗闇の建物を守備する者、進入するものに分かれて対戦するルール
武器の使用は禁じられるが能力の使用は限定的に許可される
全員が防護服を着て戦い、防護服に着けられた着脱可能なマーカーを奪い合うというルールだった


訓練施設の前でコイントスをして、最初に守るのが吉澤組に決まった時点で、里沙は勝利はおろか
善戦すら諦めた

守備側なら地の利を生かして何とか膠着状態に持ち込み、時間稼ぎが出来たかもしれないのに
里沙は支給された1本の懐中電灯―使用は自由―を右手に、左手は暗闇に尻込みする愛の手を
引いて施設の中に進入した

「ーッ」
いきなり念動の力に懐中電灯を飛ばされた
鮮やかな速攻に秒殺を覚悟した里沙
―今のは石川さんの攻撃、ということは次は吉澤さんの番?
それとも裏を掻いて、また石川さんがくるのか
光を奪われた恐怖に今にも泣き出しそうな愛を励ましながら、相手の出方を読もうとする里沙
闇の中で空気が動くのを感じた瞬間

「お化け~だぞ~」

「はぁーっ」

「いややぁーっ」

吉澤ひとみ、『M。』の、いや世界の歴史上に残る稀代の催眠術者
彼女の繰り出した「ファントム」によって、暗闇への耐性を喪失し、眠りにつくときですら煌々と灯りを燈さな
ければ眠れない犠牲者の数は、十本の指では足らない
大地震が起こったという錯覚を招く集団催眠「アースクエイク」は武装兵2個中隊を壊乱状態に追い込み
彼らが気づいた時には全員が武装解除させられていたという
最新の秘術「ナイトメア」の実験台になった人間は終わる事のない悪夢の中を、半年以上彷徨ってるという
そんな能力者の繰り出す攻撃が、小学生の悪戯そのものの
「お化けだ~ぞ~」だなんて


里沙は屈辱に顔を歪めた
そんな里沙を無視するかのように、吉澤は攻撃目標を高橋に絞り、懐中電灯の光を自分の
顔の下から照らし、「お化けだぞーっ」と脅かす事に専念していた

吉澤も吉澤だが、そんな単純な脅かしに怯えきって、半ば腰を抜かしている高橋愛も高橋愛だ
いい加減腹が立ってきた里沙は愛の手を無理やり引っ張って、吉澤から距離を取り、情けない
パートナーに言った

「いいかな愛ちゃん、落ち着いて聞いてね
お化けは触らない、触らないようになってるから」

「ぐすっ、だってー」

「だってもロッテも無い
お化けは触らないから」

いきなり空間の明るさが増した
自分達の分と里沙と愛から奪った分、二本の懐中電灯を同時に灯し、胡坐を掻いた状態で吉澤が
笑い転げている

「吉澤さん、真面目にしてください」声を荒げる里沙に

「くくく、だってお前、お化けは触らないって言ったってよぉ」

「ちょっと、ひとみちゃん
ふざけ過ぎると、私達の評価まで低くなっちゃうじゃない」

石川梨華が般若の形相で現れた


「あ、そーか、やべえ
ほら、高橋
お化けだぞ~っ」

「いややぁー」

「何なんだ、このグダグダ感は」と里沙が脱力していると、吉澤は自分のマーカーと石川のマーカー
を防護服から外すと、里沙に投げた

「ほれ、この模擬戦はお前らの勝ち」

「やったぁー」と無邪気に喜んでる愛を無視して、里沙は色をなした

「私達の勝ちって、こんな風に勝ちを譲られたって、嬉しくもなんともありません
それにあなた達の評価だって」

「私は評価されてるつもりは無い
逆に『M。』を仕切っている奴らが、その任に相応しいか、こっちが評価してるつもりなんだけどね」

威風堂々とした吉澤の話しっぷりに、言葉を失っている里沙に対し、立ち上がりながら吉澤は言葉を続けた

「それに、高橋はともかく新垣、お前には一切付け込む隙が無かった
こっちが今みたくそっちの懐に飛び込んで油断させようとしても、お前は気を緩めずに、逃げ道を
確保してた
あれじゃ高橋のを取っても、お前は逃げ出してしまって、そのままこの建物の中にずっと隠れてるだろう
そうなったらこっちは打つ手が無い
将棋の千日手だ」

「そ、そんな」

「それはお前らの命を奪ってもいいという話なら簡単だけど、それは教官から止められてるしね」


「というわけでこの訓練俺らに勝ち目は無い
だから俺らの負けにしてさっさと帰らして貰うわ
それにしても新垣、お前は偵察とか潜入をやらせたら天下一品だわ
見事だよ、ってわけで高橋
お化けだぞ~」

「いややぁー」

吉澤が純粋に褒めてくれたということは、その口調から里沙にもわかった
だが里沙の心は凍り付いていた
敵を直接攻撃する能力も持たず、効果がでるまでにタイムラグのある精神干渉の力しか持たない私
身体能力は一般の人間に比べれば高い方だろうが、目の前の吉澤に比べれば微々たるものだろう
とりえといえば相手に隙を見せない狡猾さと、逃げ足の速い俊敏さ
何者かになれるかもと期待して、『M。』に入った私だが、薄汚いスパイにしかなれないのか


――人が来る気配にすぐ回想から立ち戻る
注文の品を載せたトレーを掲げながら、ウエイトレスが近づいてくる
彼女に微笑みかけながら里沙は心の中で一人呟く

私はスパイ
薄汚いスパイ
慕ってくれる仲間の情報を今夜組織に売る
そんな私が心の中で流す涙は本物なのだろうか




















最終更新:2012年11月25日 16:04