(12)509 『BLUE PROMISES 6』



6.

「…愛ちゃん」

ごめん。

その言葉は声にならない。
ローブの下に隠れた右手を探り当て、そっと指を絡める。
こんなことは卑怯だと思うけれど、彼女が意識を失っている今だからこその懺悔。

彼女の意図しないところで里沙の意識に触れてしまうこともあっただろう。
だから里沙がダークネスのスパイであることは気づいていないはずはなかったと思う。

だが彼女は一度もそのことに言及することはなかった。
いつだって笑って隣にいてくれた。些細な出来事も悩みも全部話してくれた。
決して、里沙を差別するようなことはなかった。
ダークネスの自分とリゾナンターの自分との葛藤。
すべてを包んで、里沙を里沙として見てくれていた。

それなのに。

「あたしは、結局最後の最後に…」

裏切って苦しめて傷つけて。
ダークネスに背反することよりも、結果的には愛の想いを踏みにじる方を選んだ自分。

自分の犯した罪を考えれば、何度謝ったところで足りるはずもないことはわかっていた。
ただ愛が目を閉じている姿を見ると、謝罪の言葉しか浮かび上がってこない。

自分が泣く権利などない。泣きたいのは、自分よりも愛だ。
それなのに溢れて止まらない、後悔と悔恨の涙。
里沙は、力なく横たわったままの愛の身体を強く抱きしめることしかできないでいた。




―――どれくらいの時間が経ったのか。
里沙は愛の体温を心に刻みつけるように、長い間そうしていた。

だが、これ以上の長居はできない。
ダークネスの監視下にある里沙は、毎日決まった時間までには自室にいなければならない。
タイムリミットが、刻一刻と迫っていた。

「…愛ちゃん、あたし、行くね」

里沙は愛の耳元で囁くように告げると、小さな機械箱を取り出した。
これも、あさ美から手渡されたもの。最近の研究で完成させたと言っていた。
いつか誇らしげにこの機械を手にして、あさ美がその性能を語っていたことを思い出す。

強い雨は、愛の顔に付いていた血を洗い流していた。
あの錠剤のおかげで、この雨に晒されていたとはいえ愛の身体に体温が戻ってきているのがわかった。
さすがは治癒能力の使い手…、そして、ダークネス最高の科学者、だと思う。

手のひらで愛の顔をそっと撫で、額と額を触れ合わせる。
一秒でも、惜しい。
できるならばずっと触れ合っていたい。
愛が目覚めたとき、それが受け入れられようと否定されようと、全てを吐き出す覚悟を持ってでもそばにいたい。

けれど、里沙はダークネスの組織員であり、軟禁を受ける者。
反逆は即刻の死。かつて凄惨な死に方をした反逆者を目の当たりにしてきた。
それを受け入れるのは、怖い。

愛の身体を包むローブを一度解き、愛の両手に機械箱を持たせた。
あとは里沙が持っているスイッチを押すことで全てが終わる。


 もう会えないと思っていた。会ってはいけないと思っていた。
 会うことがあったとしても、あなたはリゾナンターとして、あたしはダークネスとして。
 同じ死ぬなら、ダークネス反逆者の烙印を押されるよりも、いっそあなたの正義の光で私を貫いて。
 これでもう、あなたのよく知る新垣里沙は、二度とあなたの前には現れることはない―――



愛に背を向け、里沙は天を仰いだ。
目の奥が熱い。この涙を全て、冷たい雨が流してくれればいいのに。
目を閉じれば浮かんでくるのは、どうしたって愛の顔ばかりだった。
もう、忘れなければならない。これで終わりにしなければならない。

だから、せめて最後に一度だけ。

里沙は振り返るとひざまずいて愛の両手を包み、そっと頬を寄せた。
ありがとう、愛ちゃん。ずっとずっと、ありがとう―――


「…さよなら、愛ちゃ…、……?」


手を離した里沙は、ふと愛の身体のある部分が目に留まった。
身体の上に置かれていた手をそっと持ち上げたその拍子に、破れた愛の衣服の間から覗いたもの…
里沙は恐る恐る愛の衣服からそれを外し、手に取った。

紛れもなくそれは、見覚えのある白い布地と緑色の刺繍。

「…や、だ、…愛、ちゃ……」

薄汚れ、ところどころ破れてしまっている部分もあるけれど。
腰の辺りに提げられていた、愛と里沙をつなぐ大切な絆の証を。

「…こんな…、こんなの…って…」

だから、愛が自分を忘れるはずがなかったのだ。
愛は、里沙が思う以上に里沙を想っていたのだ。
守りたい絆を。途切れる事なき友情を。尽きる事なき信頼を。

すべてを、里沙の手渡したおそろいのお守りに込めて、肌身離さず身につけていたのだから。


「愛ちゃん…、あたし、あたしは……」

愛はどんな想いでこのお守りをずっとつけてくれていたのだろう。
どんな絶望の淵に落ちてもなお、手放さずにいたもの。
里沙は自分のポケットから色違いのそれを取り出し、二つを重ね合わせて胸に抱きしめた。

「さよならなんて…やっぱりイヤだよぉ…」

愛が、忘れないでいてくれるのならば。
里沙もまた、忘れてはいけないと思った。

「…愛ちゃん、約束するよ」

里沙は愛の手に、今まで自分が持っていた黄色い刺繍のお守りを持たせた。

「絶対に、また会おうね…
 その時はできれば…、…ううん、絶対に同じリゾナンターとして…
 実現したら、その時はまた、このお守りを…、さ」

“いつでも私があなたを守れるように”と願いを込めて、
お互いのイニシャルを刻んだお守りを持っていた。
今、自分のイニシャルのそれが手元にあることは、あの時の本意とは違ってしまうけれど。

愛がずっと込めていてくれた想いを、感じることができるように。
目を覚ました愛に、里沙の想いが届けられるように―――

「もう一度、交換しよう。
 それも、約束するから」

またすぐ、会おう。
それまでは少しの間、お別れだけど―――



 もう、こんな苦しみは味わいたくない。味わわせたくない。
 絶対に裏切るなんてしない。悲しませるなんてしない。

 だから。

里沙は愛の身体をもう一度抱きしめ、そして、自分の手の中にあるスイッチを押した。
機械箱が振動しだして淡い光を放ち始める。
あさ美が生み出したのは、愛の能力を擬似的に造り出し一度だけの瞬間移動を可能にする装置。
これを使えば、愛はこの闇から解放される。

里沙もまた自分のワープ装置のスイッチを入れ、愛の耳元で祈るようにささやく。
もう、逃げないから。迷わないから。
また会える。そう思うだけで、強くなれる気がした。

その瞬間、二人は強い光に包まれた。
二人がそれぞれの装置でワープに要する時間は一瞬。
互いの身体が光の粒となって消えゆく時、里沙の口元が動いた。
その声はかき消されながらも確かに届けられ―――目を閉じたままの愛が、小さく指先を動かす。

まるで爆発のようにひときわ強く辺りが照らされると、
愛と里沙の姿はほぼ同時に別の光の中へと消えた。


雨は上がり、雲は流れる。けれどそこに残るのは、闇。

二人がいたはずの場所は、愛の身体に無数に付けられていた傷からの血や、
里沙の目からこぼれた涙の跡さえも消え失せ、
辺りは何もなかったかのように、薄汚れた闇の世界に戻っていた。

風が吹き砂ぼこりが舞う中に、一片の布が浮き上がる。
それはボロボロに破れていた愛の衣服の一部だった。
今やそれだけが、愛がここにいたという事実を示していた。




















最終更新:2012年11月24日 20:16