4.
衝撃は、来なかった。
どれくらい目を閉じていたのかはわからないが、そう長い時間ではないはず。
身体を叩く雨の強さは、さっきまでと変わっていないようだった。
ゆっくりと目を開く。
目の前には、石化したように停止している男の姿があった。
ナイフを振りかぶって、今にも振り下ろそうとするその姿のまま。
止まって、る?
愛は必死に状況を把握しようとしたが、上手く頭が回らない。
身体を動かそうにも、どこにも力が入らなかった。
さっきまではまったく感じなかった傷の痛みを感じて、愛は顔をしかめた。
ぴちゃっ。
濡れた地面に足音が聞こえ、音のした方へと顔を向ける。
「…誰、や?」
ぴたり、ぴたりと、足音は確実に近づいてきていた。
目の前で動きを止めている男たち。
近づく不気味な足音。
そして、
「―――あたしが、彼らの精神を止めたの」
何もかもがこの堕落した闇には相応しくない。
立ち止まったのは、ここでは見慣れぬ、黒いローブを纏った女。
「あんた、は、誰や…」
愛は同じ言葉を繰り返した。
女の顔は黒いフードに覆われてうかがい知ることはできない。
だが、敵だとは思わなかった。
彼女からは攻撃の意志は感じられない。
逆になぜか彼女の声に懐かしさを覚えた。
ずっと、近くで聞いていたような。
それが誰だったのか、どこでだったのか、いつのことなのか…
「あなたにとっては、初めましてかもしれない」
女は愛の顔の近くにしゃがみ込み、見下ろす格好になった。
それなのにフードの中の素顔は見ることができず、愛は苛立った。
「でも、あたしはあなたに何度か会ったことがある」
「どういうこと…」
「この男たちは、あたしが精神干渉を応用して止めておいた」
「精神…干渉…?」
愛の最初の疑問は、女が一方的に話し続けたせいで遮られてしまったが、
続けられた言葉に愛は驚き、問い返した。
「精神干渉…、ガキさんと、同じやんか…」
一瞬、女の動きが止まった。
愛の言葉の何かに反応したかのように。
だが、何もなかったかのように女は言葉を続けた。愛はまったく気づいていない。
「…普通の精神干渉ではもちろん動きを止めることはできない。
能力を増幅させるこの腕輪を身につけたことで…、
精神から入り込んで、神経の操作が可能になる…」
右腕に着けられた小さな腕輪。
何の飾りもないシンプルなものだが、愛はこれにも見覚えがあるような気がした。
「リゾナント・アンプリファイア…、れーなといっしょやな、その腕輪の…ちか…、ら……」
言葉の語尾がかすれるように小さくなっていく。
痛めつけられた身体が悲鳴を上げ、限界を迎えていた。
「なぁ…? あーしとあんたは…、どこで会ったことがあるんや…?
あんたは…、何者…、な、ん…」
相変わらず、愛には女の素顔は見えないでいた。
あんたは、誰?
どうしてこんなにも、懐かしさを感じさせる?
あーしが、まったく知らないような人やない…
あーしはきっと、この人を知っている…、それなのに、何で…
薄れゆく意識の中、愛は必死で記憶を辿っていた。
感じ取れるこの女の雰囲気を、持っているピースに何度も当てはめようとしていた。
それなのに、答えが見つからない。
本能のままにフードに向けて手を伸ばそうとする。
素顔を、見たいという想いで。
目的を果たさぬまま力尽き、だらりと地面に打ち付けられそうになった手を、女は右手でつかんだ。
女は、目を閉じた愛の顔をじっと見つめていた。
血だらけの口の端を、ローブの袖でそっと拭う。
女は愛の身体を抱き起こし、自分のひざの上に乗せる。
ローブの袖に隠していた小さな箱から錠剤を取り出すと、それを愛の口に含ませた。
それは、体力の回復効果のあるもの。
少し時間が経って意識が戻る頃には、かなり回復しているはずだった。
ローブを脱ぎ、濡れて冷えていく愛の身体を包んだ。
緩くウエーブのかかった長い髪と彼女の素顔が、よくやく露わになった。
「…愛ちゃん、やっぱ覚えてたんだ…」
女は小さなため息をついて一瞬微笑み、それから切なそうに首を振った。
愛に、その記憶さえなければ。
予定通りに、記憶が消去されてさえいれば。
愛がこんな目に遭うこともなかった。
愛をこんな目に遭わせたのは、自分の責任なのだと彼女は思った。
「…こんなに、傷だらけの身体になっちゃってさぁ…」
傷だらけの身体を抱きしめ、涙をこぼす。
許してほしいなんて、とても言えないけれど。
今はまだ、自分の正体なんて、とても明かすことができないけれど。
せめてほんの少しだけでも、あなたの力になることができるのならば―――
雨粒と涙が、髪を濡らしてゆく。
―――女は、女こそが、里沙だった。
最終更新:2012年11月24日 20:02