3.
この闇の中に、理性は存在しない。
本能のみが存在する。
リゾナンターのリーダーとして人望を集め、
緻密な計算をもってして戦闘に臨んでいた愛もまた、
ここでは、ただ本能のままに凶器を振り回しているだけであった。
いつしか、愛は恐れられていた。
愛と争う者は殺される。愛が手をかざせば、相手は一瞬で消失する。
思考という言葉からかけ離れた堕落者たちは、その本能で愛を恐れていた。
「…よこせ」
「ひっ!!!」
無造作に手を伸ばせば、怯えた男は持っていた酒を差し出した。
愛は乱暴に奪い取るとその蓋を開け、一気に体の中へ流し込んだ。
アルコールが身体を蝕む。
ふわふわとした感覚は、この闇の中で明るい幻覚を愛に見せていた。
ただぼんやりとした光。ひどく弱くて、すぐに消えてしまいそうな灯火。
それでも、その光を見ることだけが愛の楽しみだった。
どれだけ身体と心が重く汚れている時でも、その瞬間だけは少しだけ幸せになれる気がした。
コンクリートの壁に身体を投げ出す。
冷え切った無機質なそれは、愛のほてった身体を冷やすのにちょうどよかった。
いつもならば酔いが徐々に覚めていき、ぼんやりとした意識がハッキリしたものになってくる。
この日はなぜか、いっこうに酔いが覚めなかった。
視界が歪んだままになり、愛の足取りはひどくおぼつかない。
「見つけたぞ、i914…!!!」
背後から聞こえた声に、愛はゆっくりと振り返った。
そこには武装した数人の男。ダークネスの構成員だった。
「……なんや……お前ら………」
直感的に、相手は敵であると感じていた。
しかし対抗すべく行動するまでの思考を巡らせるほどには、
酔いの覚めぬ愛の脳が働くことはなかった。
男たちはひとつふたつ頷き合うと、瞬く間に間合いを詰めてきた。
間髪入れずに飛んできた拳の一発目はかろうじてかわしたが、続く二発目が腹部をとらえる。
「…う、ぐっ……」
ぐらりと視界が傾き、愛は壁際に手をついて身体を支えようとする。
けれど指先は壁をなぞるだけで、何の役割も果たさなかった。
重力に引き寄せられるように、愛の身体はゆっくりと地面へ沈んだ。
「…i914ともあろうモノが、こんな体たらくとはな…」
「これが、俺達が恐れていたあの殺人兵器…」
「殺さずに連れ戻せと…それがダークネス様の命令」
男は蹲る愛の頭をつかみ、顔を上げさせる。
「…つまり、殺す前までならばどうしたっていいってことだ…」
バキッ。
鈍い音と共に、口の中に血の味が広がる。
男はその一撃をきっかけに、愛の顔面を何度も何度も殴打した。
別の男はまた、手足に執拗に蹴り続ける。
抵抗する余力などとっくになかった。
大量の血を吐き出しているせいで、目の前の男の服は赤く染まっている。
それなのに、まだ自分の意識はかろうじて保たれていた。
常人ならいざ知らず、例え他のリゾナンターであっても命が危ない頃だろう。
こんなにも強靱な精神力を持ってしまったのは、リゾナンターのリーダーとしての責任感が育んだのか、
それとも、自分が呪われた生命体である故なのか…
―――このまま死んでしまえれば、どれだけ楽になれるんやろ―――
何もかも捨てて。
自分が生きてきた証とか、義務とか使命とか、そんなものは投げ捨てて。
…そういえば、あーしはなんで飛び出して来たんやろ…
みんなの前から逃げてきたけど…
あぁ、ほや、ガキさんがおらんって、
ガキさん、あーしらのこと置いて消えちゃうから、
けど、みんな、ガキさんのこと……
記憶の片隅に追いやられていた過去を、愛は思い出していた。
この闇に落ちてから、一度も振り返ることのなかった過去。
ここで過ごしてきた時間が悪にまみれて醜いものであることくらいは自覚していたが、
記憶がそのきっかけに行き着いて、愛は自嘲気味に笑った。
…あーし、とっくに逃げ出しとったんやん…
グシャッ。
何十発目かの拳が愛の顔を叩く。
男は呆れたようにため息を一つ吐き、愛の身体を地面に投げ出した。
愛は、糸の切れた人形のような姿で仰向けに転がされていた。
「…しぶてぇ女だな…、さすがはi914サマってところか」
闇に覆われた空から、ぽつり、ぽつりと滴がこぼれる。
それはすぐに激しい雨へと変わり、倒れた愛の身体にも容赦なく降り注いだ。
ぼんやりと開いた視界に、キラリと光る刃物。
いくら殴打しても意識を失うことのない愛に、男たちは苛立ちを感じていた。
「殺しちまっちゃいけねぇって言うからな…」
右腕を。右肩を。ナイフが順に斬りつけていく。
痛みはもう感じることもないが、苦しみが全身を支配していた。
もう、終わりにしてほしい。そのナイフで心臓ごと貫いてしまえば。
愛は、絶望を祈るようにして目を閉じた。
頬を伝うものは、雨なのか、それとも涙なのか。
愛には、わからなかった。
最終更新:2012年11月24日 19:59