(08)573 『RとR(2)』



ひゅんっ
と、中空から放った鋼線が音を立てたときには、すでに遅かった。
里沙のみぞおちにブーツの爪先がめりこんでいる。
胃の内容物の逆流による不快感が、かろうじて意識を繋ぎ止めた。

黒くしなやかな四足獣を思わせる女。
粛清人Rが一抹の憐れみを湛えた瞳で里沙を睨みつける。

「まーめ。あんたもあっち行ったりこっち行ったり、随分忙しいわね」
「もう、どこにも行きませんよ」

やっと、自分がいるべき場所を見つけたのだ。

「大人しく組織に戻りなさい。今ならせめて命だけは助けてあげる」
「嫌だ!」

里沙の声がわざとらしくビルに響く。


「嫌だとか言わないの」

黒いボンテージの女は、不機嫌そうに口角を下げた。

「ふん」

里沙は、あざわらった。

「嫌じゃないんですか。組織なんかに入ったがために、精神をすり減らし、命を落とした人間を私は何人も知っています」
「人生はままならないものよ、でも、いつかは報われるときが来るわ」

人生などという言葉がこの女から吐き出されたことに、里沙は違和感を覚える。

――頃合か
そろり、そろり、と意識の触手が忍び寄る。



「いつかなんて御免だわ!私はいまの温もりが欲しいの!」
「あんたバカじゃないの!」

声に怒気が混じりだした。
――いけるか

殊更に嫌みったらしく、里沙は口を開いた。

「バカはアンタでしょーが。私には共鳴する仲間がいるわ」
「共鳴なんかまやかしよ!そんな物では私たちの呪われた力は消えやしない。だったら!
 だったら世界を変えるしかないじゃない!」

声が感情的になり、瞳を敵意が染めていった。

この女の性質は極端な負けず嫌いでとにかく熱くなりやすい。
組織の中では有名で、もちろん里沙も知っている。
――火を点ければ燃え上がるか
予想は図に当たったといっていい。



――今だ!
形のいい唇が細かく震えているのを確認したとき
里沙はRに意識の触手を殺到させた。


「精神のロック」
精神干渉者(サイコ・ダイバー)にとって、これを如何に潜り抜けるかが
戦闘における大きなカギとなる。
この時、里沙は敵を激昂させ、相手がロックを下ろす前に多数の触手を精神に滑り込ませることに成功した。
後は、粛清人Rの心の痛点を見つけ、抉り出し、増幅させて、痛めつけ、屈服させる。
これができれば里沙の「勝ち」だ。


――里沙の頬から、徐々に血の気が引いてゆく




無い
痛点
痛点が
心の痛点が
見つからない
心の痛点がどこにも無い。
まさか、まさかこの女。
精神が鉄で出来ているとでもいうのか。

粛清人R。そうだ、この女は、組織の中でも有名だったではないか。
どんな任務でもこなすと、過酷だろうと、卑劣だろうと、恥ずべきことだろうと、
組織の任務ならすべて、黙々と成し遂げてきた女だ。

「にいいがきィ!よくもアンタ私の心に触ったな、この痴漢!恥知らずめ!」

不意をつかれ、自分の心に土足で入り込まれたのがよほど腹立たしいようだ。
恥辱だ、と思ったのだろう。
その殺気は、ビリビリと、里沙の肌に突き刺さる。



里沙は構えた。
頭部を両腕でガードする。致命傷さえもらわなければいいという考えだ。

黒いけものが、大雑把すぎるほどの大股で歩みを進める。

瞬間消えた。

????   どこだ?   上!
空中からの、回し蹴り。
ガード、両腕で―――衝撃
景色が飛んでいく、何だ?景色が…吹っ飛ばされているのか私は!止まる。痛。背中。
壁か。壁に当たって…!Rは?Rはどこだ?R?香水?近い?どこだ?
――隣だ! 危――

粛清人Rの必殺の崩拳が、里沙のみぞおちを再び捕らえた。


コンクリートの冷たさを全身で感じながら、
里沙は己の意識を繋ぎ止める作業に没頭した。
まだ終わっちゃいけない、まだ。うっ

「げっ、げぇぇ」

吐しゃ物がコンクリートを汚す。

「だーーめじゃないの床を汚しちゃあ」

里沙の哀れな姿を見て少しは気が晴れたのか、
こつり、こつり、と歩み寄る女豹の口元には
うっすらと張り付いた笑みが見て取れる。

初夏の風が吹いた。
風は、黒衣の女の髪を、里沙の頬を撫で、
彼女の腰につけたお守りをゆっくりと煽った。
縫い付けられた黄色いAの文字が風にそよいでいる。


――――――ここまでは、まあここまでは
予想通りなんだけどねえ…
里沙は袖口の鋼線を指でもてあそびながら粛清人の瞳を見つめていた。




















最終更新:2012年11月24日 13:04