(06)758 『蒼の共鳴-失いたくないモノ』



「じゃ、2、3日くらい連絡つかないと思うけど心配しないでね。
いってきます」

「分かったやよ、でも携帯繋がらんくらい田舎とか…仕事の為とは言え、大変やねー」

「まぁ、こう見えてもそれなりのポジション任されてるからね。
んじゃ、またね」


愛と会話を交わした里沙は、一人リゾナントを後にした。
今日から数日里沙は出張―――正確には、ダークネスへと一時帰還するのだ。
愛達には、仕事で田舎の方まで出張と言うことにしておいた。
携帯が繋がらなくても仕方のないような奥地、という設定にしておけば煩わしさを感じることはない。

そういう設定にしておくのには理由があった。
ダークネスへと帰還している数日間は、携帯を取り上げられる。
その上、ダークネスの建物全体を覆うのは物的攻撃や電波等を完全に遮断する妨害結界が張られている。
幾ら連絡を取ろうとしても無駄なのだ。

リゾナンター達に情を移して任務遂行に支障をきたさない為の処置の一つが、年に数回の一時帰還及び
その間リゾナンター達への連絡を一切禁じることだった。

その処置は、今の里沙にとっては安堵出来るものであり、同時に苦痛を感じるものでもある。
里沙だけしか味わえない不思議な感覚は、ダークネスにもリゾナンターにも真に所属することの出来ぬ苦しみがもたらすものだった。

リゾナントがあり、里沙の住むマンションも存在するそれなりに大きな街。
里沙は街の外れの方までタクシーで移動し、そこで下ろしてもらった。

ダークネスの建物は、電車等の公共機関で行くことは出来ない。
唯一の移動手段、それは。


「ダークネス№1020、これよりダークネスへ帰還する。
転送ゲート開放を申請します」


里沙が携帯を切って数秒経った。
里沙の目の前に出現したのは、筒状の闇色の光。
この闇色の光こそ、ダークネスの建物へと通じる転送ゲートである。

瞬間移動や空間転移等の移動系能力を持たぬ里沙がダークネスへと帰還するには、このゲートを使わなければならない。
だが、このゲートはその色の示す通り―――闇の力で出来ている。
その闇の力をリゾナンターの面々が察知しないとも限らない、そのため里沙はわざわざ遠く離れた場所まで移動してきたのだった。

これだけ離れた場所であれば、微弱な闇の力を完治される可能性はゼロと言ってもいい。
里沙は躊躇うことなく、その闇色の光の中へと足を踏み入れる。
時間にして数秒、里沙がダークネスへと転送されると同時に闇色の光はかき消えた。


 * * *


里沙が転送された先は―――ダークネスの居住棟内にある自室であった。
帰ってきたという感慨はない、まずはこの部屋の換気をする必要があった。
年に多くても片手の指の数程しか帰ってこない部屋は、当然のように埃くさい。

空気清浄機がフル稼働する中、里沙はベッドのシーツをはぎ取って洗濯済みのものへと取り替えた。
今日から数日はここで寝起きするのだ。
最低限のことはしておかねば、とてもここで生活できる気がしない。

部屋を快適な状態にしようと動き回っていると、ドアを叩く音がした。
溜息をついて、里沙はドアを開ける。


「新垣様、お忙しいところ申し訳ありません。
携帯を預かってくるようにと命令が出ましたので、預かりに参りました」


部屋を訪れたのは、黒を基調とした迷彩服に身を包んだ下級兵だった。
里沙は電源を落とした状態の携帯を手渡して、ご苦労様と声をかけてからドアを閉める。

電源を切っておく必要は特になかった。
ただ、万が一電波が届いてしまうようなことがあった時のことを考えてのことだった。
連絡を取ってきたとしても、電源を落としてある状態ならば不審がられることはない。

里沙は再び、部屋を快適な状態にするべく動き回る。
備え付けの机にうっすらと積もった埃を払い、床に落ちた埃を掃除機で吸い取る。
それが終われば、今度は水で湿らせた台拭きで机を拭き―――ようやく、里沙の掃除は終わった。

机の上に置かれた黒塗りのノートパソコンを、約一年振りに起動する。
インターネットには繋がっているので、彼女達に連絡を取りたくなったらここからメールを送れば良かった。

とりあえず起動したものの、パソコンを使うような作業はない。
それどころか、特別何かやるようなことがあるわけではなかった。
リゾナンター達に関する報告は、何か動きがある度に随時行うようにしていたのだから。

それでも、年に一度は必ず帰還要請が来た。
報告を随時上げる“優秀なスパイ”であるのはこの数年でダークネスの幹部達は十分知っているはずだった。
知っていても尚、こうして帰還要請が来るのは彼女達に情が移ってしまわないということだろう。

情が移ると考えるならば、毎月一度くらいの頻度で帰還させればいい。
当初里沙はそういう風に思っていたものだった。
里沙の表向きの顔は、アパレル会社に勤務する社員である。
そういう“設定”なのだから、出張に行ってくるの一言で日数も回数もある程度はどうにでもなるのだ。

年に一度しか帰らなくなった今、この薄暗い部屋よりも喫茶リゾナントの方が気に入りつつあった。
だが、里沙はそれを認めることをよしとしなかった。
それを認めたところで、辛くなるのは自分だけという事実を里沙は知っている。

リゾナンター達の方へ気持ちが傾きそうになる度、里沙は過去を思い返す。
里沙の運命が劇的に変わることになった、あの日の夜を。


 * * *


その日、里沙は“追っ手”から必死で逃げ回っていた。
深い夜の闇に紛れながら、里沙は追っ手を振り切ろうと右に左にと方向を変えながら走る。
よく知っているとは言い難い街の路地裏を、勘を頼りに走り続ける里沙。

生まれ持った“精神干渉”という能力故に、親に疎まれ大切な居場所から身を切られるような想いで逃げ出してきた。
この能力を心底忌まわしいと思うのと同時に、忌み嫌う能力を行使し戦うという別の“痛み”を自身に与えることで、
耐え難いこの心の痛みを相殺しようと、里沙は日々能力者組織に戦いを挑んでいた。

一般人相手に能力を使うことには抵抗があった。
だが、能力者相手となると話は別だった。
相手も自分と同じ―――“化け物”なのだ。
“化け物”相手に能力を使うことに、里沙が躊躇いを覚えることはない。

心の痛みのままに暴れ回っては、また次の獲物を求めて彷徨う里沙は能力者組織の界隈ではちょっとした有名人になりつつあった。
たった一人で組織に乗り込み、そこにいる能力者全ての精神を崩壊寸前に追い込む“悪魔”として。

そんな通り名が付きつつあった里沙だが、この日ばかりはいつもと同じようにはいかなかった。
“悪魔”と言われながらも、敵の息の根を止めなかったツケが今頃になって里沙に襲いかかってきたのだった。

里沙の能力の正体が、運良く難を逃れた能力者によって他の組織へと伝えられてしまった。
能力を知られてしまった里沙は、今までのような一方的な戦いを展開することが出来ずに逃げ回るしかなかった。

念動力等の、攻撃系能力を有していたら逃げることなく敵と渡り合えた。
だが、里沙の能力は相手の精神に干渉し相手の思考行動を完全に支配する能力である。
しかも、その能力は相手の体の何処かに必ず触れていなければいけないという制限があった。

能力の正体及び弱点が知られ、それに対する策を講じられてしまったら。
相手にとって里沙はもう“化け物”ではない―――ただの無力な人間でしかなかった。


(ここまでかな、もう)


里沙の体力は既に限界に達しつつあった。
特別足が速いわけでもないし、組織に属して日々訓練を重ねていたわけでもなかった。
それに加えて、もう走る気力さえ失せつつある。

精神干渉により、相手の精神を崩壊寸前まで追いやることは出来た。
だが、その命までは奪うことが出来なかった。
敵に止めを刺せない甘さが今、里沙自身を傷つける鋭い刃と化して襲いかかっている。

里沙は足を止め、目をそっと閉じた。
一瞬で疲労が全身を巡り、酸素が脳に届かず目眩を引き起こした。

だが、体の状態とは裏腹に里沙の心は不思議なくらい落ち着いていた。
否、落ち着くというよりは―――諦念だった。

里沙はけして、今まで誰も殺しはしなかった。
だが、殺さなければそれでいいという訳ではないことくらい、自身が一番よく分かっていた。

けして意味のある行為ではない。
家族に疎まれ居場所を失った痛みを誤魔化したくて、ひたすら暴れ回っていた。
そして、痛みの限りに暴れ回ったツケは―――この命で支払うしかないだろう。

楽には死なせて貰えないだろうが、もうここで終わりでよかった。
能力の詳細や弱点が知れ渡った時点で、遅かれ早かれこうなることは目に見えていたのだ。
知られていると知りながらも、いつもと同じように乗り込んだのは。

―――どうやっても消えない痛みなら、いっそ誰かに止めを刺されたかった。

目を閉じてその場に立つ里沙の耳を揺らす、複数の足音。
その音がどんどん自分に近づいてきても尚、里沙はその場から動こうとはしなかった。


「見つけたぞ、悪魔め!」

「今まで色んなところで暴れ回っていたようだが、それも今日で終わりだ!」

「すぐには殺さん、お前に精神を壊され生ける屍となった同胞達の恨み、じっくりと晴らさせてもらうぞ」

「何度泣き喚いて殺してくれと懇願しても終わることのない苦痛を、これからは与え続けてやるよ」


追っ手達の言葉を聞きながら、里沙は今までの人生を思い返した。
記憶は曖昧だが、生まれてから物心が付く頃までは大切に愛されて育ったと思う。
ある日、能力を使えるようになってから状況が一転したのだった。

両親は常に里沙に対して怯えを隠そうとはせず、里沙が口を開く度にその場から逃げ出した。
広い屋敷の一室に隔離され、決まった時間に運ばれてくる食事は今まで里沙が食べていた豪華な料理ではなかった。
目の前に運ばれてきた食事は、両親が雇っていたお手伝いさんが野良猫に与えていた残飯と見た目は変わらない。

今まで里沙が着ていた質のいい色とりどりのワンピースの代わりに与えられた服は、ぼろ布を継ぎ接ぎして作ったような服。
替えの服など与えられず、年中水しか出ないシャワーを冬でも浴びるしかなかった。
両親の目を盗んで、お手伝いさんが温かい料理や洗濯された服を差し入れてくれることが唯一の救いであった。

そんな状態でも尚、里沙は信じていた。
まだ、自分は両親に愛されているはずだと。
この変な能力さえ使わなければ、きっと両親は前のように大事にしてくれる。

そう信じていた里沙を絶望の淵へと叩き落としたのは、他ならぬ両親であった。


『もう限界よ、あの子をこの家にこれ以上置いていたら頭がおかしくなってしまうわ。
あの変な力を持っている限り、いつかはあの子、私達をどうにかしてしまうんじゃないの!
今はあの子大人しくしてるようだけど、もっと成長したら…』

『何、心配するな。あの子を引き取ると言ってきている人物もいる。その人物はこう言っていたよ、
記憶を書き換える能力を使えば、私達に育てられたことなどすっかり忘れて全く別人として人生を送れると』

『そんなことが出来るのね…あなた、早いうちに実行しましょう、あの子が何かしてしまわないうちに』

『そうだな、その方がお互い幸せな人生を歩めるだろう。その人物に話を通しておくよ』


眠れぬ夜更けに聞こえてきた会話は、里沙の中にあった僅かな希望を粉々に打ち砕いた。
涙を流しながら、里沙は能力を行使する。

本来、里沙の能力は干渉する人間の何処か一部に触れていなければ干渉することが出来ないという、制限つきの能力。
だが、強い感情によってその制限を打ち崩した里沙は、両親の意識へと侵入し自分に関する記憶の一切を消し去った。
そして、父親の体を操り自分の軟禁されていた部屋の鍵を開けると同時に、里沙は自身へと意識を戻す。

数年ぶりに見る両親は、記憶の中とは違っていた。
白髪交じりの髪、年齢にそぐわない皺の数。
いつ何をされるか分からない恐怖に数年間晒された結果が、老いという目に見える形となって現れていた。


『何もするわけないのにね…あたしはただ、小さかった頃のようにパパとママに愛されたかっただけなのに』


里沙はそのまま、家を飛び出した。
もう二度と戻ることのない、もう二度と会うことのない家族がいる大切な居場所だった家。
自分の記憶を改竄出来るならば、今すぐ今までの記憶を消して上書きしてしまいたかった。
だが、それは出来ないことなのだと分かっていた。

そこから後のことは、よく覚えていない。
この能力を行使すれば、満足出来るだけの衣食住を手に入れることは容易かった。
その気になれば、何事もどうとでもできる。

ただただ、心が痛かった。
骨の髄にまで染み渡るような、体の内側を巡り続ける激しい痛み。

忌み嫌うこの能力を行使し続けるという別の痛みをもって、その痛みを相殺しようとしたが無駄であった。
行使すれば行使する程、心の痛みはひどくなる一方だった。

そう―――今まで自分がやってきたことは、何もかも無駄で無意味だった。

涙を流しながら狂った様に笑い出した里沙に追っ手達は一瞬怯んだものの、抵抗する様子は無いと判断した。
だが、それでも警戒を怠らずに里沙をじわりじわりと四方から囲む。


(あぁ、やっと終わりに出来るんだ。本当、馬鹿みたいな人生だったな。)


これからは、ありとあらゆる肉体的苦痛・精神的苦痛を与え続けられる日々が始まるだろう。
いずれ、里沙の精神は崩壊し、ただの肉の塊となる。
それはもう、死と同義であった。

だが、それでもよかった。
この耐え難い苦痛から解放されるのであれば、どんな痛みだって歓迎出来る。
追っ手達が里沙に飛びかかろうとした、その時だった。


「悪いけど、その子はあたしが引き取るよ」


里沙の目の前に突如、小柄な女が“降り立った”。
銀色の光をその身から放ち、堂々とした態度で追っ手達を見渡すその姿は只者ではないと、里沙にも彼らにも分かる。
同じ能力者だからこそ分かる、能力者としての“格”の違い。

追っ手達や里沙レベルの能力者が百人束になって、一斉に彼女に襲いかかったところで。
おそらく、誰一人満足な傷一つ負わせることは出来ないに違いない。

里沙は今まで、自分より圧倒的に格上の能力者に会ったことがなかった。
ただただ呆然と、その小さな背中を見つめるしかない。
追っ手達の一人が、彼女から放たれるオーラに圧倒されながらも口を開いた。


「そいつは“悪魔”だ、あんたが何者か知らんが…そいつを引き取ったら、そいつに潰されてきた組織の残党達が
一斉にお前の敵に回るぞ。悪いことは言わん、そいつを俺たちに渡せ」

「じゃあ、そいつらにこう言っといてよ…この子に手を出すなら、“M”が全力で潰しにかかるって」


一切の感情を込めずに紡がれた言葉に、追っ手達の顔色は真っ青になった。
ずっと一匹狼だった里沙には、何故彼らがそこまで怯えているのかは分からない。
ただ一つ分かることは、この身を今も苛む痛みから解放されるチャンスは無くなったということだけだった。

そして、彼女は怯える追っ手達に更なる追い打ちをかける。


「早く消えな。それとも、あたしと闘ってみる?『M』の創設メンバーの1人、
安倍なつみとやりあって勝てると思うなら相手してあげるよ』


その言葉が止めとなった。
追っ手達は我先にと逃げ出し、後に残されたのは里沙と彼女―――安倍なつみだけだった。

追っ手達が完全に視界から消えたのを確認して、なつみは里沙の方に向き直る。
銀色の光を纏ったなつみの姿は、まるで空想の世界で描かれる天使のようだと里沙は半ば見とれながら思った。
先程までの恐ろしい殺気は消え去り、なつみは柔らかい微笑みを口元に浮かべている。
その穏やかな眼差しに、胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。


「怪我はない?」

「…おかげさまで。それより、あなたは一体何者なんですか?
どうしてあたしを助けてくれたんですか?」

「あたしもまだまだだなー、これでもちょっとは名の知れた組織の重要メンバーなんだけど。
何でキミを助けたかとかは、ちょっと話が長くなるから座って話そうか」


そう言って、彼女はベンチをここにと呟くように“宣言”した。
刹那、里沙と彼女の目の前には公園に設置されているようなベンチが出現する。

なつみが行使した能力は“言霊-スピリチュアルメッセージング-”と呼ばれるものであった。
多種多様な能力の中でもレアスキルと呼ばれる部類に属する、能力者のレベルによっては“神”になれるような絶対的な力である。

その名の通り、発した言葉通りの結果を現す能力であり、精神力の強さによって実現できることが変わってくる能力である。
突然起きた事態に驚きを隠せないまま、里沙はなつみに促されるがままそのベンチに腰掛けた。

なつみは軽く息を吐いてから、口を開く。


「キミが暴れ回ったところ、捜査したんだよね。
実際に被害にあった能力者の様子も見たんだけど。
何かおかしいって思ったんだ。
普通なら全員口封じに殺しちゃうだろうに、何故か生きている被害者。
しかも、彼らの洗脳はある程度の力を持った人間ならちゃんと正常に戻せるレベル。」

「それは、あたしの力不足で」

「違う。
キミはやろうと思えばやることが出来たのにそれをしなかっただけ。
能力を知られたらさっきのようにピンチになるのは分かってるのに、何故か口封じをしようとしなかった。
あたし、それが不思議でさ…考えたんだよね。」

「…何をですか」

「キミは本当は、こういうことしたくてしてるわけじゃないんじゃないかなとか。
誰かに止めてほしくて、暴れてるだけなんじゃないかってそう思ったんだ。」


柔らかい声で紡がれたなつみの言葉に、里沙の心はざわついた。
何故、ついさっき会ったばかりの彼女にそんなことが分かるのだろうか。
誰にも打ち明けることが出来ずに苦しんでいる里沙の胸の内を読んだかのような言葉に、里沙は動揺を隠せなかった。

里沙の顔を見て、なつみは自分の考えていたことが当たっているのだと確信した。
なつみは里沙の方に手を伸ばし、そっとその小さな肩を抱き寄せる。
仄かに甘い花の香りが、里沙の鼻孔をくすぐった。


「こういうことするってことは、きっとキミは何か辛いことがあるんだよね。
苦しくて辛くて悲しくて、でもどうしようもなくて。
その気持ち、分かるから…だから、キミにはあたしと一緒に来て欲しい。
あたしがいるところはキミのような人が沢山いて、皆でその辛さを分かち合って乗り越えていこうとしてるから。」

「そんなこと急に言われても、あたしは頷けません。
あなたの言う言葉に嘘はないと思いますけど、あたしは誰かを信じるのが怖いんです。
裏切られるのはもう、嫌だから」

「でも、キミは本当は信じたいんだね、誰かを。
信じたいから、同じくらい裏切られるのが怖いんだ。
あたしはキミを裏切らないよ、絶対に。
裏切られたと感じたら―――あたしのこと、殺してくれても構わない。」

「…何で、何でそんな言葉をあたしに言ってくれるんですか?
あたしは、そんな言葉をかけてもらえるような人間じゃない。
お願いですから、もうあたしには構わないでください。」


目尻に浮かび上がってくる涙の気配に、里沙は唇をキツく噛みしめる。
彼女のかけてきた言葉は温かく、そのの温もりに縋り付きたくなるのを里沙はぐっと堪えた。
その温もりに身を委ねてしまいたい衝動は、確かに自身の中に存在する。

だが、今まで自分の心の痛みのままに傷つけてきた能力者達のことを思うと、その温かい手を取ることは躊躇われた。
この薄汚れた手で、目の前に現れた“天使”を汚してしまいたくなかった。

何より、怖くて怖くて仕方がなかった。
また裏切られるのではないか、その不安が里沙の胸をギリギリと締め付ける。

その痛みに耐え切ることが出来なくて、なつみの腕から抜け出そうとした瞬間。
里沙の細い腕を、なつみの手がしっかりと掴んだ。
交錯する、視線と視線。


「信じて、あたしのこと。
キミを助けたいんだ、キミの心の痛みがあたしには手に取るように分かるから」


一切迷いのない瞳に見つめられ、里沙の涙腺はついに崩壊した。
掴まれた腕からなつみの想いが伝わってきて、その包み込むような優しさに里沙の心の痛みが消えていく。

もう、しばらく感じたことのない人の温もりを、自分がどれだけ求めていたか思い知らされた。
あんな想いはもう二度と味わいたくないと、自ら孤独の道を選んだというのに。

本当は、こんなにも求めていた。
こんな自分でも受け入れて、愛してくれる人を。

なつみは里沙を引き寄せて、しっかりと抱き締めた。
里沙もまた、その想いに応えるようになつみを抱き締め返す。

いつの間にか降り出した雨が里沙となつみを濡らす。
だが、二人はそのまま離れることはなかった。


それから数年間、色んなことがあった。
“M”のメンバーは里沙に、能力者として生きていく為に必要な知識や技術を教えてくれた。

能力者が普通の人間と変わらない生活を送れるようにしたい、それが“M”の目的であった。
それに共感した里沙は“M”のために強くなろうと、日々努力を重ねる。
心身共に成長していく里沙を、なつみは静かに見守る。

そんな日々が続いていくのだと信じていた里沙は、またしても裏切られることになる。


“M”の一部のメンバーによって“M”は悪の組織“ダークネス”へと変貌した。
能力者が普通の人間と変わらない生活を送れる世界にしたいという方向から、一気に真逆の方向へと突き進む。
それは―――超能力を行使し、普通の人間達を支配するという方向であった。
能力者組織を次々と吸収し、ダークネスは急速に力をつけていった。

その流れに逆らったなつみは、能力を封じる拘束具を付けられダークネス内にある監獄へと幽閉された。
精神干渉などの能力に対する耐性があるなつみは、ダークネスにとっては使い道のない爆弾そのものだった。
洗脳してダークネスの能力者として敵対する組織と戦わせることができないのに、けしてダークネスはなつみを処分しようとはしない。
その不可解な行動に、里沙はダークネスはなつみを何らかの形で利用しているのだと確信する。

そして、なつみとは姉妹同然であった里沙も、なつみ同様組織の流れに逆らい監獄へと幽閉されたのだが。


ある日、幽閉の日々は終わった。
監獄から出された里沙に、ダークネスから命令が下された。

ダークネスへ敵対する能力組織リゾナンターへ潜入し、彼女達の能力などについて報告せよという命令を里沙は拒否することが出来なかった。
否、拒否しようとしたのだ。
ダークネスの為になるようなことをするくらいなら、いっそ処分された方がいい。
そう言おうと口を開くよりも早く、かつての“M”のリーダーでありダークネスの総統となった人物はこう言ったのであった。


『ええんやで、別に拒否しても。
ただ、そうなったらアンタの大事ななっちの命は…どうなるか分かるやろ?
なっちのことが大切なんやったら、引き受けてくれるよなぁ、新垣』


その嫌な微笑みを今でも忘れることが出来ない。
彼女もまた、ダークネスへと変貌する前までは里沙の面倒をよく見てくれた人だった。

なつみの命を天秤にかけられた以上、拒否するという選択肢は完全に潰された。
他の人間だったら、まだ拒否しようと思えたかもしれなかった。

だが、なつみは里沙を救ってくれた恩人であり、何者にも替えることの出来ない大切な人なのだから。
低く潰れたような声で分かりましたとしか呟けない無力な自分を、激しく恨むことしか出来なかった。


 * * *


過去を思い返していた里沙を、ドアを軽くノックする音が現実へと引き戻す。
誰だろうと思いながら、里沙は軽く息をついてドアを開けた。

ドアを開けた目の前には、柔らかな微笑みを浮かべる一人の女性がいた。
その女性を見て、里沙も笑顔になる。
リゾナンターの面々が見たこともないような、幼い笑顔であった。


「ガキさん、おかえりー。
何かしばらく見ない間に大人っぽくなったんじゃないのー?」

「安倍さん、ただいま帰りました。
お元気そうで何よりです」


里沙がその命令を引き受ける代わりに、総統へと出した交換条件。
それは、なつみを監獄から出して欲しいということであった。
能力を無効化する拘束具を付けている以上、ただの一般人と変わらないのだから監獄に幽閉する必要はない。

里沙の願いは聞き入れられ、なつみは里沙の居住室の隣に部屋を用意され、そこに住むようになった。
かつての功労者ということもあり、なつみは里沙と比べると大分丁重な扱いを受けている。

一年振りに見るなつみの変わらない笑顔に、里沙の目頭は熱くなった。
なつみは里沙の目元に手を伸ばし、その瞳から涙が溢れる前に指でそっと、目元を拭い去る。
里沙の胸を満たす、穏やかな温もり。


(皆、ごめんね。ここにいる間だけは皆のことは忘れていたいの)


かつての“M”のような温かい存在である、リゾナンター達。
その温かさに心を引かれながらも、彼女達の仲間として真に属することは出来そうもなかった。
彼女達を選ぶということはすなわち、温かさを教えてくれたなつみを永久に失ってしまうことになるのだ。

出来るならば、なつみとなつみの世話をしてくれている友人と共に彼女達の元で暮らしたい。
そして、なつみや彼女達と共にダークネスの野望を止めるために戦いたいと心の底から想う。

だが、それこそは叶わぬ願いであることを里沙は誰よりもよく知っていた。

そっと抱き締めたなつみの温もりを感じながら、里沙は目を伏せて祈る。
胸の痛みに涙することがあろうとも、どちらも里沙にとっては大切で切り離すことの出来ぬ存在であった。
どれだけ願っても叶わぬ願いであることは知っている。

ならば、せめて―――どちらも失うことのないこの日々が少しでも長く続いてほしかった。


里沙の祈りは、誰かに届くよりも先に空となって消えた。




















最終更新:2012年11月24日 10:10