「では、ファンの皆さんに最後に一言お願いします」
「そうですね、これからも色んな一面を見せていけたらと思いますので、
応援よろしくお願いします……こんな感じで」
「はーい、きらりちゃんは本当優等生アイドルだよねー。
たまには何か変わったこと言ってみたら?」
目の前でボイスレコーダーを操作しながら、女性記者は率直な感想を口にする。
その言葉に、少女は鮮やかに微笑みながら考えておきますとさらりと答えた。
もう何度も女性記者と少女―――アイドル“月島きらり”は取材という形で顔を合わせている。
月島きらり、14歳。
かつて日本中を虜にしたトップアイドル“AYA”の後継者、とマスコミには持ち上げられ、
その類い希な容姿と天性の演技力はとてもアイドルとは思えない等と評される、今売り出し中のアイドルだった。
最初の頃と比べると幾分か馴れ馴れしい口調で話しかけてくる女性記者に、そろそろ次の仕事がありますので、と。
柔らかい微笑みを浮かべながらきらりは席を立った。
マネージャーの方に視線を一つくれると、きらりはそのまま事務所内の別室へと姿を消す。
どこか冷たい雰囲気を纏ったその背中はとても、14歳の少女のものとは思えなかった。
別室へと戻ったきらりは取材用に着ていた衣装を脱ぎ、制服へと着替える。
脱いだ衣装を備え付けのハンガーへと掛け、アクセサリー類を外してケースへと放り込んだ後、赤い縁の眼鏡を装着した。
アイドル月島きらりが―――女子中学生“久住小春”へと戻る。
帰宅準備を進める小春の元へと現れたマネージャーは開口一番、適当なこと言って逃げないでよと不満を口にした。
「えー、だってあの人馴れ馴れしすぎません?
何度か取材したってだけで、何であんな風な口の聞き方してくるのか意味分かんない」
「小春の気持ちも分からなくもないけど、分かってるでしょ?
ああいう人達と懇意にしておいた方が自分のためになるって」
「はいはい、分かりましたー。
じゃ、あたし帰ります、お疲れ様でしたー」
「あ、後30分待ってくれれば送るわよ」
「別にいいですよ、っていうか、30分で用事終わるとも限らないじゃないですか。
お腹減ったし、仕事が詰まってない時くらいゆっくりしたいんで。
それじゃ、また」
そう言って、小春は部屋の隅に置いておいた鞄を手にして別室を後にする。
端正な横顔を見つめながらマネージャーが溜息をついたことなど、小春にとっては些細なことであった。
事務所の入っているそこそこ大きなビルから出た小春は、携帯電話を取り出してタクシー会社へと電話をかける。
通りで待つ間、幾人もの人間が自分の方を見ながら何か言っていることに苦笑いしそうになりながら、
小春は携帯を仕舞ってタクシーがくるのを待った。
芸能人歴はまだ2年にもならない、駆け出しのアイドル。
だが、事務所の精力的な売り出しの甲斐あってか、こうして制服を着て眼鏡をかけていても一目で月島きらりであることが分かる。
声のする方に振り返って微笑みの一つでもくれてやろうか、などとは思わない。
制服に身を包み、眼鏡をかけた自分は他人からしたら月島きらりでも、久住小春なのだから。
五分程で到着したタクシーへと乗り込んだ小春は、自宅のある住所を告げると黙り込む。
話しかけられるのは好きではないし、タクシーの運転手に好感を持たれなくても一向に構わない。
見る者に夢を与え、己の“イメージ”を切り売りする時間は終わったのだから。
窓の外を見る小春の横顔は、どこまでも無表情だった。
* * *
家までの道中、手持ちぶさたになった小春は鞄から携帯を取り出す。
赤い二つ折りの携帯を開いた小春の視界には、PM6:45という表示だった。
(…たまにはコンビニ弁当以外のものも食べようかな)
運転手にここで降ろしてくださいと告げ、小春は財布の中身を確認する。
エナメル地の黒い財布には、数枚の紙幣とタクシークーポン券の束が入っていた。
一万円のタクシークーポン券を出して、お釣りを受け取って小春はタクシーを降車する。
この券のおかげで、必要以上の現金を持ち歩く必要がない。
見た目だけで衝動買いしてしまった、収納力の低い財布を使い続けられるのもこの券のおかげであった。
降車したのは、小春の住むマンションがある街の隣の街。
普段は学校が終わった後仕事、土日も基本的に仕事という生活を送っている小春にとって、
電車で二十分もかからない街は比較的近所でありながらよく知らない街だった。
帰宅が多少遅くなっても、それを咎める両親とは別々に暮らしている。
もっとも、寄り道を知ったところで何か言ってくるような両親ではなかったが。
むしろ、未成年である小春を―――事務所に管理させるとはいえ、たった一人だけで東京に送り出したのだ。
脳裏に浮かび上がりかけた両親の顔を打ち消すように、小春は大通りを早足で歩く。
とりあえず、大通りと繋がっていた小さな通りに入って歩いてみた。
小春は昔から、直感が他人よりも優れている。
芸能界に身を置いた今でも、テストの点数がそこそこである理由もその優れた直感にあった。
テストにはこれが出るに違いない、この通りの近くに目的の店があるに違いない等々、些細なレベルでしか発揮されたことはないが。
一歩一歩進むうちに、小春の視界に飛び込んできたのは―――喫茶リゾナントと書かれた看板だった。
看板には営業時間は記載されていなかったが、扉には閉店の札がかかっていない。
焦げ茶色のドアの取っ手に手をかけ、小春はそのドアを引き開けた。
* * *
さほど期待せずに入った店の内装に、小春は思わず溜息がもれそうになる。
アースカラーを基調にした落ち着いた内装は小春の好みとよく合致していた。
平日の夜ということもあるのか、小春以外に客は見あたらない。
とりあえずカウンター席に座った小春に、ギャル風のウエイトレスがメニューとおしぼりを出してくる。
「ご注文が決まりましたら、声をかけてください」
どこか上擦ったような声に、このウエイトレスは小春が月島きらりなのだと気付いているのだと確信する。
はい、と一言だけ返して小春はメニューを捲っていって…この店を選んだのは失敗だったかと溜息を付いた。
一般的な喫茶店、ファミレスでもよく見るような品物に混じって書かれている、名前だけでは一体何なのか想像もつかない
品物名の数々は小春でなくても頭を抱えたくなるのは仕方のないことと言えた。
(…何、この悲しみハンバーグ定食とか軽い子によく見られるサラダとか…。
名前からじゃ一体どんな味なのか本当想像付かないんだけど)
こういう時は、店員にお勧めを聞くに限る。
大概、店員にお勧めを聞くと一番高いメニューを勧められるが…一番高いものにドリンクやデザートをつけても、二千円強。
コンビニ弁当よりは高くつくが、それでも栄養価的にはコンビニ弁当よりはいいはずだ。
小春はギャル風のウエイトレスを呼び止めて、お勧めは何ですかと聞いた。
案の定、しどろもどろになったウエイトレスにそれでも接客業のプロかと言いたくなりそうになった小春の耳に、柔らかい声が届く。
「沢山食べる人にはうええおええ丼がお勧めですよ、後、今日はほうれん草のスープパスタセットがいつもよりも
10%オフで、ドリンクはお好きなものに変更しても値段はそのままです」
「じゃ、そのほうれん草のスープパスタセットで、飲み物をミルクティーでお願いします」
カウンターから顔を出した若い女性の言葉に返事をして、小春は鞄から教科書とノートを取り出した。
もっとも、その内容は小春が最後に受けた授業よりも先に進んでいたため、教科書とノートを交互に見たところで
内容は余り理解できるものではない。
芸能界に身を置く以上、仕方のないことだった。
平日の昼間でも普通に仕事が何日も入ることは珍しくなかったし、普通の学生ならば土日は休みだが、
土日はここぞとばかりに事務所が仕事を詰めてくる。
むしろ、小春の成績はそうした特殊な環境を考慮した場合、出来る方の部類に入ると言ってもいい。
得意科目は平均点を超えるし、そうでない科目も大体の教科は平均点を修めている。
そうした成績を修めることが出来るのも、こうした空き時間に、例え内容が余り理解出来なくともコツコツと
復習をする小春自身の性格のおかげだった。
きらりちゃん、あんなに忙しくてもちゃんとこうやって勉強しとるっちゃねー、という
失礼極まりないウエイトレスの呟きを無視して、小春は教科書とノートに交互に視線を走らせる。
級友がまとめてくれていたノートは分かりやすかった。
重要なポイントをしっかりと赤ペンで記載し、周りを蛍光ペンで囲んである。
文末には教科書のページ数と思われる数字が記載してあり、ノートの内容では分かりにくいところも
その数字に該当するページを参照すると比較的分かりやすかった。
忙しくて余りその級友とじっくり会話することはなかったが、これだけ分かりやすいノートを
提供してもらっていることには素直に感謝している。
もっとも、級友が自分に優しいのは―――自分が芸能人であるからかもしれなかった。
自分に色々な噂が立っていることは一応知っている。
男性アイドル事務所のとある男性アイドルと親しいとか、声優業界に強いコネクションがある等、
人とは違う世界に憧れる年頃の女の子にとって、その噂の中心人物はさぞかし魅力的に映っているのだろう。
彼女と仲良くすれば、きっと自分にも何らかの見返りがあるに違いない。
自分は、周りからそういう風に思われていても不思議ではない環境に身を置いているのだ。
復習を始めて十五分程度経っただろうか。
出来ましたよ、という柔らかい声に顔を上げた小春が見たのは、見るからに食欲をそそる料理だった。
特別凝った感じはしないシンプルな見た目だったが、出来たてのスープパスタから立ち上る湯気の匂いに思わず小さな笑みがこぼれる。
教科書とノートを鞄に仕舞い、おしぼりで手をしっかり拭く。
出来たての温かな料理に、いただきますと小さく呟いて小春はフォークとスプーンを手に食事を始めた。
美味しい。
変な名前のメニューが混ざっていたことによって生まれた不安は、一口パスタを口にした途端に吹き飛んだ。
高級レストランのような気取った味じゃない、家庭的な味。
心の籠もった温かい料理を食べながら、小春の思考は過去へと遡っていく。
もう、しばらくこんな温かい料理は食べていなかった。
* * *
小春が生まれたのは、新潟のとある街だった。
自然の豊かな街でのびのびと、友達や家族と楽しく暮らしていた小春。
幼少時から既に、小春の容姿は飛び抜けた美しさだった。
将来は東京にでも行かせて女優かモデルにでもしたらどうだ、と両親はよく周りの人間から言われていた。
美しく、天真爛漫な小春。
だが、両親は小春に対して一定の距離を保ちながら接していた。
子供に恵まれない久住家に持ちかけられた、とある契約。
それは、小春を成人するまで育て上げることを条件に多額の資金を提供するという、現実離れした内容だった。
小春を育て上げる、それだけで得られる金額は一介のサラリーマンからしたら宝くじにでも当選しない限り、
自力で稼ぐのはとてもじゃないが難しい額である。
子供が得られる上に莫大とも言える富を得ることが出来る、それは駆け落ち同然で結婚した若い夫婦にはとても魅力的なことだった。
だが、上手い話には裏がある、と昔から相場は決まっている。
それが何かは分からないが、用心しておくに越したことはない。
美しく性格も可愛らしい子である。
これで血が繋がった本当の我が子であったなら、惜しみない愛情を注ぐことが出来ただろう。
複雑な想いを抱えながら、両親は小春を育て上げていく。
このまま何もないまま小春が成人してくれたら、その時はきっと―――実の子のように、小春と接することが出来るに違いない。
両親の想いは小春が小学五年生になった年の夏に、呆気なく打ち砕かれた。
ある日、庭で遊んでいる小春へと話しかけた母親。
いつもならすぐに返事をする小春は、母親の方に一つ笑顔を見せたきり、そのまま遊びを再開する。
何度母親が話しかけても、小春はもう顔を母親に向けない。
その態度に、母親の痺れが切れた瞬間だった。
『お母さん、話しかけても無駄だよ―――あれ、あたしが作った幻だから』
声がした方を振り返って、母親は絶句した。
庭で遊んでいるはずの小春が、いつの間にか自分の背後に立っている。
そんな馬鹿な。
庭でずっと遊んでいる小春を見ていたのだ。
その自分の視線をくぐり抜けて家の中に入るなんて、ありえない。
母親の驚いた顔を見ながら、小春は庭の方に視線を向ける。
その視線を追いかけるように、母親も庭の方を見て…蛙が潰れたかのような声をあげた。
庭では相変わらず、小春が遊んでいる。
慌てて家の中を振り返ると、そこにはニコニコと微笑んだ小春が立っている。
一体、これは何だというのだ。
真っ青な顔をした母親に、家の中にいる小春は柔らかい声でもう一度同じことを言う。
あれは、小春が作り出した“幻”だ、と。
パチン。
小春が指を鳴らしたと同時に、庭にいたもう一人の小春は消滅する。
そして、小春は母親に止めを刺すかのように―――自分の隣に、再びもう一人“自分”を生み出した。
“幻術-ハルシネーション-”、その名の通り、実際にその場にいない対象物をあたかもそこに存在するかのように見せる超能力。
能力者のレベルによって見せられる幻影の数、質が変わる。
『すごいでしょ、お母さん。
何か気がついたら使えるようになったんだけど、この能力、もっと上手く使えばいいお金になるかも。
そうなったら、今よりもお父さんもお母さんもお金持ちになれるね』
小春の声は母親には届いていなかった。
ただただ、母親は今起きたことが信じられずにいた。
美しく、可愛らしい子なのに―――やはり、裏があったのだ。
こんな得体の知れない力を持っているから、あんな契約を取り交わさせたのだろう。
今更ながら、母親は契約を結んだことを後悔した。
恐ろしかった。
目の前に立つ小春は、ただの人間ではない。
その事実が、今まで複雑な想いを抱えながらも小春を育て上げてきた母親の心に重くのしかかる。
柔らかく微笑む小春。
その微笑みを横目に、母親は今晩夫と話し合わねばと思う。
今後も今までと変わらず小春を育てていけるのか、自信がなくなってしまった。
沈黙の中、母親の耳に届いたのは遠くの方で鳴いている蝉の声だった。
それから、両親の小春に対する態度は一変した。
小春が話しかけても邪険にあしらい、時には完全に無視する。
今まで見てきたものは、小春が自分達に見せていた幻なのかもしれない。
部屋を覗いたときに見えた、勉強机に向かって一心不乱に勉強をしている後ろ姿も、いつもニコニコと笑っていた顔も。
何もかも、小春が見せていた幻。
そう思うようになったからこそ、今までのような接し方は出来なかった。
両親に疎まれている。
そのことを感じるようになった小春は、やはりあの能力を見せるべきではなかったのだと痛感した。
家族だから大丈夫だろう、その程度の感覚で見せた幻。
見せなければ、今までのように心穏やかに日々を過ごせただろう。
自分の浅はかさに歯噛みし、受け入れてくれぬ両親に募るのは悲しみばかり。
思えば、物心付いた時から両親は自分に対して何処か距離を置いて接していた。
ひょっとしたら、両親はこのことを知っていたのかもしれない。
父親にも母親にも似ていない自分。
自分は―――両親の実の子供ではないのだろうか。
募る疑念はあたかもそれが真実であるかのように、純粋だった小春の心を占めていく。
小春の能力が発覚してから一年、小春は親戚家族に連れられて東京へと観光旅行に行くことになった。
今まで見たこともない都会、田舎にはないようなものも沢山あるだろう。
両親との溝が深まって心の冷え切った小春にとって、その旅行は待ち遠しいものだった。
東京はすごい街だった。
今まで見たこともないような人の山、田舎では取り扱っていないブランドの数々、電車の本数の多さ等々、
まだ小学六年生という小春には刺激的なものばかりだった。
折角東京に来たのだから、田舎では買えないような服が欲しい。
そう言う従姉妹に連れられてやってきた渋谷の街で、小春は芸能事務所からスカウトされる。
芸能界に特別興味があるわけではなかった。
だが、小春はそのスカウトを受け入れることにする。
芸能界に入れば、両親から離れて生活が出来るのだ。
友人達と離れるのは寂しいが、それ以上にあの家で両親と共に生活するのは苦痛だった。
きっと、両親は何も言わない。
むしろ小春が自分から家を出ると言えば、喜んで送り出してくれるだろう。
寝付けぬ夜中、部屋を抜け出た時に聞こえてきた両親の会話。
『ねぇ、あなた、小春のことなんだけど…県外にある、○○付属中学校に入れるのはどうかしら?
そうしたら寮住まいになるのは必至だし、高校にも大学にもエスカレーター式で進学出来るから、
年に一度か二度程度しか顔を合わさなくて済ませられるんじゃないかしら?」
『そうだな、成人するまで育て上げないと契約違反になってしまうし、かといって、あんな力を持っている
化け物と一緒に住み続けたらこっちが気が狂いかねん。
幸い、小春はそれなりに学力はあるようだし、いざとなったら幾らか金を包めばそこに入れることは出来るだろう』
『じゃ、早速パンフレットとか入手しておくわ。
―――上手くいくといいわね』
捨てられるくらいなら、こっちから捨ててやる。
あの人達が傍にいなくても、立派に一人で生活出来ることを証明してみせる。
そして、時は流れ―――中学進学時と共に、小春は東京へと一人でやってきた。
自分を庇護する家族などなくとも、自分は立派に一人でも生きていけることを証明するために。
「ごちそうさまでした」
小春がそう言い終わるのと同時に、小春の前に差し出されたティーカップ。
カップから立ち上る湯気に、何だか泣きたい気分になったのは気のせいに違いない。
口に広がる、甘く優しい味に自然と笑みがこぼれる。
あの日、自分が持っていた能力を母親に見せる前まで確かに流れていた、温かな時間。
それを想起させるような味に、胸を締め付けられる。
どれだけ願ってももう、戻らない時。
自ら放棄した以上、戻ってくることを願うことすらおこがましい、大切だった時間。
ミルクティーを飲み干し、小春はすぐに席を立つ。
これ以上この温かい空間に身を浸していたら、泣いてしまいそうだった。
千三百八十円です、というウエイトレスの声に五千円札を置いて。
お釣りを受け取ることなく、小春は喫茶リゾナントを後にする。
外に浮かぶのは、銀色に光り輝く細い三日月だった。
* * *
大通りへと向かう小春は、不意に得体の知れない気配を感じて立ち止まる。
自分に対して敵意を剥き出しにした、禍々しい気配に小春の心は恐怖に支配された。
カツン、カツン。
ヒールの高い靴特有の足音に、小春は反射的に背後を振り返る。
そこに立っていたのは、黒いレザースーツに身を包んだ色白の女性。
どこかで見たことがあるような顔に似ている、と思いながら小春は警戒を怠らない。
普段の営業スマイルからは想像も出来ないような表情を浮かべる小春に、女性はあでやかに微笑んで口を開いた。
「月島きらり、だっけ。
“あたし”がいなくなった後のアイドル業界を牽引する、業界ナンバーワンアイドルって聞いたけど…大したことないね」
「―――あなたは、ひょっとして…」
「ふふ、まぁ、あたしのことはさておき…きらりちゃん、あたしと遊ぼうよ。
退屈してたんだよね、なかなか出撃機会に恵まれなかったあたしにようやく訪れた、暴れ回るチャンス…。
今日でもう、月島きらりとして活動できなくなるかもしれないけど…別にいいよね、代わりなんて幾らでも見つけてこれる世界だし」
その言葉が合図だった。
いきなり殴りかかってくる女性の攻撃を避けながら、小春は女性から少しでも距離を置こうと後ずさる。
だが、それこそが女性の狙いであった。
距離を空け、様子を窺う小春へと女性は手を翳し―――闇色の念動刃を放つ。
間一髪でその攻撃を避けた小春へと、次から次へと飛来する念動刃。
当たったらとてもじゃないが、命が助かるとは思えないような攻撃を必死で避け続ける小春を嘲笑いながら、
女性は小春めがけて念動刃を繰り出し続ける。
必死に逃げまどいながら、小春はこの状況を打開するべく己の持つ能力を解き放つ。
“幻術-ハルシネーション-”を使い、もう一人の自分を生み出した小春はその幻影と共に女性へと突っ込んでいく。
「そんな子供だましの技でどうにかなるほど、このAは雑魚じゃないよ!」
そう言いながら攻撃の手を休めない女性に返事を返すことなく、小春は走りながらもう二人自身の幻影を作り出す。
女性の攻撃を避けながら、四人の小春はまるでトランプの手札をシャッフルするかのように位置を入れ替わっていった。
「目くらましするんなら、せめて後三十人くらい一気に生み出さないと意味ないよ。
この程度なら、本体がどれかなんてすぐに……!」
「―――別に本体がバレたっていいんですよ、AYAさん。
あたしの目的はそこじゃない」
その声と共に、四人の小春は女性を取り囲んで一斉にその頭部目がけて手を伸ばした。
小春の真の目的、それは小春が持つもう一つの能力にある。
“念写能力-ソートグラフィー”、頭の中に思い浮かべた映像・文字等を、視認できる形で焼き付けることができる超能力。
本来、焼き付けを行う対象物は白紙などの二次元的かつ無地のものを用いるのだが、小春はその能力を相手の網膜に直接解き放った。
途端、動きを止めてその場に立ちつくす女性を横目に、小春はこの場から逃げ出すことを選択する。
人や物を傷つけ破壊するような超能力は有していなかった。
このまま女性を相手にし続けていれば、分が悪いのは間違いなく自分である。
女性が、網膜へと直接焼き付けられたビジョンに困惑している隙に早くここから脱出しなければ。
幻影を消し、小春が走り出したその刹那だった。
「あああああああ!!!」
「よくもこんな汚いものを焼き付けてくれたわね…殺す、絶対殺す!!!」
女性に背を向けて走り出した小春のふくらはぎに生まれたのは、赤い一筋の傷。
その場に膝を付いた小春目がけて、女性は容赦なく念動刃を解き放つ。
このまま、訳も分からずに殺されてしまうのか。
何故か脳裏を過ぎったのは、両親でも友達でもなく―――今日初めて訪れた喫茶店のマスターとウエイトレスの姿だった。
こんな時に家族や友達ではない人間を思い浮かべた自分を嘲笑いたくなりながら、小春は目を閉じる。
「―――セーフ、っと。
キミ、大丈夫?」
「ダークネスの手先め、よくもきらりちゃんを……あれ、何かどっかで見たことがあるような顔っちゃね」
予想していた攻撃の代わりに、小春の耳を揺らしたのは今まさに想い描いた人物達の声。
小春を庇うように立ち、女性の方を見つめる凛とした立ち姿に小春はただただ見とれた。
ウエイトレスが女性へと一気に距離を詰めて殴りかかる。
一瞬遅れて、マスターも女性の方へと飛び出していく。
息の合った連係攻撃に、女性はどんどん追い詰められていった。
女性が本来の調子であったなら、少しは対抗できていたのかもしれない。
だが、先程の小春の能力によって、女性の視界は半分ほど小春によって植え付けられた映像に支配されている。
ウエイトレスが繰り出した下段蹴りによって体勢を崩した女性に、マスターは右手を突き出して鮮やかな閃光を放った。
その光に胸を貫かれた女性は、その場で霧散して消え去る。
まるで、SF映画に出てくるレーザー銃みたいな攻撃だったなと、小春は他人事のように思った。
戦いを終えた二人が、小春の方へと歩み寄る。
「…ひどい怪我、待ってて、今治癒能力使える子呼ぶから」
その声に、小春は痛みを堪えて立ち上がる。
命を助けて貰っただけで十分だった、これ以上彼女達に迷惑をかけるわけにはいかない。
立ち上がって二人に背を向けて歩き出す小春に、次々と飛んでくる声。
「きらりちゃん、その傷治さないとちゃんと仕事出来んから治さんと!
きらりちゃんが仕事休んだら悲しむ人一杯いるっちゃ」
「キミの呼ぶ声が聞こえたから、あーし達はここにいる。
キミがどんな仕事をしてるかとかあーしはよく知らんけど、よかったら…あーし達の仲間になってほしい」
聞こえてくる声など聞こえていないかのように小春は地面に落ちていた鞄を拾い上げ、怪我した足を引きずるように歩く。
小春の態度に、なおも声をかけようとした二人は―――振り返った小春の微笑みに言葉を失った。
その微笑みは凍てつく冬の氷河を想起させる程、冷涼としている。
「ウエイトレスさん、あたしは月島きらりじゃない、久住小春。
あと、マスターさん…悪いけど、あなた達の仲間にはなれない、あたしは―――仲間なんて必要ないから」
そう言って、小春はもう二人の方を振り返ることなく去っていく。
余りにも冷たい微笑みの衝撃から二人が立ち直った時には、もう小春の姿は何処にも見あたらなかった。
しょげかえった二人が店へと戻ろうとしたその時、物陰から一人の少女が現れる。
おそらく二人の知り合いなのだろう、少女は落ち込む二人に声をかけた。
「大丈夫、きっとあの子、そう遠くないうちにまたうちらのところに来るって。
今までだってそうだったじゃない―――“共鳴の声”を聞くことが出来る人間は、絶対にその声を無視することなんて出来ない。
あの子を呼ぶ声があの子に聞こえ続ける限り、きっとまたリゾナントにくるって」
「そうやとええけど…てか、そこにおったなら手伝ってくれてもよかったのに」
「きらりちゃん、大丈夫かな…」
理由は違えど落ち込む二人に溜息をつきながら、少女は一瞬だけ鋭い視線を小春が去っていった方向へと向ける。
少女の視線の意味を知るものはなく、銀色の月は小春がリゾナントを後にしたときよりも随分高い位置で輝いていた。
* * *
今日もいつものように仕事を終えた小春は、タクシーに乗って帰宅する。
怪我したことでマネージャーにはこっぴどく叱られた。
だが、綺麗な傷だったということもあり跡は残りませんよと医師が太鼓判を押したことで、幾分マネージャーの機嫌は治ったのだった。
怪我をしているため、足を露出した格好をすることは出来ない。
とはいえ、それでも細々とした仕事が常に入ってくる。
忙しいことは喜ぶべきこと、駆け出しのアイドルでもそのことは十分過ぎるくらい熟知していた。
タクシーを降車した小春は、ゆっくりとした足取りで目的の場所へと向かう。
目的の場所―――喫茶リゾナントへと。
「いらっしゃいませー!
って、きらりちゃんやー!!!」
「ちょっと、れーな、うるさいで。
…来てくれたんやね、あーし、すごく嬉しい」
「―――別に、晩ご飯作るの面倒だったから食べにきただけです。
今日のお勧めは何ですか、マスターさん」
素っ気ない小春の声に苦笑いしながら、マスターは自分の名前を告げる。
そして、マスターに倣うようにウエイトレスも自分の名前を伝えた。
温かな空気が流れる、落ち着いた内装の喫茶店。
変な名前の料理もあるけど、料理の味は確かなもの。
ウエイトレスはまだまだ接客をすることになれていないのか、相変わらず人の周りをうろちょろ動き回ってそわそわしている。
思わず溜息を付く小春に、マスター…高橋愛は小さく微笑んだ。
久住小春、十四歳。
アイドル界に颯爽と躍り出た、今売り出し中の駆け出しのアイドル“月島きらり”でもある小春。
―――彼女が仲間になるのか、それは未だ誰も知らない。
最終更新:2012年12月02日 13:39