(23)285 『復讐と帰還(1) 産声』

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黒い、部屋だった。調度品の全てが黒で統一されている。
黒革のソファーに黒檀のテーブル。壁や天井までもが光沢のある黒に染められていた。
黒のドレスに身を包んだ女が無造作にソファーに体重をあずけている。
ドレスの胸元が赤い。
高橋愛によって重傷を負わされた粛清人Aを抱き上げたときに付着した血だ。
その赤が黒のドレスの女――後藤真希を包み込む静謐な空間の中で、
燻る炎のようにたたかいの熱を想起させている。

後藤は胸元の血を気だるそうに一瞥すると、軽くため息をついた。
ゆるゆると吐息と共に倦怠感が部屋中に漂っていく。
その姿に得も言われぬ気品が満ちている。倦怠感ですら美しい、それが、後藤真希であった。

「後藤」

背後から、氷のような声が彼女に向けられた。
後藤真希はダークネスの最高幹部の一人であるから、
極めて限られた人間しかその私室に足を踏み入れることは出来ない。

「なんか用?」

振り向いた視線の先にいたのは女だった。
黒の後藤とは対照的に白いカーディガンを羽織り、常にやわらかい日の光の中にいるような雰囲気を纏っている。
もし天が、春の訪れを知らせる精霊を地上に送るとすればこのような姿をとらせるのではないだろうか。
その微笑みは、見た者の心に決して枯れない花を咲かせるであろう。
しかし今は、この天の使い――安倍なつみの頬にはひとひらの雪ほどの微笑みも浮かんではいない。
凝縮された闇色の瞳で、後藤を見据えていた。


「珍しいね、なっちが私の部屋にわざわざ来るなんて」
「用件は、分かってるでしょ?」

安倍なつみは後藤の胸元に視線を移した。
血を見ている。

「あんた何を考えてるの」
「仲間を助けようとしたのがいけない?」
「他にいくらでもやりようがあったでしょ。腕を引きちぎるなんて、無茶苦茶よ」
「我が組織が誇る粛清人Aの命よりも共鳴者高橋愛の方が心配?」

後藤の言葉と呼応して、安倍なつみの瞳に宿る闇の色がぐうっと、その濃さを増していく。
後藤真希と、安倍なつみの間の空間が、
何か目に見えない力によって、ぎりぎりと悲鳴を上げているようだ。

「後藤真希なら、私に賛同してくれると思ったんだけどね」
「私は誰の賛同者にもならない」
「そう…それは残念ね」

そう静かに呟くと、安倍なつみは己の右手を雪を思わせる白い光で包み込んだ。
『ホワイトスノー』と呼ばれる破壊エネルギーの結晶である。
安倍なつみをダークネスの頂点に君臨さしめるこの力と、
後藤真希の圧倒的な念動力は、未だかつて一度もぶつかり合ったことはない。
後藤は唇をわずかに吊り上げて、言った。


「でもね、私は安倍なつみとやり合って無事で済むと思うほど間抜けでも自信家でもないわ」
「だったら邪魔をしないでもらえる?」
「邪魔をしているつもりはないんだけど、まあ気をつけるわ」

安倍なつみの手に宿った光から、小さな花びらを二枚あわせたような白い蝶が飛び立った。
蝶はひらひらと黒檀のテーブルの上にとまると同時に、パン!と弾けた。
テーブルの三分の一程が綺麗に抉れている。
安倍なつみは『ホワイトスノー』を行使するとき
力の強さに合わせた生き物の姿をとらせることが多い。
小さな蝶でこの威力。その気になれば虎や熊などの猛獣の姿をとらせる。

「このテーブル、結構するんだけど」
「そう、次から気をつけるわ」

視線が絡み合う。
やれやれ、といった表情で視線をはずしたのは後藤の方だった。

「いい加減この血まみれの服着替えたいんだけど、いいかな?」
「意外と似合ってるわよ、それ」

にこりともせず安倍なつみは踵を返し、出口へと歩き出した。

「そういえばお気に入りの新垣は勝ったってね。Rは残念だったけど」

後藤の言葉に一瞬ドアノブを掴む手が止まったが、そのまま何も言わず
安倍なつみは後藤真希の部屋から姿を消した。

「あの優しいなっちは、どこに行っちゃったんだろうねえ…」





―粛清人?私が?冗談だろ。

吉澤ひとみは一人、自分の部屋で先ほど交わされた会話を反芻していた。
飾りっ気のない部屋である。シンプルなデスクの他、必要最小限のものしか置かれていない。
魔女にやらせろよ、とその時は答えた。そういうのが好きな質なのは魔女ミティの方だろう。

「上層部の決定ですから、私に言われましても…」

デスクの上に琥珀色の液体が入った瓶と、氷を入れたグラスが置いてある。
自分は石川ほど強くはないという自覚があった。
粛清人に要求されるものは一つ、圧倒的な戦力だ。
それが無くては恐怖の象徴にはなれない。

「詳しいことは聞かされておりませんがこの度、戦獣部隊と呼ばれる
粛清人直属の精鋭部隊が組織されるそうです」

随分と用意がいい。まるで粛清人Rが新垣里沙に敗北するのを織り込み済みだったようではないか。
上の連中は何を考えているのか、吉澤の心にはそういった不信感がわだかまっている。
グラスに液体を注いだ。
カラン、と音を立てて氷が傾いた。

「あの…差し出がましいようですが、
自分は石川さんの後任は吉澤さんしかいないと思っています。
是非、仇を討ってください」




グラスをじっと見つめたまま、コロコロと転がす。
中の液体は酒だ。
酒と、無言で会話している。
仇、仇か…と、酒と、会話している。
石川を殺った新垣は、吉澤にとって諜報機関に所属していた直属の部下だった。
新垣の性格上、スパイ任務というものが彼女に与える負担は並大抵のものではない事も察していた。
組織の中で、新垣里沙の苦悩を一番よく分かっていたのは恐らく吉澤ひとみだったであろう。
その吉澤だからこそ、共鳴者になびいた新垣を責める気になれない。仇として憎む気持ちが湧き上がらない。

「ひとつだけ、条件がある。
石川が梅酒をな、漬けていたらしいんだ。それをもらえるかな」

その梅酒が今、吉澤の手の中にある。

―私さ、梅酒をね、漬けてたの。任務が終わったら余裕が出来るから、一緒に飲もう。

ふと、石川の甲高い声が頭の中に響いた気がした。
梅酒を一口、口の中に放り込んだ。
まずい。
甘さがどぎつい。容赦のない甘さだ。
あいつ、砂糖の分量間違えやがったな…と、苦笑いを浮かべてぽつりと呟いた。

―ま、味は保障しないわよ。

そう言ってたたかいに赴いた石川の微笑が、ひどく透き通ったものだった事を思い出す。
ぐいっと一気に飲み干した。
胸の奥からふつふつと、何かがこみ上げてくる。
この程度の量で酒が回ることはない。
しかし、確かに昂ぶってくるものがある。
このまずい酒が気付かせてくれたものがある。
それは――



―石川梨華は紛れもなく、私の友だった。

鮮やかな驚きがあった。
粛清人Rとは、石川梨華とは何者だったのか、それがやっと分かった。

「友か…」

そう口にした瞬間、吉澤の中ではっきりと目覚めた。
粛清人なんてガラじゃない。
仇が憎いわけじゃない。
でも、あいつの無念は、私が晴らしてやろう。
他の誰にも、それは譲らない。

復讐者は静かに誓う。

共鳴者どもの血で、新垣里沙の頬を真紅に染めてやろう。
恐怖と絶望と悔恨で、新垣里沙の心を闇に染めてやろう。


――新たなるたたかいは、一杯の梅酒によってその産声を上げた。