「もう大丈夫だよ」
そう言ってそっと地面に下ろしてやると、薄茶色のノラ猫はあっという間に走り去った。
つい先ほどまで引きずっていた足をしっかり踏みしめながら。
道重さゆみは、猫の姿が消えた後もしばらくそちらを眺めて立ち尽くていた。
ふと、昔のことを思い出して。
ヒーリング・・・あらゆる傷を治す力。
さゆみには物心ついたときからその力が備わっていた。
様々な能力の中にあって最も優しい癒しのチカラ。
だけど。
―普通ではない―
ただそれだけで、さゆみは迫害されてきた。
両親からさえも。
いや、両親はきっと迫害したなどとは思っていないだろう。
ひどいことを言われたり家を追われたわけではない。
だが、さゆみにとってはある意味それ以上に辛い日々だった。
きっかけは、さゆみが幼稚園に入ってすぐのある日。
階段から落ちて足の骨を折り、痛みにうめく父に対して、さゆみは初めてチカラを行使した。
幼い頃にありがちな褒めてもらいたいが故の行為ではなく、痛がる父を助けてあげたいという純粋な思いから。
そしてさゆみにとってそれは当然の行為であった。
自分にしかない特別なチカラだという認識はまったくなかったから。
これほどの大怪我の治癒は初めてだったが、さゆみの思いが能力を強く引き出し、あっという間に折れた骨は元通りになった。
“治療”を終えたさゆみは父に「もう痛くない?」と訊ねた。
以前、近所のマイちゃんの擦り傷を治したときに訊いたように。
「うん、大丈夫になった」・・・という笑顔の返事が、マイちゃん同様に父からも返ってくると疑わずに。
だが、さゆみが目にしたのは、父と、救急車を呼ぶための電話から帰ってきた母の怯えたような表情だった。
その日以来、両親がさゆみの目を見て話すことはなくなった。
表立って虐待されたわけではないし、両親にもそのつもりはなかっただろう。
むしろ両親はさゆみのことを叱ったりしなくなった。
逆に、家の中でばったり行き合ったときなどは息を呑む様子がありありと分かった。
―お父さんととお母さんは自分のことを怖れている
そう気付いたときの絶望的な気持ちは今でもはっきりと覚えている。
それは同時に、自分の持つチカラが普通ではないのだということ、だから他の人の前で使ってはいけないのだということを理解した瞬間でもあった。
・・・だが、理解することとそれを貫き通すことはまた別問題であった。
さゆみにとって、目の前で苦しむ者をそのままにすることは耐えがたかった。
自分にはその人を救うことができる。
苦しみを取り除いてあげることができる。
それが分かっていながら黙って通り過ぎることはどうしてもできなかった。
そしてその結果、癒した傷の分だけさゆみの心は傷を負っていくことになる。
―優しいチカラ
―優しい気持ち
皮肉にも2つの優しさがその持ち主の心を暗闇へと誘って行った。
自分は誰からも必要とされていない。
そしてきっとこれからもずっと誰にも必要とされない。
そんな思いに心を支配され、さゆみは家でも学校でも他のどんな場所でも独りだった。
決定的だったのはあの日。
体調が悪く、小学校を早退したさゆみは、家に入ったときに母親がどこかに電話している声を聞いた。
内容は思い出せない。
いや、思い出したくない。
気がつくとさゆみはランドセルのまま家を飛び出していた。
さゆなんてもういなくなった方がいいんだ。
だって生きてる意味なんてないもん。
死のう、このまま。
あてもなくフラフラと彷徨ううち、唐突にそんな衝動が突き上げる。
気がつくとどこかの屋上に立っていた。
自分がどうしてその場所を“死に場所”に選んだのかは分からなかった。
でも・・・今なら分かる気がする。
「何してんの?そんな思いつめた顔してぼーっと立っちゃって」
そのとき背後から声が聞こえ、過去に飛んでいたさゆみの意識が引き戻される。
ゆっくり振り返ると、そこにはいつものように笑う絵里の姿があった。
あのとき――
病院の屋上から飛び降りようと思っていたさゆみに声をかけてきたときと変わらない笑顔の絵里の姿が。
「何してんのじゃないよ。また30分も遅刻だよ」
「ごめ~ん。ほんっとごめん」
たいして反省した様子もない絵里のその謝罪をいつものように聞きながら、さゆみは再び過去に思いを馳せた。
あの日あの場所で絵里と出会い、さゆみの心は救われた。
自分を必要としてくれる存在、そして自分にとってかけがえのない存在。
周囲の“迫害”は変わらなかったが、「絵里がいる」と思うだけでさゆみの心が暗闇に引き込まれることはもうなかった。
“死に場所”にあの病院を選んだのはきっと偶然じゃない。
さゆみはそう思う。
正確に言えば、“生きるための場所”を求めて自分はあそこに立ったのだと。
そしておそらくは絵里もそうだ。
あんな風にヘラヘラと笑っているが、その心にはさゆみのものなど比べ物にならないほどの闇を抱えていたはずだ。
絵里も“死に場所”・・・ひいては“生きるための場所”を探してあそこに立ったのかもしれない。
助けを求めて叫ぶ2人の心が共鳴し合い、あの日あの場所に2人を誘ったのではないかとさゆみは思うのだ。
自分の存在が絵里にとってどれだけの救いになっているかは分からない。
だけど、これだけは確かだ。
自分にだって生きていく意味はあるのだということは。
今では絵里だけでなく、たくさんの仲間が温かく囲んでくれている。
生きててよかった。
そう思える今がとても幸せだ。
「ありがとう、絵里」
思わずそう呟いたさゆみに、絵里はしばし目をパチパチさせていたが、やがて照れたように笑うと言った。
「こっちこそありがとう、さゆ」
「にゃあ」
突然の頭上からの声に2人が振り返ると、さっきの薄茶色の猫が塀の上からさゆみを見ていた。
まるでありがとうを言うかのように。
最終更新:2012年12月17日 11:38