初更へと向かう空から放たれる紫がかった暗紅色が、街並みを妖しく染めている。
佇立する灰青のビル群に切り取られた、そのどこか不気味な色を湛えた空を見上げながら、新垣里沙は小さく溜息を吐いた。
もしも溜息に色があったならば、それは恐らく無機質なビルと同じコンクリートの色をしていただろう。
溜息を吐いたことで尚更重くなった気持ちを反映して、知らず知らずのうちに里沙の足取りも重さを増す。
視線もその重さに捉われたのか、いつしか自然と無愛想な舗装に覆われた地面へと下がっていた。
カツッ――
だが、半ば引きずるような自らの足音に混じった硬質な足音に、里沙は再び視線を上げた。
隙間なく立ち並ぶビルの間にできる仄暗い路地。
繁華街の中に点在する無人の迷宮。
その都会の異空間の中に影のように立っていたのは、闇色の細身のスーツを纏った一人の女性だった。
「保田さん・・・?何故あなたが私のところへ?」
微かな戸惑いと、それ以上の不信の心情を露わにして、里沙は目の前の女にそう訊ねた。
「今日来たのは・・・そうね、現状視察と臨時面談って所、かしら」
闇色のスーツの肩を軽く持ち上げながら、女はシニカルに微笑んで続ける。
「i914・・・最近あなたがあの子にご執心だって噂を聞いたから」
女のその言葉に、里沙は微かに眉を動かす。
暫時の間を置き、不快さの滲んだ低いトーンで里沙は言葉を返した。
「・・・そんな不確かな流言を鵜呑みにして?」
* * *
「不確か・・・そうかもしれないわね。だけどもしも事実ならば捨て置けない。そうでしょう?」
隠し切れない不快の感情を顕す里沙に、女は少し真顔になって言った。
「私が組織に対して二心を抱いていると?」
「可能性が少しでもあれば、それに対して何らかの“処置”を施さねばならない。今さら言うまでもないと思ったけど」
「・・・そうですね。それで?ここしばらくの間私の監視をしていたってことなんでしょう?結論は出たんですか?」
半ば挑戦的にすら映る里沙の表情と口調に、女は改めて確信した。
「本気で裏切る気なの?里沙。・・・言ったわよね?そんなことはたとえ組織が許してもあたしが許さない――と」
微かに残っていた笑みは完全に消え、女は里沙を睨むようにして言う。
「許さなければ・・・どうしますか?」
その視線に真っ向から向き合う里沙の表情には、不快さに混じって嘲笑のようなものさえ浮かんでいる。
「・・・これが最後の確認よ、里沙。慎重に答えなさい。本気で組織を・・・あたしを敵に回すつもり?」
「あなたがそう感じたのならきっとそうなんじゃないですか?」
「・・・そう。ならばあたしは然るべき“処置”を施さねばならない。今この場で」
「あなたに私が殺せますか?」
「甘く見られたものね。・・・いえ、甘やかしすぎたあたしのミスと言うべきかしら」
女はそう言って深い溜息を吐く。
目をかけて世話を焼いていたつもりが、悪い方向に作用してしまったらしいことを微かに悔やんで。
溜息とともにわずかな逡巡を完全に捨て去った女は、里沙を見据えて言い放った。
「さようなら。里沙」
言い終わるとほぼ同時に女の視界から色が失われる。
同様に、それまで耳に飛び込んできていた全ての音もその活動を停止した。
モノクロームの景色の中に溶け込むようにして固まる里沙の姿に、女は改めて溜息を吐く。
組織に逆らうことが何を意味するかは里沙にも十分に分かっていたはず。
・・・いや、分かっていなかったからこその今なのかもしれない。
驚いたような表情を浮かべかけたまま停止した里沙の姿がそれを物語っている。
やはりあたしのせいなのかもしれない。
あたしならば見逃してくれると高を括っていたのかも。
そうなのだとすれば・・・そんな甘い考えでいたのだとすれば、やはりあたしが責任を持って“処置”すべきだろう。
自分の能力が里沙を苦しませずに殺すことができるものであったことがせめてもの救いだと思いながら、女は静かにナイフを抜き出した。
こつ、こつと女は里沙の所へ歩み寄る。
自らのパンプスの音がモノクロームの世界にやけに響くのを感じながら、女は里沙の正面に立った。
「さようなら。里沙」
再度そう呟くと、女はナイフを持つ手に力を込めた。
「あなたに私は殺せない」
「ッッ!!?」
女は驚きのあまり瞠目し、音を立てて息を吸い込んだ。
“固まって”いたはずの里沙の目がパチパチと瞬き、次いで微笑みが形作られてゆく。
「そんな・・・どうして・・・?」
変わらないモノクロームの景色の中、あっという間に「色」を取り戻した里沙に向かい、女は掠れる声でそう訊いた。
「どうして?“止まった時間”の中で動ける理由ですか?・・・さあ、どうしてでしょうね」
茶化すように首を傾げる里沙に、女は仮初めの冷静を装って肩を竦める。
「まあいいわ。あなたは楽に死ぬことができなくなった。それだけのことだから」
「あなたに私が殺せますか?」
「甘く見られたものね。・・・いえ、甘やかしすぎたあたしのミス・・・・・・」
女は、言葉の途中で奇妙な感覚に囚われた。
先ほども同じことを言われ、同じことを返したような気がする。
何かがおかしい・・・何かが・・・・・・
「状況が分かっていないようね、里沙」
奇妙な感覚を振り切るように、女は里沙に凄みのある視線を向けた。
「この通り、“時間”はまだ止まってる。誰も助けに来てはくれないのよ?例えばi914にいくら瞬間移動の能力があったとしてもね」
そう、このモノクロの世界には誰一人として介入も干渉もできない。
自分と里沙以外のすべては“停止”しているのだから。
「あなたの精神干渉があたしに通じないことは百も承知よね?それに・・・体術であたしに勝てるとでも?」
精神系の能力を完全にシャットアウトできる自信が女にはあった。
実際、外界からの意識を遮断する「精神のロック」を掻い潜れた能力者は今まで存在しない。
その技術において、組織内でも右に出るものがいないことは里沙もよく知っているはず。
同時に、体術面において格段の差があることも。
「勝てないでしょうね。保田さんが相手では・・・・・・ね」
だが里沙から返ってきたのは、女の言葉を肯定しながらも、どこか揶揄の調子を含んだ言葉だった。
「ひとつ訊いてもいいですか?」
瞬時言葉を失った女に、里沙が逆に訊ね返す。
「・・・何かしら?」
時間を追うごとに奇妙な感覚が増し、同時に里沙の笑顔が不気味に圧迫してくるのを感じて、女は平静を装い切れなくなり始めていた。
「あなたのこの能力、どれくらい“時間”を止めていられるんですか?」
「どれくらい?そんなこと・・・・・・」
《わざわざ教えるわけがないでしょう?》
そう言いかけて、女は愕然とした。
自分の能力について敵に詳しく説明をする必要などどこにもない。
だから今自分が言いかけたことは何も間違ってはいない。
ただ・・・・・・
―あたしはどれくらい“時間”を止めていられるのだろう?
・・・分からない。・・・分からないですって?そんなバカなことが?
半永久的に止めていられるのか、それとも制限があるのか。
1日に何度も繰り返し使えるのか、回数に限度があるのか。
止めた“時間”の中で活動できる人間を、自分の他に何人「招待」できるのかそもそもできないのか。
何一つ思い出せない。
自分の能力なのに?現に今自分が止めた“時間”の中にいるのに?
バカな・・・こんなバカなことが・・・
得体の知れない感覚に恐怖を覚え始めた女は、更に恐ろしいことに気付いて蒼白になった。
―――記憶がない。
あたしの名前は保田圭。
ある組織に属する時間停止能力者。
その他の記憶が・・・・・・ない。
両親はどんな人で自分はどんな幼少期を送ったのか。
どのような経緯で今の組織に入ったのか。
そこでどのようにして今の地位を築いたのか。
今日の朝は何を食べたのか。
何一つとして記憶がない。
「気付きました?」
半ば恐慌状態に陥りかけた女の耳に、里沙の声が響く。
―聞きたくない。聞いてはいけない。この声を聞いていては自分が自分ではなくなる。
何故かその声はそんな支離滅裂な恐怖を煽った。
だが、女のそんな心中に構うことなく里沙の声はモノクロの世界に反響し続ける。
「記憶がないでしょう?どうしてか分かりますか?」
―記憶がないことをどうして里沙が・・・?いけない、このままでは何かが決定的に破綻する・・・
「分かりませんか?だったら教えてあげます。簡単なことですよ。あなたは・・・・・・保田さんではない。だからです」
―!!!!!!!!
里沙のその言葉と同時に、眼前に広がっていたモノクロームの世界が大音響と共に崩れ落ちてゆく。
「うあ・・・・・・うあぁぁぁっっっ!!!」
思わず両耳を塞ぎ、女はその場にしゃがみ込む。
―保田さんではない?どういうこと?だってあたしは保田圭。時間停止の能力者・・・・・・
「“時間停止”・・・解けてしまいましたね。まだやりますか?」
いつしか闇に染まり始めていた空の下、里沙の笑顔が薄気味悪く揺らめく。
「何を・・・何をした!あたしの記憶に何を!」
「何をした?さあ・・・・・・何でしょうね?」
「この・・・っ!」
激昂か、恐怖か、錯乱か・・・自分でも分からない感情に突き動かされ、女はナイフを振りかざした。
ドスッ――
鈍い音が女の耳に響く。
その音の方へ向けた女の視線が捉えたもの。
それは無機質な舗装道路に落ちた闇色のスーツの袖。
ナイフを持った自分の手が中に入ったままのスーツの―――
女の絶叫が“無人の迷宮”に響く。
―ありえない!何故あたしの腕が!?・・・これは・・・まさかこれは?
「そう、精神干渉・・・マインドコントロール。忌まわしい私のチカラ」
里沙の声が響き、女は我に返る。
思わず探った右腕の位置には、ちゃんとそこにあるべきものがついていた。
道路には何も落ちてはいない。
「こ・・・こんな子どもダマシの幻が何度も通用すると・・・・・・!!」
言いかけた女は、突然下肢を襲ったありえないほどの痛みに再び絶叫する。
ブチン――
嫌な音を立てて右脚の膝から下が捻じ切られ、女は絶叫しながら激しく転倒した。
スーツ越しに全身に伝わる道路の冷たさと、その不快な無機物の臭い。
その目の前に落ちている、捻じ切られた自分の脚の断面。
脳天に突き上げてくるような、かつて感じたこともないほどの激痛。
そのすべてがあまりにもリアルだった。
「人は“痛み”だけでも死ぬらしいですよ。知ってました?」
再び里沙の声が聞こえ、女は自分がちゃんと2本の足で立っていることを知る。
だが、今しがたの出来事を“幻”と表現することはもう女にはできなかった。
「こんなはずは・・・あたしの“精神のロック”が破られるはずは・・・」
「まだそんなことを言ってるんですか?あなたにはそんな技術はない」
「何をバカな!あたしは組織で一番の・・・」
「それは保田さんの話です。言ってるでしょう?あなたは保田さんではないって」
―何を言っている?あたしは保田圭。時間停止の能力者。そう、あたしは・・・・・・誰?あたしは・・・・・・何者なの?アタシハ・・・
「あなたは・・・・・・何者でもない」
ナニモノデモナイ?ドウイウコト?アタシハ・・・ダレ?
「あなたは私が作り出した幻。そう、あなたこそが幻」
マボロシ?アタシガ・・・・・マボロシ?
「あなたは存在しない。この世のどこにも。あなたは私のチカラで作り出された虚構」
ソンザイシナイ?バカナ・・・ソンナバカナ・・・ダッテアタシハココニ・・・
「ちゃんと存在してる?本当に?ほら、よく見てみれば?」
里沙の言葉に誘導されるように、女は虚ろな視線を自分の体に向けた。
そこにあったのは―――“無”―――何もない空間。
アタシハ・・・ソンザイシナイ・・・アタシハ・・・マボロシ・・・アタ・・・シ・・・ハ・・・
女の意識は“存在しない”肉体に連動するかのように、ゆっくりと“無”に向かって堕ち、やがて完全に消滅した。
* * *
地面に倒れ伏した闇色のスーツの女を、里沙は無造作に爪先で転がした。
本当の能力である“偽装能力(ディスガイズ)”はすでに解け、そこには魂が抜け落ちたように虚ろな女の素顔があった。
「あーあ、これで完全に組織との決別は避けられなくなっちゃったな」
再びコンクリート色の溜息を吐きながら、里沙は小さく呟いた。
“なかったこと”にしようにも、ここまで精神を破壊してしまってはもうどうにもならない。
「まあ・・・いつかは決めなきゃいけない覚悟・・・だったわけだしね」
それが今このときになっただけ。里沙はそう自分に言い聞かせる。
里沙の心が決まるのを待っていたかのように、今やすっかり闇に覆われた“迷宮”に、突然淡い光の粒子が溢れた。
光の粒子は瞬刻の後に一人の人間の像を結ぶ。
光が結んだ像――高橋愛は、里沙に向かって静かに微笑んだ。
「里沙ちゃん、そろそろご飯の時間やよ」
「ねえ、愛ちゃん。この状況で一番にかける言葉がそれ?」
「へ?えっと・・・じゃあ・・・お疲れ様?」
「いやまあそれもどうかと・・・まあもういいよ。・・・とにかくこれからもよろしく」
「あひゃ。こちらこそやでのー。・・・で、そこに転がっとるは人どうするんや?」
「んー・・・・・・じゃ、送り返してあげてくれる?“あっち”に」
「ほんまにええんか?そんなことして」
「ま、こうなっちゃったら同じことだしね。こっちの覚悟を示すためにも」
「里沙ちゃんカッコえーのー」
そう言って笑いながら、愛は地面に倒れ伏した女を光に変えて送り返した。
今この瞬間まで里沙の所属していた組織の本部へと。
「それにしてもあの人よっぽど里沙ちゃんのこと怒らせたんやね。何したん?」
「ああ・・・・・・まあね。いいじゃんもう終わったことなんだから」
“偽装能力”で保田圭の姿に“変装”した女の致命的な失敗――それは高橋愛のことを「i914」と呼んだこと。
里沙の知る保田圭は、一人の人間を記号で呼ぶような、そんな繊細さに欠ける人ではない。
そして何より―――私の前で蔑むようにその名を口にするなど断じて許せることではない。
「それもそやのー」などと微笑む愛に笑い返しながら、里沙は改めてそう思った。
「じゃあそろそろ帰ろっか里沙ちゃん」 「そうだね」
見つめ合い頷き合った2人は、次の瞬間光の粒子となり掻き消える。
後には、最初から何もなかったかのような静寂と闇だけが残っていた―――
最終更新:2012年11月27日 09:11