9.
意識の層の深い深い部分で、柔らかな光を感じていた。
それはひどく懐かしいような、胸の中でまばゆく輝くような―――
視界に広がる、白。
雲の上にいるような、不思議な浮揚感。
海の上で浮き輪に捕まって浮いているように身体が揺れていた。
ここは、どこ?
あーし、なにしてる?
愛は記憶の糸を手繰ろうとする。
しかし、つかむことのできる糸の端が見つからない。
両手は、ことごとく空を切っていた。
なんやの、あーし、どうしたん?
身体がふわふわと浮いたような感覚なのに、手足は鉛が付いたように重い。
糸をつかもうと振り回していた手が、だんだんその動きを鈍らせていく。
一面の白だった視界が徐々に濁りだし、いつの間にか灰色に染まっていた。
愛の手足もすっかり動かなくなり、身体の自由が奪われていく。
なんや…、あーしは、地獄に落ちてくんか…?
あかんよ、まだ…、まだやらなきゃいかんことがある……!
愛がそう念じたとき、一本の光の糸が愛に向かって伸びてきた。
―――光…?
愛は渾身の力で両手を伸ばし、その糸をしっかりとつかみ取った―――
―――ガバッ!
愛は、文字通り飛び起きた。
慌ててあたりを見渡せば、そこは見慣れた景色。
「こ、ここは…」
見慣れた場所。
それなのに、懐かしいと感じる。
愛のよく知る街。愛する街。
大事な仲間の待つ、喫茶「リゾナント」の近くにある路地裏。
「あーし、今まで何して……?」
記憶をたどる。
ここ数日……いや数週間……数ヶ月間?
頭の中がぼやけたようにはっきりとせず、上手く思い出すことができない。
晴れた空を見上げると、太陽の位置はそこまで高くない。
朝の10時頃、だろうか。
辺りに人通りはない。
元々この路地裏に人が通ることなんて滅多にないから、
愛がここで何日倒れていても気づかれないこともあるかもしれない。
だとしても、いつから自分はここにいたのか…
「…ほや、あーし、みんなのとこ飛び出して…」
がむしゃらに能力を使った、ことまではかろうじて思い出せた。
「…うぅっ……」
だが、その先のことは思い出せば思い出そうとするほど頭が痛む。
「なんやの…思い出せん……」
いつからハッキリした記憶がないのか。
その間、いったい何をしていたのか。そもそも、どこにいたのか―――
「…完全に記憶喪失や…」
愛は顔をしかめ、思わずこめかみを押さえた。
ちりん。
耳元で鈴の音が鳴り、愛は握りしめていた自分の手を静かに開く。
「…これって…」
それは、白地に黄色の刺繍の入ったお守り。
里沙があの時、愛の両手に包ませたそれだった。
「…なんで、これをあーしが持ってる…?
こっちのお守りはガキさんが持って…、…あれ?」
愛は自分の腰の辺りを探った。
そこは本来、愛がお守りを着けていた場所。
「…ない、てことは…」
ガキさん、あーしと、どっかで…?
改めて自分の着ている服を見ると、何十戦もの戦いを経たかのように、
あらゆるところが破れ、ボロボロになっていた。
腕や足にもいつ付いたのかわからないような切り傷が多い。
「…何やっとったんや、最近のあーしは…」
愛は思わず、持っていたお守りを胸に抱いた。
―――その時。
『…愛ちゃん、約束するよ』
確かに里沙の声が愛の耳に届き、ハッとして辺りを見回した。
「…ガキさん…?」
だが、相変わらず人の気配はない。
「…このお守りが…、もしや…」
愛はふと頭に浮かんだ考えを実行すべく、お守りを両手に持つと精神を集中させた。
物質相手の精神感応。
モノに宿る思念を読み取る、愛だからこそできる高等能力。
全身で脈を打つかのように鼓動がうるさく響く。
少しずつ流れ込んでくる、お守りに秘められた想いのビジョン。
「…見えた…」
全てを覆う闇。
ぼろぼろの愛。
襲いかかる男。
ローブ姿の里沙。
「…ガキさん、あーしに…」
愛の身体を抱いて涙を流す里沙のビジョンがハッキリと見え、
胸が締め付けられるように苦しく、切なさを感じた。
愛も、わかっていた。
里沙がそう考えていたとおり、ちょっとした弾みで里沙の正体がわかってしまったことがあった。
だからといって、一緒に過ごしている里沙を遠ざける気持ちなんて全くなかった。
愛を助け、支え、やさしく微笑んでくれているのは、間違いなくこの里沙だったのだから。
心のどこかでその時が来ることを覚悟していたはずなのに、
愛は突然訪れた別れを受け入れきれずにいた。
そして、他の誰もが里沙の存在を覚えていないということも。
「…自分勝手に、自分自身を捨てたんや…」
お守りに込められた想いが一気に愛の中に流れ込んでくる。
苦しんでいたのは自分だけじゃない。
里沙だって、長い間自分の身分を隠してどれだけつらかっただろうか。
それを考えれば…、自分のしたことなんてとても小さなことで。
里沙が、愛の腰に提げられていたお守りを見つけ、自分のそれと取り替えた場面が見えた。
その時に里沙が交わした約束を感じ取って、愛は改めて手の中のお守りを見る。
「…ガキさん…」
愛のイニシャルが刺繍されたお守り。
ずっと里沙と交換した方を持っていたから、これを見るのは久々だった。
ほんの少しだけ生地が汚れてはいたが、かなり丁寧に扱われていたのだろう。
「キレイに持っててくれたんやなぁ。
それにひきかえ…、あーしはここに着けとったんやから…」
愛は自分の腰辺りを見る。
衣服がぼろぼろに破れ、一部は肌も露出しているくらい。
お守りが同じように汚れて破れていてもおかしくはなかった。
愛は無意識のうちに、手にしたお守りに唇を寄せていた。
それは、特に何の意味も想いもなかったのだけれど。
―――その瞬間。
お守りが真っ白な光を放ったように見えて、愛は慌てて顔を離した。
だが、手の中のそれは特に変わった様子も見られない。
「なんやったんやろ、気のせい…、あれ?」
愛の脳裏で、愛と里沙が光になって消える瞬間のビジョンが再生された。
里沙が耳元で囁いた言葉。それが風に乗って、今はっきりと愛に届けられた。
―――次に会う時は、今までよりももっともっと…
愛ちゃんのそばに、いてもいいかな―――?
ザッ。
愛の背後で、足音がした。
振り返らなくてもわかる。
きっと情けなく眉尻を下げて、自分のことを申し訳なさそうに見ているのだと。
愛は右手の中にお守りを隠すと、わざと大きな動きを付けて振り返った。
果たしてそこには、うつむいたままの里沙がいたから、愛は思わず笑いそうになった。
「…愛ちゃん」
聞こえるか聞こえないかくらいの声をようやく絞り出して、名前を呼ぶ。
「…ゴメン」
愛は、微笑んだ。
謝らなければいけないのはきっと自分もで、やっぱり里沙もで、でも今は、そうじゃない。
愛は右手を開いてお守りを差し出し、空いた左手も同じように前に出す。
「違うやろぉ、ガキさん。
挨拶の言葉、間違っとるで?」
里沙は一瞬呆気にとられたように動きを止め、それからすぐ、愛の意図を理解した。
また少しうつむいた顔が、どんどん涙でぐしゃぐしゃになっていくのがわかる。
それでも精一杯の笑顔を作りながら、里沙は歩き出した。
里沙の右手に乗せられた、緑色の刺繍のお守りを。
愛の右手に乗せられた、黄色の刺繍のお守りを。
二人は同時に手に取り、言葉を交わした。
「おはよう、愛ちゃん」
「おはよう、ガキさん」
青い空の下、蒼き正義は約束と共に。
二人は笑って、お互いの身体を強く抱きしめ合った。
――― 『BLUE PROMISES』 Fin.
最終更新:2012年11月24日 21:10