(08)836 『Remove the Betrayer ――裏切者は消去せよ――』

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――逃げなければ

――逃げるってどこに?・・・分からない

――でも逃げなければ。少しでも遠くへ。あいつらの目の届かないところへ・・・


かつて経験したことのないような恐怖の中、杏奈は周囲にビクビクと気を配りながら出口を目指していた。


「海上の監獄」に幽閉していた新垣里沙を“奪還”されたことによる処分は免れない。
それも相当に厳しい処分・・・場合によっては・・・。

杏奈はそう覚悟していた。
だが、杏奈に下された処分は単なる「異動」にすぎなかった。
杏奈だけではなく、あのとき施設にいた者の一人として処罰はされていない。
少なくとも表立っては。

とりあえず処分を免れてホッとした杏奈は、その理由を考えてみた。

あの組織のことだ。
気まぐれに寛大な処置をしたなどということはありえない。
おそらくは・・・

――あの一件は、現場にいた者だけではなく組織そのものの大失態であったのだろう

杏奈は色々と考えた末、その結論に落ち着いた。
無論根拠は何一つないが、なんとなく確信はあった。
里沙を奪還されたことそのものよりも、あの施設に易々と侵入を許したことが組織にとってきっと想定外の出来事であったのだ。

自分のような下っ端には詳しく知るべくもないが、あの施設では様々な研究や実験が行なわれていると聞く。
おそらくは組織の根幹に関わるようなものだということは厳重な警備からもうかがえる。
今回、高橋愛たちの目的は里沙の奪還であり、それ故に施設に侵入されたとはいえ実質的な被害はなかった。
だが、「侵入された」という事実そのものが問題だったのだろう。
下手をすれば組織の存在そのものに関わるダメージを受けていたのかもしれないのだから。

だからこそ組織は誰も処分しなかったのだ。
あの場にいたものを表立って処分することは、すなわち組織自らの不手際を組織の者全てに対して認めることになるから。

「単なる異動」が通達された際に添えられた一言――例の一件については他言無用――が、その何よりの証左と言えるだろう。


 ・・・だが、今。

杏奈は異動先の施設から必死に逃げ出そうとしている。
命の危険を感じて。
かつてないほどに切迫した心境で。

杏奈には予知能力も精神感応の力もない。
持っているのはささやかな発電能力―エレクトロキネシス―のみ。
だが、言いようのない圧迫感が杏奈に自身の危機を知らせていた。

――逃げなければ

わけも分からずそう思ったときには、もう行動していた。
ほんの少しの逡巡が命取りになることはよく知っていたから。


廊下を曲がった先に人影がないことを確認する。
誰もいないのを確かめてから、杏奈は足音と息を殺しながら先へと向かう。

――それにしても組織は何故今さら自分を“処分”しようとしているのか・・・

焦る気持ちを落ち着かせながら、杏奈は改めてそのことについて考えた。

――やはり先日の失態に対する処分?
――表立っては処罰できないから秘密裏に?
――あの一件の口封じの意味も含めて?

そうなのかもしれない。
あの組織ならその必要があると認めればそれくらいは寸毫の躊躇いもなくやるだろう。

だが・・・

本当のことを言えば杏奈には漠然と想像がついていた。
何故自分が処分されようとしているのか。


   *   *   *


あのとき―――
高橋愛の手で鎖から解き放たれた新垣里沙が、部屋を出て行こうとしたとき―――

杏奈は思わずその背中に向かって声をかけた。

「里沙・・・!」

名を呼ばれた里沙と、その肩に腕を回した愛がゆっくりと振り返る。
冷たいコンクリートの床に座り込んだまま、杏奈は里沙の目を見ながら言った。

「里沙・・・もし・・・もしも今度生きてまた会えたら・・・・・・友達になってくれる?」

思わず口から出た言葉だった。
自分の気持ちを素直に表現できたことなどいつ以来だっただろうか。
そのことだけで満足だった。
身勝手極まりないそんな言葉に返事が返ってくるわけはなかったし、それ以前に・・・生きて二度と会えるなどとは思わなかったから。

だが、里沙はうなずきを返した。
少し驚いた顔をして愛と顔を見合わせた後、慈愛に満ちた笑顔とともに。

「ガキさんの友達やったらいつ来てくれても歓迎するでー」

隣の愛も、先ほどの燃えるような視線とはうって変わった柔らかい視線でそう言ってくれた。
ほんの少し前に自分を殺そうとした相手に向かって。

「ありがとう・・・・・・」

声を震わせる杏奈に再び背を向け、里沙と愛は去った。
冷たい部屋の中で座り込む杏奈の心に温かい何かを残して。


   *   *   *


おそらく、組織は知ったのだ。
組織に対して、もはや今までのように忠実に仕える気がしなくなり始めていたこの気持ちを。

「Remove the Betrayer ――裏切者は消去せよ――」

組織の不文律だ。
どんなに古株だろうと、どんなに組織に貢献してきた者だろうと、例外はないことを杏奈はよく知っていた。
ましてや自分程度の存在の“消去”など、呼吸をするのと同じ程度の気安さで為されるであろうことも。

――すべて色情を抱きて女を見るものは既に心のうちに姦淫したるなり

唐突に『マタイの福音書』の一節を思い出した。

杏奈は表立って反抗したわけでもなんでもない。
だが、組織にとってはきっと同じことなのだ。
組織に対して少しでも疑念を抱くことは、すなわち裏切りそのものだということなのだろう。

今まで自分が福音だと思って耳にしていたものの全てが、闇から発された言葉だったことが今では分かる。
分かるからこそ・・・自分は“消去”されようとしているのだ。


(それにしても・・・)

杏奈は思う。
組織は自分の気持ちをどうやって知ったのだろう。
自分自身ですらはっきりと裏切りの気持ちを抱いていることを認識していなかったのに。


(まさか・・・?・・・・・・奈津美が?)

治癒能力を持つ部下の顔が頭をよぎる。
あの場にいたのは自分の他には奈津美だけだ。
里沙に向けて言った言葉も奈津美は聞いていた。

間違いない。
奈津美が“密告”したのだ。

杏奈は唇を噛んだ。
所詮は職務上の関係。
一番長く一緒にいた相手だったが、結局は信頼関係など皆無だったということなのだろう。


(・・・当たり前か)

再び差し掛かった廊下の曲がり角で先の通路を確認しながら、思わず杏奈は苦笑した。
この組織に信頼などという言葉があろうはずはない。
あるのは任務、監視、処分といった感情のない言葉ばかりだ。

――里沙ならば・・・愛や、その仲間たちならば・・・

おそらくは互いの「信頼」が全てに優先するだろう。
たとえ仲間の“裏切り”を示唆する事実を知ったとしても、まずはその仲間を「信じる」ところからスタートするだろう。

それが彼女らの甘さ、すなわち弱さであり・・・同時に強さでもあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになってしまっている自分に改めて苦笑が浮かぶ。
大体「信頼関係」などと一体どの口が言うのか。
誰一人信用せずに生きると決めてここまで生きてきたのは他ならぬ自分だというのに。



「楽しそうね。何して遊んでるの?よければあたしも一緒に遊ばせてよ」


そのとき―――

背後から突然声がした。
顔に浮かんだ苦笑が一瞬にして凍りつき、その心を絶望的な暗闇で閉ざす悪魔の声が。


「“R”・・・・・・」


恐怖に固まりそうになる体をなんとか捻じ曲げて振り返った杏奈が見たのは、ささやかな希望を打ち砕く悪魔の笑顔だった。


「あたしがここに立ってることの意味は分かるよね?杏奈」


分からないはずはなかった。
組織の粛清人、コードネーム“R”の名を知らない者などいはしない。


これまでの「形の見えない恐怖」が、はっきりと目の前に具現化した姿。
その圧倒的な恐怖の前に、杏奈は跪いて許しを請いそうになる。
無論、許しを請うたところで許されるはずはない。
それでもそうせずにはいられないような絶望的なまでの恐怖。
無駄な抵抗を試みることすら叶わない。

――自分はここで終わるのだ

別れ際の里沙の笑顔が脳裏に浮かぶ。


(里沙はすごい)

唐突に思った。
里沙はたった一人でこの“R”と対峙し、しかも一歩も退かずに戦ったのだ。
それがどれだけすごいことなのか、今の自分には分かりすぎるほどに分かる。
自分にはできそうにない。
とてもできそうにはない・・・けど・・・・・・だけど。

やらなくてはならない。
勝てないことは分かりきっていても。
跪いたまま死んでいっては里沙に顔向けが・・・できない!


「ああああぁぁっっ!!」

バリバリッッ

絶叫とともに杏奈は全力で自らのチカラを放った。
 ・・・正確には放とうとした。
だが、電撃の音が自分の耳に届いたと思った瞬間・・・杏奈の体は後ろの壁に叩きつけられていた。

同時に今度は自分の身体の中から音が聞こえた。
骨が砕ける嫌な音が。


右腕が上がらない。
肩の骨が砕けている。
だがそれ以上に身体に力が入らない。
死神がゆっくりと近づいてくる。

――あたしは死ぬ

杏奈は自らの最期を知った。
死ぬというのはこういうものなのだとぼんやりと思った。

だけどあたしは立ち向かった。
“R”にたった一人で。
やっぱり相手にもならなかったけれど、少なくとも跪いたり背を向けたりはしなかった。
胸を張って死んでゆこう。
里沙、勇気をくれてありがとう。

死神が片手を上げるのが見え、杏奈は静かに目を閉じた。


パンッパンパンッ


「・・・・・・!?」


乾いた破裂音が響き、それに続いて何かが倒れるような音が聞こえて、杏奈はゆっくりと目を開けた。

そこにあったのは思いもかけない風景だった。
かすかに白煙の立ち上るオートマチックを構えた一人の女。
そして床に倒れている“R”。

「奈津美・・・あんた・・・どうして?」

自分のことを“密告”したはずの部下―オートマチックを構えた奈津美に、杏奈は喘ぐように声をかけた。
呆然としたような表情をしていた奈津美は、その声で我に返ったように手を下ろし、杏奈の下へと駆け寄った。

「大丈夫ですか!?今すぐ治癒を・・・」

そう言いながら杏奈の砕けた右肩にそっと手を置き、癒しのチカラを行使し始める。

「やめな。あんたのチカラじゃとても治せないくらいコナゴナにされてる。それよりあんたこんなことしてただで済むと・・・」

一心に集中する奈津美に向かって言いかけた杏奈は言葉を止め、首を傾げた。
頭の芯まで突き抜けてくるようだった痛みが和らぎ始めている。
全く感覚がなかった右腕にも心なしか感覚が戻ってきている気がする。

粉砕骨折の治癒など、かなり高レベルな能力者でないと不可能のはず。
奈津美にそこまでの能力があるはずがない。
だが、実際ゆっくりとではあるが、自分の怪我が癒えつつあるのは目の前の事実だ。


「チーフ・・・行かれるんでしょう?・・・里沙のところに」

右肩の治療に集中している奈津美が、唐突にそう呟いた。

「行ってください、チーフ。ここから逃げてください。まだ間に合います」

初めて視線を上げ、目を見据えながらそう言う奈津美に対し、杏奈は言葉が出てこなかった。
自分のことを“密告”したとばかり思っていた部下がこうして自分を救い、力強く後押しをしてくれている。

「里沙のところには行かない」
「えっ?」

様々な思いが渦巻く中、口から出た言葉はそれだった。

里沙や愛の言葉は社交辞令ではなかっただろう。
彼女たちは本気で自分を受け入れてくれるに違いない。
でも、だからといってそんな言葉に甘えるわけにはいかない。
里沙のところに行くつもりは元よりなかった。

「逃げよう。2人で。どこか遠くへ。静かに暮らせるところへ」


次に口から出たのは、自分でも思いもかけない言葉だった。
だが、言った本人よりも言われた方がよっぽど驚いたらしい。
奈津美は呆然とした顔で杏奈の顔を見ていた。

「こんなことしてまさか無事でいられるとは思ってないでしょ?・・・逃げ切れるかは分からない。でも逃げるしかないじゃん2人で」
「チーフ・・・」

奈津美の顔にゆっくりと笑みが広がる。
杏奈の胸に痛みが走った。
自分はこの部下が組織に“密告”をしたと考えていたのだ。
そのことを言ったら奈津美はどんな顔をするだろう。

 ・・・だが、そんな懺悔と謝罪は後のことだ。
無事に逃げ切れた後の。

そう思い直し、杏奈はゆっくりと立ち上がった。

「肩、随分楽になった。助かったよ。さあ、早いところここを出ましょ」
「はい、チーフ!」

痛みはまだ残っているものの、かろうじて右腕を動かせるまでに回復していることに改めて驚きながら、杏奈は苦笑いを返した。

「“チーフ”はやめてくれる?もう組織とは関係なくなるんだから」
「あ、そうですね・・・。でもじゃあ何てお呼びすれば・・・」
「そうね・・・」


杏奈が考え込んだ瞬間―――それは起こった。


目の前の奈津美の体が弾け飛び・・・壁に叩きつけられ・・・床に崩れ落ちるまでをスローモーション映像のように感じながら、杏奈は何もできなかった。

「奈津美ぃッッ!」

その名前をただ叫ぶことしか。

だが、名前を呼べばいつでも即座に返ってきた「はい!」という返事はなかった。
先ほど自分に向けられていた笑顔も、もはやどこにもない。
この先ずっと・・・奈津美の顔に笑顔が浮かぶことはない。
二度と。


「想定外・・・だったわねこれは。あの人の予知もアテにならないな」

たった今、奈津美の命を奪い去った死神。
拳銃の弾も効かない化け物。
少し顔をしかめながらも悠然と立つ“R”のその姿に、杏奈は新たな恐怖とそれ以上の激しい憎悪を抱いていた。

だが、燃え上がるその憎しみの感情と同時に、杏奈の中には静かな決意が宿る。

――「勝てなくてもいい」じゃない。
――「逃げ切れなくてもいい」じゃない。
――こいつに勝って、そして組織から逃げ切らなければならない。
――奈津美のためにも。

とはいえ、真正面からぶつかっても勝ち目は万に一つもない。
無防備な相手にならともかく、自分のチカラでは全力で放ったところで一瞬の足止め程度にしかならないだろう。
短時間とはいえ高橋愛を失神させられたのは奇跡に近い偶然だった。
あのような奇跡を何度も期待することはできない。
ならば考えなければならない。
どうすればこの絶望的な状況を打破できるのか。


 ・・・実のところ一つだけ考えはあった。
実行可能かどうかも分からない頼りない望みではあったけれど。
でもやるしかない。
いや、やらなくてはならない。

心室細動・・・いわゆる心停止の一病態。
心臓が不規則な細動を起こすことにより血液を体に送り出せなくなるその状態が、感電によっても引き起こされることがあるのは杏奈も知っていた。
それを起こさせてやれば、いかに“R”といえど無事では済まないだろう。
だが、自分の微弱なチカラでは心室細動を起こすほどの“感電”には程遠い。

ただ・・・一点集中した電撃で心臓を直接貫けば・・・あるいは。

奈津美が治癒してくれたおかげで動くようになった右腕。
その指先から“R”の心臓に向けて一直線に全力の電撃を放つ起死回生の必殺技。
奈津美と2人で放つアルティメットウェポン。
成功の保証さえない、頼りないことこの上ない必殺技だけれど。


「・・・そろそろ覚悟はできた?」

“R”が冷たい笑みを浮かべながら杏奈の方に向き直る。

杏奈はただ静かにチカラを指先に集中させた。
一瞬の隙を衝いて“R”の心臓を貫く“Lance of Longinus”を手にするために。


「ちょうどあの世への道連れもできたから淋しくないよね?」

そう言いながら、“R”はチラリと奈津美の方に視線をやった。

瞬間、杏奈の心に激情が燃え上がる。
同時に、静かに機を窺っていた心の一部が合図を出した。


――今ッッ!!


杏奈の指先から鋭い閃光がほとばしり、その光の矢は一瞬で“R”の左胸を貫いた。


「がッッ・・・・・」


“R”が呻き声を上げ、左胸を抑える。

杏奈は勝利を確信した。
自分の放った電撃は、確かに“R”の心臓を貫いた。
今現在“R”の心臓は激しく痙攣し、その役目を果たしていないはず。
脳への血流も遮断され、意識を失うまでは数秒もかからないだろう。


――勝った・・・!!


心の中でそう叫んだ瞬間・・・杏奈の体を激しい衝撃が襲った。



――体が動かない・・・一体・・・何が・・・?

床に横たわる奈津美のすぐ隣で、口からあふれ出る血の味にむせ返りながら、杏奈は今起こったことを必死で考えていた。
いや、自分の身に起きたことは考えるまでもない。
自分は“R”のサイコキネシスによって致命傷を負ったのだ。
指一本動かすのさえ難しいくらいの深い傷を。

――でも何故?確かにあたしの電撃はあいつの心臓を貫いたはず・・・まさか・・・

杏奈は一つの結論にたどり着き、愕然とした。
「除細動」・・・痙攣した心臓を正常な動きに戻す処置。
本来除細動器を用いて行なうその処置を・・・“R”はおそらく自身のサイコキネシスで行なったのだ。
意識が途切れるまでの一瞬の間に。

――化け物・・・め・・・

改めてそう思う。
せっかく編み出した“必殺技”も、あの化け物の前では子どものお遊び程度だったことが悔しかった。

――ごめん・・・奈津美・・・

傍らに横たわる奈津美に心の中で謝罪する。
もしもあの世で奈津美に逢えたなら改めて懺悔しようと思う。
奈津美を疑っていたこと、巻き込んでしまったこと、そして・・・その仇も討てずに終わった情けない自分のことを・・・

視界が狭まっていく中、最後に杏奈が思い浮かべたのは里沙の笑顔だった。
友達になってくれると里沙は言ってくれたが、生きて再び会うことはやはり叶わなかった。
でもせめて・・・せめて最後に・・・・・・・・・

バリッ・・・

自らの発した小さな電撃の音を聞いたのを最後に、杏奈の意識は永遠に途切れた。



   *   *   *

「・・・・・・・?」

杏奈が最後に小さな電撃を放った先を見上げながら、“R”は眉をひそめて軽く首を傾げた。

無機質な廊下の天井に付けられた無機質なダウンライト。
杏奈は最後のチカラを振り絞ってそこに向けて電撃を放った・・・ように見えた。
“R”には杏奈のその行動に何の意味があるのか理解できなかったから。


「任務完了・・・ですね。お疲れ様です石・・・“R”さん」

そのとき、今まで命のやり取りがあった場所にはそぐわない、のんびりとした声が背後から聞こえ、“R”はゆっくりと振り返った。

「別に疲れてもないけどさ。・・・あと、あたしの名前は“R”だから。昔の名前はもう捨てたんだからね?あんたもでしょ?DRマルシェ」
「これは失礼しました。・・・私は別に捨てたわけでもないんですけどね。まあどっちでもいいです」

DRマルシェの話を半分も聞かず、“R”は上着を脱ぎ、自分の左胸に付けられていた、長い糸のついた金属製の胸当てのようなものをはずした。

「はい。これ返す。でもほんと追い詰められたドブネズミは何するか分かんないよね。“神様”の予知と、これがなかったらさすがのあたしも死んでたかも」

そう言いながら“R”がDRマルシェに渡したのは、アースとなって電流から身を守るプロテクターだった。
元々、杏奈の裏切りを“神様”こと圭織が予知したことから始まったこの任務。
同時に圭織は、杏奈が“必殺技”を放つことも予知し、DR.マルシェはその対策に特製のプロテクターを作ったのだった。


「でもさあ、まさかピストルで撃たれるなんて思ってなかったじゃん?“神様”もそんなことひとっことも言ってなかったし」
「そうですねえ。丈夫に作っておいてよかったです」

ややへこんだプロテクターをまじまじと見ながら、DRマルシェはのんびりと言う。

杏奈の“必殺技”から身を守るためにつけていたプロテクター。
それが奈津美の銃弾を弾く役目も果たしたことは、運がよかったと言うしかない。

「たださあ、もうちょっと完璧に作ってよね。そりゃ心臓麻痺起こすほどじゃないけど結構ビリッときたんだから。ピストルで撃たれたときはしばらく息が詰まってさすがに動けなかったし」
「ええっー。そんなこと言われましても・・・。それに撃たれるのは想定外ですよ」
「まあいいわ。ともかくありがと」
「・・・・・・珍しいですね。石か・・・“R”さんがお礼言うなんて」
「・・・うるさい」
「珍しいといえば、相手を楽に殺してあげるのも珍しいですね」
「・・・・・・今日は面倒だっただけよ。もういいでしょ?あたし行くから後はよろしくね」


不機嫌にそう言い残して踵を返した“R”の後ろ姿を見送った後、DRマルシェ・・・紺野あさ美は、寄り添うようにして倒れている2人の元に歩み寄った。
思ったよりも安らかな死に顔の2人に心の中で手を合わせ、しばし黙祷する。


親しく言葉を交わしたこともなかった・・・おそらく今後もそうであったろう“同僚”。
言葉を交わす機会があったとしても、きっと互いに好感は持たなかっただろう。
だから、個人としての死を悼むには親密さが不足しているかもしれない。
だが、それ以前に彼女たちはあさ美にとって“同胞”だった。
同じ組織に属する者という意味ではなく、異端のチカラを持って生まれてきた者として。
社会から疎外されて生きなければならない者として。

日常茶飯事とまでは言わないが、これまでにもこういった形での“同僚”との別れは何度かあった。
だが、だからといって決してそれに慣れることはない。
慣れるわけがない。

「哀しいよね、杏奈さん、奈津美さん。どうして私たちはこんな思いをしないといけないんだろうね」

他の者とは違うチカラを持って生まれたばかりに、こんな風に死ななくてはならなかった2人。
他人の命を奪うことを“愉しむ”フリをしていなければ自己が保てないあの人。
そして、こんな思いをしながらも組織にすがりつかなくてはならない自分・・・

これからもそんな哀しみはずっと続いていくのだろう。
どこかで誰かが断ち切らない限り。

この哀しみを断ち切れるのならば、私は他に何も望まない。
たとえ何を犠牲にすることになっても躊躇しない。
自分の命が失われることになったとしても。
里沙や・・・愛の命を奪うことになったとしても。


短い黙祷を終え、あさ美は2人を“処理”するべく部下を呼んだ。
せめて2人が赴いた死後の世界に、この世界のような“差別”がないことを祈りながら。


   *   *   *

パチパチパチッ

「ん?なんね?停電・・・やなかったか」

喫茶リゾナントの店内で、いきなり照明が一斉に明滅したことに驚いた田中れいなは、目をパチパチさせながら天井を見上げた。

「・・・もう何も起こらんね。何やったんやろ・・・なあ愛ちゃん」

カウンターの向こうでカップを拭いている愛にそう声をかける。
だが、愛はカップを拭く手を止め、天井を見上げたまま固まったようになっていた。

「・・・愛ちゃん?なあって。どうしたと?愛ちゃん?・・・なあガキさん、愛ちゃんがおかしく・・・ガキさん?」

愛から全く反応がないため、れいなは傍らの里沙に目をやった。
だが、そこにあったのは愛と全く同じ姿勢で固まる里沙の姿だった。

「ちょっと!2人ともどうしたと!?今のは何ね!?」

話しかけるだけでは埒が明かないと知り、れいなは2人の肩を交互に揺さぶった。
それにより、ようやく2人の金縛りが解ける。
だが、ようやく天井から離れた愛と里沙の目はどちらもれいなには向かず、視線は互いに交差した。
深い哀しみの色を湛えて。

「『ありがとう、さよなら』・・・そう言ってたね」
「うん・・・・・・そう・・・聞こえた」

送電線に乗って運ばれてきたのであろう、杏奈の最後の言葉。
それは杏奈と里沙たちの間に起きた最初で・・・そして最後の共鳴だった。


「コーヒー・・・淹れよっか」
「うん、お願い」

れいなが何も聞けないでいる中、サイフォンの立てる音だけが店内に響く。

やがてカップに注がれたコーヒーが人数分並んだ。
愛の前と、里沙の前と、れいなの前と・・・それからもう一つ。


「こんな哀しい思い・・・もうしたくないよね。絶対に」

湯気の立つカップを両手で包むようにして、愛はそう呟いた。

「うん・・・・・・どこかで断ち切らなきゃ」

同じ体勢でカップの中を覗き込むようにしていた里沙が、小さく、それでいて力強くうなずく。

「ほやね。そのためにあっしらに何ができるかは分からんけど・・・」
「やらなきゃね。自分たちのためにも。他の人たちのためにも」

カップから立ち上る湯気を挟んで、愛と里沙は見つめ合った。


「なあ・・・れいなもおるの忘れとらん?さっきのは何ね?この余ったカップは何ね?れいなも一緒に闘っとーとよ?れいなも仲間じゃなかね?」

半泣きのれいなの声が店内に淋しく響き、愛と里沙は我に返った。

「ごっめ~んれいな!ちゃんと説明するから!ごめんね」
「あっひゃー!すっかり忘れとったがし」
「わ・・・忘れてない!忘れてないよれいな!少なくとも私は!ちょっと!愛ちゃん!」
「冗談やてー。ちゃんとコーヒーもれいなの分淹れたが」
「そういう問題じゃないから!ね?ほら今からちゃんと話すから」


カランカラ~ン


そのときドアベルが鳴り、それと同時にいきなり店内が騒々しくなる。

「あーのど渇いたー。愛ちゃんなんか飲みものー」
「あ、さゆみもー。・・・あれ?どうしたの?れいな泣いてるの?何かあったの?」
「べ・・・別に泣いとらんけん!コーヒーがちょっと熱くて・・・」


カランカラ~ン


「さっきやっと撮影が終わったんですけどちょっともう聞いてくださいよ!」


カランカラ~ン


「見ロ!バナナがチョー安売りダッタ!コンナにタクサンでタッタノ498円ダ!チョーお買イ得ダロ!」
「1人2山までだからリンリンも行きマシタ!バッチリデース!バナナバッチリいっぱいデース!」


カランカラ~ン


「ちょっと今日もここで宿題やらせてもろていいですか?学校はうるさくて・・・って・・・はぁ・・・学校の方が静かやん・・・」


少しの間に、先ほどまでの静寂が嘘のように賑やかになる。
いつものその風景を笑顔で眺めながら、愛は再び考えていた。

哀しい思いを断ち切るために自分に何ができるかは分からない。
でも・・・この仲間たちがいれば・・・この仲間たちと一緒ならばきっと。
きっと何かが変えられる。


「みんなが幸せに生きられる世界を・・・あっしは仲間と一緒に見つけてみせるよ」


喧騒の中、まだかすかに湯気をあげるカップに向かってそう言うと、愛はそれをそっとカウンターの中に持ち帰った。