帝紀八一四年四月。
 ファントムレイダーズが報復者アザゼルを倒し、白竜王国グラスウェルズからバルムンクの影が消えた後。
 ようやく訪れた幸福の時――

「おはよう、姉さん。早起きなんだね」
 そう言ってロッシュ・アガルタは自身の姉であるナーシアに微笑みかけた。
「おはよう、ロッシュ。朝食が出来ているわ。一緒に食べましょう」
 ナーシアもロッシュに微笑みを返す。
 アザゼルの陰謀により白竜王国の竜輝石に封じられていたロッシュは、姉であるナーシアとファントムレイダーズ、そして純白竜アインの手により解放された。
 そしてその時にロッシュは自身の姉がナーシアである事を知り、二人の後見人であったゴーダ伯の暮らしていた屋敷で共に暮らすようになったのだ。
 ナーシアにとっては何よりも望み、そして諦め続けてきた――そんな生活。
 彼女は初めての幸福を噛み締めていた。

 ロッシュが食卓につくと、パンとサラダ、野菜スープに紅茶といった朝食が並べられていた。
 ロッシュはそこで首を傾げる。屋敷のコックの作ったものとはどこか違うような気がしたのだ。
 そこでナーシアが口を開く。
「えっと……その。今日は私が作ったの。ロッシュに食べてもらいたいと思って……」
 どこか言い辛そうに言うナーシアにロッシュは嬉しそうに笑いかける。
「姉さんの手料理が食べられるなんて嬉しいよ。いただきます」
 そう言って野菜スープを一口。すぐに驚いた顔になって、
「姉さん、このスープすごく美味しいよ」
 そのまま何度もスプーンを口に運ぶ。
 そんな弟の嬉しそうな顔を見て、心底ほっとしたように、
「良かった……」
 微笑むナーシアに、ロッシュはそういえば……と、思い出した事を口にする。
「ゴーダ伯は野菜が嫌いだったよね。何度言っても食べようとしないってコックさんがぼやいてたよ」
 その言葉に、ナーシアは笑みを深くする。
「そうだったわね。私がここで暮らしていた頃もそうだったわ。だからね? 屋敷のみんなでなんとか野菜を食べさせようとしてね……」
 そう言って、ナーシアは当時の事を語り始めた。

 当時まだ7歳だったナーシアは、食事の際にゴーダ伯を見つめる事が多かった。
「……ん?どうかしたか、ナーシア」
 ゴーダ伯は彼女の視線に気付くと毎回決まってそう声をかけてきた。
「……なんでもないです、オスウィンおじ様……」
 ナーシアも、毎回同じ台詞を返していた。
 ナーシアがみつめていたのはゴーダ伯と、彼の食べているもの。
 彼の前に並べられている料理には野菜が一切入っていなかったからだ。
 ――お母様はお野菜はちゃんと食べないとダメだって言ってたのに……。
 食堂から出て廊下を歩いている時についぽろりとこぼしてしまった言葉。
 たまたま通りかかった屋敷のコックがそれを聞きつけ、
「旦那様の事かい?」
 そう声をかけられて、ナーシアはこくりと頷く。
 するとコックは深い溜息をついて。
「旦那様にも困ったものだよ。この間帰ってくるまでは食べてたんだけどなぁ……」
 ぽつりと呟いたその内容にナーシアは驚いてコックを見る。
「本当?」
「ああ、本当だよ。なんでも一生分の野菜を食べたとかなんとか……そんな事をおっしゃっていたよ。でも、栄養は身体を動かす為に必要なものだからね。なんとか食べていただきたいものなんだが……」
 コックはなんとか野菜を食べてもらいたいと頭を抱えている。
 そしてしばらくそのままの体勢で動きを止めていたが……ふと、ナーシアに視線を移した時、何か考えついたようで。
「お嬢ちゃんも旦那様に野菜を食べてもらいたいんだよね?」
 唐突にそんな事を確認してくるコックに、ナーシアはこくりと頷いた。
 彼女が頷いたのを見て、コックはにっこりと笑みを浮かべ、
「じゃあ、協力してくれないかな?」
 そう言って、彼女の肩に手を置いた。

 その夜、食卓についたゴーダ伯は目の前に置かれたスープ皿を凝視していた。
「………………私は野菜はいらんと言ったはずだが」
 そう、そのスープには玉ねぎ、キャベツ、かぼちゃにトマトといった野菜がたくさん入っていたのだ。
 彼の呟きを聞きつけ、ナーシアが一瞬びくりと硬直するが、意を決して口を開いた。
「あ、あの……それ、わたしが作ったんです……コックさんに教えてもらって」
 おずおずとそう告げるナーシアに、
「……私はお前にそんな事をしろと命じた覚えはない。一体何故こんな事をしたのだ?」
 理解に苦しむ、といった様子でゴーダ伯がナーシアに問うと、彼女はますます縮こまってしまう。
 そんな少女の様子に助け舟を出す者が一人。
「ナーシアお嬢様は旦那様が野菜を食べようとなさらないから、少しでも食べてもらいたいと思ってこのスープを作られたのですよ。彼女の気持ちを無駄にしちゃいけませんよ?」
 そう言って笑ったのは屋敷のコックであった。
 彼は自分が作るよりも、ナーシアが一生懸命作った方が主に食べてもらえるのではないかと思ったのだ。それに、ナーシアは彼の親友マクリルの娘である。親友が出来なかった事――娘の手料理を食べる――を代わりにしてやって欲しいという思いもある。
 コックの台詞にゴーダ伯はむうと唸り、ナーシアを見やる。
「………………食べて、もらえます……か?」
 かろうじて彼の耳に届いたかすかな声。ナーシアは不安そうにじっとゴーダ伯を見つめている。その瞳には涙が浮かんでいる。
 彼女のその様子を見て、ゴーダ伯は覚悟を決めた。スプーンを手に取り、スープをすくって口に運ぶ。もちろん、野菜がスプーンの中に入っているのが見えるようにして。
「……………………」
 無言で咀嚼するゴーダ伯をじっとみつめるナーシア。
 スープを嚥下してから、ゴーダ伯は口を開く。
「……初めて作ったにしては上出来だな」
 その言葉を聞いて、ナーシアは食べてもらえた事、まずいと言われなかった事に安堵して微笑んだ。コックはコックで胸を撫で下ろしている。
 そして食事を終えた後、ゴーダ伯はこう言った。
「次は野菜以外のもので頼む」
 ……結局その言葉は受け入れられず、ナーシアは剣聖テオドールに預けられるまでずっと野菜を主体にした料理をゴーダ伯に振る舞い続けたという。

「……あのゴーダ伯に野菜を食べさせるなんて、姉さんすごいね」
 話を聞き終えて、ロッシュは感心したようにそう言った。
 それを聞いて、ナーシアは苦笑する。
「結局、おじさまの弱みにつけこんだだけよ。お父さんが生きていれば私の手料理を食べてくれただろうから。お父さんの代わりに……って思ったんだと思うわ」
 そんなナーシアにロッシュは首を横に振る。
「そういう気持ちも確かにあったんだろうけど、でも、姉さんだったから食べてくれたんだと思うよ。僕じゃ多分無理だと思う」
 大切にされてたんだね、と続けると、ナーシアはそっぽを向いて黙り込んだ。頬が赤くなっている。
 ナーシアのその様子に、ロッシュは声に出さずに笑う――と、気付かれて額を指で弾かれた。
「痛っ!」
「姉を笑った罰よ」
 そう言ってから食事を済ませて立ち上がる。
「……姉さん?」
 慌てて食事を終わらせ立ち上がるロッシュに、ナーシアはこれからの予定を告げる。
「アポは取ってあるから、今日はフィリップ陛下のところに挨拶に行きましょう。その後、貴方を預かってくれていたお礼と、貴方が目覚めた事を報告しにノルウィッチに行くわよ」
 そう言って右手を差し出す。
「……うんっ」
 ロッシュは頷いて、姉の手を取った。

 訪れた幸せの時。
 ナーシアとロッシュは手を繋ぎ、空をみつめる。
 いつまでも、いつまでも――この幸せが続く事を願って――
最終更新:2012年05月29日 22:55