我輩は猫である。
かつて混沌の破壊王と恐れられた我輩の現世での名は"夜"。
我が肉体は、かつてとは違い、今や貧弱な獣のそれである。
「夜、ご飯よ」
「にゃー」
我輩の前に食事を出す少女は五更瑠璃、真の名を千葉の堕天聖黒猫といい、
かつての闇の女王の生まれ変わりであるという。
幾千幾万の時と次元を越え、我輩は女王の眷属として使役され、使い魔となったのだ。
「あ、ルリ姉おはよー」
「おはようございます、姉さま」
日向と珠希が起きてきたようだ。
我輩は女王とその二人の姉妹、両親と共に暮らしている。
脆弱で小さな肉体ではあるが、こうやって毎日静かに暮らす分には――
「にゃー」
「あら、もっとくれというの?仕方のない子ね」
まあまあ悪くない生活であろう。
「つ、付き合うってことは、名前で呼んだほうがいいわよね」
ある日、女王は家に帰ってくるなり、我輩を抱えて布団に寝転びながらそう言った。
ほのかに染まった頬、かすかに震える手。
「きょ……」
搾り出すように、呟くように、
小さな声で我輩ではない誰かに語りかける。
「きょう…すけ……」
「……にゃー」
そのまま数秒固まったかと思ったら、真っ赤な顔の彼女は我輩を抱きしめ、
仰向きに寝転んだままバタバタと足を動かした。
く、苦しい……。
我輩はスルリと彼女の胸の中から抜けると、机の上に飛び乗り、いまだモジモジしている女王を見下ろした。
"きょうすけ"という名に聞き覚えはあった。
いつだったか、彼女が日向に話していた人間の雄の名だ。
付き合う、ということは彼女はその雄と契りを交わしたということだろう。
彼女はその喜びに身を震わせているといったところであろうか。
普段の、どちらかといえば負のオーラを纏う彼女からは想像もできない今の姿。
人ならざる我が身では人間のしきたりは理解できないことも多いが、
「ふふ……京介……」
彼女のこの嬉しそうな様子であれば、これは祝福すべきことなのであろう。
こんな幸せそうな彼女の笑顔が永遠に続けばいいと、そのときは思ったものだが――
「うぅ…京介……」
その後、女王と共に何度か京介とやらを見かけたりし、一週間ほどがすぎ、
今日は朝から気持ちが悪いくらい良い天気であった。
夕方に女王が京介と出掛けていき、数時間ほどで帰ってきた。
その後はずっとこうである。
かつて幸せに震わせたその痩躯を、再び震わせている。
此度は、身を引き裂くような、絶望で、だが。
「うぅ……」
美しい衣を乱し、一人机に突っ伏す女王。
その瞳にはまるで堰をきったように、とめどなく涙が溢れている。
なにかあったとしか思えなかった。
例の雄と一緒に出かけていって、帰ってきてすぐに彼女は机に突っ伏してしまった。
普通に考えたら、奴と何かあったということであろう。
奴に、裏切られたということであろうか。
「きょう……すけ……」
我輩は身体が震えるのを感じた。
これは、怒りだ。
奴への、ではない。
彼女の眷属でありながら、彼女が悲しんでいるのに何も出来ない、
自分自身に、怒りを感じるのだ。
「にゃー」
我輩は机に飛び乗り、彼女の頬を舐めた。
泣かないで欲しい。
悲しまないで欲しい。
いつもの、凛とした姿を見せて欲しい。
我が願いは、ただそれだけだ。
我輩はふと、女王と初めて邂逅したころを思い出した。
まだ我輩が幼く小さかった頃、病に身を蝕まれ、息絶えようというときに彼女と出会った。
「ねこさん、だいじょうぶ?」
幼くも、美しい少女だった。
手を伸ばす彼女の漆黒の瞳が我輩の心を捉えて離さなかった。
彼女はそのまま我輩を抱きかかえ、家まで連れて行ってくれた。
その後の連日の彼女の懸命な看病の結果、
我輩はなんとか命を繋ぐことができたのだ。
「ねこさん。あなたのまなはきょうから"よる"よ。
わたしのけんぞくとして、わたしにつくしなさい」
そして我輩に真名と赤い首飾りを与え、使い魔として迎えてくれた。
我輩はそのときに誓った。
この命ある限り、彼女のために生きよう。
彼女の剣となり、盾となろう、と。
今こそ再び誓おう。
我輩は女王にこの命を捧げた身。
彼女の使い魔は我輩だけで十分。
我輩は、我輩だけは、いつだって側にいよう。
「にゃー」
だから、そんなに泣かないでくれ、女王よ。
ところがその後、松戸に居城を移し、幾日か後、
なんと例の雄が再び姿を現した。
しかも、しかもだ。
「へー、ここがあんたん家なんだ。玄関も結構広いじゃん」
なんとこの恥知らずめ、別の雌を連れてきたではないか。
人間は契りを交わした雄と雌が二匹で番うと聞く。
じゃあこの雄は、この雌と我が女王のどちらを選ぶというのか。
他の雌を連れて逢瀬に現れるような不埒な雄に、
なぜ女王は、そのような嬉しそうな顔を向けるというのか。
「お、夜じゃねえか。ここペット可なんだな」
我輩に手を伸ばしてくる雄。
ええぃ、近づくな!下郎!
「ふぎゃー!」
「痛っ!」
貴様のような雄には絶対に彼女は渡さん!
これ以上近づくな!
「フーッ!」
「いてて。俺、夜に嫌われるようなことしたっけ?」
貴様なんぞより我輩のほうが彼女を大切にしてみせる!
彼女が欲しいなら我輩に認めさせてみろ!
奴め、我輩の迫力に圧されたのか、なにやら及び腰でたじろいでおる。
我輩は女王の膝の上に乗ると、奴を見下ろし、フンと鼻を鳴らした。
残念だったな、貴様のような軟弱者に彼女は絶対にやらん。
かつて混沌の破壊王と恐れられた我輩の現世での名は"夜"。
我が肉体は、かつてとは違い、今や貧弱な獣のそれである。
「夜、ご飯よ」
「にゃー」
我輩の前に食事を出す少女は五更瑠璃、真の名を千葉の堕天聖黒猫といい、
かつての闇の女王の生まれ変わりであるという。
幾千幾万の時と次元を越え、我輩は女王の眷属として使役され、使い魔となったのだ。
「あ、ルリ姉おはよー」
「おはようございます、姉さま」
日向と珠希が起きてきたようだ。
我輩は女王とその二人の姉妹、両親と共に暮らしている。
脆弱で小さな肉体ではあるが、こうやって毎日静かに暮らす分には――
「にゃー」
「あら、もっとくれというの?仕方のない子ね」
まあまあ悪くない生活であろう。
「つ、付き合うってことは、名前で呼んだほうがいいわよね」
ある日、女王は家に帰ってくるなり、我輩を抱えて布団に寝転びながらそう言った。
ほのかに染まった頬、かすかに震える手。
「きょ……」
搾り出すように、呟くように、
小さな声で我輩ではない誰かに語りかける。
「きょう…すけ……」
「……にゃー」
そのまま数秒固まったかと思ったら、真っ赤な顔の彼女は我輩を抱きしめ、
仰向きに寝転んだままバタバタと足を動かした。
く、苦しい……。
我輩はスルリと彼女の胸の中から抜けると、机の上に飛び乗り、いまだモジモジしている女王を見下ろした。
"きょうすけ"という名に聞き覚えはあった。
いつだったか、彼女が日向に話していた人間の雄の名だ。
付き合う、ということは彼女はその雄と契りを交わしたということだろう。
彼女はその喜びに身を震わせているといったところであろうか。
普段の、どちらかといえば負のオーラを纏う彼女からは想像もできない今の姿。
人ならざる我が身では人間のしきたりは理解できないことも多いが、
「ふふ……京介……」
彼女のこの嬉しそうな様子であれば、これは祝福すべきことなのであろう。
こんな幸せそうな彼女の笑顔が永遠に続けばいいと、そのときは思ったものだが――
「うぅ…京介……」
その後、女王と共に何度か京介とやらを見かけたりし、一週間ほどがすぎ、
今日は朝から気持ちが悪いくらい良い天気であった。
夕方に女王が京介と出掛けていき、数時間ほどで帰ってきた。
その後はずっとこうである。
かつて幸せに震わせたその痩躯を、再び震わせている。
此度は、身を引き裂くような、絶望で、だが。
「うぅ……」
美しい衣を乱し、一人机に突っ伏す女王。
その瞳にはまるで堰をきったように、とめどなく涙が溢れている。
なにかあったとしか思えなかった。
例の雄と一緒に出かけていって、帰ってきてすぐに彼女は机に突っ伏してしまった。
普通に考えたら、奴と何かあったということであろう。
奴に、裏切られたということであろうか。
「きょう……すけ……」
我輩は身体が震えるのを感じた。
これは、怒りだ。
奴への、ではない。
彼女の眷属でありながら、彼女が悲しんでいるのに何も出来ない、
自分自身に、怒りを感じるのだ。
「にゃー」
我輩は机に飛び乗り、彼女の頬を舐めた。
泣かないで欲しい。
悲しまないで欲しい。
いつもの、凛とした姿を見せて欲しい。
我が願いは、ただそれだけだ。
我輩はふと、女王と初めて邂逅したころを思い出した。
まだ我輩が幼く小さかった頃、病に身を蝕まれ、息絶えようというときに彼女と出会った。
「ねこさん、だいじょうぶ?」
幼くも、美しい少女だった。
手を伸ばす彼女の漆黒の瞳が我輩の心を捉えて離さなかった。
彼女はそのまま我輩を抱きかかえ、家まで連れて行ってくれた。
その後の連日の彼女の懸命な看病の結果、
我輩はなんとか命を繋ぐことができたのだ。
「ねこさん。あなたのまなはきょうから"よる"よ。
わたしのけんぞくとして、わたしにつくしなさい」
そして我輩に真名と赤い首飾りを与え、使い魔として迎えてくれた。
我輩はそのときに誓った。
この命ある限り、彼女のために生きよう。
彼女の剣となり、盾となろう、と。
今こそ再び誓おう。
我輩は女王にこの命を捧げた身。
彼女の使い魔は我輩だけで十分。
我輩は、我輩だけは、いつだって側にいよう。
「にゃー」
だから、そんなに泣かないでくれ、女王よ。
ところがその後、松戸に居城を移し、幾日か後、
なんと例の雄が再び姿を現した。
しかも、しかもだ。
「へー、ここがあんたん家なんだ。玄関も結構広いじゃん」
なんとこの恥知らずめ、別の雌を連れてきたではないか。
人間は契りを交わした雄と雌が二匹で番うと聞く。
じゃあこの雄は、この雌と我が女王のどちらを選ぶというのか。
他の雌を連れて逢瀬に現れるような不埒な雄に、
なぜ女王は、そのような嬉しそうな顔を向けるというのか。
「お、夜じゃねえか。ここペット可なんだな」
我輩に手を伸ばしてくる雄。
ええぃ、近づくな!下郎!
「ふぎゃー!」
「痛っ!」
貴様のような雄には絶対に彼女は渡さん!
これ以上近づくな!
「フーッ!」
「いてて。俺、夜に嫌われるようなことしたっけ?」
貴様なんぞより我輩のほうが彼女を大切にしてみせる!
彼女が欲しいなら我輩に認めさせてみろ!
奴め、我輩の迫力に圧されたのか、なにやら及び腰でたじろいでおる。
我輩は女王の膝の上に乗ると、奴を見下ろし、フンと鼻を鳴らした。
残念だったな、貴様のような軟弱者に彼女は絶対にやらん。