「ただいま」
呟いてドアを閉めるも、返事はない。
……鍵がかかってないって事は、誰かいる筈なんだけどな。
なんつーかこう、この家での俺の扱いってこんなもんだって分かっちゃいても空しくなるぜ。
特にまあ、今日みたいに徹頭徹尾一人で帰ってきた後だとこうね、寂寥感があるというか。
「……文句言う事でも、言える相手がいる訳でもないんだけどな」
新学期が始まって、夏休みボケがようやく回復してきたからだろうか。
学校の生活リズムに適応する必要もなくなり――余裕ができた分で色々と考えることが多くなった。
今日の帰りで実感した事は、だ。
「俺、もしかしてリア充だったんじゃ?」
独り言イタいとか言わんでくれ。。
今になって思えば、年下の女の子とずっと帰り道一緒だった訳ですよ。
しかも俺に好意を持ってくれてる、とびきりかわいい女の子。
「ぐああ、勿体ねぇー……!」
頭を抱えてガンガン壁に叩きつけなる衝動に駆られるぜ。
結局、彼女として一緒に登下校することもなかった訳でさ、
そういうイベントも一度くらいはしてみたかったんですよ、青春ポイント的に!
のたうち回りそうになる衝動をこらえて、しばしその場で立ち尽くした揚句。
「……ほんと、今の俺には勿体ねぇよなあ」
同じ言葉を、別の意味で繰り返した。
はあ……。
ため息を吐く。我ながらやけにでかいのが実感できる。
帰り道に“あいつ”がいないだけでこんな喪失感を感じるなんて、未練がましくてみっともないと我ながら思う。
思うけど、分かっていてもどうしようもない。
道すがら麻奈実と話したりしてりゃ気が紛れるんだが、今日は麻奈実の方からこんなことを言われて、
『ごめんね、きょうちゃん。今日はちょっとあやせちゃんと約束してて――。
一緒に、来る?』
全力を挙げて見逃しましたよ、ええ。全部隊に徹底させたさ。
悪魔と書いて天使と読むあやせたんに会ってあやせたん成分を補給したいのは山々なんだが、
最近の麻奈実と、あれ以来顔も合わせてないあやせ連合軍を相手にするには今の俺の士気はイタリア軍にさえ及ばない。
……一応言っておくがチキンハートだからじゃないぜ?
戦力を冷静に分析した上での戦略的後退だ。
まあ、そんな俺の慧眼は置いておいてですね。
こう、なんというか、ちょっと前の俺、爆発しろと言いたくなるというか。
イラッ☆、というか。
「過去の自分に嫉妬って、どんだけだよ」
自嘲する。
ぼけっと立ち尽くしててもどうにもならないもんはどうにもならないしな。
さっさと部屋に戻って、勉強でもするか。一応は受験生だし。
……っと、その前に水分補給でもしとくか。
まだまだ残暑はきつい。学校からここまで歩いただけでも結構喉が渇いているのだ。
あー、汗がべたついて気持ちわりぃな……。
袖で額の汗を拭い、靴を脱いでも蒸してる体を持て余したまま、リビングへ入る。
と、ガンガンに効いたクーラーが歓迎してくれた。
「寒ッ!?」
おいおい部屋に入るなり鳥肌って……こりゃ掛け過ぎだろ。南極かここは。
ったくよぉ~、誰もいない部屋にこんなに冷房かけんなっつの。
東北の人たちに申し訳ないだろ。
リモコンはどこに置いて――、
「……あ、」
多分、俺はそのまま数秒――、もしかしたら数十秒は固まってたと思う。
帰り道の間、ずっと考えていたまさにその女の子が、あんまりにも無防備に穏やかに眠っていて。
いるはずのない彼女がいたことに驚いた。
……いや、違う。
正直に言おう。驚きより何より、見惚れていたんだ。
「……黒猫」
俺の知らない学校の制服を着たまま、ソファにもたれてすぅすぅと寝息を立てている。
何か飲もうとキッチンの方にしか意識を向けてなかったから、気付けなかった。
それくらい、今の彼女はこの家に馴染んでいる。
意識した訳じゃない。
けど、俺は自然とそっちの方に向かっていた。
「…………」
……やっぱ、綺麗だよな、こいつ。
いつものような不敵な表情もそれはそれで似合っちゃいるが、
こうして素の表情を見ると、本当にえらく可愛いと思う。
指を伸ばす。
ぷに、と、まるでギュウヒの様にほっぺに沈んだ。
柔らけぇー……。すっげぇ触り心地がいい。
ちなみにギュウヒってのは和菓子に使われる餅の一種な。
などと、田村家で培った無駄な知識を思い出してしまうくらいに現実離れした気持ちいい感触だ。
「もう1回くらい……いい、よな?」
ごく、と自分の生唾を飲む音がいやに大きく聞こえるぜ。
ぷに、ぷにぷに。
おお……。感動だ。
「……もう、1回」
ぷに、ぷに。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
……これは。スゲェ。
なんかもう別の世界に行っちまいそう。
「ん、……?」
つついていたほっぺの傍から漏れ出る声に全身が硬直した。
おいおいおいおいもしかして目覚めちまいましたかよ!!??
びくりと震えてバックステップ、一気に距離を取る。
「…………にゅぅ」
どうやら杞憂……みてーだな。
今まで聞いたこともないような可愛らしい声色で、こてん、と黒猫は寝相を変える。
仕草がいちいち小動物みたいでもっと苛めてやりたい衝動がわくが、必死にそれを抑え込み、ぶんぶん首を振って現実に戻る。
マズい。
このまま見つめてると何か変な事やらかしてしまいそうだ。
つか、まるきり変質者じゃねーか、今の俺。誰かに見られてねーだろな。
慌ててあたりを見回しても、誰かが隠れてる様子はない。
よっし、セーフ。ギリセーフ!
……というかだ、どうしてこいつがここで寝てんだよ。
などと本当に今更な疑問を思い浮かべるが、答えなんて一つしかない。
まさしくその答えが、俺の背後からいかにも嫌々といった風情で声をかけてくれた。
「なんだ、帰ってたんだ」
「お、おう……。桐乃、ただいま?」
おおう、動揺してるのか俺。
クールになれ、高坂京介。喉を掻き毟る位にクールになるんだ。
「なんで疑問形? 動きもロボットみたいだし……」
「べ、別に何でもねぇーよ?」
言えるかぁっ!
まあ、気づかれてはないはず……。ない、よな?
「つか、そこ邪魔」
いつの間にかドアの近くまで後退していた俺を蹴とばして無遠慮にリビングに入る桐乃。
痛ぇよ! ……大分俺たちの仲は改善したとは思うが、こういうところは変わんねぇのな。
ったく、親しき仲にも礼儀ありって言葉を教えてやりたいね。
ジト目で見つめてやるもまったく効果はなく、それどころか腕を組んでこっちを睨み返す次第だ。
当然、目線は上からだ。お大尽だな。
「……あんた、こいつに変なことしてないでしょうね」
「してねえよ!」
この状況を見て最初にかける声がそれかよ!
せいぜいが頬プニしたくらいですよ!
健全な青少年が不健全な妄想でするようなことは何一つできませんとも、ええ。
チキンで悪かったな!
疑いの眼差しでこっちをジロジロ検品し続ける桐乃。
うっぜー、兄への信頼ってのがないのかねこいつ。
…………。うん、当たり前だな。
信頼、できるはずねーよなぁ。
御鏡の件とかね、我ながら思い出すとブルーになる。
黒猫連れ戻しに行ったときにも俺、何にもできなかったし。
兄貴としてのプライドとか、粉々だもん。
「ま、ちょうどいいや」
「……何がちょうどいいんだよ」
凹んでる俺に気付いてるのかいないのか。
いともあっさりとぞんざいに――桐乃はとんでもない難題を突きつけてくれやがった。
「そいつ、おぶって」
「な……っ」
一瞬こいつのお脳を疑ったね。
……分かんねー。ホントに本気で、分かんねー。
お前さ、俺と黒猫が付き合うの嫌だったんだろ?
というか、俺と黒猫がちょっと仲良くしてるだけで機嫌悪くするじゃん。
この前黒猫んちの朝のやり取りみたいにさ、その、エロ猫呼ばわりするくらいに。
だってのに、おぶるって……肉体的接触をさせようって、どういう事っすか?
「あたしの部屋に寝かせんの。
……毛布持ってきたけどさ、あんたがいるんなら上まで連れてけるし、そっちのがいいって思っただけ」
……ああ、そういう事。
んな機嫌悪そうな顔するんならさ、別に俺にさせなきゃいいじゃん……。
と思ったけど、口には出さない。判断の賢明さを称えて欲しいね。
ま、別にいいけどよ。
こいつなりの黒猫への優しさ>俺が黒猫の体に触れる、って事だし、そいつを尊重するにやぶさかでない。
何より俺も役得……って、そうだよ。待て待て、倫理的に考えろ。
「え、いや、その、だな……」
マズくね?
そのさ、俺と黒猫はもうそういう関係じゃない訳ですよ。
という事はさ、
「おぶるってことはだな」
「うん」
うんじゃねーよ!
高校生男子の繊細な心情を慮れ……ねーんだろうな。
俺がこいつの考えを分かんねーように、こいつにそんな気配りを期待するのも無駄か。
「寝てる女の子の体に、その……触るって事だろ?」
そうなんですよ。
一般的に、彼氏彼女でもない男女がそんなことやったら普通、セクハラ扱いだろ。
場合によっちゃ訴訟モノだ。
今更セクハラの一つや二つ……とか言うな。学校でセクハラ先輩と陰口叩かれるたびに結構精神キツいんだよ。
まあ、流石に黒猫はそんな事しないとは思うけど……今問題なのは桐乃の目の前だって事もあるしな。
証拠写真でも撮って俺をイビるネタにはしねーよな?
そんなシーンの瞬間を黒猫に見せつけたりされたらマジ泣きする自信あるよ、俺。
「は? 触らずにどうやって運ぶ訳? 念動力でも使えんならそれでいいケド?」
「使えるか! 俺は見ての通りの一般人だよ」
念動力って、どこの激動のじいさまだってーの。
手伝ってくれよ、ただし、真っ二つだろうけど。
「ぷっく、顔真っ赤じゃん……。何照れてんの? 元カノなんだからそのぐらい平気っしょ?」
言うな。情けねー顔してるって自覚はあるんだ。
というかよ、気軽に言ってくれるけどさあ……
「……だからこそ気まずいんだっての。
つか、付き合ってた時だって手ェ繋いだだけだったしよ……」
「え、マジ?」
おい、なんだよその心底から驚いたって表情は。
心なしか、黒猫を見る表情に憐れみが混ざってる気さえするぞ。
そりゃーあれだけ毎日会っといてほとんど進展はなかったけどよ、そんな顔される謂われはねえぞ?
つーかそもそもお前、あの時の暴露合戦で黒猫の奥手具合からかってたじゃねーか、
てっきり俺たちがどこまで進んだのかってのも把握してると思ってたさ!
くそ、口が滑った……。
「お前が連れてきゃいいじゃねーか。人並み以上に鍛えてんだしさ」
無茶振りに向かって、半分嫉妬と意趣返しで言ってやる。
そりゃこんなチャンスは滅多にねえし、その役目やりたいなー、なんて本心じゃ思うけどよ。
やっぱ、こういうのは同性でやった方が角が立たんだろ。
万一黒猫に嫌われたりしたら嫌だしさ。
「……チッ。あのねぇ、」
小さく何かを言いかける桐乃。けど、そこで苦虫を噛み潰したような顔をして急に黙りこむ。
…………?
何か俺。地雷踏んだかな?
それにしたって、口開いてくれなきゃこっちだってどう対応したもんか分かんねぇよ。
「そのさ、言いたい事あるんならはっきり言ってくれ。
別に笑ったりしねえからさ」
「あー、うっさい! こんな重い荷物、女の子に持たせんな!
男の仕事でしょ! んな気の利かないヤツだから振られんだっての」
……ひでぇ。今、滅茶苦茶グサッと来たぞ。泣きそう。
しかも友達を荷物呼ばわりかよ、おいおい。
俺も黒猫も、よくこいつと付き合ってられるなと自分たちに感心しちまうね。
「へいへい、わーった、分かりましたよ」
実はお姫様抱っこできね? チャンスじゃね? という考えが脳裏をよぎったんだが、思い止まる。
ここはまあ、無難に普通に背負うのがベターだよな。もし起きちまっても言い訳できるし。
妹の目が怖いとかじゃねーからな。紳士としての判断だって、皆なら分かってくれるだろ?
黒猫の前に回って、そっと起こさないように屈んで乗せる。
小さいけどしっかり弾力のあるふくらみが、背中に当たった気がする。
……ッ、気にしない、気にしない。
気になってねえよ? 全然、まったく、これっぽちも!
意識してなんてないんだからね!
圧迫感のある『その部分』を意識しないようにすればするほど、体が固まってくる。
ひでえ泥沼だ、天国と地獄が同時にやってきてるんじゃなかろうか……。
俺の一部が元気にならないよう自制心をフルに働かせてるが、いつまでもつんだコレ。
前屈みになったら最後だな、間違いなく。
他の事考えて誤魔化そうにも、内容が全部黒猫の方に向いちまう。
……やっぱ、軽いわこいつ。柔いし。
ぐああ……、心臓がバクバクいってるよ。俺の。
その、体温が、吐息がこうね? 背中とか首筋に当たると言いますか。
役得だなんて思う余裕もない。
「……キモ。未練タラタラじゃん」
そんな事ちっとでも考える余裕ないよ!
マジで一杯一杯です。
……なんて、流石に妹の前じゃ言えねぇし、だったらまだそう思われてた方がマシだよな。
やぶれかぶれで声を荒げてやる。
「うっせぇな、仕方ねぇだろ!」
しーっ、と指を口に当てて、親の仇でも見る様に視線で刺しやがる桐乃。
ギロリって音が聞こえたね。
この眼はマジだ。殺気が篭ってやがる……!
……いやまあ、今のは俺に配慮が足りなかったな、うん。
別に妹にビビっただけじゃなくて、本気で黒猫に悪いと思ったんだよ。
だから、声をひそめて妹に話しかける。
桐乃と話してないと思考が変な方向に行きそうだし、な。
「……今日は一緒に遊んでたのか?」
誰と、とは聞かない。
見てるこっちまで和んでくる寝顔を晒してる背中の生き物が、まるで返事をするかのように小さく寝言を漏らした。
なんて言ったかは聞き取れなかったけど、随分と安心しているみたいで。
「まーね。つっても、こいつ家来てすぐこーなっちゃったんだけどさ」
……ここんとここいつ、ずっと無理してたろうしな。
普段からやってるであろう、日向ちゃんと珠希ちゃんの世話に、バイト。
加えて夏コミの準備や瀬菜達とのゲーム作り、引っ越しや転校に……“儀式”まで。
そこまでさせちまった俺が言うのもなんだけど、もう少し自分を大事にして欲しい。
「……ったく、馬鹿じゃん?
ただでさえガッコ帰りなんだから大して遊べるわけでもないのにさ。
寝ちゃったらここまで来た意味ないと思わない?」
「あのな、忙しい時間を縫ってわざわざ遊びに来てくれた友達相手にその言い方はねぇだろ」
言いつつも、俺は口の端がニヤついてるのを自覚する。
口にしてる内容は毒づいてるのに、桐乃の口調そのものはめったに聞けない優しさの篭ったものだったよ。
「……だったらさ、あたしとの約束なんかよりも自分のことを優先すりゃいいでしょ。
引っ越しとかで疲れてるんだったらゆっくり休めばいいじゃん」
「ふぅん……」
「……何ニヤニヤしてんの? 言っとくけど、この事こいつに話したりしたら死なすから」
「ヘイヘイ、了解」
へっ、んな本気で心配してる表情されたら笑いたくなるのも当たり前だろ。
……あれ以来、桐乃も少し変わったのかもしれない。
「ムカつく。その顔、絶対分かってないじゃん」
「んなことねーよ」
それきり2人とも何も言わず、ただ階段を上がり続ける。
……3人でいるにもかかわらず、こんなに静かで心地よかったのは初めてかもしれない。
まるで黒猫と2人でいるときの空気を、桐乃とも共有できているようだった。
貴重な時間の気もする。けれど、これからは……貴重じゃなくなる気もする。
ただ、一番最初の経験は二度と味わえない、という当然の真理を考えるなら。
今は、間違いなく大切で、貴重なんだろう。
沈黙を保ったまま、最後の一段を昇り切る。
桐乃が自分の部屋のドアを開けて、言葉もなく顎でベッドを示した。
無言で頷き、俺がゆっくりと眠り姫を下ろしていくと、
それに合わせて桐乃がベッドの掛け布団を剥ぐ。
似てないとこだらけの兄妹だけど、こういう時だけ気が合うのな。
そのまま静かに寝かせて、一息。
……背中が急に冷えたように感じるな。
桐乃に後ろから抱き締められた時初めて知ったけど、人肌って、暖かいんだよな。
名残惜しいって、そんな気持ちが湧くのを自覚する。
そんなガラでもないセンチな気分に桐乃も感染したのだろうか。
ぽつりと零れるように、呟きが耳に届いた。
「……あたしより、さ」
「ん? どうした?」
……珍しいな、こいつがこんな年相応っぽい表情をするのは。
「あたしよりさ……、ちっこいんだよね、こいつ。年上のクセに」
「まあ……、そうだな」
本当、小さい体で黒猫はどれだけ頑張るつもりなんだろう。
さっき背中に背負ったら、想像に違わず華奢で細かった。
すぐにでも折れちまいそうなくらいに、だ。
「……普段はさ。全然そんなコト意識しないんだけどね。
一つしか違わないんだよね」
一つしか違わない、と、そう自然と口にした桐乃。
それは黒猫をもっと年上の存在みたいに感じてるって事なんだろうか。
年上だってことを意識しないと、直前に言ったばかりの台詞とは矛盾している。
矛盾しているが――、不思議と、俺には納得できたよ。
気弱で臆病なくせに面倒見が良いから、ついつい甘えたり頼りたくなっちまう。
……沙織とは別のベクトルで、俺たち兄妹はこいつに世話になりっぱなしだ。
盗作騒動の時も、桐乃を連れ戻した時も、偽彼氏の時も、……この前の事だって。
「借りばっかり作ってくれちゃって。
……いつか返させないと、承知しないかんね」
――ああ、まったく同感だよ。
そう心中で呟いて、視線を上げる。
と、なぜかこちらを見ていた桐乃がプイと目を逸らした。
「……どした?」
「……別に?」
なーんか、気持ち悪ぃーな。
さっきから不自然な言動や態度が目につくけど、やっぱ俺、こいつの気に障る様なことしたんだろうか?
「今日のお前、なんかはっきりしねぇな。
変なもんでも食ったのか?」
「ちょ……、どういう意味だっての」
一瞬大きな声をあげかけたもののすぐに口で手を覆う桐乃。
こいつなりに黒猫を起こさないよう気を使ってるのか、台詞の後半は全然勢いがない。
肩をいからせ、苛立ったように、あるいは呆れたようにこっちをジッと見てくるが――、
「はあ……、まあ、いいや」
唐突にそんな事を言って、立ち上がった。
なんだ?
「……あのさ、あたしちょっと出かけてくるから」
「友達が来てるのにそれはどうかと思うんだが」
挙動が不審すぎる。
そういやこいつも女の子なんだよな、そういう日って事、か?
下ネタだから口にはしねーけど。
まあ、こいつの気まぐれには慣れっことはいえ、一応言う事は言っとく。
わざわざ会いに来てくれた黒猫ほっぽってどっかに行くのはさすがに、なあ。
「ちょっとコンビニで買いたいものがあるだけだって。
なのにこいつ寝ちゃうからさ、さすがに家に一人置いて出てく訳にもいかないし。
……あんたがいるならまあ、こいつだって納得するでしょ」
理屈として通ってるような、通ってないような……。
どうせ突っ込んだところで逆ギレされるのが目に見えてるから、ひとまず頷いておくけどさ。
「……まあ別にいいけどよ。それで?」
「それで……、あのね。あたしが出てったらあんたたち二人きりになるじゃん。
ちょっとでもこいつと乳繰り合ったら、マジブチ殺すから」
物騒だな! 頬が引き攣りそうだ。
どっかの誰かさんと言動がダブッてるぞ桐乃……。
お前まであいつみたいにはならんでくれ、頼むから。身がもたん。
「お前……、まさかあやせ菌に感染したのか?」
「は、はあぁぁっ!? ちょ、あたしはあそこまで酷くないっての!
……うん、ちょっと過激過ぎたかもしれないけど……」
本気でしょげんなよ……。
しかもそれ、遠まわしにあやせがヤバいって認めてるよね?
前にも頭おかしいとか桐乃に言われてたし、あいつもいよいよ本性を隠せなくなってきたのだろうか。
うちの妹が洗脳されないことを切に祈るぜ。肉体的に危険すぎる。
「とにかく! 30分くらいで戻ってくるとは思うケド、絶対に……その、
……なコトは許さないって言ってんの! んじゃ、行ってくるから!」
大股で分かりやすく不機嫌をアピールして、逃げるように桐乃が部屋から出て行く。
一切音を出さずにドアを叩きつけて閉めるなんて、器用なもんだ。
「……おー、いってら」
聞こえてるかも不明だが、一応、背中に声を掛けとく。
がくりと肩から一気に力が抜ける。
なんか、疲れた。
ちら、と、背後を見る。
そこには幸せそうに枕を抱えてる黒猫が。
……桐乃め、あんなこと言われたらかえって意識しちまうじゃねーか!
どうしようどうしよう、いやどうかしちゃいけないんだけど!
しかもさ、さっきの桐乃のあの態度。
まさか、俺と黒猫を二人きりにするため、とかじゃねぇよな?
……ねーとは、思うけど。
もしそうだったなら、帰ってきた桐乃をどうやって迎えりゃいいんだよ。
何を話しても白々しくなりそうだ。
くそ、厄介な宿題置いてきやがって……。
「はー……」
本日何度目かの溜息だ。もう数えるのも面倒くさい。
がりがり頭を掻くけど結局そんな事をしたって何が変わるまでもなく。
……気付いたら、黒猫の寝顔を見つめてたよ。
邪な気持ちもまあ、たぶん最初はあったと思う。
けど、こいつの無防備すぎる姿を見たらそんな気はさっさと無くなっちまった。
……こんな顔されたら、イタズラだってできねぇよ。
聖天使、なんて随分イタい自称だと思ったけどさ、今のこいつの顔は、その二つ名に見合うだけの事はあると思う。
……どんな表情かって?
悪いがそれは、俺と桐乃だけのもんだ。あんたらにだって、見せてやるつもりはないね。
白くて柔らかい肌と、絹の様に滑らかな黒髪。
あらためてじっくりと見ると、やっぱり黒猫は信じられないくらいに可愛い女の子だった。
……こんな子が俺を好きだと言ってくれて、あんなにも一途に真っ直ぐ求めてくれて。
恋人に、なって。
どんな奇跡だって言いたくなる。俺なんかには、普通だったら全く縁のない話だ。
なのに俺は、ちゃんと向き合ってやることさえ、できなかった。
「…………」
ごめんな、と口にしようとしたけど、やめた。
こいつに対して掛けるべき言葉はきっと、そんなんじゃない。
それに、ごめんなんて言ったら、きっと別の意味で取って泣かせてしまうだろう。
……黒猫に伝えたい言葉は今の俺には見つからないし、その資格もきっとない。
だけど、いずれ必ず向き合いたい。
もしかしたらその時は、俺の選んだもの次第で、彼女を泣かせてしまうかもしれない。
それでも、こいつから逃げる事だけはしたくないと――そう思う。
だから、今言えるのはこれだけだ。
「……待っててくれ」
……未来のことなんて、まったく分からないけれど。
こいつが笑ってくれてたらと、今の俺は思う。
その気持ちだけは嘘じゃない。
静かに手を伸ばして、寝返りを打った黒猫の髪の毛を払う。
この寝顔が毎日傍にあるのなら、きっとそれは幸せなんだろうと想いを馳せて。
……結局まあ、その後に話して面白いようなことはなかったよ。
最後までずっと黒猫は起きないままだったし、帰ってくるなり妹サマは俺の脛けたぐって、
「何時まで妹の部屋に居座ってんの? 死ねッ、シスコン!」
だとよ。
ケッ、黒猫と二人きりの時間を作ってくれたんじゃ……なんて一瞬でも考えちまった自分が恥ずかしいぜ。
渋々自分の部屋で勉強に勤しませてもらったよ。
強がりじゃなく、充実した勉強時間だったさ。
黒猫は黒猫でだいぶ遅くまで眠っちまったらしく、ものすごい勢いで帰ってったらしい。
らしい……ってのは、結局まともに挨拶もできなかったからで、俺の部屋には帰る時のドタドタと慌ただしい足音しか聞こえてこなかった。
寂しいっちゃ寂しいが、日向ちゃん珠希ちゃんの世話とかあるんだろうし、これはまあ……、仕方ないな。
わずかな時間しかないのに遊びに来るなんて、あいつもホント桐乃が好きだよな。
妹相手に嫉妬するってのも情けないが……、勘弁してくれ。このくらいは許されるだろ?
まあ、そんな訳で今日は別にこれといって何があった訳でもないんだが、
俺たちの間の以前よりも近い距離を確認できた……、のかもしれない。
気のせいかもしれねーけどな。
まあ、こんな感じで最近の俺たちはやってる。
これからどうなるのか、どうしていきたいのか。
正直俺にはまだまだ五里霧中だけど、どうにかしていきたいのは本当だ。
……いつか、きっと。答えは出ると思う。
その時に、皆が幸せになれる選択をできればいい。
今日の何でもない出来事は、そう俺に思わせてくれたよ。
* * *
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……今日はその、すぐに寝入ってしまってごめんなさい。
申し開きのしようもないわ。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
ちょ、そんなかしこまられたらこっちだって困るじゃん。
名前欄だってあんたをおちょくってやるつもりでこうしたのにさ、あたしが空気読めてないみたいつーか。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……でもわざわざあなたの部屋まで連れて行ってもらって、ベッドまで貸してもらったし。
自己管理ができてなかったのは事実だもの。
友達の家に遊びに行ったのに、惰眠を貪るだけというのは……。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
あー、いいっていいって。
つか、あんたを部屋まで運んでったのはあいつだしさ。
あたしじゃなくてあいつに言ってやりなよ。そんくらいは許したげる。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……え、もしかして。
あなただけでなく京介も私の寝顔……、見たの?
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
……ジロジロとねぶるように見てたケド。
思い出したら滅茶苦茶腹立ってきた。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……っ! まだ……、そんなもの、見せるつもりなかったのに。
万死に値する……わね。
いいかしら、桐乃。あなたに相談があるのだけど。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
おっけー。あんたの希望も織り交ぜて、ちゃんどあいつに代価を払わせてやんよwww
呟いてドアを閉めるも、返事はない。
……鍵がかかってないって事は、誰かいる筈なんだけどな。
なんつーかこう、この家での俺の扱いってこんなもんだって分かっちゃいても空しくなるぜ。
特にまあ、今日みたいに徹頭徹尾一人で帰ってきた後だとこうね、寂寥感があるというか。
「……文句言う事でも、言える相手がいる訳でもないんだけどな」
新学期が始まって、夏休みボケがようやく回復してきたからだろうか。
学校の生活リズムに適応する必要もなくなり――余裕ができた分で色々と考えることが多くなった。
今日の帰りで実感した事は、だ。
「俺、もしかしてリア充だったんじゃ?」
独り言イタいとか言わんでくれ。。
今になって思えば、年下の女の子とずっと帰り道一緒だった訳ですよ。
しかも俺に好意を持ってくれてる、とびきりかわいい女の子。
「ぐああ、勿体ねぇー……!」
頭を抱えてガンガン壁に叩きつけなる衝動に駆られるぜ。
結局、彼女として一緒に登下校することもなかった訳でさ、
そういうイベントも一度くらいはしてみたかったんですよ、青春ポイント的に!
のたうち回りそうになる衝動をこらえて、しばしその場で立ち尽くした揚句。
「……ほんと、今の俺には勿体ねぇよなあ」
同じ言葉を、別の意味で繰り返した。
はあ……。
ため息を吐く。我ながらやけにでかいのが実感できる。
帰り道に“あいつ”がいないだけでこんな喪失感を感じるなんて、未練がましくてみっともないと我ながら思う。
思うけど、分かっていてもどうしようもない。
道すがら麻奈実と話したりしてりゃ気が紛れるんだが、今日は麻奈実の方からこんなことを言われて、
『ごめんね、きょうちゃん。今日はちょっとあやせちゃんと約束してて――。
一緒に、来る?』
全力を挙げて見逃しましたよ、ええ。全部隊に徹底させたさ。
悪魔と書いて天使と読むあやせたんに会ってあやせたん成分を補給したいのは山々なんだが、
最近の麻奈実と、あれ以来顔も合わせてないあやせ連合軍を相手にするには今の俺の士気はイタリア軍にさえ及ばない。
……一応言っておくがチキンハートだからじゃないぜ?
戦力を冷静に分析した上での戦略的後退だ。
まあ、そんな俺の慧眼は置いておいてですね。
こう、なんというか、ちょっと前の俺、爆発しろと言いたくなるというか。
イラッ☆、というか。
「過去の自分に嫉妬って、どんだけだよ」
自嘲する。
ぼけっと立ち尽くしててもどうにもならないもんはどうにもならないしな。
さっさと部屋に戻って、勉強でもするか。一応は受験生だし。
……っと、その前に水分補給でもしとくか。
まだまだ残暑はきつい。学校からここまで歩いただけでも結構喉が渇いているのだ。
あー、汗がべたついて気持ちわりぃな……。
袖で額の汗を拭い、靴を脱いでも蒸してる体を持て余したまま、リビングへ入る。
と、ガンガンに効いたクーラーが歓迎してくれた。
「寒ッ!?」
おいおい部屋に入るなり鳥肌って……こりゃ掛け過ぎだろ。南極かここは。
ったくよぉ~、誰もいない部屋にこんなに冷房かけんなっつの。
東北の人たちに申し訳ないだろ。
リモコンはどこに置いて――、
「……あ、」
多分、俺はそのまま数秒――、もしかしたら数十秒は固まってたと思う。
帰り道の間、ずっと考えていたまさにその女の子が、あんまりにも無防備に穏やかに眠っていて。
いるはずのない彼女がいたことに驚いた。
……いや、違う。
正直に言おう。驚きより何より、見惚れていたんだ。
「……黒猫」
俺の知らない学校の制服を着たまま、ソファにもたれてすぅすぅと寝息を立てている。
何か飲もうとキッチンの方にしか意識を向けてなかったから、気付けなかった。
それくらい、今の彼女はこの家に馴染んでいる。
意識した訳じゃない。
けど、俺は自然とそっちの方に向かっていた。
「…………」
……やっぱ、綺麗だよな、こいつ。
いつものような不敵な表情もそれはそれで似合っちゃいるが、
こうして素の表情を見ると、本当にえらく可愛いと思う。
指を伸ばす。
ぷに、と、まるでギュウヒの様にほっぺに沈んだ。
柔らけぇー……。すっげぇ触り心地がいい。
ちなみにギュウヒってのは和菓子に使われる餅の一種な。
などと、田村家で培った無駄な知識を思い出してしまうくらいに現実離れした気持ちいい感触だ。
「もう1回くらい……いい、よな?」
ごく、と自分の生唾を飲む音がいやに大きく聞こえるぜ。
ぷに、ぷにぷに。
おお……。感動だ。
「……もう、1回」
ぷに、ぷに。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
……これは。スゲェ。
なんかもう別の世界に行っちまいそう。
「ん、……?」
つついていたほっぺの傍から漏れ出る声に全身が硬直した。
おいおいおいおいもしかして目覚めちまいましたかよ!!??
びくりと震えてバックステップ、一気に距離を取る。
「…………にゅぅ」
どうやら杞憂……みてーだな。
今まで聞いたこともないような可愛らしい声色で、こてん、と黒猫は寝相を変える。
仕草がいちいち小動物みたいでもっと苛めてやりたい衝動がわくが、必死にそれを抑え込み、ぶんぶん首を振って現実に戻る。
マズい。
このまま見つめてると何か変な事やらかしてしまいそうだ。
つか、まるきり変質者じゃねーか、今の俺。誰かに見られてねーだろな。
慌ててあたりを見回しても、誰かが隠れてる様子はない。
よっし、セーフ。ギリセーフ!
……というかだ、どうしてこいつがここで寝てんだよ。
などと本当に今更な疑問を思い浮かべるが、答えなんて一つしかない。
まさしくその答えが、俺の背後からいかにも嫌々といった風情で声をかけてくれた。
「なんだ、帰ってたんだ」
「お、おう……。桐乃、ただいま?」
おおう、動揺してるのか俺。
クールになれ、高坂京介。喉を掻き毟る位にクールになるんだ。
「なんで疑問形? 動きもロボットみたいだし……」
「べ、別に何でもねぇーよ?」
言えるかぁっ!
まあ、気づかれてはないはず……。ない、よな?
「つか、そこ邪魔」
いつの間にかドアの近くまで後退していた俺を蹴とばして無遠慮にリビングに入る桐乃。
痛ぇよ! ……大分俺たちの仲は改善したとは思うが、こういうところは変わんねぇのな。
ったく、親しき仲にも礼儀ありって言葉を教えてやりたいね。
ジト目で見つめてやるもまったく効果はなく、それどころか腕を組んでこっちを睨み返す次第だ。
当然、目線は上からだ。お大尽だな。
「……あんた、こいつに変なことしてないでしょうね」
「してねえよ!」
この状況を見て最初にかける声がそれかよ!
せいぜいが頬プニしたくらいですよ!
健全な青少年が不健全な妄想でするようなことは何一つできませんとも、ええ。
チキンで悪かったな!
疑いの眼差しでこっちをジロジロ検品し続ける桐乃。
うっぜー、兄への信頼ってのがないのかねこいつ。
…………。うん、当たり前だな。
信頼、できるはずねーよなぁ。
御鏡の件とかね、我ながら思い出すとブルーになる。
黒猫連れ戻しに行ったときにも俺、何にもできなかったし。
兄貴としてのプライドとか、粉々だもん。
「ま、ちょうどいいや」
「……何がちょうどいいんだよ」
凹んでる俺に気付いてるのかいないのか。
いともあっさりとぞんざいに――桐乃はとんでもない難題を突きつけてくれやがった。
「そいつ、おぶって」
「な……っ」
一瞬こいつのお脳を疑ったね。
……分かんねー。ホントに本気で、分かんねー。
お前さ、俺と黒猫が付き合うの嫌だったんだろ?
というか、俺と黒猫がちょっと仲良くしてるだけで機嫌悪くするじゃん。
この前黒猫んちの朝のやり取りみたいにさ、その、エロ猫呼ばわりするくらいに。
だってのに、おぶるって……肉体的接触をさせようって、どういう事っすか?
「あたしの部屋に寝かせんの。
……毛布持ってきたけどさ、あんたがいるんなら上まで連れてけるし、そっちのがいいって思っただけ」
……ああ、そういう事。
んな機嫌悪そうな顔するんならさ、別に俺にさせなきゃいいじゃん……。
と思ったけど、口には出さない。判断の賢明さを称えて欲しいね。
ま、別にいいけどよ。
こいつなりの黒猫への優しさ>俺が黒猫の体に触れる、って事だし、そいつを尊重するにやぶさかでない。
何より俺も役得……って、そうだよ。待て待て、倫理的に考えろ。
「え、いや、その、だな……」
マズくね?
そのさ、俺と黒猫はもうそういう関係じゃない訳ですよ。
という事はさ、
「おぶるってことはだな」
「うん」
うんじゃねーよ!
高校生男子の繊細な心情を慮れ……ねーんだろうな。
俺がこいつの考えを分かんねーように、こいつにそんな気配りを期待するのも無駄か。
「寝てる女の子の体に、その……触るって事だろ?」
そうなんですよ。
一般的に、彼氏彼女でもない男女がそんなことやったら普通、セクハラ扱いだろ。
場合によっちゃ訴訟モノだ。
今更セクハラの一つや二つ……とか言うな。学校でセクハラ先輩と陰口叩かれるたびに結構精神キツいんだよ。
まあ、流石に黒猫はそんな事しないとは思うけど……今問題なのは桐乃の目の前だって事もあるしな。
証拠写真でも撮って俺をイビるネタにはしねーよな?
そんなシーンの瞬間を黒猫に見せつけたりされたらマジ泣きする自信あるよ、俺。
「は? 触らずにどうやって運ぶ訳? 念動力でも使えんならそれでいいケド?」
「使えるか! 俺は見ての通りの一般人だよ」
念動力って、どこの激動のじいさまだってーの。
手伝ってくれよ、ただし、真っ二つだろうけど。
「ぷっく、顔真っ赤じゃん……。何照れてんの? 元カノなんだからそのぐらい平気っしょ?」
言うな。情けねー顔してるって自覚はあるんだ。
というかよ、気軽に言ってくれるけどさあ……
「……だからこそ気まずいんだっての。
つか、付き合ってた時だって手ェ繋いだだけだったしよ……」
「え、マジ?」
おい、なんだよその心底から驚いたって表情は。
心なしか、黒猫を見る表情に憐れみが混ざってる気さえするぞ。
そりゃーあれだけ毎日会っといてほとんど進展はなかったけどよ、そんな顔される謂われはねえぞ?
つーかそもそもお前、あの時の暴露合戦で黒猫の奥手具合からかってたじゃねーか、
てっきり俺たちがどこまで進んだのかってのも把握してると思ってたさ!
くそ、口が滑った……。
「お前が連れてきゃいいじゃねーか。人並み以上に鍛えてんだしさ」
無茶振りに向かって、半分嫉妬と意趣返しで言ってやる。
そりゃこんなチャンスは滅多にねえし、その役目やりたいなー、なんて本心じゃ思うけどよ。
やっぱ、こういうのは同性でやった方が角が立たんだろ。
万一黒猫に嫌われたりしたら嫌だしさ。
「……チッ。あのねぇ、」
小さく何かを言いかける桐乃。けど、そこで苦虫を噛み潰したような顔をして急に黙りこむ。
…………?
何か俺。地雷踏んだかな?
それにしたって、口開いてくれなきゃこっちだってどう対応したもんか分かんねぇよ。
「そのさ、言いたい事あるんならはっきり言ってくれ。
別に笑ったりしねえからさ」
「あー、うっさい! こんな重い荷物、女の子に持たせんな!
男の仕事でしょ! んな気の利かないヤツだから振られんだっての」
……ひでぇ。今、滅茶苦茶グサッと来たぞ。泣きそう。
しかも友達を荷物呼ばわりかよ、おいおい。
俺も黒猫も、よくこいつと付き合ってられるなと自分たちに感心しちまうね。
「へいへい、わーった、分かりましたよ」
実はお姫様抱っこできね? チャンスじゃね? という考えが脳裏をよぎったんだが、思い止まる。
ここはまあ、無難に普通に背負うのがベターだよな。もし起きちまっても言い訳できるし。
妹の目が怖いとかじゃねーからな。紳士としての判断だって、皆なら分かってくれるだろ?
黒猫の前に回って、そっと起こさないように屈んで乗せる。
小さいけどしっかり弾力のあるふくらみが、背中に当たった気がする。
……ッ、気にしない、気にしない。
気になってねえよ? 全然、まったく、これっぽちも!
意識してなんてないんだからね!
圧迫感のある『その部分』を意識しないようにすればするほど、体が固まってくる。
ひでえ泥沼だ、天国と地獄が同時にやってきてるんじゃなかろうか……。
俺の一部が元気にならないよう自制心をフルに働かせてるが、いつまでもつんだコレ。
前屈みになったら最後だな、間違いなく。
他の事考えて誤魔化そうにも、内容が全部黒猫の方に向いちまう。
……やっぱ、軽いわこいつ。柔いし。
ぐああ……、心臓がバクバクいってるよ。俺の。
その、体温が、吐息がこうね? 背中とか首筋に当たると言いますか。
役得だなんて思う余裕もない。
「……キモ。未練タラタラじゃん」
そんな事ちっとでも考える余裕ないよ!
マジで一杯一杯です。
……なんて、流石に妹の前じゃ言えねぇし、だったらまだそう思われてた方がマシだよな。
やぶれかぶれで声を荒げてやる。
「うっせぇな、仕方ねぇだろ!」
しーっ、と指を口に当てて、親の仇でも見る様に視線で刺しやがる桐乃。
ギロリって音が聞こえたね。
この眼はマジだ。殺気が篭ってやがる……!
……いやまあ、今のは俺に配慮が足りなかったな、うん。
別に妹にビビっただけじゃなくて、本気で黒猫に悪いと思ったんだよ。
だから、声をひそめて妹に話しかける。
桐乃と話してないと思考が変な方向に行きそうだし、な。
「……今日は一緒に遊んでたのか?」
誰と、とは聞かない。
見てるこっちまで和んでくる寝顔を晒してる背中の生き物が、まるで返事をするかのように小さく寝言を漏らした。
なんて言ったかは聞き取れなかったけど、随分と安心しているみたいで。
「まーね。つっても、こいつ家来てすぐこーなっちゃったんだけどさ」
……ここんとここいつ、ずっと無理してたろうしな。
普段からやってるであろう、日向ちゃんと珠希ちゃんの世話に、バイト。
加えて夏コミの準備や瀬菜達とのゲーム作り、引っ越しや転校に……“儀式”まで。
そこまでさせちまった俺が言うのもなんだけど、もう少し自分を大事にして欲しい。
「……ったく、馬鹿じゃん?
ただでさえガッコ帰りなんだから大して遊べるわけでもないのにさ。
寝ちゃったらここまで来た意味ないと思わない?」
「あのな、忙しい時間を縫ってわざわざ遊びに来てくれた友達相手にその言い方はねぇだろ」
言いつつも、俺は口の端がニヤついてるのを自覚する。
口にしてる内容は毒づいてるのに、桐乃の口調そのものはめったに聞けない優しさの篭ったものだったよ。
「……だったらさ、あたしとの約束なんかよりも自分のことを優先すりゃいいでしょ。
引っ越しとかで疲れてるんだったらゆっくり休めばいいじゃん」
「ふぅん……」
「……何ニヤニヤしてんの? 言っとくけど、この事こいつに話したりしたら死なすから」
「ヘイヘイ、了解」
へっ、んな本気で心配してる表情されたら笑いたくなるのも当たり前だろ。
……あれ以来、桐乃も少し変わったのかもしれない。
「ムカつく。その顔、絶対分かってないじゃん」
「んなことねーよ」
それきり2人とも何も言わず、ただ階段を上がり続ける。
……3人でいるにもかかわらず、こんなに静かで心地よかったのは初めてかもしれない。
まるで黒猫と2人でいるときの空気を、桐乃とも共有できているようだった。
貴重な時間の気もする。けれど、これからは……貴重じゃなくなる気もする。
ただ、一番最初の経験は二度と味わえない、という当然の真理を考えるなら。
今は、間違いなく大切で、貴重なんだろう。
沈黙を保ったまま、最後の一段を昇り切る。
桐乃が自分の部屋のドアを開けて、言葉もなく顎でベッドを示した。
無言で頷き、俺がゆっくりと眠り姫を下ろしていくと、
それに合わせて桐乃がベッドの掛け布団を剥ぐ。
似てないとこだらけの兄妹だけど、こういう時だけ気が合うのな。
そのまま静かに寝かせて、一息。
……背中が急に冷えたように感じるな。
桐乃に後ろから抱き締められた時初めて知ったけど、人肌って、暖かいんだよな。
名残惜しいって、そんな気持ちが湧くのを自覚する。
そんなガラでもないセンチな気分に桐乃も感染したのだろうか。
ぽつりと零れるように、呟きが耳に届いた。
「……あたしより、さ」
「ん? どうした?」
……珍しいな、こいつがこんな年相応っぽい表情をするのは。
「あたしよりさ……、ちっこいんだよね、こいつ。年上のクセに」
「まあ……、そうだな」
本当、小さい体で黒猫はどれだけ頑張るつもりなんだろう。
さっき背中に背負ったら、想像に違わず華奢で細かった。
すぐにでも折れちまいそうなくらいに、だ。
「……普段はさ。全然そんなコト意識しないんだけどね。
一つしか違わないんだよね」
一つしか違わない、と、そう自然と口にした桐乃。
それは黒猫をもっと年上の存在みたいに感じてるって事なんだろうか。
年上だってことを意識しないと、直前に言ったばかりの台詞とは矛盾している。
矛盾しているが――、不思議と、俺には納得できたよ。
気弱で臆病なくせに面倒見が良いから、ついつい甘えたり頼りたくなっちまう。
……沙織とは別のベクトルで、俺たち兄妹はこいつに世話になりっぱなしだ。
盗作騒動の時も、桐乃を連れ戻した時も、偽彼氏の時も、……この前の事だって。
「借りばっかり作ってくれちゃって。
……いつか返させないと、承知しないかんね」
――ああ、まったく同感だよ。
そう心中で呟いて、視線を上げる。
と、なぜかこちらを見ていた桐乃がプイと目を逸らした。
「……どした?」
「……別に?」
なーんか、気持ち悪ぃーな。
さっきから不自然な言動や態度が目につくけど、やっぱ俺、こいつの気に障る様なことしたんだろうか?
「今日のお前、なんかはっきりしねぇな。
変なもんでも食ったのか?」
「ちょ……、どういう意味だっての」
一瞬大きな声をあげかけたもののすぐに口で手を覆う桐乃。
こいつなりに黒猫を起こさないよう気を使ってるのか、台詞の後半は全然勢いがない。
肩をいからせ、苛立ったように、あるいは呆れたようにこっちをジッと見てくるが――、
「はあ……、まあ、いいや」
唐突にそんな事を言って、立ち上がった。
なんだ?
「……あのさ、あたしちょっと出かけてくるから」
「友達が来てるのにそれはどうかと思うんだが」
挙動が不審すぎる。
そういやこいつも女の子なんだよな、そういう日って事、か?
下ネタだから口にはしねーけど。
まあ、こいつの気まぐれには慣れっことはいえ、一応言う事は言っとく。
わざわざ会いに来てくれた黒猫ほっぽってどっかに行くのはさすがに、なあ。
「ちょっとコンビニで買いたいものがあるだけだって。
なのにこいつ寝ちゃうからさ、さすがに家に一人置いて出てく訳にもいかないし。
……あんたがいるならまあ、こいつだって納得するでしょ」
理屈として通ってるような、通ってないような……。
どうせ突っ込んだところで逆ギレされるのが目に見えてるから、ひとまず頷いておくけどさ。
「……まあ別にいいけどよ。それで?」
「それで……、あのね。あたしが出てったらあんたたち二人きりになるじゃん。
ちょっとでもこいつと乳繰り合ったら、マジブチ殺すから」
物騒だな! 頬が引き攣りそうだ。
どっかの誰かさんと言動がダブッてるぞ桐乃……。
お前まであいつみたいにはならんでくれ、頼むから。身がもたん。
「お前……、まさかあやせ菌に感染したのか?」
「は、はあぁぁっ!? ちょ、あたしはあそこまで酷くないっての!
……うん、ちょっと過激過ぎたかもしれないけど……」
本気でしょげんなよ……。
しかもそれ、遠まわしにあやせがヤバいって認めてるよね?
前にも頭おかしいとか桐乃に言われてたし、あいつもいよいよ本性を隠せなくなってきたのだろうか。
うちの妹が洗脳されないことを切に祈るぜ。肉体的に危険すぎる。
「とにかく! 30分くらいで戻ってくるとは思うケド、絶対に……その、
……なコトは許さないって言ってんの! んじゃ、行ってくるから!」
大股で分かりやすく不機嫌をアピールして、逃げるように桐乃が部屋から出て行く。
一切音を出さずにドアを叩きつけて閉めるなんて、器用なもんだ。
「……おー、いってら」
聞こえてるかも不明だが、一応、背中に声を掛けとく。
がくりと肩から一気に力が抜ける。
なんか、疲れた。
ちら、と、背後を見る。
そこには幸せそうに枕を抱えてる黒猫が。
……桐乃め、あんなこと言われたらかえって意識しちまうじゃねーか!
どうしようどうしよう、いやどうかしちゃいけないんだけど!
しかもさ、さっきの桐乃のあの態度。
まさか、俺と黒猫を二人きりにするため、とかじゃねぇよな?
……ねーとは、思うけど。
もしそうだったなら、帰ってきた桐乃をどうやって迎えりゃいいんだよ。
何を話しても白々しくなりそうだ。
くそ、厄介な宿題置いてきやがって……。
「はー……」
本日何度目かの溜息だ。もう数えるのも面倒くさい。
がりがり頭を掻くけど結局そんな事をしたって何が変わるまでもなく。
……気付いたら、黒猫の寝顔を見つめてたよ。
邪な気持ちもまあ、たぶん最初はあったと思う。
けど、こいつの無防備すぎる姿を見たらそんな気はさっさと無くなっちまった。
……こんな顔されたら、イタズラだってできねぇよ。
聖天使、なんて随分イタい自称だと思ったけどさ、今のこいつの顔は、その二つ名に見合うだけの事はあると思う。
……どんな表情かって?
悪いがそれは、俺と桐乃だけのもんだ。あんたらにだって、見せてやるつもりはないね。
白くて柔らかい肌と、絹の様に滑らかな黒髪。
あらためてじっくりと見ると、やっぱり黒猫は信じられないくらいに可愛い女の子だった。
……こんな子が俺を好きだと言ってくれて、あんなにも一途に真っ直ぐ求めてくれて。
恋人に、なって。
どんな奇跡だって言いたくなる。俺なんかには、普通だったら全く縁のない話だ。
なのに俺は、ちゃんと向き合ってやることさえ、できなかった。
「…………」
ごめんな、と口にしようとしたけど、やめた。
こいつに対して掛けるべき言葉はきっと、そんなんじゃない。
それに、ごめんなんて言ったら、きっと別の意味で取って泣かせてしまうだろう。
……黒猫に伝えたい言葉は今の俺には見つからないし、その資格もきっとない。
だけど、いずれ必ず向き合いたい。
もしかしたらその時は、俺の選んだもの次第で、彼女を泣かせてしまうかもしれない。
それでも、こいつから逃げる事だけはしたくないと――そう思う。
だから、今言えるのはこれだけだ。
「……待っててくれ」
……未来のことなんて、まったく分からないけれど。
こいつが笑ってくれてたらと、今の俺は思う。
その気持ちだけは嘘じゃない。
静かに手を伸ばして、寝返りを打った黒猫の髪の毛を払う。
この寝顔が毎日傍にあるのなら、きっとそれは幸せなんだろうと想いを馳せて。
……結局まあ、その後に話して面白いようなことはなかったよ。
最後までずっと黒猫は起きないままだったし、帰ってくるなり妹サマは俺の脛けたぐって、
「何時まで妹の部屋に居座ってんの? 死ねッ、シスコン!」
だとよ。
ケッ、黒猫と二人きりの時間を作ってくれたんじゃ……なんて一瞬でも考えちまった自分が恥ずかしいぜ。
渋々自分の部屋で勉強に勤しませてもらったよ。
強がりじゃなく、充実した勉強時間だったさ。
黒猫は黒猫でだいぶ遅くまで眠っちまったらしく、ものすごい勢いで帰ってったらしい。
らしい……ってのは、結局まともに挨拶もできなかったからで、俺の部屋には帰る時のドタドタと慌ただしい足音しか聞こえてこなかった。
寂しいっちゃ寂しいが、日向ちゃん珠希ちゃんの世話とかあるんだろうし、これはまあ……、仕方ないな。
わずかな時間しかないのに遊びに来るなんて、あいつもホント桐乃が好きだよな。
妹相手に嫉妬するってのも情けないが……、勘弁してくれ。このくらいは許されるだろ?
まあ、そんな訳で今日は別にこれといって何があった訳でもないんだが、
俺たちの間の以前よりも近い距離を確認できた……、のかもしれない。
気のせいかもしれねーけどな。
まあ、こんな感じで最近の俺たちはやってる。
これからどうなるのか、どうしていきたいのか。
正直俺にはまだまだ五里霧中だけど、どうにかしていきたいのは本当だ。
……いつか、きっと。答えは出ると思う。
その時に、皆が幸せになれる選択をできればいい。
今日の何でもない出来事は、そう俺に思わせてくれたよ。
* * *
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……今日はその、すぐに寝入ってしまってごめんなさい。
申し開きのしようもないわ。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
ちょ、そんなかしこまられたらこっちだって困るじゃん。
名前欄だってあんたをおちょくってやるつもりでこうしたのにさ、あたしが空気読めてないみたいつーか。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……でもわざわざあなたの部屋まで連れて行ってもらって、ベッドまで貸してもらったし。
自己管理ができてなかったのは事実だもの。
友達の家に遊びに行ったのに、惰眠を貪るだけというのは……。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
あー、いいっていいって。
つか、あんたを部屋まで運んでったのはあいつだしさ。
あたしじゃなくてあいつに言ってやりなよ。そんくらいは許したげる。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……え、もしかして。
あなただけでなく京介も私の寝顔……、見たの?
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
……ジロジロとねぶるように見てたケド。
思い出したら滅茶苦茶腹立ってきた。
†狂気の街に舞い降りし聖天使†神猫
……っ! まだ……、そんなもの、見せるつもりなかったのに。
万死に値する……わね。
いいかしら、桐乃。あなたに相談があるのだけど。
きりりん@寝顔写真ゲット!さてどうしてやろうかwww
おっけー。あんたの希望も織り交ぜて、ちゃんどあいつに代価を払わせてやんよwww