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『呪いの果て』:(直接投稿)

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匿名ユーザー

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だれでも歓迎! 編集
昨年の6月7日は自分にとってあまりにも衝撃的な日でした。

……と書き出したところで我ながら情けなくも
愚痴ばかりが続いてしまったのでばっさりとカットしまして。

あれから1年。最終巻発売1周年を記念?して
最終巻以降の黒にゃんの気持ちと決意を題材にしたSS
『呪いの果て』を投稿させて頂きました。

この話は原作12巻後の話として拙作

『光のどけき春の日に』
『かわらないもの』

から話が続いています。

また基本的に『最終巻後でも京猫』を主軸に話を作っています。

そのような展開に抵抗のある方もいらっしゃると思いますが
それも一つの考えと、ご容赦頂けましたら幸いです。

それでは相変わらずの拙い作品ですが少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。

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見上げた夜空と海をキャンバスにして大輪の光の華が咲いていた。
それにほんの少しだけ遅れて大地に轟く咆哮。
まるで此方の世界そのものが震えるような衝撃。

視覚にも聴覚にも、そして触覚にも。
圧倒的なまでの存在を持って五感に伝わってくるその力に
寸刻、全てを忘れて魅入ってしまう。

これから迎える『運命の訣別』のことですらも。

……このまま永遠に花火が続けばいいのに。

そんな儚なくも愚かしい願いが適う道理も因果もありはせず。
一際唸り続けた炸裂音の余韻が消えると共に、本来の夜空に
相応しい静寂がその場に訪れた。

その寂寥の念を覆い隠して私は問いかける。

私にとってこの短くも輝いていた掛け替えのない日々の意義を。
それがあなたにとっても相応の価値を見出せてくれていると期待して。

あなたはいつでも私を安心させてくれた微笑みを浮かべながら応えた。

この思い出は一生忘れない、と。

私のことを……もっと好きになった、と。

先の寂しさも問いかけた緊張も、そんなものが何もかも
吹き飛ぶくらいの歓喜が私の心を一瞬で支配する。

私と同じ想いを抱いてくれていたことだけでも十分だというのに。

あなたの私に対する気持ちを、初めてはっきり告げてくれたから。

その気持ちに正直に、あなたの胸に飛び込んでいけるなら
どれだけ素晴らしいことなのでしょうね。

でもそれは許されない。誰でもない私自身が許すわけにはいかない。
全ては目指すべき未だ遠き『理想の世界』のために。

その代わりにと私もあなたに向けた初めての言葉を口に出した。
あなたへの溢れる想いと感謝をあなたの真名によって告げることで。
浮かべた微笑みはどこかぎこちなかったかもしれないけれど。

そしてあなたが次の『儀式』を訊ねたとき。
私は震え出す手を満身の力で抑えつけ『運命の記述』の一節を指差した。

--『先輩と、別れる』

この時のあなたの呆然とした顔も、きっと私は一生忘れないでしょう。
今日この日の思い出と共に。私自身の罪を記憶に刻み付けるために。
後悔、慙愧、呵責、悲愴、愁傷、哀惜、その全てを
自らの責と余さず受け止められるように。

その決意も覚悟もずっと前から心に誓って来た筈だけれど。
それなのにどうしてこんなにも心が引き裂かれるように痛いのだろう。
溢れそうな涙を必死に堪えなければいけないのだろう。

『さようなら、先輩』と、私は別れの言葉を搾り出した。
それは文字通りの別離の挨拶。

これがあなたと交わす最後の言葉になるのかもしれない。
そう思うだけで膝が震えてその場に崩れ折れそうになる。

そんな気持ちから逃れるように。
いえ、むしろ。その感情に全てを任せられる場所に行くために。

私は早足でその場から離れる。そうでなければ、ここまで懸命に
お膳立てたものを、自身の手で全て台無しにしてしまうでしょうから。


それなのに。そのはずだったのに。

もはや駆け足になろうとしていた私の身体は
不意に後ろから抱きしめられてその動きを止めた。

それが誰なのか、なんて振り返るまでもなかった。
もっとも、あなたに今の私の顔を見せるわけには
いかなかった事もあるけれど。

「待ってくれ、黒猫!ちゃんと、ちゃんと説明してくれ!!」

ここまで全力で走ってきたのだろう、荒い息をつきながら
あなたは必死な声で私にその真意を問い質す。

「……説明?あの『記述』を見た上で、さらに説明までしないと
  あなたはどうすればいいのかわからないというの?
  『儀式』でもなんでも、私の望みを適えてくれるのでしょう?」

でもそれに素直に応じるわけにはいかない。
ここでその理由を話してしまっては意味がないのだから。
あなたと桐乃が自分自身の、そして互いの本心と
虚飾なく正直に向き合えるようにするためには。

私は声だけでも普段通りの調子を取り繕えるように
『マスケラ』を被りながら応えていた。

「違う、そうじゃない!
  お前が何の意味もなくあんなことを書くわけがないだろ!!
  だから、その言葉の意味を、本当の理由を聞かせてくれ!!
  そうじゃなきゃ……そんなこと俺には絶対に出来ない!」
「……痛いわ、そんなに力を入れて掴まないで頂戴」
「駄目だ!お前に理由を聞くまでは放せない!」

先輩は一層腕に力を込めて私の身体を抱きしめ続けた。
その強さと震える腕が、あなたの偽らざる気持ちを伝えてくる。

大切な人のためならなりふり構わないけれど
自分のことにはてんで頓着せずにいい加減なあなたが
まさか私にここまでの気概を見せてくれるなんて。

そう思った途端、精一杯の虚勢を張っていた気持ちも
被りかけた『マスケラ』も音もなく崩れさってしまった。

こうなることも見越した運命の範疇ではあった。
だから、そのための対応も振る舞いも何度も繰り返して
シミュレートして今日この場に臨んだというのに。

それは……なによりも嬉しかったから。
あなたの気持ちがそんなにも私に向いていてくれたことが。
私のことをそこまで信頼してくれていたことも。

そしてそれに絆されて、用意した布石も何もかも
投げ打つほどに心動かされてしまった自分自身にも。

我が事ながらその気持ちが予想外で不思議で……安心した。
あなたの気持ちに応えてもいいのだと思えたことが心の底から。

「……ええ、わかったわ。全てをあなたに話すから。
  まずはその……あなたも手を放してくれないかしら……」

自分の気持ちに正直になった途端、背後からあなたに
力強く抱きしめられていることがどうしようもなく恥ずかしく思えてくる。
唯でさえあなたに今の私の顔を見せられないというのに
ふら付くほどの熱が顔中を覆ってきっと真っ赤になっているでしょうね。

「あ、ああ、すまん!そのこれは!
  決して、疚しい気持ちがあったわけじゃなくてだな」

私の言葉で漸くあなたも我に返ったのでしょうね。
あたふたと慌てた様子で的外れな言い訳をしながら
両腕の拘束を解いて、私からそそくさと身体を離した。

あなたの暖かさが背中から離れてしまうことに名残惜しさを感じながらも。
いつもの調子に戻ったあなたに、私の心も不思議と落ち着いてくれた。

なるべく目立たぬように右手で顔を拭ってから私は振り返える。
あなたはいまだに落ち着かないようだったけれども。
その瞳にも表情にも私に向けられた不安と心配とが見て取れる。

でもそれでも。私の次の言葉を黙って待つあなたの誠実さが嬉しくて。

「じゃあ聞いてくれかしら、先輩。
  何故私があなたと別れなければならないのか。
  私があなたに告白して今日まで付き合ってきたその真の意味を。全て、ね」

私はそこで一度言葉を切って、目を閉じると昂ぶった感情を一旦落ちつかせた。

『運命の記述』に記された『儀式』を執り行った先にある『理想の世界』。
そこに至るための真理を余すことなくあなたに伝えるために。



    *      *      *



次に目を開いた時に、私の視界に入ってきたのは
夏の夜の花火会場でも大切な先輩の姿でもなくて。

毎日のように見慣れた自室の天井だった。

最近はこんな夢、見なくなったと思ってたのに、ね。
昨日あんなことがあったからかしら。

文字通りの苦笑と溜息とが胸の内より込み上げてきた。
あれからすでに2年近くの月日が経っているというのに
いまだに自分はそれに囚われてしまっているのかと自嘲して。

あまつさえ、あの時の己の取った行動を棚に上げて
その被害者と言うべき先輩にふてぶてしくも救いを求めようだなんて。

先刻まで、あれほどに胸を占めていた高揚も歓喜も
すべては己の弱さの作り出した泡沫の幻だった。
けれど、それと気が付かされた後に残るこの遣る瀬無さや喪失感、
自嘲や侮蔑の負の感情たちは紛れもなく現実となって私の心を苛んでいる。

もっともそれこそが自らが仕組んだ罪故の罰でもあるのかもしれない。
私自身が己を赦せるようになるその日まで、もがき苦しみ嘆き憂い悔いる。
それでこそ今の我が身に分相応というもの。

この呪われし闇に囚われた忌むべき存在の今の私には。
望んだ願いの代償を粛々と履行すべき立場の己には。

何かを強く願う時。その想いが強いほどその影響力もまた力を増す。
元の願いの成就だけに留まることなく、その因果の律によって。

そして『願い』とはその強さだけでなく
もたらす結果の指向によって『祝い』か『呪い』として顕現する。

今の私は文字通りの『呪い』を願ったものなのだから。
親友とその兄との関係を強引に掻き乱し、望みを叶えようとしたのだから。

……『人を呪わば穴二つ』とは本当、よく言ったものよね。

ましてや相手の生涯を左右するような『呪い』をかけたのならば
その負債もまた己の生涯をかけることになるのが道理というもの。

私の願いを遂げる為に『約束の地』で先輩の右頬に込めた呪詛の力は
『審判の日』に私自らの手で解放してはいたけれど。

それ故自身に還ってきた返呪は、今でも私を呪い、蝕み続けている。

それでも、この痛みこそ、私が私である証。

そう自分を鼓舞して昏く澱んだ心と身体をも覚醒させた。

今更痛みを恐れて歩みを止めることなどできはしない。
この痛みの先にこそ、私が目指す頂きがあるのだもの、ね。



    *    *    *



起き出してからはいつものように、颯と家族の分の朝食の用意を済ませると
自分の朝ごはんを急いでお腹に詰めてから、準備もそこそこに家を後にした。

普段なら通学、通勤で騒々しくも活気に満ちた駅への道も今は日曜日の早朝。
ジョギングや犬の散歩をしている人がまばらにいるだけなのが
少し物寂しい気持ちを抱いてしまう。

……いけない、着くまでにはこんな感傷を切り替えないと

私はそんな気持ちを振り切るように、何時しか小走りになって駅へと急いだ。
そして新京成線の電車に乗って津田沼まで移動してから
総武線に乗り換えて千葉へと向かう。

引っ越す前には私の地元でもあった慣れ親しんだ千葉の街。
その頃も、そして引っ越した後になっても何度も歩いた道を辿りながら
私は目的の場所に約束の時間通りにたどり着いた。

念のため呼び鈴を押すものの、予想通りに反応はない。
ご両親は夫婦で旅行。桐乃は昨日と同じく陸上の大会に出かけている。
そして唯一人在宅のはずの今の先輩に無理に応対されても
困るのだからそれで良いのだけれども。

私は桐乃から聞いていた通りに、玄関脇においてあった
如雨露の中から合鍵を取り出すとドアを開けて高坂家の中に入った。

「おじゃまします」

誰も応える人はいないと判ってはいても
一応の礼儀の言葉を口に出して私はひとまずリビングに向かった。

案の定、誰もいないリビングのテーブルには
桐乃からの置手紙が用意されていた。

まったくメールで十分でしょうに。

そう思いながらもそれが桐乃の偽らざる
気持ちの表れだというのも勿論のこと理解している。

あの娘は普段の自信に溢れた姿からは想像できないくらい
予想外の事には時に脆さを見せることがある。
昨日のことでも相当精神的に堪えている筈。

それでも自らの成すべき事を見失わずに
気丈にも後事を私に託して『戦いの場』に赴いたのは
さすがは我が宿敵たる『熾天使』というべきでしょうね。

『今日1日、兄貴の事は瑠璃にお願いするから
  あいつが無茶しないようにしっかり見張っていること!
  あたしが帰ったときに何か問題が起きてたら承知しないかんね!!』

ええ、わかっているわ、桐乃。あなたの期待に間違いなく応えて見せる。
だからこちらのことは心配しないであなたは自分の戦いに集中なさい。

一通り置手紙に目を走らせてから私は天を仰ぐと
決戦の地に身をおいてなお、兄のことが心配で堪らないであろう
健気な妹に向けて精一杯のエールを送った。



    *    *    *



桐乃に昨晩チャットで教えられてた通り、冷蔵庫に残っていた
食材を使って、先輩の朝食の用意をしていたのだけれども。

2階のほうからなにやら物音がしたかと思ったら
ドアの開く音に続いて、ゆっくりとした足取りで
1段ずつ階段を降りてくる響きが伝わってきた。

すぐに手助けに行くべきかしら、とも思ったけれど。
結局私の身長と非力さとでは、ほとんど役に立てないと判断して
大人しくそのまま料理を続けることにした。

「すまんな、黒猫。こんなに朝早くからわざわざ来て貰って」

リビングに入ってくるなり、先輩は本当に申し訳なさそうな調子で
キッチンにいる私に向けて謝罪の言葉を口にしていた。

「朝の挨拶は、すまん、じゃなくて、おはよう、でしょう、先輩。
  それに昨日3人で約束した通りのことなのだから
  いい加減、そう何度も繰り返し謝られてもこちらも困ってしまうわ」

小皿にとったスープの味見をしながら私は応えた。
実際に先輩の姿は見えているわけではないけれど、痛みを堪えながら
こちらに向けて頭を下げている先輩の姿がありありと想像できるもの。
まったく私に対してそこまで他人行儀に謝られるのは心外というものよね?

「ああ、そうだな、おはよう、黒猫、ってて」

笑い声と共に朝の挨拶、そして最後には痛みを訴える声も混じっていた。
きっと笑ってしまったのが怪我に響いたのでしょうね。

「おはようございます、先輩。もう少しで朝ごはんも出来るから
  先輩は椅子にでも座って大人しく待っていて頂戴」
「ああ、そうするよ」

これ以上先輩に余計に痛い思いをさせないようにとそう諭す。
下手をすると用意を手伝うとかいいかねない、と思ったのだけど
思いのほか大人しく従ってくれたようだった。

先輩はリビングでTVを見始めたようだったので私も朝食の仕上げに専念した。
こちらに漏れてくるTVの音声とキッチンで私の扱う包丁の音、
そしてスープをコトコトと煮ている音だけがこの場を包んでいる。

そんな静かで穏やかな雰囲気がとても心安らぐ感じがしている。
先ほどまで料理をしていたときとなんら変わらないはずなのだけども、ね。
それは先輩と私の、言葉はなくとも暖くてくすぐったくて
落ち着くようなあの感覚に似ている気がした。

それに……改めて考えてみれば今の状況はまるで。

そう思った途端に、沸騰していたヤカンに負けないくらいに
私の頭からもぼふっと蒸気が立ち昇ってしまっていた。

まったく自分は桐乃に余計な心配をかけないようにここにきているというのに。
ましてやあんな夢を見た後に、我ながら不謹慎極まりないというものだわ。

私は慌てて頭を振って、余計な雑念を追い払った。

暫くそうしているとようやく顔の熱も取れて落ち着いてきたけれど。
口元に浮かんでいた笑みは変わらずそのままだったかもしれないわね。


「さあ、お待ち遠様、先輩。食欲はあるのかしら?」
「大丈夫だ、黒猫。昨日はなかなか寝付けなくてぼーっとはしてるけどな」

確かに言葉の通りに普段より眠そうにぼんやりとした様子だったけれど。
逆に言えばそれほど痛みもないようだから一安心というところかしらね。

「そう、じゃあひとまず朝ごはんを食べたら薬を飲んでまた休んでいて頂戴」
「悪いけどそうさせてもらうぜ、こんな調子じゃ
  俺が起きていてもお前に気を使わせてしまうばっかりだしな」

相変わらず自嘲じみた台詞を漏らす先輩。
まあ気持ちは分らないではないけれどもね。
怪我や病気をしたときは気分も落ち込んでしまうものだし
人に面倒を見てもらわなければならないことが気にかかるのでしょうね。

それでもこんなときくらいは、少しは人の好意を
素直に受け止めてもいいと思うわ、あなたは。

「そう、なら桐乃が帰ってくるまでの間は
  私は部活の作業や勉強をしているからこちらの心配は無用よ。
  何かあればあなたの机を借りているから声をかけてくれればいいわ」

私は炒飯とスープをテーブルの先輩の前に並べてスプーンを差し出した。
昨日、左鎖骨を骨折してしまった先輩は左手は使えないのだけど
このメニューならスプーンだけでも問題なく食べられるでしょうから。

鎖骨の骨折なので腕のようにギブスをしているわけではなく
先輩の姿はTシャツに短パン姿で一見何事もないように見えるけれど。
シャツの下では鎖骨バンドと呼ばれる特殊なバンドを使って
骨折した箇所がずれないように固定しているらしい。

とはいえ、やはり身体が動けば患部に痛みは走るものらしく
ましてや骨折した側の左腕を動かしてしまうわけにはいかないとのこと。
ゆったりとした動きしかできず、ましてや片腕一本では
日常生活にしてもかなりの支障がでるわけだけど。

だけど間の悪いことに今週末は先輩のご両親は旅行で出かけているし
桐乃もまた昨日に引き続き陸上の大会で先輩を看護出来る人がいなかった。
だから昨日、桐乃の応援に先輩と一緒に行っていて
その現場に出くわした私が、先輩の世話をかって出たのだった。

だってそうでもしないと自分をかばって骨折した先輩のために
桐乃が陸上大会を棄権しかねない剣幕だったから。

それに。桐乃が無事に大会に出場したとしても。
先輩を放っておいたらその身体で桐乃の応援に行きかねなかったもの。

まったく、どれだけシスコンでブラコンなら気が済むのよ、この兄妹は。
なんて悪態をつくのも、いい加減にうんざりするくらいだけれども。

もっとも、そんな2人と十分に判っていて、だからこそ
これからもずっと一緒にいるのだと自らに誓った私が
そんなことを言える筋合いでもないのでしょうけど、ね。

それにむしろそれこそが、私の真に望む世界への道標となるのだから。


「さんきゅ。そういや、お前の分はいいのか?」
「私は自分の家で朝ごはんを済ませてあるからお茶だけ頂くわ。
  先輩は朝はいつもコーヒーのようだけど、一説によるとコーヒーは
  利尿作用でカルシウムが排出されて骨密度が下がるとも言われているわ。
  対して緑茶に含まれるフラボノイドは骨を強めてくれるから
  せめて完治するまではこういう緑茶のほうがいいのかもしれないわね」

私は2人分の緑茶を急須から湯飲みに注いで私と先輩の前にそれぞれ置いた。
先輩は私の口上にへぇーと感心しながら湯呑を持って
早速とばかりにお茶を一口啜った途端に。

「あちち、っててて」
「ほらほら、入れたばかりなのにそんな無造作に飲むからよ。
  普通の煎茶は熱めの温度のほうが程よく渋みが出せるのだけど……
  ごめんなさい、あなたには一言注意しておくべきだったわね」

お茶の熱さに慌てて口を離した先輩はその勢いが患部に響いたのでしょうね。
熱さと痛みを堪えて顔をしかめていたので、私が慌てて湯呑を受け取ると
苦しそうに左手で右肩のあたりを押さえていた。

「いや、俺がうっかりしてただけだって。
  それにしても、こんな有様になると普段の五体満足の身体が
  どれだけ恵まれているかってつくづく実感するよな」
「そうね。蒙昧な人間風情では事の本質を理解しているつもりでも
  実情を伴わなければ体感できないのは無理からぬ事。
  精々良い機会と思って失ったものの有難味とその意義を
  存分に噛みしめておくことね?」

元々普段は覇気とは縁遠いようなあなただけれども。
いつにもまして自嘲気味な先輩の物言いに内心溜息を付きつつ
私は『夜魔の女王』としての台詞で発破をかけてみた。
それで少しでも普段の調子に戻るといいのだけれども。

「そうだな……前にも何度も思い知ったはずなのにな。
  それでも繰り返しちまうのがやっぱり人間風情の
  愚かなところなんだろうよ」

でも私の思いとは裏腹に、先輩はどこか遠い目をしながら
そんなことを呟くように言っていた。私の想像している以上に
怪我で感傷的になってしまっているのかしらね。

「まあ、それでも今回は名誉の負傷というものでしょう。
  あの時のあなたは桐乃に勝るとも劣らない速さだったわよ?
  さすが妹のためなら人生だって投げ出せるお兄さんね」

それならと別の切り口から攻めてみたのだけれど。
最後の言葉に自分でも予想外に棘が込められてしまったのは
私自身も今朝の夢見のせいで感傷的になってしまっていたから。

「その結果がこの様なんだからなぁ。
  本当、俺達は黒猫にはずっと迷惑かけっぱなしだよな。
  おまえにはいくら土下座しても謝り足りないくらいだぜ」

……それはどのときのことなのかしら、ね、先輩?

「そんなに畏まらないで、と何度言ったらわかるのかしら?
  今度謝罪を口にしようものなら、今日1日、あなたから執拗に
  ハラスメントを受けた、と桐乃に報告させてもらうわよ」
「すまん、俺が悪かった!……っていまのはノーカン……だよな?」
「クククッ、今やあなたの命運は我が胸三寸次第、ね。
  まあ、あなたの名誉の負傷に免じて今のは無効にしておきましょう。
  寛大なる『夜魔の女王』の裁定に感謝することね?」

私は『堕天聖の見栄』を切りながら女王に相応しい不敵な笑みを浮かべた。
まったくこれであなたにかける慈悲は何度目かしらね?

「……ん?感謝はしていいのか?」

……いけない、そこは盲点だったわね。

「そ、そうよ、下賤に卑屈に塗れた態度で謝るのではなく
  威風堂々と礼を尽くしてこそ相手の心にも届くというもの。
  それならば『女王』として止ん事無く受容もしましょう。
  ……もっとも、時宜は弁えなさいよ?」

慌てて言い繕うものの、先輩は込み上げる笑いを
必死になって堪えているようだった。

「……わかったよ、それじゃあまずはこの朝飯分、な。
  ありがとう、黒猫、早速食わせてもらうぜ」

堪えた分をそのまま解き放ったかのような晴れやかな笑顔になって。
先輩は私に優しく感謝の意を表してくれた。

「ええ、精々怪我がすぐ直るように、たんとお食べなさいな」

その笑顔にすっかり毒気を抜かれてしまったから
私も片意地を張るのはそこまでにしておいた。
だって私だけ意固地になっていても虚しいだけだもの。

まったく、その時に至るまでは、と、私は常々『妖気の障壁』を
張り巡らして用心してあなたと接しているというのに。

あなたはいつのまにかそこにいるのが当たり前な態度で
障壁を無力化してその内に入り込んで来てしまうのだから。
それもあなたが無意識な分、本当に性質が悪い事だわ。

だからもうそれもあるがままに受け入れましょう。
それも返呪によってこの先も我が身を焦がされ続ける
私の宿命というものでしょうから、ね。



    *    *    *



先輩は朝食を食べ終わり、処方されていた薬を飲むと
自分の部屋に戻っていった。私はその間に、台所の洗い物や
2人の洗濯ものを片付けてから先輩の部屋に向かった。

改めて考えてみると、高坂家に遊びに来る機会はここ最近でも
何度もあったのだけれども。それでも先輩の部屋に入るのは
先輩と付き合っていたとき以来、2年振りくらいになるのかしら。

そう思うと得も言われぬ感覚に囚われてしまい。
思わずドアの前で襟を正し、2度ほど深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

漸く意を決した私はなるべく小さ目にドアをノックしたのだけど
幸か不幸か中からの返事はないようだった。肩透かしを受けた気分で
先輩の部屋に入ると、案の定、すでに先輩はベッドで眠りに落ちていた。

鎖骨の骨折の場合、身体を完全に水平にしてしまうと負担がかかるらしく
上半身側にさらにマット積んでスロープ状にして、身体を半ば起こした
椅子にもたれているような体勢になっている。

確かにこれでは昨夜寝付けなかったというのも頷ける。
慣れないとこの体勢でなかなか熟睡なんてできないでしょうから。

それでも昨夜の寝不足のおかげなのでしょうね。私が先輩の部屋に
来るまでの20分もしないうちに睡魔の虜になっていたのだから。
でもその方がきっとよかったのかもしれない。

先輩にとっても。そして私にとっても……かしらね。

私は家から持ってきたキャリィバッグの中から
愛用のノートPCを取り出すと、先輩の机を拝借して
まずは部活で作成中のゲームのスクリプト書きに取り組み始めた。


……ふぅ

何度目になるのかもはや数えることすら放棄した溜息が漏れた。

すでに時刻は正午を回っていたけれど、未だ先輩は目覚めていない。
おかげで作業時間はたっぷり数時間は確保出来ていた、はずだった。

私の最たる長所は一所に打ち込む集中力だと自負しているのだけれども。
一向に進んでくれない作業の手がそんな自尊心を嘲笑うかのようだった。

理由は明瞭にして単純だった。いざスクリプトを打ち始めても
作業の合間合間に雑念が湧き出てはすぐに頭を埋め尽くしてしまい。

気がつけばモニタではなく先輩の寝顔ばかり見ていたのだから。

いったい誰が先輩が寝ていたほうがよかった、なんて思ったのかしらね。
これなら先輩と雑談でもしていた方がまだ作業は捗ったかもしれない。

それにしても、随分と寝苦しい体勢でしょうに
無邪気なくらいに安らいだ寝顔で眠り続けている先輩は
この世知辛い世の柵から全て解放されたかのような穏やかさを感じさせる。

……まったく、私はこんなにも頭を悩ましているというのに。
あなたは随分とのんきなことよね。その能天気な寝顔が羨ましいわ。

そんな八つ当たりだと分りきっている事でも、次々と頭に浮かんで来てしまう。

現状の指針、これからの自分の進路、その上で目指す私の真の理想。
私は確固たる想いでそれらを自らに誓い、その実現に向けて
私なりの全力を尽くすつもりではあるけれども。

『此方の世界』の仮初の身では、この脆弱たる身体だけではなく。
本来は魔王の位階にあるはずの我が『魂魄』ですら
人の領分の制約を受けざるを得ない、ということかしら。

そうでなければ、こんなにも覚束無くて、遣る瀬無くて、心憂い。
そんな気持ちとは無縁でいられるはずなのでしょうから。

それに、本当に私の目指す理想が、あなた達の望みと重なりあえるのか。

その自負がないわけではないのだけれども。
私やお父さんとあなたがかわした約束も。
互いの想いが通じあったのに期間限定だったあなた達の恋人関係も。
桐乃がその期間後でも留学を取りやめて、私の高校に入学してきた事も。

そしてあれからのあなたたちとの交流を通して伝わってくる想いにしても。
それら全てがその命題を立証してくれていると私は感じている。

それでも止め処ない煩慮が幾度となくこの呪われし心を昏く澱ませる。

そも人を呪いし者の行き着く果てには希望などありはせずに。
ただ道化の如く運命の因果に弄ばれたあげく、自らの躯を収める
墓穴しかないのが世の理なのかもしれないのだから。

……いけない、これじゃとても作業にならないわね。
お昼も過ぎた事だし先輩が起きる前に先にお昼の用意をして
気分転換するべきかしら。

そう思い立って先輩の部屋から出ようとしたそのときに。

「ぐっ、う、ううぅぅ」

背後からの先輩の苦しげな呻き声に私は慌てて振り返った。

「先輩!?だ、大丈夫なの?」
「……あ、ああ、だ、だい、じょう……ううぅ」

強がりですら最後まで口に出来ないくらいに、
先輩は痛みからか息みで顔中を皺だらけに顰めていた。

「莫迦、大丈夫なわけないじゃない!痛むのね?」
「ああ……くそっ、いてぇ……」

私は急いで机の上に置いてあった先輩の処方薬袋から
痛み止めのための錠剤を取り出し、用意しておいたピッチャーから
コップに水を注ぐと先輩の枕元に駆け寄った。

「ほら、薬よ、飲める?」

先輩の身体を左手で支えながら先輩の右手に薬を手渡す。
その際に左手に感じた不自然なほどの先輩の温もりが
かなりの発熱を伴っていると教えてくれた。

薬を受け取ったものの、今の先輩にはそれすらも
難儀なことだったのでしょうね。痛々しい程ゆっくりと
右手を口元まで引き上げて、漸く薬を口に含んでくれた。

続けて先輩にコップを手渡そうと思っていたのだけど。
今の様子に自分で飲ませたほうが早いと判断して
先輩の口に直接コップをあてがうと、ゆっくりと水を流し込んだ。

「直に痛みも薄れると思うけれど……
  あまり酷いようだったら救急車を呼ぶわよ?」
「いや……それは、遠慮……しとく、ぜ」

ある程度先輩の応えに予想はついていたものの、思わず心の中で
溜息をついてしまう。そもそもこんな怪我をしているのに
旅行中の御両親に連絡をいれてもいないくらいなのだから。

大方、さらに大ごとになって、桐乃や御両親に
余計に心配をかけさせたくない、なんて理由からなんでしょうけれども。

まったく、1度くらいあなたを心配している
人たちの立場になって、あなた自身を顧みてみることね。
2度とそんな無鉄砲なことを言えなくなると思うから。

でもそんな思いとは裏腹に私は先輩に軽く首肯して見せた。

こういう時にあなたを止めたって聞かないのはもう判りきっているもの。
ならばそんなあなたを精一杯にフォローするのが
あなたと共にある者が取りうる次善の策、というものでしょう?

「わかったわ。それならもう暫くは我慢して頂戴」

先輩はどうにか頷いてそれに応え、起していた身体を再びベッドに預けた。
いまだ先輩の顔からは苦しい様子が見て取れるけれど、痛みへの慣れなのか
それとも無理やり抑えているのか、苦痛を訴えるような呻きは止まっていた。

「待っていて、下で冷やすものを用意してくるわ」

私は1階に下りてキッチンに向かい冷凍庫から氷を取り出すと
キッチン用のジッパーに水と一緒に詰めて口をしっかりと閉じ
タオルでくるんで簡易の氷嚢をいくつか作る。

そして変えの氷嚢と新しい氷のために氷製皿に水を張って
冷凍庫に入れた後、バケツに水を十分に汲んでから
氷嚢と一緒に先輩の部屋に持って帰った。

「一度汗をふくわよ?痛かったら教えて頂戴」

熱と痛みとで、なのでしょうね。顔中に浮かんできていた大粒の汗を
身体を揺らさないよう慎重にふき取ってから、一度バケツで絞りなおして
滑り落ちない様に注意しながらおでこに乗せた。

「今度は氷嚢を当てるけれど。冷たさに驚いて
  身体を動かしてしまうと余計に痛いでしょうから気をつけて」

即席の氷嚢を、先輩の骨折した鎖骨の辺りにゆっくりと触れさせる。
ほんの少しだけ先輩は身動ぎしたけれど、特に問題はないようだった。

「……冷やすと、結構痛みも、マシに、なるんもんなんだ、な」
「そうね、怪我をすると熱が出るのも体の修復機構のためなのだけど。
  特に患部では発熱や腫れで神経が圧迫されて余計に痛みが出てしまうから
  こうして冷やしたほうが楽になるのよ。その分、治りも早くなるし」

暫くそのまま冷やし続けていると、徐々に痛みも引いてきたのか
先輩は感心したように口を開いていた。

「それにしても怪我とかにも意外と詳しいんだな、黒猫は」
「意外とはなによ……確かに私が怪我をするような事はあまりないけれど。
  日向や珠希の面倒を見ていれば自然とそんな知識も増えていくわ。
  骨折も、前に日向が腕を折ってしまった時の経験があるから」

中学になった今でもそうだけど、日向は昔から男の子のような
活動的な遊びも好んでいる。あの時も確か児童館のトランポリンで
空中3回転に挑戦していたとかで、器具の縁に腕を打ち付けて
骨折してしまったのよね……

活発で健やかなのはいいことだと思うけれど。
もう中学生になったのだからもう少し日向にも落ち着いて欲しいものよね。

「そっか……本当、いいお姉さんなんだな、黒猫は。
  俺も黒猫みたいな優しいお姉さんの弟になってみたかったもんだぜ」
「な、なななな何を言っているのよ!?あなたは……」
「いててて、黒猫、痛いって!」
「あ、ご、ごめんなさい」

と、突然妙なことをいうから思わず氷嚢を押し付けてしまったじゃない。
でも思わず謝ってしまったけれど、今のはあなたの自業自得というものよね?

それにしても……あなたが私の弟、だなんて。
逆の立場を何度か想像をしたことはあるのだけれども。
きっと日向や桐乃とはまた違った方向で、私はあなたの心配で
頭を悩ます日々を過ごすことになりそうね……

え?それも望むところなんだろう、ですって?
例え結果は同じだとしても、物事の事象というものは
それを導き出した過程やその構成要素も大切な因子なのよ。
そんな浅膚な考えでこの『夜魔の女王』の思考を推し量らないで頂戴。

「そもそも、私なんかよりあなたのほうがよほどいいお兄さんでしょう?
  大切な妹のためならこんな大怪我を負ってしまうくらいなのだから」
「そういうなよ、あんときゃ無我夢中で
  それ以外のことなんて考えている暇も余裕もなかっただけだって」
「『待て、待ってくれ、桐乃!』だったかしら?
  あの時のあなたは文字通り命がけだったのでしょうしね。
  でも本当、よくあのタイミングで間に合ったものだわ。
  さすが桐乃のお兄さん、と言うべきかしらね」
「火事場の馬鹿力、ってやつなんだろうなぁ。
  普段は勿論、あの場面を再現されてもう一度やれったって
  とてもじゃないができる自信はないぜ」
  
あの時、競技場の外の公園で3人でお昼を食べた後
桐乃がこちらを振り返りながらも競技場に駆け戻ろうとした。

ちょうどそこで施設の向こうから走ってきた作業車が
桐乃と互いに死角になっていたらしく、どちらも相手を
認識出来ていないまま、その軌跡が重なりあおうとしていた。

それに気がついた私が桐乃に必死に呼びかけたものの
私が声援を送ったものと勘違いしたのか、桐乃はこちらに
手を振り返すだけだった。

その途端、先輩は桐乃の名を叫びながら猛然と駆け出していった。
刹那の差で桐乃に追いついた先輩は、桐乃を抱きとめてると
その勢いで倒れこみ、間一髪で激突は避けられた。

先輩は身を捻って下になったので桐乃はまったくの無傷だったのだけど。
左の肩口から地面に落ちた先輩は、2人分の体重と倒れこんだ勢いとで
鎖骨を骨折してしまった。

幸い、骨折した箇所は骨のずれもなく、1ヶ月もすれば
綺麗につながるだろう、と医師には診断されている。
それでも昨日1日だけでも、骨折した生活の大変さが
先輩は身に沁みてはいるようだけれども。

「でも、私なんて車に真っ先に気がついたというのに
  結局なにも有効な行動を起こせなかったもの……
  だからあなたには本当に感謝しているわ。
  私の親友を助けてくれてありがとう、お兄さん」
「よせよ、そもそもお前が気がついてくれたおかげだろ?
  お前が教えてくれなきゃきっと俺も間に合わなかったよ。
  だからありがとうな、黒猫。今日の分も含めて、な」

そろそろ薬も利いてきたのかしらね。神妙に頭を下げた私とは対照的に
痛みも取れた穏やかな顔で先輩は私に感謝の意を示してくれた。
私としてはなんとも面映いばかりだけれども、ね。

それでも顔に熱が昇って来るのが抑えられず
そう、と応えた後には私は俯いて先輩と顔を合わせられずにいた。

「さて、だいぶ痛みも取れてきたし後は氷嚢は俺が持つよ。
  ずっとそうやって黒猫が支えているのも大変だろ?」
「いいえ、今のあなたは余計な心配なんてしないで大人しく
  自分の回復だけに専念しなさい。そのために私はここにきているのよ」

私のそんな様子をなにか勘違いしたものなのか、
自分に余裕が出てきたらってすぐに人の心配をしているのだから。
そこまでくるともう病気といっていいレベルよね?

まあ、その気持ちが嬉しくないといったら嘘だけれども……
それでも今は余計なお世話というものよね。
私は先輩の目を厳しく見据えてると、あえて強い口調で、
それこそ弟を諭す姉の口調で先輩を窘める。

「……わかったよ、じゃあもう少し宜しく、な」
「ええ、痛みも取れてきたならそのまま大人しくしていて頂戴」

私と少しだけ目を合わせた後、諦めたように先輩はそう言って目を閉じた。

ふふっ、先輩にしてはやけに察しがいいと思ったけれど。
あるいは私と同じように、ここ数年の付き合いで
私のことをよく判ってくれているってことなのかしら、ね?

そんな確かな実感が、私の心を暖かかく包み込んでくれていた。



    *    *    *



額のタオルを5回は絞りなおして、2つ目の氷嚢の中の氷が
すっかりと溶けてしまった頃には、先輩の穏やかな寝息が聞こえてきた。

……もう、大丈夫かしらね。

私は氷嚢を先輩から離すと、肩口まで布団をかけなおした。

気がつけば時刻はすでにお昼どころか
すっかり午後のティータイムの時間、といったところだった。

これでは今からお昼を作っても夕飯の時間になってしまうかしら。
その頃には桐乃も戻ってくるでしょうしそれにあわせたほうがいいわね。

それでも幾分空腹感を覚えた私は、ひとまず自分の腹ごしらえと
先輩がすぐに目を覚ました時のことも考えて、ありあわせの材料で
少し多めにサンドイッチを作って遅い昼食を済ませた。

そして先輩の部屋に戻ると、もう一度先輩の机に向かって
今度は参考書をバッグから取り出して受験勉強の方に取り掛かった。
勉強の方がきっと余計なことを考えない分気も楽でしょうから。


「……って」
「え?」

掛け時計の針が時を刻む音しか聞こえなかったこの部屋では
先輩がかすかに何かをつぶやいた声も私の耳にまで届いていた。

また痛みが?と思った私は慌てて先輩の方を振り返ったけれど。
先輩は先ほどまでと変わらず目を閉じて眠っているだけのように見えた。

寝言なのかしら、と訝しんだその時に。

「……待て」

今度ははっきりとした言葉となって先輩の口から漏れた。
幾分表情は険しくなっているようだけれども
それでも相変わらず先輩は目を閉じたままだった。

「……待ってくれ!」

次の先輩の言葉は叫びといえるほどのものになっていた。
その表情からも、声に劣らない必死さが溢れている。
それは昨日、桐乃を助けた時に見せたそれを彷彿させた。

……また熱が出て魘されているのかしらね。

そう思い至って、もう一度冷凍庫から氷嚢を取りに行こうと
私は椅子から立ち上がった。

それにしても、あなたは夢でも妹を救おうとしているのかしら、ね?

そこまで想うほどの桐乃との絆を、それでこそと得心する気持ちと。
その絆の強さこそ、私も大切にしたいものだと改めて思う気持ちと。

さらにその奥底には。今朝の夢から、いえずっと前から抱いている
それを羨ましいと思ってしまう気持ちが、胸の内で渦巻いていた。

……いけない、そんなことを考えているときではないわ。

私はそんな気持ちを振り払うためにも部屋のドアに手を掛けた。

「待ってくれ、黒猫!!」

……え?

その先輩の言葉が、今朝方見た私の夢のそれと重なって聞こえて。
私は氷嚢を取ってくる事も忘れて、呆然と先輩の寝顔に釘付けになっていた。

……まさかあの時の夢を……いまだにあなたも見るというの……?

先輩はベッドから持ち上げた右手を覚束なげに彷徨わせていた。
まるで……届かない何かを懸命に掴もうとするかのように。

その手に招かれたように気が付けば私は先輩の元に歩み寄っていた。
そしてそれが伝わったとでもいうのか先輩は空に伸ばした手を私に向けた。
私の真名を幾度となく呟きながら。

……あの時に確かに解き放ったはずの呪いは
今もあなたも苛み続けているというの……私と同じように。

人を呪わば穴二つ。今朝思い知ったばかりのその戒めが
さらなる事例を持って私の心を強く打ち据える。

目的を適えるためにと強く願った想いの代償は
やはりこうまで対象者と当事者を苦しめるというのだろうか。

『審判の日』の時。あなたは自分と正直に向き合って出した
気持ちを伝えるために、私への想いの離別を告げた。
不器用なあなたが、桐乃への、そして桐乃からの想いと
全てを賭して相対するためにそれは必要なことだったのでしょう。

そしてそれは私の想い描いた理想の一つの到達点でもあった。
だからあなたの想いに応えるために『運命の記述』を滅尽させ
あなたと私を繋いでいた呪いを解呪した。

それであなたと桐乃が本当の意味で向きあえると考えたから。
小さい頃に擦れ違ってから、それでもなお離れられなかった
あなたたちの心をもう一度結びなおす事が出来ると思ったから。

そのうえであなたたちは初めて本当の兄妹に戻れるはず。
擦れ違って辿れなかった本来の兄妹の関係をやり直して。

異性の兄妹を好きになる気持ちだって本来は自然な流れ。
一番身近な家族を慈しみ合うことで、人を愛する土壌を作るのだから。
だからそこからまずあなた達は向き合う必要があったのよ。

そして互いを認め合い助け合い、許し合い想い合っていく。
時には衝突したり喧嘩したり進む道が別れたりもするでしょう。
それでも結ばれた絆は永遠に離れることはないわ。
そしていつかは互いを祝福しあえる時が訪れる。

だって、それこそが家族というものだから。
未だ何一つ成し得ていない私の人生においてさえ
それだけは私は胸を張って断言することができるから。
掛け替えのない家族に育まれてきた私には。

そしてその先にこそ私の『真の理想の世界』があるのだもの。
私の初恋は打ち砕かれたけれど。すべてが昇華された後に
もう一度私の恋心と向き合える時がくると信じているから。

刎頸の親友に支えられ、敬愛する両親に導かれ、慈しむ妹達に励まされ。
私は漸く見出したその至高を全身全霊を持って追い求めると誓ったのだから。

だけど。

そのためにあなたの心を幾度となく傷つけてしまった。
あなたの想いを踏みにじり、無理やり突き放してしまった。
思い悩むあなたの退路を断ち、否応なく試練と向き合わせてしまった。

その罪は罰として、私はこの身を賭して償うつもりだけれども。
あなたがその想いを抱いたまま今も苦しんでいるのだとしたら。

その元凶である私自身がそれを助ける資格はあるというの?
その伸ばされたあなたの手に今更私が応えてよいというの?

……私は……そんなにもあなたを苦しめた私は……
今でもあなたを大好きですって……伝えても……いいの?

それは『運命の記述』を記してから幾度となく悩み抜いてきた最後の難題。
『真の理想の世界』に至るための最後にして最大の障壁となるもの。
桐乃にも指摘された私自身の彼氏を作る資格の欠如。

それがずっと私の心を闇の業火で焦がし、苛み続けているのだ。

でも、それでも。

私は先輩の右手を両手で包み込むと胸元に引き寄せた。

たとえそれが理に適わない単なる自己満足であっても。
疲弊したあなたの心の隙に付け込んだ穢い行為になるのだとしても。
それで今のあなたの辛さを少しでも和らげることができるのなら。

私は喜んでそれをなしましょう。

それがあの時の私の犯した過ちを償うことだと信じて。
大望のためならば些事と切り捨てた驕りを二度と繰り返さないために。

それに。結局、私の描いた『理想の世界』に留まらず
あなたも桐乃もあなた達の決断で歩み続けることを選択した。
それが『真の理想の世界』を目指す道を開いてくれたから。

だから今はそれを後押しすることこそが私の役目でもある。
だって桐乃はともかく先輩だって、本当はこんなにも脆い姿を
隠しているのだから。

自らの罪も罰も。ましてや資格などを悩む前に
私は私がやらねばならないことをなすだけよ。

この『夜魔の女王』たる私に……
いえ、この私『五更瑠璃』にしかできないことを、ね。


私が先輩の右手を手に取った時から
先輩は痛いくらいに私の右手を強く握り返していたけれども。
私は左手で先輩の右手の甲を緩やかにさすり続けた。

どのくらいそうしていたのでしょうね。
次第に私の名を繰り返していたうわ言も収まっていって
気が付いたときにはあれだけ握り締めていた右手からも力が失われていた。

……そんなに満ち足りた顔をして。
せめて夢の中ではあなたに応えられたのかしらね。

先刻までの必死な面もいつの間にか穏やかな寝顔に変わっていた。
その様子に安心して、先輩の右手から手を離そうとしたのだけれども。
その瞬間、先輩の手に再び力が込められて私の右手を掴みなおしていた。

……あらあら、仕方がない年上の弟さん、ね?

時折、日向や珠希が寂しさからなのでしょうね。
普段はしないような我侭を言って、私を困らせる時があるのだけれども。
今の先輩の仕草は、それと本当によく似ている。

やれやれね、と、私は苦笑を浮かべながらも
姉の務めを果たすためにもう一度その手を握り返した。
そのときにふっとあなたの寝顔が微笑んだ気がしたのは
きっと私の思い過ごしだったのでしょう、ね。



    *    *    *



「ん……黒猫、か?」
「あら、漸く目が覚めたのかしら?けれどまだ寝惚けているの?
  まさか私が今日ここにいることを忘れたわけではないでしょうね?」

窓の外が黄昏色に染まりかけた頃、先輩はようやく目を覚ましたようだった。
私は代数幾何の問題集に取り組んでいた手を止めて先輩の方に向き直る。

「あ、いや、すまん。そういうわけじゃないんだが」

先輩は私と目が合うと、なぜか慌てて視線を逸らせながら応えていた。
そんなに狼狽えるほど、本当に寝惚けているのかしらね?

「まあ、気持ちよさそうにぐっすりと眠っていたようだったし
  そのせい、ということにしておいてあげるわ。
  ……何かいい夢でも見ていたのかしらね?」

元々はいつものからかい半分のつもりだったのだけど。
あの時本当は先輩がどんな夢を見ていたのか。
そのことが気になってついついそんなことを口走ってしまっていた。

「ああ、そうだな、いい夢……だったよ」

すると、先の狼狽ぶりが嘘のように
あなたがたまに見せるとても穏やかな笑顔で先輩は応えた。

「そ、そう……それはなによりだったわね」

その笑顔に中てられて、今度は私が狼狽する番になってしまう。

「ああ、なくしたはずのものが。いや、違うよな。
  俺の我侭で捨ててしまったはずの、凄く大切なものが、さ。
  気がついたら、俺のすぐ近くにあったんだよ」

夕暮れの残光に淡く優しく彩られながら先輩は続ける。

「俺の意思で手放したってのに、俺が酷いことをしたってのに。
  俺の、俺たちのために絶対に失っちゃいけなかったって後悔してたのに
  それが当たり前のようにずっと傍にいてくれてたんだ」

そして今度は私の顔と正面から向き合って。
細めた瞳で私の瞳をしっかりと見据えながら私に告げた。

「それがすっげー嬉しかったのと申し訳ない気持ちで一杯で。
  でもきっと謝ったってそれに報いられないって思ってさ。
  だから俺は夢の中だけど。いやだからかな。
  現実じゃそんな素直にできないから夢の中で感謝したんだよ。
  胸を張って堂々と。それの心に確かに届いてくれるように。
  『本当にありがとう。これからもよろしく』ってさ」

そしてにっこりと私に向かって満足そうに微笑んでいた。

その先輩の言葉を、笑顔を真正面から受け取った私は
壊れ物を扱うようにそれを胸の奥に大切に仕舞っておいた。

きっとこれから何度不安に惑うことがあっても。
あなたの今日の笑顔を思い出せば乗り越えることができると思うから。

あなたが桐乃に見せるのに、負けないくらいのその優しい笑顔を。

「そう……でも捨てたはずなのに、いつのまにか戻ってきてたなんて。
  かの高名な『嵐をもたらす魔剣』のように、とんだ曰くつきの
  アイテムに呪われていたのではないかしらね、あなたは。
  いつかその身に災厄が降り注ぐわよ?」

でもそれとあなたに気付かせるわけにもいかないものね。
私は左手で髪を掻き上げつつ、右手をあなたに向けながら
常の『夜魔の女王』に相応しい声音を鎧った。

私の、五更瑠璃の本当の気持ちが内から溢れ出さないように。

「それもいいかもな。それなら絶対に持ち主の手から離れないんだろ?
  RPGの呪いの武器みたいにさ。だったら」

でも先輩はそんな私の精一杯の挑発的な態度にも
まったく動じもしないで反撃してきた。

「喜んで呪われるぜ。だって俺はもう二度と
  その大切なものを手放さないって、決めているんだからな。
  そのためなら災厄なんて喜んで受けるってもんだ」

……まったく、この人は。そんな台詞を臆面もなく。
それがどんな意味を持っているのか、判って言ってるのでしょうね?

「自ら望んで呪いを受け入れる、だなんて。
  さすがは『呪われしもの』たる変態セクハラどMのお兄さん、ね」

私は先輩に背を向けると、呆れたように
思い切り肩を竦めて、両の手のひらを上に向けた。

だって、声こそ何とか取り繕えはしたけれども。
とてもあなたと顔を合わせていられる状態ではなかったから。

それでも肩を竦める動きに合わせて大きく息を吸い込んで
なんとか心を落ち着かせると、もう一度振り返って
渾身の力で『堕天聖の見得』を切った。

だって、この溢れんばかりの光に満ちた気持ちを内に閉じ込めておくのは
闇の業火に苛まれる以上に耐えられるものではなかったのだもの。

「クククッ、でもそれでこそ『闇に囚われしもの』の私と比肩し得る存在。
  共に深淵の果てを目指す朋輩として歩んでいきましょう、先輩?」
「ま、まあよくはわからんが、こちらこそだぜ、黒猫」

条理を曲げるための強い願いが『呪い』を生むのだとしても。
その対象が『呪い』を喜んで受け入れるというのならば。
呪い呪われた者同士が、互いに手を取り支え合いながら、
呪いのもたらす災厄を乗り越えて、その願いを目指すのならば。

きっと『呪い』を成就した暁には、それは『祝い』となれるのかもしれない。
願いを阻む障壁を穿った2つの穴の果てに辿り着く理想があるのかもしれない。

私はずっと心を覆っていた闇の衣が遂に払暁を迎えて晴れ渡るのを感じながら。
1年半ぶりにマスケラを脱ぎ去った心からの笑顔をあなたに向けたのだった。

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