松井珠理奈について―関係者インタビュー
★センターとしての責任。松井珠理奈の場合
2008年10月。 AKB48が長い長い停滞期を迎えていた頃、「AKB48の目の前にある暗雲を吹き払う」という大きな“役目”はあるひとりの少女に託された。 少女の名前は松井珠理奈。当時11歳。AKB48の妹グループ、SKE48の一員だった。 総合プロデューサーの秋元康をして“ダイヤの原石”“天才少女”と言わしめた松井だったが、しかし心の中では大きな不安と戦っていた。 当時、劇場デビューすら果たしていない少女は10月22日発売のAKB48のシングル曲『大声ダイヤモンド』のセンターとして大抜擢された。 そして、SKE48が活動する名古屋から東京までレッスンのため通っていた。 一方、時を同じくしてSKE48も10月5日に名古屋の劇場デビューが決定。 メンバーは初日に向かってレッスンを続けていたが、そのセンターには松井珠理奈の姿がない日が続いた。 松井珠理奈にとってSKE48は家族と同じくらいに大切な場所。なのに、SKE48のためのレッスンができない。 そんなジレンマを抱えながら、SKE48は初日を迎える。 松井「当日、本当に不安でパニックでした。お腹も痛いし、一番練習できていないのにセンターだったし」 ステージに立つプレッシャー。 その重さに耐えきれなくなった松井はリハーサルで立っていられなくなり、そのまま起き上がれなくなってしまう。 松井「本当に苦しくて苦しくて・・・もうダメだって思いました。 SKE48のスタッフさんも『無理じゃないか』って言っていて、結局『3曲だけ出よう』っていう話になったんです」 楽屋で横になる松井の体が回復しないまま、開演時間が近づいてくる。そんな劇場に秋元康が到着した。 松井「秋元先生がいらしゃったと聞いて、先生のいる部屋に行ったんです。そしたら先生が『珠理奈、出るよな?』 っておっしゃったんです。その時に『ああ、センターってそういうことなんだ』って現実を知ったんです。 もう『はい・・・』としか言えなくて、そのまま楽屋に帰って大泣きしました。 すごく辛かったけど・・・でも、あの時、自分がセンターだっていう“自覚”みたいなものを意識したのかもしれません」 それは、わずか11歳の“救世主”が生まれた瞬間だった。 |
★SKE48スタート直後、『大声ダイヤモンド』で突然AKB48のシングル選抜メンバーに。
珠理奈「最初はもう、”名古屋なのに何で!?”って。コワいんじゃないのかな~とか、 振りもすごく難しくて、ヤバかったです!! でも、みなさんコワくなくて優しかったし(笑)、 やってくうちに振りも早く覚えられるようになって……。あと、強くもなった、かな? 今はすごく楽しいです。きっとSKEのみんなも入りたいって思ってるし、 だからその気持ちを受け止めて、しっかり頑張りたい!」 ――いや~成長しましたね~(泣)。 珠理奈「でも、名古屋に帰ってくると、お客さんも顔見知りだし、 スタッフさんやメンバーも仲良しなので、何かホッとしますね。 名古屋のイイところは食べ物がオイシイところ!みそカツとか手羽先とか!!」 |
★「なぜSKE48のメンバーでありながら、AKB48のシングル曲の選抜メンバーにも選ばれているのか」
秋元康「珠理奈の場合は、監督とファンとの見解に相違みたいなものがあるでしょう。 監督としてはチームの2年後、3年後を目指していて、 現時点からその選手を大舞台に乗せなければと思っている。 でもファンからすれば、今現在見たときに、まだそこまで行っていないだろう、 と思うかも知れない。そういうギャップはある」 |
★松井珠理奈×前田敦子
珠理奈「SKEの私が、AKBさんの曲に参加する事をどう思いましたか?」 前田「SKEが出来てすぐはさ、AKBとSKEが別物だと思われてたじゃん。 それで一緒にCD出すときに合流して、そこでこう一緒なんだなって改めて思ったよね」 |
★珠理奈の加入
*――「大声ダイヤモンド」以降のAKBについて。大島さんにとっても刺激となる曲でしたか? 大島 ものすごく刺激になりました。 「大声ダイヤモンド」は、急に松井珠理奈が選抜のセンターに入ってきたので、正直「コイツはなんだ!?」と思ったんですよね。 モーニング娘。に後藤真希さんが新星として入ったみたいな感じなのかなって。 そうしたら自分も、選抜の中の選抜、フロントメンバーからも外れたので、こりゃちょっとまずいぞと。 チームKで同い年の秋元才加も同時にフロントから外れたので、二人で「とうとう来たよ、世代交代!」みたいな。 でもここで負けてらんないと思って、どんなに端にいようが、狂ったように踊ってやるぞと、そこから火がつきましたね。 *――2007年末には『紅白歌合戦』に出場しますが、その前後の時間は? 前田 紅白にも出れたし、「頑張ってこれてるんじゃないの?」って思っちゃってる自分達がいました。だから次の年はすごい苦労したなーって思いますね。 2008年は紅白にも出れなかったし、自分たちも、スタッフの方にもよく言われるんですけど、 「もうこのまま終わっちゃうんじゃないかな?って時があった」って。多分それは、私たちの意識が薄れてきちゃってたからで。 「桜の花びらたち2008」の頃が一番、「これからどうしよう?」「もうこれ以上、上にはいけないのかな」って思ってる時期だったような気がします。 「大声ダイヤモンド」からは「また頑張ろう!」って、みんなで力を合わせてっていうのは覚えてるんですけど。 SKE48の松井珠理奈が選抜に入ったのが大きかったんじゃないかなって思います。 *――ずっとセンターだった前田さんの隣に、SKE48の松井さんがダブルセンターとして入ってきた。率直なところ、どんなお気持ちでしたか? 前田 別に余裕があったわけじゃないんですけど、年齢も違うし、あまり意識はしてなかったんです。 でも、思った以上にファンの人からすごい言われたというか、比べられていたというか。 それを知った時はちょっとびっくりして、焦りましたね。私はどうすればいいんだろうと思って…。 秋元さんにもその時期、怒られたことが何度かあったんです。 「このままでは松井に抜かされますよ」って言われたこともあったし、私自身も格闘してる時期で。 「大声ダイヤモンド」の時から、秋元さんに毎回意識を聞かれるようになりました。 「どうしますか?」ってメールが来るんですよ。「どうしますか?前田はできますか?」って。 *――どう答えているんですか? 前田 「できます! や り た い です!」って。 それまでは「センターにいるけど、でもどうせみんな私のことなんてなんとも思ってないな」っていう気持ちでした。 でも「大声ダイヤモンド」から、自分のいる場所の意味が少しずつわかってきた気がします。 Quick Japan Vol.87 2009年12月 |
★「SKE48 COMPLETE BOOK」秋元康インタビュー
秋元康「僕は今まで37年間仕事をしてきて、人がスターになるのを見続けてきました。 そうすると、この人はスターになる運を持っているなとか、 このグループはブレイクしそうだなというのが見えてくる。 それが見えた相手には、怖がらずに一歩踏み出しなさいとアドバイスをする。 でも、その兆しをいちばん信用していないのは、当の本人だったりするんです。 まさかそんなことがあるはずないと思ってしまう。 たとえば前田敦子も、2005年12月の時点で、 将来自分が日テレの連ドラでヒロインをやらせてもらえるなんて思っていなかったでしょう。 そういうことが今のSKEにはある。 これからはメンバー一人ひとりが、将来、一流の芸能人として活躍するんだという 自分の未来を信じて一歩を踏み出す力が必要。 日本中、世界中にあふれているチャンスを自分の手で掴み取る覚悟が必要でしょう。 これからは自分の力や運を信用する人としない人とで差が出てくると思います」 |
―珠理奈はどうでしょうか 秋元康「珠理奈は今がいちばん大変だと思う。つまり最初からハードルが高いから。 それこそ大島優子じゃないけれど、周りからはできて当たり前だと思われる。 優子がいくらがんばっても、お前ならできるよな、なんて言われる。 珠理奈もそう。SKEのエースとしての孤独や、 年少でありながらまとめていかなくてはいけない責任感を背負っている。 だけど玲奈の人気が上がってきて、『枯葉の~』が1位を取った。 そういう状況で彼女なりに自分の中で自問自答を繰り返す…。 13歳の女のコに背負わせるには、重すぎるぐらい重いと思う」 ―秋元さん自身が背負わせた部分もあるのではないかと(笑)。 秋元康「そうですね。SKEのファンのなかには、秋元康は珠理奈をゴリ押ししすぎると言う方々もいます。 確かにそういう面はあります。それはプロデューサーなので、 3年後あるいは5年後のSKE、AKB全体のことも考えなくてはいけないから。 だから珠理奈には、たとえれば、 身長がその時は150センチだけど10センチはすぐ伸びるのが分かっていたから、 160センチの洋服を与えたんです。それが2年でぴったり合ってしまった。 だから今は伸びてる感じが見え方としてわかりにくい。 でも、わかりにくいだけで、実際には伸びてますからね。 本人はつらいかもしれないけれど、僕自身はまったく心配していません。」 |