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波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑮:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

個の抑制と同調圧力と精神的疲弊を招く教育制度
自主的な思考・感性を阻む歪んだ社会構造と、権威主義・従属思考
物質主義と閉鎖性と視野狭窄による自家中毒
欺瞞的な建前が招く、非健全化と本来的な倫理の崩壊
議論の社会的土壌と、齎される不正義・無関心
他集団との関係性について
普遍性と真理について


個の抑制と同調圧力と精神的疲弊を招く教育制度
  「魂振り(たまふり)」について、項目6⑤で古代葬送儀礼の「殯(もがり)」と併せて記述しました。広義においては「霊魂・意識を賦活・蘇生・再生させる行為」「物や体を振るわす・動かす様」「生面感・躍動感の溢れている物を見る事」「感動する事・感覚が揺さぶられる事」「超越的な感覚」「芸術行為」の全般を指す概念です。波動原理に沿った概念で、古代において最も重要な概念の一つであり、ここから派生した概念・言葉・事象は非常に多岐にわたります。

「産霊(むすひ)」は「物を生み出す力」「生命力の活性化」、神道の最重要原理で、「チャクラの開放」も「産霊の力を高める行為」です。「結び」は「産霊」に由来し、「全ては融合的に繋がっている」という観念・在り方に沿うもので、「個の連帯」は「社会の産霊の力を高める行為」と言えます。「魂振り」は産霊の中の最重要概念、「産霊」と「魂振り」は「霊・魂(たま)を増殖・賦活させる手法」であり、「人間の生命力・活力は、ここから生まれる」とされます。

「肉体・精神の老化現象の根源的要因」の「感覚の硬直化・矮小化(項目6④)」という論点と、「魂振り」を併せて考えると、「感覚の硬直化・矮小化」とは「魂振りのような、意識・生命力の双方の活性化と、正反対の現象」「長年の意識と感受性の低下、思考の硬直化・矮小化により、促進された現象その物」です。

日本社会の「近年・近代に社会上層部が志向した体系・意図」の「個の抑制」とは、その方法論の機軸に「ある決まりきった枠組み、何かしらの都合の良い型に嵌めていき、大量生産ロボットを造っていく社会構造・教育制度」を据えています。この意図は「個人・個性・多様性を否定し、大勢側・集団に付和雷同する」ような「ロボット管理社会」を目指す物です。そういう社会にとっては粒揃いな、感受性は封印した、ステレオタイプに官僚用語を繰り返す、規格化された人の方が都合が好いのです。

「個の抑制」とは、即ち「感情の抑制・平坦化」「情動の喪失」で、必然的に「感受性・思考範囲・視野を低下・矮小化させる物」となり、「魂・霊的な部分の不活発化」を齎し、「意識・精神性・波動の低下」「生命力減少・活力低下」を生じさせます。隷属・過剰同調している物の、しかし心理の根源部分では「その状況・社会に対して強い不和感を感じている」「おかしいと思ってるが、感情を押し殺している」ので、「高ストレス」「無理矢理な辻褄あわせ」となって、「心身や社会隅々における、深刻な悪影響」となって現れています。

自分で選択したのではなく、同調圧力に染まった結果として、同じような格好をして、同じような物を同じ方向から見て、同じように聞いて話して考えて、そしてそれを垂れ流す、過剰な資本主義的・物質主義的性向に連なるムラ・産物や、或いは全体主義的体制に連なるムラを称揚して、そういう物・情報・ムラを再生し続ける。そういう社会を「効率性の高い社会」「科学的・近代的・経済的に高度な構造」「それが幸福・充足という物」など称して、そんな循環をぐるぐる回しています。

でも「外部基準に隷属して、空気に従って、反面空虚な物質的流行に左右され、権威なり立場なり上下関係なり重視している」のでは、「魂振り」が生じる訳がありません。「魂的な物」というのは、「意識・精神・心・感受性・感動なり」に存在するのであって、「そういうのと反対方向の物」には存在しません。このような社会的力学・構造とは、「人間の意識・精神の根源部分を、長期的に破壊していく物」「社会を人為的に老化させていく物、衰えさせていく物、崩壊させていく物」です。

こういう社会が長く続くと「波動的に集合意識が、その方向に固定化・方向付けされる」「空気・力学が固定化される」「空気・力学が権威化して多くが隷属化する」「固定化・方向付けられているので、教科書以外の事が見えない」「前例に無い事に対処できない」「枠組み外に存在する問題の在りかに気付かない」・・・という流れが続くのみで、「問題点に気付いて、修正して、回避する事」「現在のような状況を免れる事」は到底不可能です。

  「日本の近代教育」における、「国の方針」又は「日本の特徴的な状況」とは、「個の抑制・魂の抑制」「内面性を育てない事」「集団重視」「均質化・規格化・大量生産品化」「視野狭窄」「常識や前例の踏襲」「外部基準やマニュアルの重視」「縦割り」「隷属・過剰同調・同調競争」などです。

日本の教育制度には「規則・行事・テスト」が多いように見えますが、これらは「協調性を養う」ために重要なのだそうです。「規則・行事・テスト」は「"存在には何も問題はないが、数が多いと、バランスを欠くようになる物"の一種」と言えるでしょう。世の中にはそういう物が多く、だからバランスと中心点(=ゼロ点)が肝心なのでしょう。

しかしこの「協調性」というのは「言葉の罠」で、実際は「個の抑制による、自己の空洞化・無思考・無感情・過剰同調を強いている構造」であるので、「これに協調性が加わると、付和雷同・隷属化・権威翼賛矢、更なる低質化になるだけ」です。そもそも「高い意識の下では、"適度で次元の高い協調性"は自然と身に付く」ので、このやり方は利口で無い、副作用の多いやり方です。

また、これらは「あまり意味を感じない物の比率が多い」ように見えますが、生徒としては「でもそういう物だからやる」「考えても無駄だから考えない」「取り敢えず従っとけばいい」というだけでしょう。こういう感覚が「組織の奴隷・過剰労働・社蓄」「英国のようにスーツの母国でも、欧米のように伝統に沿った形式でもないのに、スーツ着用が欧米より遥かに義務化している」「新卒至上主義」「真夏の就職活動で全員一緒の黒スーツ・キチョハナカンシャ(貴重な話に感謝します、という決まり文句を面接官に言う)」などの光景を作り出しています。

  日本は、過剰な同調を求める「同調圧力」が高いですが、更には「同調競争」もあります。これは「目的を喪失して、ただミクロな事象への過剰迎合を競い、同じである事に安心する」「その事象で差異があると排除する」という物です。

「タブロイド思考」とは、「複雑なものごとを、皮相的に、単純化・類型化して把握する思考のありようである。何が原因であるのかについて、深く考え分析すると単純に断言することができず判断が難しいような事象や出来事をステレオタイプな枠で捉える思考と云える」「事象の本質的な複雑さを考慮することなく、また深く吟味したり分析したりすることなく、類型的な思考の分類や、決まり文句などで、その事象の原因やありようを理解したような気分になる」「単純明快な図式的回答を、批判的態度などなく受容するような思考」「このような場合、もっと楽な方法として、社会で流布し、流行しているものを、そのまま受け入れ模倣し、何故それを肯定するのかの理由は、"社会の常識である"というように考えると、これは思考停止の一種である」と解説されています。

これは「無思考化と集団心理の悪癖」「過剰同調が思考停止に陥る理由」を非常に分かり易く表現した概念で、正に「日本の社会制度・教育制度が大量生産している思考法」です。ただ「タブロイド紙の方が真実」の場合も多い訳で、結局「自分の頭で考えないと、立場に奢っていると、真理を見失う」という事でしょう。

日本の受験システムの特徴の「暗記重視」は、「マニュアル重視」という感覚を醸成して、「前例踏襲・無思考・過剰同調」というループを作り出す基になっています。これら様々な「幼少時の原体験」に、「自ら考えないで、周りに合わせる」という「大人社会の様式美の祖形」が存在しています。

これ以外に「体罰・校則・制服」など多数あります。学校の「制服」は「賛成者が多い」「現状では効果が多い(時間・手間・費用)」と言えるでしょうし、現状では賛同が多い学校では有用でしょう。ただ日本は何処へ行っても制服が多く、例えば「政治家が災害に際して、省庁・官邸などで作業服で指揮・記者会見する」のは一般的で、海外ではあまり見られない光景でしょう。これらは「体罰」は問題外として、他の物も大概「プラス効果もマイナス効果もある物」ばかりと言えます。

  しかし、ただ言えるのは「規則・決まり事・縛る物の総数が、全体的にやたらと多い」「教育課程において、自ら考えて、選び取っていく物が少なく、それらが養われる機会が少ない」という事です。

また「自ら考えて、選び取っていく事を養う為の教育課程」も設置されていますが、それよりも「同調圧力に染まって過剰同調する事、思考・感受性を放棄する事、を訓練される過程」というのが「子供達の教育過程・私生活」に遥かに多数存在しています。子供達には「後者の方が世間の真実」な訳で、そうやって大人になっていきます。

例えば「予行演習」、これは時間が長く、そこでは「斉一性の指示」と「指図」ばかりされています。行事を行うには予行が必要ですが、でもそもそも「そのような行事の様式が必要なのか」「そこまで多くの時間をかける必要があるのか」という点があります。少なくとも生徒も生徒以外も、割と多くが「意味が無い・長過ぎ・もっと有意義な事がある」「でも決まってる事だから仕方が無い」と思いながらやっています。

現行教育制度では必要とされていますが、ではそこで何を学ぶのでしょう。「皆で一緒にやる事」、これは他の事でも出来るでしょう。「規則を守る事」、これは学ぶ事になるでしょう。「皆と同じ行動をする事」、これも学ぶでしょう。しかしはっきりと、こんな長時間をかけているなら、「地域のごみ広い活動・美化活動・文化継承活動など」などに費やす方が、よっぽど有意義です。これも強制の一種でしょうが、「少なくとも、それ自体は完全に有意義である」ことです。

従属は「空気を読む」ことを促し、近年の学校では「場の空気」に纏わる現象が進行しています。子供は「類型的なキャラクター・役割モデル」のうちから、何かを選択して・受け入れ、それに沿ったキャラクター演じ続けます。そうやって居場所を確保し、苛め・不登校などの目に遭わないようにすると言います。これは「個性」と「キャラ(演じられているキャラ)」のバランスにおいて、後者の側面を要求する空気があるという状況です。近年の漫画・ドラマなどは、こういった物が多いですが、現実にこういう状況が幾らかの学校にはあり、他の学校には無いようです。ただ無いと言っても、「場の空気」は強い学校も割と多いそうです。

「スクールカースト」という物が多くの国に存在し、日本では近年、強固になっているとも言います。あからさまでなく、外からは分かり難く、下位カーストの人が自らを縛るように、"気配りするよう"になっているそうです。これは「低意識の典型的症状の理不尽さその物」です。そして今の日本の状況や教育制度では、現状の方向を続けるならば、幾ら改革を重ねても、このような「上下構造」「権威主義の一種」「粗暴性」は残り続けるでしょう。更に、全体主義においては「社会とはそういう物だ」として、殊更問題視なく、却って容認、そして「酷い企業・組織で、酷い労働・事業を行う人の予備軍」と成らしめるでしょう。

  このような「教育システム+社会状況から促される観念」とは、成績や興味分野に拘わらず、「世間の生き方・考え方から、自分の利益に適う物をピックアップ」「本質的思考や精神性は持たない」「物凄く単純化した思考様式を持つ」「社会というのは自分とは関係ない物」「後は組織利益に自分を合わせて」というような物でしょう。このような観念が、少しずつ育ってしまうような状況にあります。

「関係ないという思考」「無関心」とは「他の対象への共感能力の低下状態」であり、「意識の共鳴能力の低下状態」です。これは「波動低下の典型的症状の1つ」で、「空虚性・虚無感」「利己主義」などと比例的に増減します。知的生命体は元々「他の事象にも感覚が及ぶ」ようにできていまが、「脳内の感覚の及ぶ範囲の矮小化」が起きて、それと共に「関心範囲が半径数m以内」「抽象的思考が苦手」「想像力欠如」が増加しています。

「精神的な物」への関心が低下、でも人間は「何らかの基軸・楽しみ」が必要なので、対極側の「物質性・即物的・消費主義」「破壊性や中毒性が高い物」などに引き寄せられます。更に「対極側」なので、「意識低下方向のあらゆる感覚」と親和性を持ちます。「枠の外側の真理の見極め」をするような「関心・動機」も無いので、「通論の絶対視」をして、そうでない思考・言動を皮肉的に眺めます。そうして結局、「体制の中の意識が低い歯車としての役割」と化していきます。

子供達にとっては「教育課程・私生活・家庭内・社会状況」の全てが「教育・訓練の場」で、これらは教育制度の問題だけでなく、広く日本の社会制度全体の問題です。これは皆がこうなるという物ではなく、こうで無い人の方が多いですが、「現代の教育制度・社会制度とは、こう向かわせる力学となっている」という事です。

拠って本来は「こんな状態で無かった大人子供が、この過程を経ると、このような傾向を帯びてしまう」という「意識劣化の社会的装置」と化してしまっています。この中で「個々人は一生懸命抗う」訳ですが、「体制の基軸」が「個の抑制と斉一化など」に据えられているので、結局知らず知らずに大勢は流されてしまって、「何時の間にか、こういう物を再生産する歯車と化している」となります。そして「一般的感覚の基層」の部分に「超巨大な無関心・即物性・利己主義」を固着させ、意識・社会を基盤から崩していきます。

また「教員・官僚・地域の補助の人」も、真面目な人が遥かに多いですが、それとは全く別に「国の方針」など「根源的な部分がおかしい」ので、幾ら一生懸命やっても、現実の効果には反映されないのが実態です。そういう物こそが「社会に潜む潜在的力学」で、でも「真面目な教員・官僚・地域の補助の人」のお陰により、これ以上の低下は防がれ、現在の段階程度で救われています。

現代の体制下では「子供達に、主体的思考の基盤たる、内面性を育成しないで、付和雷同する感覚を育てる」「そして現代日本に特徴的な、物質主義に偏ったメディア情報の氾濫原に放り出す」訳ですが、これの何を以って教育と呼ぶのでしょう。ぬかるみに囚われ、「ああ、こんなもんか」と思う深層心理を育ててしまっています。こうやって「無機質・空虚」になって、「魂振り」がなくなって、よく分からないまま、どうでも良いし関係ないとしたまま、同じ方向を向いていきます。「ロボットを生み出すような制度」というのは、意図的でなくても、現在のような、上記のような状態を招くのであり、これは「国の方針」自体が変わらなければ、状況は変わらないでしょう。

  脳において、大脳皮質の「側頭葉」「後頭葉」などは、環境からの直接的な情報を処理する「知覚」のうちの「視覚・聴覚・嗅覚・味覚」などに携わっています。「頭頂葉」は、主に知覚のうちの「体性感覚・平衡感覚」などに携わっています。

「前頭葉」の「前頭前野(前頭連合野)」は、「知的操作の中心的部位」とされています。前頭葉が大きくなり始めるのは5歳くらいで、大人と同じくらいに機能しはじめるのが12~13歳くらい、そして早くに衰える脳部位です。前頭葉が老化・損傷すると「思考の硬直」「感情の抑制が出来ない」「切り替えが利かなくなる」「集中力低下」という症状が現れます。

以下の記事は、非常に示唆的です。ネアンデルタール人は「現代人よりも脳体積は10%大きかった」「相対前頭葉体積が現代人より30~40%少ない」「目鼻が大きく、筋肉も発達していた」「思考・分析などに割かれる脳機能が少なく、それで絶滅した」とあります。人間にとり「視覚」が重要なのは言うまでも無いですが、そればかりでは「思考・論理性」「精神的感覚」が御座なりになり、知的生命体たる所以を自ら放棄する事になるということです。
http://japanese.ruvr.ru/2013_03_15/neanderuta-rujin-me/

暴力・粗暴性は波動的に最悪の傾向で、子孫や周囲へと伝播していきます。体罰を長期間受けた子は、感情や意欲の動きに関わる「前頭前野内側部」、集中力や注意力に関わる「前帯状回」、認知機能に関わる「前頭前野背外側部」など、「前頭葉が大幅に萎縮する」ことが確認されています。

日本では学校を始めとして、長らく体罰が容認されてきました。現在でも因習が残るスポーツ関係で非常に多いですが、これは根性主義で纏め上げるような、日本企業の非人道的な働かせ方と共通する物があります。

体罰の歴史は明治維新以後であり、江戸時代の寺子屋など、体罰は見られません。日本に戦国時代・江戸時代・明治初期に来た欧米人は「日本には子供への体罰は無く、大らかに躾けている」「自国には体罰がある」と記しています。欧米の多くでは後に体罰が無くなり、逆に日本では体罰が一般化しました。

「日本の古くからの伝統的な物」は、概ね「調和的・融和的・精神的」な方向にある物が多く、それらは「大人社会や社会上層部がしっかりとしていれば、自然と社会で浸透・一般化していく物」です。社会が正常であれば、それらはごく自然に、無理が無く、息苦しさも摩擦も無く、大多数が好意的に受け入れる物として、浸透化・一般化していくでしょう。そして必ずや、社会・個人に好影響を齎します。しかし日本はこのように、明治維新以後・戦後に、良い「地霊」たる部分を次々に破壊していき、多くの潜在的悪化要因を推進してきました。

明治維新以後・戦後に「日本の古くからの伝統的な物」「日本の中枢に位置する物」として喧伝されて導入された物は、実際は「日本の古くからの伝統的観念とは対極にある物」で、全てが「個の抑制・否定」「集団・組織第一主義」「全体主義・統制主義」などに類する物です。背景には「全体主義・権威主義・統制主義」「物質主義」「利己主義・ご都合主義」の意図があり、導入手法は、「権威による締め付け」「カネでの囲い込み」「理不尽さ」を専らとします。また「逆の方向性の事象」は、全体主義・組織利益にそぐわないので、その閉鎖性・偏狭性で排除し続けています。

これらは本来的な社会や人々の心の在り様と異なるので、深層心理での息苦しさと共に、多種多様な深刻な弊害を顕在化させ続けています。こういう事を隅々に推し進めたことこそが、日本のここまでの悪化の最大の要因です。もう体罰と共に、こういう事は一切止めにしないといけません。

  明治維新での改革は、世界情勢による時代の要請で、色々と成し遂げた事も多く、功績も相当に大きかったです。しかし全体主義的・統制的な思考法が相当に入り込んでいて、それが後にさほど修正されないまま、社会の隅々の分野で、この思考法に基づく「個の抑制」「集団第一主義・組織第一主義」「斉一性」を浸透させ続ける行為が行われ続けてきました。元は地霊が高く、社会も拡大基調だったので、悪影響はあまり顕在化していなかったと思われます。しかし時期が経つにつれ、この思考法が齎す「偏向(中心からズレている)と、様々な締め付け的な様相」の弊害が、各所で目立ち始めてきました。それは戦前で言えば、例えば思想面や、神社合資問題などだったでしょう。

戦後は、これに「物質主義・消費主義」「海外権威への従属思考」が加わり、「無思考・無感覚」「虚無性」「本義や責任感の欠如」などの「非本質性・非普遍性の蔓延」を招き続けました。片や経済的成功は、実態は主に地霊による物でしたが、「この手法だったから成功した」との誤認が一般化、これによりその「方向性・体制・空気・力学」が是認され続け、強大な権威と化していきました。同時に「個の抑制」「集団第一主義・組織第一主義」により「思考・感性」を失い、何らかの権威に従属する事を良しとする観念が浸透、物質主義・消費主義の蔓延とも相まって、精神性を空洞化させ続けてきました。この中でも、多数の人は気をしっかり持て進もうとする訳ですが、そもそもの底流自体がこうなっているので、知らず知らずに流されたり、絡め取られてしまいます。

これは「自ら隷属するように仕向ける体制」なので、「社会の問題点の根源」は常に残存し続け、「その実態にさえ気付かせない」という、「最も高度な奴隷社会」が構築されました。これは「末端が自律的に締め付け、全体が強固な鵺的構造を有し、全体主義・物質主義・空虚性の下に社会を破壊し続ける」という社会体制で、この方向性における、一つの完成形と言えるでしょう。

「明治維新後・戦後に、推し進めてきたやり方の到達点」がこれです。どういう経路にしろ、そういうやり方をしていたら、「結局はこのような社会体制になる」のは確実です。これは「完全な因果律の実現・結果」と言えます。で、一体この何処に「到達すべき姿」があるのでしょう。

現在この体制は、日本の主流社会を、日本の表面的な部分を、ほぼ完全に支配しているといえるでしょう。日本は何処も彼処も、中央も地方も、政官財マスコミから大衆の空気まで、このような物に完全に覆われています。こうして個人・社会に意識・波動を低下させてきた、この社会的空気・力学が、近年~現在の長きに亘り、日本の主流社会を完全に支配し続けてきました。この「際限なき虚しさと崩壊」には、何処にも救いがありません。

先進諸国にも似たような現象はありましたが、上記の面が日本ほど強度でなく、拠って「論理・感覚をより重んじた事による(日本よりは)、様々な論・議論と改善」が成されていき、漸進的に社会が改善していきました。翻って日本では、そのやり方による弊害に加え、更に「硬直的思考法・原理主義性」も醸成されて、非常に硬直して息苦しい社会になっていきました。それでも「この程度」というのは偏に地霊のお陰でしょう。若しそれが無くて、明治維新後・戦後のやり方と弊害だけ顕在化していたら、全く現状レベルでは済まなかったでしょうし、外国から眺めると、その社会の各種面が悉く異様という状況を呈していた事でしょう。それだけやり続けてきた「個の抑制」「集団第一主義・組織第一主義」「斉一性」というのは、他の先進諸国には見られない特殊性を持った物で、且つ非合理的・非論理的な物です。

  英語は共通語で、「世界の情報・頭脳が集中する結節点・ハブ」となっています。これは「世界中での暴力の歴史による産物」で、エスペラント語導入の実験もありましたが、不成功に終わっています。「英語が母語の国」「英語圏」「ラテン語圏」「欧米~中東(歴史・概念などに共通点が多い)」「これ以外の非英語圏」では、「英語の習得し易さ」「英語圏・ラテン語圏の事物への認識のし易さ」という観点で、天地ほどの違いがあります。そもそも「ラテン語圏の特徴的概念」は「その地域の特徴的概念」に過ぎず、「他地域には他地域の特徴的概念が存在する」のです。にも拘らず「英語が共通語だから、欧米が中心だからなどの理由で、英語・英米・欧米基準に準拠すべきとする思考」は、「世の中どうあるべきかではなく、力ある者に従うべきとする思考法の一種」であり、「権威主義・従属思考」「斉一化志向」「多様性の否定」に過ぎません。

しかし、現在は代わりになる言語はありません。また英語には「論理思考に向く」「表現行為・音楽に向く(リズム・音韻)」という特徴もあります。なので英語の学習は有意義です。

現在の日本では「大学受験テストでは英語は必修」というような、非常に視野狭窄した思考が罷り通っています。英語習得度には、個人それぞれの違いや、向き不向き、好き好きがあって、「英語ができないと、他の学習能力・知識・知見は意味が無い」「他の全科目より英語が上位」などとする思考は、「権威従属思考」「極端な非本質性志向」に過ぎません。

江戸時代の日本は、世界中で突出して識字率が高く、様々な学問・知見・文化が生まれたり、進展しています。「和算」は、ほぼ国内のみの土壌でありながら、非常に高度な場所まで到達しています。学究的にどんどん深めて思考していき、各種の学問体系を作り上げています。その背景にあるのは、「現代教育の均質性指向」のような物ではなく、個人の嗜好関心分野や、云わば「オタク的感覚・関心」に通じるような、「対象への自主的な興味関心と掘り下げ」です。幕末~明治維新後に、欧米の知見・技術が導入され、一気に飛躍しましたが、それは江戸時代の基盤・到達度があったからこそです。

受験での英語必修のような思考法は、こういう物と正反対であり、また「明治維新後や戦後の、非常に矮小化した思考法の産物の1つ」です。何故「英語ができない」からと言って、他の「数学」「理科(科学・化学)」「社会学科(地理・歴史)」「国語」などの習熟度・知識・能力が否定されるのでしょうか。全く訳が分かりません。こういう教育制度と、その背景の日本社会の構造は「極端に視野が狭い物」であり、「英語が出来れば国際人で云々」という感覚は、「英米的な物=国際的=宇宙遍く支配する体制=最上の価値の1つ」というような、非常に典型的な「本質と非本質が逆転した思考法」の1つです。

英語で読み書き、話しと聞き取りが出来れば、それは素晴らしい能力でしょう。かといって別に「全員がやるべきこと」でもなく、「興味ある人がやればいい」だけです。且つ、多くの人が話せるようになると良いでしょう。また、日本語や、日本における歴史的概念から、日本人は世界でも最も英語習得が難しい集団の1つでしょう。

習得の方法として、1つに次のような物が考えられます。子供の学童保育に、アジアの英語圏の大人に講師をしてもらって、それらの国の子供達を含め、世界中の国の子供達と一緒に遊びながら英語を学ぶ、という手法です。言語というのは、赤ちゃんの習熟過程を見ても分かるように、「体感的に覚える物」で、「受験英語的に覚える物(強制的暗記で拒否感が出る)」では無いです。「英語圏を始め、日本語話者でない子供」には「日本語を覚える需要」があり、「日本人の子供」には「英語を覚える需要」があります。遊びながら、多言語が飛び交って、ちゃんぽんで話していけば、自然と楽しく覚えられて、尚且つ多人種交流が出来て素晴らしいでしょう。


自主的な思考・感性を阻む歪んだ社会構造と、権威主義・従属思考
  日本は「自由社会・自由主義の国で、最も持論を主張しにくい国、最も持論を持つ事自体が憚られる国」です。日本は形式的には自由社会で、「思想・主張の自由」があります。しかし同時に、「思想・考え方自体や、主張披瀝する事を縛る、様々な社会的制度」が存在しています。これが個人と社会を雁字搦めに縛っていて、しかも「集団・権威への従属以外の主張は、すべきで無いという空気作り」も同時に行っていて、これらで「考えず、口を閉じ、隷属し、自ら縛る」という事を繰り返しています。

それでも日本には「主張する自由」が多々存在し、その気になりさえすれば、多くの事が言えます。

然し「日本人の特徴である細かい意識と、それによる様々な社会制度構築」は、本来は良い方向の性質である所が、長年の「過剰同調とその要求」などで、「社会隅々で様々な制度が出来上がっていて、これが遊び・余裕の無さを生み出している」という状況を、逆説的に作り上げています。そしてこれが、社会における「自由な場(議論・行動・連帯など)」を奪っていて、個人・社会の意識・状況が良い方向へ向かう、その原動力と成らしめる事を、徹底して阻害しています。

こういう事があったそうです。
・グアムの上空で日本の航空機が米戦闘機と異常接近するという、安全上憂慮すべき事態が発生した。パイロット組合が国土交通省・外務省に改善要求したが、国土交通省・外務省からは、何ら米国側への働きかけがなされなかった。
・パイロット組合が仕方なく、直接、米国大使館に申し入れを行なった。米国大使館より1・2週間で謝罪と今後の善後策の説明がなされた。
・そして同大使館員より「本来、これは国の外務省ならびに国交省が対応すべき事案であるのに、何故パイロット組合が、こんなことをやっているのか?」と問われた。
・このやり取りに、官僚たちは少し距離を置きながらも同席していた。
・近年はアメリカに何かを言うのがタブーだという非常に強い空気が、外務省と国土交通省など官庁にある。昔はここまでではなかった。

また米国政府による盗聴が露呈した際も、厳しい見解を述べた各国に比べ、日本だけが突出して何も問題が存在しないかのよう対応でした。「特段の配慮」ですが、やった方でなく、やられた方が常に行うのが、日本の情けない流儀です。

これは次の事を示しています
・日本には事実上主権が無い、主体性が全く無い、自分で自分の為の行為をする事が出来ない。
・官僚・省庁は存在責任を完全放棄し、公僕精神や気概が全く無く、事勿れ主義・無責任体制が徹底的に蔓延している。
・組織理論の固執しか頭に無い、若しくはそれしか出来ない。
・対米従属が非常に酷い、このような従属国家は世界唯一で、米大使館員も理解不能な思考様式。
・自ら権威に従属していくという観念が非常に強い。

何故こうなったか、その一因は「真の意味の言論の自由や、議論の場・土壌と、これに必要な建設性が存在してこなかった」ことにあります。こういう物がある社会土壌ならば、当たり前のように「間違っている物は間違っている、糾すべきを糾すべき」という観念が主流となり、一般的周知→問題認識→社会的議論を経て、「このような件が起きる土壌自体が問題視され、改善されていく」という作業が繰り返されます。そうなれば、このような著しく不条理な状況は真っ先に無くなります。

日本には「名目ばかりの言論の自由、議論の場、自由主義・民主主義が存在」しますが、「その実質を担保する思考・感覚が、社会上層部に著しく欠けているので、実体を伴った社会的状況や社会的観念が存在しない」という状況が続いてきました。だから皆が回りを気にし過ぎたり、口を噤んだり、同じ事をしようと躍起になったり、更に無駄な事をしても意味が無いので、無思考・無感覚になったり、虚無化するのです。

更に、日本の省庁・政官は、国内へは「ヒエラルキーの頂点」とのエリート意識・特権意識が顕著で、各方面へ様々な抑え付け・締め付けを、あの手この手で行い続けていて、一般大衆は云わば「ヒエラルキーの下層=下々」である。逆に「国際的な権威」「自らより上の上位構造」に対しては、これほどまでに情けなく、世界中でずば抜けて隷属的で、自己の存在が皆無だということを示しています。

「これは幾らなんでもおかしい」と多くの官僚も思ったでしょうし、然し厳然とこの種の状況があり、ということは「各種意見を潰す構造が存在する」という事です。これは「上下関係とヒエラルキー・序列観念が全てに優先する」「極度の自己保身・組織利益の志向の前に、全人材が歯車・部品・駒・消耗財とされてしまっている」という事を示しています。人間が人間でなく、個が否定され、集団・組織が絶対的な社会では、どんなまともな意見も、組織利益の前にはいとも簡単に潰されます。結局は「社会・組織の低意識により、良心も感情も全てが、雁字搦めに縛り上げられている」のです。

  ニュース・報道は、日本の様相を顕著に映しています。また「化石的」「消費主義的・物質主義的」という左右のパラメータ上の分布図にすると分かり易いでしょう。先進諸国の主要メディアを、この分布図の中央に、仮に置きます。「報じられない分野が無い・あまり無い」「ニュースでは多くの項目を報じる」「機知・ウィットに富んだ表現を良く使う」「サイトはスタイリッシュ」といった傾向があります。

日本の主要メディアは、NHKは「化石的」、民放は「消費主義的・物質主義的」と両極に別れて分布しています。NHK・民放の共通した傾向に「報じられない分野が多い」「ニュースは、単位時間当たりの項目数は少ない(冗長・類似ニュースを流し続ける)」「事件報道が多い(非本質性と消費主義に関連)」があり、民放の傾向に「ニュースのバラエティー番組化」「サイトは消費主義的・物質主義的に偏重」というのがあります。そして一般的に、日本のテレビ番組は中身が無い物が多いと言われます。

両地域の比較においては、先進諸国のメディアは割とバランスが取れ、日本のメディアはバランスに欠けて、両極に存在しています。これは日本の政党分布や思想にも通じる構造です。この二極性というのは、日本の「組織理論・力学の横行」「硬直思考・原理主義性」「非論理性」「非建設性・非実際主義」を映しています。

  また先進諸国は、程度の差こそあれ、そして問題点もある物の、日本よりは遥かに「個が重視される社会・教育」が存在します。社会運動への参加意識も、日本より高く、社会・政治を語れる学生は多いです。マスコミには日本よりジャーナリズム精神があり、「watchdog(番犬)」と呼ばれる社会的機能があります。「言論の自由」「議論の場・土壌」は、日本よりは存在しています。

日本には、311後の際立った秩序を始め、「個の自主的感覚」には素晴らしい物もあります。しかし、上記の点について、この点以外は劣るでしょう。日本には「抑制された社会・教育」が存在します。社会運動への参加意識は低く、意見を言うのが憚られ、意見を持つ事自体も憚る空気があります。監視機能・抑制機能が働いていないので、「利害・保身・カネ」で結ばれた互助機能「ムラ」が野放しにされ、それに付随する「天下り」「政治と金」などの事象が多数あります。ジャーナリズム精神は低く、公器の本来的意識に欠け、しかしエリート意識はあります。大メディアは「ポチ」であり、また政官も「国際的権威(米国など)」に対して「ポチ」で、国民にも「ポチ」である事を強く要請しています。鎖を外されても逃げ出さない家畜と同じで、いつも鎖があるような感覚があって、諦めが漂っています。また訳の分からぬ「社会規範」、非合理的な「細部構造(○○カーストなど)」、支持勢力の行為を全肯定・不支持勢力の行為を全否定する「原理主義性(ネットなど)」が存在するのも特徴です。日本には、実質的な「言論の自由」「議論の場・土壌」「建設性」が欠けています。

「社会の統治構造が有する思想」「幼少期の導入教育を行う教育制度」「社会の諸事象」について、上記のように、日本と他の先進諸国では終始一貫性があります。この国で見られる「社会の諸事象」は「社会の統治構造と教育制度の在り方の中枢部分の問題性」による結果です。

現在のような統治体制の持続には、「思考・感覚の自主的抑制」をさせる為に「思考停止」「諦念」「麻痺感」を植えつける必要があり、これは実に良く出来たシステムといえます。概ね「劣化した社会構造を、個人が底辺から支え、現状を保っている」と言えますが、「個人の意識も社会も経年的に疲弊」しています。

  このような極端な傾向の国は、自由社会の先進諸国では他例が無く、如何に日本の状況が特殊か、異様か、自縄自縛的で無意味であるかを示しています。よく「日本社会研究」「日本は長年、経済的成功の割に(成功したか疑問ですが)、何か上手くいってなく、なのでどうすべきか・どう変えるべきか」などの議論があります。ただ、これらは大概が「経済が」「グローバルスタンダードが」「アメリカや欧米の制度が(真の意味する所でなく表面的部分)」など、「あまり本質的で無い部分」ばかりを見ていて、「日本や世界の根源的な問題部分」「本質的にどうあるべきか」というのを殆ど見ていません。

例えば「留学者数が少なくて、これは内向き志向の云々」などの論がありますが、これこそ視野狭窄した論です。この思考法の根本には「欧米・アメリカは外向き・どんな属性にも開かれていて、世界を支配する基準であり、他国はその基準に従属すべきである」というような物があります。この認識論は「どれもが誤りか、世界の間違った状況による物」で、真理ではありません。

「内向き」とは「世界を見ているかどうか」に通じます。この場合の「世界」というのは、「この世の大きな枠組み」な訳で、「その方向の普遍的な物」とは本質的に「宇宙」「内的世界」です。上記のような「内向き」の用法は、「宇宙や内的世界など、普遍的な事象・性質を、欧米・アメリカなどに矮小化して考える思考法」に過ぎません。これは「ノーベル賞」「欧米ブランド」などを礼賛する思考法と同じで、「権威主義と従属思考」「矮小化された、類型化された、型に嵌められた思考法」その物です。かといって「国内の権威を礼賛すべきなどというのは、微塵も無い」です。

「従属思考」というのは無数の存在形態がありますが、それら全ては「その権威従属の対象が、国内の権威か、海外の権威かの違いだけで、本質的に従属思考その物である事には何の変わりも無い」です。そして「個が無く、常に正しいとは限らない権威を礼賛し、その礼賛を周囲に強要・敷衍させていく物で、思考・感覚→議論・改善という、個人・社会の好循環の根本と真逆にある物」です。

「普遍性」とは「全ての物に通じる通じる性質」です。「その権威が、そのムラでしか通用せず、その権威たる論拠も薄く、他地では権威を主張する根拠に欠ける」ならば、「その種の物よりも本質的・普遍的な物は、無数に存在」します。「物事の中心」は「普遍的・本質的な事象・性質」です。それ以外の物が価値が無いという事は、決して有り得ませんし、「それ以外の物も非常に価値ある物ばかり」です。ただ「物事・森羅万象の中心」とは、そういう物であるという事です。

「権威主義」とは、それはどのような形態の物であっても、この「普遍性・本質性」「普遍的基準・本質的基準」を全く見ていません。また、空洞化・無思考化・権威志向・従属化により、精神性に基づく内面性でなく、外部に基準を置くので、「内的基準(精神的な判断基準)」ではなく「外部基準(何らかの権威に基づく基準)」に従うのを良しとします。これは「下位構造の物を、最大価値と崇める、上下逆転した思考法」に過ぎません。況してや、その産物の権威主義の強要は、害悪その物です。

  「ピラミッド型の山」「綺麗な円錐型の山」は「波動が高い」とされ、多くの山は、神が隠れ住まう「神奈備(かんなび)」とされます。これは見た目に美しいばかりでなく、「黄金比」に近いという、波動原理に沿った性質を持っているからです。

本来は「物事の真理」は、「大まかな・大体の真理の辺りを、森羅万象の中心として、両翼・全方向が、距離に比例して低下する」という感じで存在しているでしょう。現実的には、何を真理や微細と定義するかは困難で、真理は「点」というより、「群(真理群)」といった感じで存在しているでしょう。その「幾つもある真理」が頂上にあって、その周辺に「他の全て」は存在しています。拠って「真理は社会・世の中の中心に存在している物」であり、これが「最大・中核・基盤の存在」であり、また真理とは「普遍性」「本質性」の事です。

「権威主義」とはこれと逆に、「本来は端っこにある何がしかを、中心に据えて、それを称揚する思考法」です。その対象にも、それぞれごとに価値があります。然し重要なのは「真理の方が、遥かに高い本質性・普遍性がある」という事です。権威主義には「論に必要十分条件の論拠が存在しない」「しかし強固に信用・主張する」という点に特徴があります。

そして「権威(自発的に同意を促す)」「権力(強制的に同意させる)」とは、即ち「力的な物(直接・間接の何れにしろ)」「階層性の志向」なので、「非論理的に強圧的に持論への従属を促す」という特徴があります。「権威が横行する世の中」とは「非論理性や強圧性や、巨大な階層性・格差が罷り通る世の中」であり、「権威主義とはそういう世の中を招く物」です。

従来の世の中は、階層社会の中に人々を埋め込み、経済に再生産・拡大増殖を続ける為に、色々な物を壊し続けてきました。そこで用いられたのが「権威主義・従属思考」「物質主義・消費主義」「無思考化・思考停止」などで、破壊されたのは「自然環境」「精神性・感覚・感受性」「共存的社会」「真理・真実」「社会の改善」「未来への希望」です。「権威主義」とは、こういう破壊性に連なる物です。

  台湾では反原発運動が高まっていて、広範な人が支持、当事者意識の下に、デモには多くの人が参加しています。総人口は日本の1/10、事故は国外で起きましたが、デモ参加者は日本より多いです。「自分の頭で考え、能動的に行動する」という「人間の基本的な在り方」が、日本よりも高い次元で存在していると捉える事が出来るでしょう。

「原発建設の国民投票を行い、国民に賛否を問う」と行政院長(日本の首相に相当)が述べました。「住民投票は馴染まない、拙速だ、こういう判断は議員が行う」などと言っている「日本の議員・官僚・上層部」とは「基礎的レベル」と、そして「権威主義・愚民主義・視野狭窄・ムラ思考・全体主義」の度合いにおいて、差があります。

そもそも「根源的問題」「重要問題」だからこそ、「十把一絡げに議員に託す代議士制度」でなく、「個別問題を集中的に扱い、個々人で考え、皆で討議する国民投票・住民投票が、より相応しい」のですが、「権威主義と愚民主義に凝り固まった思考」「上位下達的思考」「ムラと既得権益を固執する思考法」には通じません。これは日本中の「利権・不正・監査」など「各種の住民投票」においても、同じ言説を以って、既得権側により提案が排除され続けています。基本的に「全体主義」というのは「お上・権威・力のある者・暴力的な物を礼賛する思考法」なので、「反対側の草の根的な概念」は嫌なのです。こうして「日本における住民投票の数は、他の先進諸国と比べ、非常に少ない」ものとなっています。

「拙速」との用語用法は先述の通り、「馴染まない」とは「都合が悪い」という「意味・用法・言葉の置き換え」でしょう。「馴染まない」も「政治用語・官僚用語の一種」で、用例の多くは詭弁で、日本の政治に良く見られる、得体の知れない「鵺(ぬえ)的な表現」の一種です。議員・官僚・上層部は、例えば「大所高所」などの「欺瞞的な典型的用語を頻用」しますが、実際は「小所低所」です。「日本の政治は不透明」だと昔から言われてきましたが、その多くは「意味不明瞭な政治官僚用語の頻用と、その背景の土壌」による物です。

これらの多くは「詭弁的・欺瞞的に用いて、誤魔化す為の道具」として重宝されています。拠って「一般社会での、原義に近い用法(誤魔化しを意図しない)」と「界隈における用方」は異なります。そして「こういう詭弁・欺瞞を駆使して、誤魔化しながら、組織利益を図る」のが「頻用の意図」で、これが「この国の組織社会全般において、延々と繰り返されてきた光景」です。

また、台湾での運動の一環として、母子が登場する考えさせられるCMがあります。日本においては「考えさせられるCM」「深いCM」「ウィットに富んだCM」「芸術性の高いCM」の割合は少なく、「商品名・企業名の連呼型」が多いそうです。これは「(最後段にある)日本のテレビやメディアの内容・情報の傾向」と合致します。この種のCMは、日本では流れないでしょう。何故ならば「日本は閉鎖的思考が蔓延した社会だから」「国の基盤の構造において、低質性が社会的力学となっているから」です。

こうやって日々刻々と「物を考えなくなる・感じなくなる」「考えない・感じない事が善とされる」「深さ(深い思考・感受性)を持たなくなり、浅薄になる」「何をやっても無駄だと、また刷り込まれる」「強きに・大勢に・権力に従う事=善・要領の良い行動法と教えられる」ような「訓練・教育」「方針・実践」が繰り返されてきました。これは「全ての意味が剥落していく」「空虚になっていく」ことであり、「社会が無意味化・虚無化し、融解する」ような方向性です。

「日本という国・日本人」は、長らくそのような方向へ、一貫して流れていっています。こうやって「日本の国・上層部社会・メディアなどの村々」は、日本中を「空洞化・無思考化・無脳化・低質化」させていっています。そして「社会の無意味化・虚無化・融解」は、その一因として「全体主義や権威の名の下に、更に促進されてきた状況」です。こうして日本は近年、世界中の国の進歩から取り残され、一人だけ迷走を続けました。

その1つの表れが長期不況に過ぎず、そういうことをやっていたら、この「幸福度の低い社会(各種アンケート結果)」「働けど働けど、事態が余計閉塞する」という状況を抜け出せません。更に「全体主義に旋回して、事態を打開しよう」という「事態の改善法と真逆にある論説」も多数ありますが、「住民投票・国民投票を毎度毎度否定するような、先進諸国には類例のないような社会を、更に全体主義にする」ことに、どのような未来を見ているのでしょうか。

それは要するに「ある決まりきった枠組み、何かしらの都合の良い型に嵌めていき、大量生産ロボットを造っていく社会構造・教育制度」であり、これは「近年・近代に社会上層部が志向した体系・意図」である「個の抑制」の目的図です。これらは全て「低意識化・低波動化」「過剰同質性・過剰同調」「全体主義」「権威主義」「物質主義偏重」「精神性の軽視」「無思考化・虚無化・空洞化」「自己中毒的な閉塞化」の下に繋がっている思考行動原理です。

言ってみればこのような思考とは「"このような低質社会における主・主人"で居たいとする思考」ですが、「これを行っていくと、全体状況が悪化するのは明白」「日本が称揚されること=満足とするが、全体状況が悪化するので、決して満足する方向には行かない」という物であり、結局は「自らも、子孫も不幸にする皮相的な思考法」に過ぎません。ここに「全体の未来というのは存在しない」です。これは過去の歴史からも、社会心理学からも、社会の成り立ちの経緯からも、波動原理からも、このように説明できるでしょう。端的に「社会の低意識化・無思考化を齎す方向性に、幸福な未来は存在しない」「低意識は低意識と共鳴し、低波動を齎し、不幸と災厄を増加させるだけなので、ここに解決法はない」です。


物質主義と閉鎖性と視野狭窄による自家中毒
  「日本の政治」は質が低いと言われ、「メディア(大メディア)」もそうだと言われますが、既存の物を補完する役割を持つべき「ネット」にしても、主流の場は同様となっています。日本の代表的なネットサービス・ネット論壇は「場の空気を読む」という傾向が強いと言われます。これにより「内容ベースの熟議を行う電子公共圏の構築(討議プロセスを含む電子民主主義の実現)が困難になっている」との論があり、正鵠を射ているでしょう。

日本は「文化面・言語面・人種面」などから、「海外からの情報の直接的流入」について、その度合いは多くの海外諸国より低いです。これもあって「国内メディア」が、国内の情報流通をほぼ独占、海外の情報も一度「メディアムラ」でワンクッション置いて、そこから選択的に幾つかの情報が流されます。これにより日本は「情報鎖国」の様相を呈していて、「日本固有の悪状況・低質要素」が野放しにされたり、益々悪化する非常に大きな要因となっています。

先ず「海外の一次的情報」が少ない上に、「民族主義的・国粋的な偏狭な否定」「海外権威(欧米・国際機関など)への隷属」という異質の2つの側面もあり、更に「ぬるま湯・無思考・無感覚」「議論の土壌」もあって、「海外事例・他人種の意見などを含めた、多様性のある比較・議論」が滅多に成されません。

また同時にこれは「国内状況が海外にあまり伝わらない」「興味を持たれない」という事も意味しています。これにより主流の「ネット論壇」において、先進諸国の主流のネット論壇ではあまり無いような「一部の偏狭した意見」が野放しにされたり、日本では普段は海外の視線を気にするにも拘らず、ネットでは「どうせ海外から文句言われる事もないし、何をやっても平気」という感覚が存在する状況を生んでいます。これは「内容ベースの熟議を行う電子公共圏が無い」という上記の点とも、密接に絡んでいます。

元々日本には「極端さ・他論への排他性」は少なかったですが、稀に存在した第二次大戦の時期のように、非常にギスギスした、そして単純化・短絡化した論を良しとする空気が存在、更に外国から何か批判されたら脊髄反射的に全否定する論や、「愚民主義」を肯定するような先鋭性・末期性まであります。

「議論の場の問題」については、「草の根的な議論(の場)」ではなくて、「集団・組織の時において特に見られる傾向」であり、「空気の読み合い」によって「同調圧力」が発生、「没個性的・歯車的」に「硬直性・先鋭性」を顕在化させていきます。このような思考法は思想だけでなく、「○○理論で決まっている事だから正しい・間違い」「これは何々が決めたことだから守れ」などの非合理的観念を伴って、各方面に存在しています。日本は「個の連帯」に大きく舵を切らないと、「議論が出来ない」という根源的問題点を改善できないまま、「何となく、とても不幸・息苦しい」という社会が続くのみでしょう。

  現代の社会的システムとは「人々の善性による循環が起こらないようなシステム」となっています。何処かを歩いていれば、ごく普通に「人々の無意識下の善性の発露」が見られます。このありふれた日常光景の背景の心象こそが、「全ての人の平均的心象」でしょう。それは「人間個人としての中心的部分で、神性であり、そういう物を皆が有している」という事です。皆がこの善性を「先天的・潜在的・基礎部分」に持っています。

しかしこれが「大組織」になると、突然に「逆向きの、後ろ向きの力学による統治構造」となります。それは「集団化した時に、人々の感覚を縛る"後ろ向きの何か"が現れる」からです。これは「従来社会や近代の通念」による物で、「後天的に獲得した物」であり、拠って「人間の基盤部分にあるのでなく、単なる現在の常識にしか過ぎない物」です。しかし「それは従来社会や近代の常識である」ので、「常識=絶対的な物との思い込み」により、これを「社会システムの根源に位置する、未来永劫不変の法則」であるかの如くに解釈する深層心理に、人々が覆われてしまっています。「良識」は「常識」の上位概念ですが、現代の社会では「常識」は幅を利かせていても、「良識への視点」はなおざりにされています。

ここに「人々が先天的・潜在的・基礎部分に有する善性・神性」が発露される「好循環社会」は起動せずに、「後ろ向きの力学による統治構造」の「悪循環社会」が「現代社会の社会的システム・社会的力学として存在し続ける」ようになります。これは偏に「意識の偏りによる、思い込みの成せる状況」であり、「全く真理でも不変な物でもない」のですが、それでも「導入教育で刷り込みされたかのような認識論」においては、ここに気付く「呪縛からの解放」がされずにいます。

現代社会の方向性とは「本来は霊的存在たる人間にとっては、在るべき方向ではない」「人間本来の存在からすると、程遠い方向」です。だから無理が生じて、破綻しかかっていて、それを強引に糊塗する為に「様々な欺瞞・酷い事・良くない事」が生じています。「善性の好循環」が起きる社会を構築しなければ、この「負の悪循環から逃れる事は出来ない」ですし、そもそも「個の抑制と全体主義」ばかりしていては、「何かに対する気付きと改善、という循環を起こす為の、その起点にさえ辿り付かない」「その状況の意味さえも分からない」「自分だけでなく、他人や社会をも縛り付けたまま」です。

  近年の支配的傾向であった「資本主義偏重・経済至上主義」「開発第一主義」においては、「日本中をコンクリート付けにするような開発」で「利権込みで金を流して」「経済を成長させる」という方法がとられてきました。これは「従来科学に近似したやり方」であり、拠って「物質を製造・再生産する事は可能」です。しかしこれは「環境・社会・人々の波動が低下する」ので、「ツケが溜まり続けて」「何れ持続不可能な状況になる」方法論です。これは端的に金・物の志向による方法論ですが、経済面で見ても「高度成長以後の成長余力低減」「バブル経済以後の成長余力ゼロ」「20数年の超長期不況」は必然的現象です。「波動低下のツケ(災厄増加なども含め)」から考えて、概ね高度成長期終了後の1980年代以降は、経済成長余力が無くなったのでしょう。拠っていくら「景気刺激策」をやっても大して効果はありませんし、借金が増えて「中長期的な経済力基盤を更に低下させる」だけです。

日本広くに見られる「低経済成長率・負債残高」「非常に高い自殺率・精神に病を抱えた人の多さ」「幸福感を感じていない人の多さ」「少子化」「国内外の"過去の国・もう成長は無い"との視点」「社会隅々までの硬直的構造」「非常に物質主義的・資本主義的・ムラ的なメディア・広告・映像ほか」「伝統創造意識の低さと、ファーストフード的な一過性流行」「思考・感受性の状況」「更に原発事故」は、正に「ツケが溜まり続けた結果」「持続不可能になった状況」です。そして「現代社会の基盤的・根源的状況がこのレベル」であって、「これから成長だの幸福だの何だのと言うのは、この方向では絶対に無理」「それは波動的にも、過去の状況・過去からの流れからも、各種統計結果からも、そうとしか判断できない物」です。

そもそもが人間はロボットでなく、社会は集合意識が成り立たせている物なのだから、これはあまりに当然の事です。拠って現状を続ければ、更なる「生命力低下・活力低下」「混迷」「末期的症状」「終末的状況」「破滅的状況」となっていくだけです。「従来科学に沿ったやり方」というのは、どうしても「重大な副作用」「隠された膨大なツケ」「意識低下・波動低下」「環境破壊・社会が存続する為の基盤の破壊」を伴う物で、これは「従来科学(波動原理以外の科学)の科学的性質・物理的性質・根源的性質がそのような物である」という事に拠るので、なので「これらを避けるのは絶対に不可能」です。

結局の所「従来科学・資本主義的・物質主義的な物は、短期的・麻酔的な物でしかない」「中長期的には却って逆効果の方が多くなる、何故ならば環境・社会・意識の低下が不可避で、そのツケがカルマのように溜まり、逆向きの効果・負のエネルギーが蔓延するから、それにより停滞する」「それでも無理に資本主義・物質主義を推進しようとすると、破綻的状況として崩壊・破壊が各所で発生する」「しかし過度に資本主義・物質主義に染まったり、破壊的意識を持ったり、意識・波動が低いほどこの事に気付かないので、そのような社会では解決が困難になる」という事であり、云わば「波動原理上では、これらは当然のこと」「従来科学とは、科学的にそういう物」なのです。

  現代社会は「公的権力・大組織による不義・不誠実や、朝三暮四に慣れ過ぎている」と言えます。人体には様々な有害物質が蓄積し、波動を非常に下げ、健康・寿命・精神状態・各種能力・社会状況に、極度の悪影響を与えています。若しこれが「寿命や金銭のほんの一部を"渡す"ように言われたら、誰しもが拒否する」はずですが、「社会がみんなそうだから」となると、途端に「気にしない・気にし過ぎ」と一変します。現代女性の胎盤には、多くの有害物質があり、それが胎児・赤ちゃんへ直接的に悪影響を齎しています。国などがこれを放置するのは許されないですが、実際には「利害関係」により放置されて、国民の健康は蝕まれています。現代社会というのは「あまりに多くの事が、不正義が罷り通るように存在している」「それを無視し過ぎている、放置し過ぎている、麻痺し過ぎている」という状況にあります。

工事だの何だのをやり尽くして、仮に経済成長が1%増えたとしましょう。でもそれにどれ程の意味があるのでしょう?「その時点~長期的期間の、幸福度・充実感や災厄・健康度などの総和」はそんな物で計れる物ではないですし、「朝三暮四」や、更には「朝四暮一」「借金と波動低下の雪だるま」にする行為に、何らの意義もありません。散々借金して、「バランスの良い社会構造・開発行為」ではなく、「ばら撒き・利権・省益・分捕り合戦」なので何の効果も無く、経済面で子孫にツケを残して、そして放射能汚染で国土を極端に汚して、子孫にツケを残して、あらゆる生物に迷惑をかけて、コンクリート漬けにすることで生物にとって住み辛くして、波動を下げて、国土を脆弱化させて、それが「国の為・国の発展・国の向かうべき方向」とか、何なのでしょう。そういう事を長年続けてきた間に、その代わりに、何故もっと良い構造・社会に出来なかったのでしょうか。

そもそも「外国が日本を現状レベルに汚染したら、激怒し、戦争になりかねない」のに「日本が自国を現状レベルに汚染したら、それは問題ない事、仕方ない事、大したことない事、騒ぎ過ぎな事、改めることで無い事」とするのは、どう考えても大矛盾で、異常でしょう。「外国が自国を汚染したら怒るのは当然」ですが、では「自国が汚染したら、問題はない事」なのでしょうか。「普段は絶対的な物、神聖視している国土観念」と真逆です。「自国が自国を汚染するのは、自らが生き続ける大地を汚染するのは、全ての思い出と共に在る大地を破壊するのは、先祖から受け継いで子孫へ継承する国土を汚染するのは、絶対に間違った事」でしょう。

「事故前での、放射能汚染・汚染食品への考え方・言ってた事」と正反対であり、「若し外国・嫌いな国で事故が起きた時の反応」とも全く正反対でしょうし、欺瞞と嘘だらけです。「若し対論側が不正行為を駆使したら激怒するのに、同意見の側は何をやっても良いとする思考」というのがあり、これは「○○ムラは何をやっても良い、○○無罪のような思考」です。左右ともに、どんな国家でも、全体主義は「思考における、この種の自己側への甘さと、対論への非寛容」「理不尽さ」が目立ちます。外国を利するだの何だと言いますが、そもそも主体は「日本・日本国土・日本人」「大地と環境と安全性」であり、その「浄化度・安全度・継続性」がどうかの問題で、即ち「外国を利するかではなく、自国(人・国土・環境その他全て)に利するかどうかの問題」であり、「思考における本来的な主体性」が欠けています。「あいつらが○○」のような思考ですが、物事は先ず根源的に「自らがどう在るべきか」の問題で、「内省的思考」に欠け、即ち「非哲学的・非精神的」であり、それ抜きに自らが・程度が良くなる訳はありません。「思考における本来的な主体性」が欠けているのですが、「自らを、対象が反日かどうかを決める主体としている」のです。そもそも軍事を言うなら、その存在自体が脆弱性その物で、真逆の存在です。もうあれもこれも矛盾し、「金銭至上主義・全体主義・国家序列への意識偏重」などに凝り固まり過ぎて、論理が整合していません。

原発事故が起きても、「無かった事・安全な事・もう絶対に起きない事」にしてしまえば、お金と圧力で対処すれば、事実とは違っていても、例え嘘でも、そう言い続ける事は出来ますし、そんな社会を曲がりなりにも継続していけます。だから現在は、ニュースは「詭弁や末期的症状」、それ以外は「即席の流行を造って、餌的に耳目に流し込んで、思考・感覚を飽和させる、歪んだ市場主義による、空虚な産物」というのが、メディアから流される情報の多数です。

でもそんな事に、内心嫌気が指していて、社会なんて下らない物だと思って、更に意識が低下、これでは犯罪の社会的要因も増えるでしょう。そんな閉塞状況の打開の為に、全体主義の論説をぶったり、格差拡大の方向の論説や(TPPもこれです)、更に働き詰めにさせたり、枠組みに押し込めたりする事を要求する論説を弄したり。しかし実際には、国内外の大概の人は、それで事態が改善するとは思ってません。でもこの自家中毒と視野狭窄と思考硬直から抜け出す方法を知りません。今の世の中はそんな状況です。

制度疲労を起こしても、実際に実験・報告で従来常識と違う事実が判明しても、「同質性に高度に染まり、思考と責任感を放棄した人」からすれば、「そんな事はどうでもいい事」「自己や組織の為には面倒な事・邪魔な事」でしかありません。こういう状況が社会に蔓延ったら、それはどう考えても、その社会は悪化していくでしょう。でもなんとなく分かっているけど、この方向に未来が無いのは薄々気付いているけど、こんな事をしていたら、何れ嵐が来て海に放り出されて溺れるという危険性を避けられないのは感付いてるけど、でも止められない、何故ならみんなと同じ方向だから、偉い人なりもそんな事なるとは言ってないし、自分が動いてもどうこうなる訳でもないし、というのが今の状況です。

  当たり前の事ですが、「真理というのは、枠の中と外に存在している」ものです。これは当たり前過ぎますが、しかし真理だと思います。「枠の内」ばかり見ていたら、絶対に「枠の外側にも存在している真理」を見るのは不可能です。社会学では「あまりにも前例を踏襲し過ぎる集団や、同一思考の人が多過ぎる集団は、次第にパフォーマンスが低下する」と言います。個人レベルがそう行う分には「無難な選択」とも言えますが、実際「無難な選択を無意識で意図して前例を踏襲する」訳ですが、全員がそれをやると破滅します。当然ながら、常識・物事には「正しい部分と、間違っている部分がある」のですが、全員が同じ事だけをやると「常識外の正しい事は無視され、常識内の正しくない事は保持され続ける」からです。

こういう事は,相当昔から言われ続けていましたが、でも変わらない・変えられない・進歩しないというのが、近年の状況でした。変える機会は幾らでもあり、実際311後もそうでしたが、でもこういう状況です。これは「事態を改善するのは割と簡単である」「でも意識が低いと、或いは気付かないと、それは出来ない」という事です。ごく当たり前の結論ですが、これも真理でしょう。

日本で「前例踏襲が多い」のは、「失敗を恐れる」「無難な選択を望む」「周りと外れるのを嫌う」からです。「無難な選択をする」のは、それ自体は何も間違ってなく、当然と言えます。ただ「全員が無難な選択をし続ける」と、上記のように破綻します。そもそも「無難」=「無難かどうかを判断する、常識自体が正しいかは不明」=「正しいとは限らない」であり、単に「皆と同じ道・マニュアル通りの道を信じてるだけ」です。それで「日本社会で前例踏襲が多いのは、失敗して、最終的に破綻の方向に行くのを恐れるから」でもありますが、「前例踏襲ばかりだと破綻する」訳で、これは完全に矛盾しています。事故前は「世界中でずば抜けて安全安心を志向していた」、事故後は「世界中で最も酷い基準・状況を安全安心と呼ぶ」、これも矛盾であり滅茶苦茶です。

結局近年の日本では「大局的視野・俯瞰」「水平思考」「根源を見る事」などが欠けていたからこうなった訳で、「空気への過剰同調」ばかり求めるから「矛盾に満ちた、事故前・事故後の主張の天地逆転」「赤信号みんなで渡れば・茹で蛙」も起きて、それが正当化される訳です。また、この状況には「社会上層部の深刻な責任感欠如」が伴っているのですが、何故社会上層部でそんな事が起きたかは「内部で空気・常識などが重視され過ぎた」「それが権威となり、皆を縛った」からです。結局は根は全て同一です。

日月神示には次のようにあります「逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。 あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、上にゐては足も苦しからうがな、上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、足はやはり下の方が気楽ぞ、あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、この道理分りたか。岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ。」

凡そ近代・近年というのは「本来的な上位概念より下位概念を重視する主客逆転の悪循環」が繰り返されてきました。勿論日々の事、目の前の事も大変で、しなくてはならない事だらけですが、「ちょっと根源的な部分を見なさ過ぎだった」という事でしょう。

「現在・近年の方向性=波動原理に沿わない方向性」であって、どんなにやろうとも、仮に短期的に上手くいったように見えても「本質たる波動と、その顕現たる各種状況は、現在レベルと大して変わらないまま」「様々な事の破壊が続き、継承できなくなる物も多数生じ、災厄が頻繁に生じ、幸福度の低い社会が続く」でしょう。拠ってこれを変えるには「根源的に社会の在り方、思考法・感覚自体を大幅に変える」以外にありません。それは「縄文時代に代表されるような、もっと穏やか・融合的・柔軟で、云わば母性的に近い社会」でしょう。そのような社会では「意識は高く、気持ちは楽に、問題は減少して、隠されていた問題も解決」していくでしょう。

  「視野が狭い」ほど、「思考・感覚が硬直的・一面的」なほど、反面「俯瞰的な視点を持たない」という観念を持ちます。なのでこの思考法では、「本質性・普遍性を重視しない」「国・国際関係により決められた与件や、社会的条件を、大前提としたり絶対的な物とする」といった思考法を伴うのを基本とします。

普遍性・本質性の代わりに、「社会的に有力な、何らかの枠組み」を判断基準とするので、「社会・界隈・ムラを支配する体制・価値観・手法」に依拠するようになります。この「社会・界隈・ムラ」とは、「政官財のOOムラ」から「メディアの流す消費主義的情報や芸能情報」や「身近・周辺の物」まで、様々な場所に存在する物です。

そして「その界隈の権威的な基準・マニュアル」を重視して、「その界隈の空気重視・常識重視・前例踏襲」の志向が強くなります。逆に「何が大切か」を無視するので、「人間・社会にとり重要な事」は無視・否定されます。こうして「一面的な価値観・思想に従属」「それを世界の中心とする」ようになります。

また判断基準として「社会・界隈・ムラの価値観に基づく上下関係・序列関係」も非常に重視、「その序列の保全」に心を砕き、「序列で劣後する事」に非常に大きな不安を抱きます。このような思考法に則っていくと、例えば「身近な人間関係の序列化・カースト」から「社会関係・国際関係での、敵の敵は味方・敵の見方は敵のような思考法」のようになっていきます。

これは「外部の基準・価値観を最上位とする思考法」で、非常に非建設的で、論理的整合性・一貫性が無くて、こういう観念が蔓延した社会は、空虚な空気に満ちていきます。全体状況が、無意味な事に終始したり、それを繰り返すのが常となり、その「意識の縮小再生産」は止め処もありません。また逆説的に「空虚な情報・事象に満ちた社会」も、目の前の瑣末な事に終始するので「視野の狭さ」「思考・感覚の硬直性・一面性」も量産し続け、この関係は比例的に社会で増減します。

人間というのは必ず「何らかの判断基準・価値観や、世界や趣味」などを持ちながら生きていくので、拠って「視野の狭さ」「思考・感覚の硬直性・一面性」というのは、必ずこうした傾向を、徐々に徐々にでも醸成させていき、それを社会の支配的な空気と化させていきます。これは社会心理学的に、絶対に止めようの無い傾向です。そしてこれは実際日本でも、例えば一部ネット社会に非常に特徴的に表れているでしょう。

「低い意識で社会を纏め上げて、思想的な成功と、物質的・経済的な成功を両立させる」など無理な話です。況してやそんな社会が、各種社会アンケートにおける「幸福度の高い社会」になる筈がありません。例えば「サビ残が横行して、空気への同調が蔓延して、閉鎖的ムラが跋扈して、学生の社会意識が低くて、中身の薄いメディア情報が流れ続けるような世の中」が続くだけです。

社会に見られる状況は「こういう要素だけではない」ですが、しかし「こういう事をしてると、こういう要素が大幅に増える」というのは確実です。「現代社会の空気・構造」というのは「このような状況・要素を増やす装置」です。

こういう状況は外から見れば、何も良い所が無いです。ただそれを、裸の王様の如く自画自賛したり、それしか無いんだ有り得ないんだ仕様が無いんだと、根拠不明に思い込んでいるだけです。でも「俯瞰的視点」「外から見る視点」が無いので、永遠にそれに気付きません。結局全ては「意識」で、「気付き」から始まりますが、気付かなかったら永遠に何も変わりませんが、それを見させないように分からせないように阻んでいるのが「現代社会の空気・構造」です。更にこの構造は、生物的に自己増殖を図り、保身を図り、状況変化に適応します。これは本当によく出来た、そして最悪な構造です。


欺瞞的な建前が招く、非健全化と本来的な倫理の崩壊
  日本では「先輩後輩の秩序(長幼の序)」は重視されています。「年齢による上下関係」には「自主的な尊敬の念による、年長者への敬い」と「社会規制的な縦構造の関係性に伴う物」の2種類があります。前者は自然発生的な「内部的秩序(内的秩序)」、後者は行為を要求される「外部的秩序」と捉える事ができます。前者は「能動的に参加している意識」「生き甲斐・遣り甲斐に似た内的な意味」、後者は「強制的に参加させられている意識」「やらされている感」を齎します。

後者は「上意下達」など、他の「様々な縛り」を伴い、「閉鎖的社会」によく見られる構造です。日本社会は年功序列社会で、若い人が組織上層部で活躍する機会は、二世議員・二世社長でもない限り、先ずありません。年功序列には「競争抑制」「忠誠心競争に繋がる」という功罪の二面性がありますが、「活躍の機会さえない」というのは、これと別に問題性があります。また政界には年功序列に類する物として、「二世議員の蔓延」があり、「二世議員の長老」が跋扈、非常に多様性に欠け、同質性が高い社会となっています。

そしてこれは本来の「敬老」というより、「ムラの長老実力者による、集団・社会の統制的統治の前提としての、都合の良い社会構造」という意図・側面が強いでしょう。「異論封殺と地位安泰」を望む「閉鎖的社会」は、「大きな声を持つ長老実力者」が実権を握り、そして「ムラ・圧力団体」には「組織理論を通しやすい社会構造」「大きな声を持つムラの論が通る社会構造」が必要です。この需要に対して「統制的な縦構造の年齢秩序」は、「年長者の中でも、最も権威を持つムラの実力者達の寡頭支配」が最も有効機能する構造なるので、最も都合が良いのです。これはまた「老後の地位安泰」を望む「閉鎖社会のエリート」にも都合の良い構造で、「閉鎖集団の互助」である「天下り」に通じる側面を持っています。

「自主的な尊敬の念による、年長者への敬い」というのは、「人々が自主的に持つ秩序規範」です。この関係性においては「連帯」という形態も共有できます。これは「共存・調和」に近い関係性で、国内外の様々な人・集団に対しての相互尊重にも繋がり、有機的に無限連鎖する建設性があります。この「自主的な尊敬の念による、年長者への敬い」は、「どの社会にも本来的に備わる自然な秩序」で、これが「年長者への敬い」への基本的な姿でしょう。

先述のように、日本では「昔の音楽=自動的に全て古臭い・興味ない・聞かないとする思考法」がよく見られます。この理由の1つに「歴史の積み重ね・その事物に対する軽視」「時代性・流行の重視」があり、それは「消費主義・即物性」などの観点にそぐわない物」だからです。これは「ファッション」など、「近代文化の幾らかの分野」でも強く見られる現象です。「消費主義・物質主義・即物性」「大量生産大量消費の流行の消費」が主流力学の日本にあって、その「社会構造に準拠した観念」が大量生産されるのは必然で、この力学に基づいた観念により、これと対極的な「昔の曲」は自動的に駄目とされます。勿論駄目とされる理由は他にもあり、それには一定の合理的論拠を有する物があり、そしてそれら「論拠・社会事象」は、たった今現在の社会においても「消費主義・物質主義・即物的で、虚無的・皮相的な社会的傾向」により拡大再生産されています。

「低意識」は「低波動」=「高エントロピー」=「秩序崩壊を促す」という性質を、「高い意識」は=「高波動」=「低エントロピー」=「秩序再生産・維持を促す」という性質を持ちます。「内的秩序」「社会に本来的に備わる自然な秩序」を拡大させてゆくには、「高い意識」を持つ以外になく、「低意識とその手法」では不可能です。

現代の日本社会においては「社会規制的な縦構造関係の年齢の序列を、拡大再生産する社会的力学」はあっても、「自主的な尊敬の念による年長者への敬いを、自然に醸成していく社会的構造」というのはありません。「先輩後輩の秩序」について、社会に広範にあり、その拡大を「統制的に主唱する論説」も多いですが、反面「社会に本来的に備わる自然な秩序」の面から拡大させるような社会構造はありません。何故ならばそのような「連帯」的な社会構造は、「統制的構造・ムラ的構造」と相容れなく、既得権層・同調者には邪魔な物だからです。日本は「二重基準的な欺瞞性(本音と建前を欺瞞的に使い分ける)」「非論理性・非建設性」が横行していますが、これは正しくその物です。

そういうのが蔓延する社会状況が持つ「嘘っぽさ」「胡散臭さ」というのは、当然誰でも重々知っていて、そして「当たり前のように誤魔化しの奇麗事の言説(政治用語・官僚用語はじめ)が溢れかえっている」と感じています。「日本は普通にそんな社会で、変わりっこなく、それに対して、感覚を麻痺させながら従うのが強く求められている」と思っています。こういった「日本社会の構造が齎した観念・諦念」というのは、「社会を空虚な物・意味の無い物と感じさせる教育」として充分過ぎる物で、これにより「内的秩序・内的規範」を崩壊していっています。

「様々な縛り」を当然視・増やそうとする「全体主義・権威主義」的な思考法においては、「秩序が壊れている、維持せよ」と頻繁に論じます。然し現実には、科学的には、「内的秩序」を崩壊させてゆくのは、そのような思考法・手法です。このような手法は、仮に限定的成功をしても、「低意識=低波動」により、全体で見れば「社会にとって最も重要な部分」を崩壊させていって、失敗します。

「全体主義・権威主義」は、往々にして「利害重視」「利己主義」「消費主義・物質主義」を伴いますが、これは「秩序再生産・移住を促す方向性とは真逆の物」であり、お為ごかしもいい所で、言ってる事とやってる事が正反対です。結局こういうのは「低レベル社会において、自らは主人であろうとする思考法」「全体を不幸にさせて、自らは優越的地位に固執する思考法」です。

現実に社会各所に「アノミー(規律の崩壊)」が起きていますが、それは「高い意識に基づく社会を目指さず、社会各所に欺瞞・詭弁が多かったので、高い意識が減少した」からです。そもそも「秩序性の低い低意識」は「社会的摩擦・軋轢・圧力が多い、高エントロピー社会」招くのは、道理的にも科学的にも必然です。先ず以って「秩序性の低い低意識で、高い秩序(低エントロピーの構造)を構築する」ということ自体が不可能で、論が成り立ちません。

  根源的に、「日本の明治維新以来の最大の誤り」は「個人を全体主義的な方向性に隷属させる為に、思考・感性を放棄させ続けてきた事」です。そしてこれは「日本の諸問題の根源」「日本の様々な悪化(意識・波動・状況)の根源」です。

こういう物は昔からあったのですが、まだ社会が出来上がっていない段階では「まだ雁字搦めで無い状態」であり、各所に「余裕・遊び」が存在しました。社会が出来上がっていくに連れ「良い制度」も増加しましたが、反面「良くない制度・状況の固定化」も多数発生しました。

また経済発展は「この方向が正しい」「全体主義的・統制的にやってきた体制側が正しかった」との観念を醸成し、それが近年の「改革・改善があまり行われない状況」「これによる停滞・低迷・状況悪化」を引き起こし、意識と波動の低下も招き、「全体主義的・統制下なので問題点に気付きにくい」という状況も招き、「何だかよく分からないが、とにかく全体として非常に悪化している」という一般的感覚が持たれるような、現況に至っています。

恐らくは、根源の「日本の地霊(往古から蓄積されてきた霊性)」と、自らの選択の「個人を全体主義的な方向性に隷属させる為に、思考・感性を放棄させ続けてきた事」とを併せて考えると、「戦後のようなコース」「何時の頃からか低迷し長期不況になる」「全く解決法が見当たらない、ぬかるみのような状況」「自縄自縛的な状況」というのは「云わばカルマ的に予定されていた事」なのかもしれません。

311後に「絆」という言葉が、よく言われました。絆には肯定的含意があり、人々が絆という言葉を用いる時、そのような用い方をしています。個々人が用いる場合、それは大概が「良い言葉」「善性に基づく感情による物」です。「絆の肯定的含意」は、とても重要な物で、家族の絆は強い物です。

しかし「国中で大規模に用いられる標語」「大きく掲げられる言葉」の場合は、「その言葉を選択する事の意味合いは、良いにしろ悪いにしろ、個人が使う場合と全く異なる」「標語という物は、その事例ごとに、最も適した言葉や、相応しくない含意を持つ言葉が存在する」ことを、非常に重視して考えなくてはなりません。そして、絆の原義とは「動物を縛る綱」「束縛するもの」です。これは「個の抑制をさせる思考法・社会体制」に通じます。

「むすひ(産霊)」について、項目6⑤に記してあります。これは「ものを生み出す力」「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働き」で、万物は「むすひ」の働きによって生じ、発展すると考えられています。「むすひ」は「結び(むすび)」でもあり、「全ては繋がっている・結ばれている」という概念です。この方向性の物には「魂振り」「連帯」「輪廻転生」「循環」「輪・和」「共生・共存」「融和性」などがあります。

311後に「大きく掲げられる言葉」として最も妥当だったのは、「役割・意識・思いやりなどが繋がっていく」という概念の「連帯」であるべきでした。「連帯」というのは、「高い意識」により支えられ、「社会の改善」を生み出し、「共存・融和性」を志向します。「何らかの縛りによる結び付き」ではなく、「共存意識の結び付き」による物です。「連帯・共存・融和」などは「むすひ(産霊)」「魂振り」「生命力向上」「社会の活力低下」「意識と波動の向上」を生み出し、「縛り」は「気枯れ(けかれ)」「生命力低下」「社会の活力低下」「意識と波動の低下」を生み出します。

標語を決めるに際して、「連帯」「絆」が主要候補だったと思います。「殆どの大組織が絆という標語を選択した」訳ですが、これは須らく「連帯より、絆を志向する意識」があったからでしょう。全事例ではないでしょうが、多くでは「連帯のような、高い意識と社会改善を生む概念より、組織力学を守る物である、束縛の含意を持つ言葉を、意識下・無意識下の何れにしろ、選択をした」と思われます。またこれは「横の連帯が無く、それを阻害してきたから、縦関係で結ぼうとした」ということです。こういう所に、明治維新後・戦後の日本の病弊と、更に311・被災度の原因の一端が存在しています。

その意図はどうであろうと、具体的悪影響はないという言説があっても、「多くの人が、締め付け・縛り・抑圧を感じる世の中」は「個人・社会の状況を低下させる物」です。それは「魂振りによる産霊の効果が減少する」からです。逆に「開放的な世の中」は「個人・社会の生命力を改善させる物」です。開放的なら何でも良いという訳ではなく、当然他の全条件が絡み、「開放的で、他は低意識」では良くないですが、「要素面」ではそうだと言えます。

  「政界・官界」にしても、「実質的な個の側面は少ない」「組織・力学・空気の統制力が非常に強い」「その存在意義はシステムの歯車」であり、且つ「力を得ると、お偉方として非論理的な権威も得る」という存在形態にあります。「大きな組織・集団」では、どこを見ても「組織理論・前例と慣習」ばかりで、「本当は何が妥当か」という感覚が入る余地に欠け、視点が「組織利害の優先」に完全に固定されていて、特に日本においてこれは特徴的です。

政界には「低質で不合理な制度・常識」が方々に見られ、その一つに「専門知識の無い人が大臣になる事」「定期的な内閣改造」があります。大臣とは「国内の当該分野で、最重要な地位と、最大の意思決定権限を有する職」ですが、それに「素人」が就く訳で、「日本の政治の、根本の観念自体からのどうしようもなさ」を如実に現しています。だから誰がなっても同じで、永田町の論理では「当選回数・声がでかいか小さいか」などが重視されるという、凡そ原始的な観念と共にあります。

日本社会の主体は飽くまでも「閉鎖的・非論理的で、全体主義的・物質主義的な、鵺的な構造」にあるので、「個(自由意志を持つ)としての政治家」は要らないのです。その構造に連なるのは「政界・官界のムラ的な存在形態」であって、「ムラに属する組織論第一主義の、思考・感情を消滅させた住人」により、ことが運ばれていきます。「何かを変える」という事がし難い構造になっていて、「中身が見え難い構造」「組織と利益の固守」「責任の分散化と回避」には最適な構造となっています。

そして「歯車としての大臣」は、時期が来ると回転寿司のように交代、これが定期的な「内閣改造」です。こんな構造は先進諸国に見られないですが、こういった物を「同調者」は、非論理的な言説で肯定します。日本の政治レベルは長年質が低いと言われ、「何故先進諸国(欧米)に比べて」と、その理由が論じられてきましたが、こんな事が存在できる構造に「高い志を持ち、良い社会を目指す政治」のような物がある訳がありません。端から「そういう方向を目指す真剣さ」のような物がないのです。

逆に「官高政低」「官僚によって国が持ってきた」などと言われてきましたが、それも全く誤りです。官僚はよく「外国との条約・協定・文書署名で、英語原文から日本語文書への訳に際して、全く異なった内容・表現にする」という事を、頻繁に行います。内容が政界官界に都合が悪い時は、そのまま発表する事は先ずありません。これは「自国利益に適う物・適わない物」は関りなく、「省益に適うか適わないか」が判断基準です。こういった背信行為も、「閑職で高給な天下り」のような「ムラ的利権行為」も、それは「力学・慣習・前例」で許されている事なので、当たり前のように繰り返されています。

  この構造においては、数多の「初志を持った政治家・官僚の卵」が潰され、これに染まらなかった人は様々な名目で、体良く排除・追い出されます。何時の間にか染まった人が残っていき、それは「青臭い若造が大人になった」などと言われます。どの社会でも「社会構造(政治構造)」においては、その「構造(仕組みと流れ)」自体が主役ですが、特に日本の社会・政官では「個の抑制・集団第一主義」と完全に合致、「人間」というのは「低意識に基づくムラ的構造を支える歯車」に過ぎません。

こういう事例に見られるように、特に「個人を全体主義的な方向性に隷属させる為に、思考・感性を放棄させ続けてきた事」などという事をやれば、如何なる国であっても低迷して、破綻的になるでしょう。これは「人間の在るべき状況と、反対方向のを造る物」であって、そんな社会に良い未来がある訳がありません。

各種事例を見るにつけ、「現代の日本社会の力学」というのは「人間は歯車・部品・駒・消耗財だとされていて、個(個性・思考・感情)は否定される・潰される物」「閉じた枠の中の、集団や組織が第一である」「全体主義であり、本当の意味での全体に資する物で無い」「多くの場所に、二重基準的に二面性が存在する」という様相で存在しています。これは凡そ「人間的でなく、非人間的で、単なる装置」です。元々日本は情緒的だった筈ですが、何時の間にか心を失って、こんな物を作り上げてしまいました。

波動原理からみた「複雑系」について項目6④にありますが、これは「物事についての理解・認識」も同じ事です。個々の部分、目の前、狭い視野だけを見ていたら、統合的に見ることは出来ません。何故ならば、日常における判断・認識において、それら個々の判断には「一定の合理性」があると言えるが、全体的割合から見たら「何らかの方向(常識・空気など)」に傾いている可能性が高いからです。「個々における判断の合理性」と「全体における合理性」は、必ずしも一致しないので、常に「俯瞰・客観性・水平思考」「振り返りの視点・自己訂正」を繰り返し行う事を心掛けるのが必要です。この「全体」は、波動的には「集合意識」などにより、「個別点」と異なる要素が発生しています。

全体は「複雑系」で、「個々の狭い部分だけ見る単純な思考」では、「様々な波動情報が複雑に絡み合う全体的な様相」を捉える事はできません。日本の戦後の最大の誤りは、「様々な締め付け(抑制・空気・従属など)」によって、「狭い部分だけ見るような思考法」を「社会に醸成・拡大再生産させていく構造」を、作り上げてしまった事にあります。


議論の社会的土壌と、齎される不正義・無関心
  日本における「議論の社会的土壌」の問題
・「良質な議論」が存在し得る背景となる「議論の社会的土壌」には
 「論理重視」「開放性」が不可欠である。
・「開放性」については、「個の尊重」による「属性と意見の多様性」が担保される事が不可欠である。
・この前提があって始めて「幅広い意見の提出」
 「自由で広範な合議」「非偏向性・水平思考・合理性を伴った判断形成」が成されていく。
・拠って「議論の社会的土壌」には「論理性(左脳的)」「感覚・感性(右脳的)」の両方ともが
 高度に有する事が必要不可欠である。
・日本に見られた「個の抑制」「集団第一主義・全体主義性」「権威主義」は、
 「ムラなどによる非論理的要求の押し通し」と「閉鎖的な締め付け」を伴う物なので、
 「論理性(左脳的)」「感覚・感性(右脳的)」は尊重されてこなかった。
・これは嘗ては世界の全てがそうだったと言えるが、
 近年は時代の変遷と共に、「先進諸国・一部の中進国」では、かなり改善が見られてきた。
・日本ではこの期間のおいて、「進展した点(社会的側面)」は限定的だった。
・逆に、「社会的締め付け」を伴う「ムラ社会的な空気の浸透」が進んでいき、
 これに伴う「社会の諸様相の停滞(非改善)」が非常に長期化した。
・これは「意識面の不景気」ともいえる状況で、 この「長期的な意識停滞・低迷・漸減」は
 徐々に積み重なっていく事で、社会のあらゆる場所を硬直化・劣化させていった。
・本来ならば、経済の発展に伴って「社会の各所の進展」が行われる筈が、
 代わりに「社会の未整備の部分(遊びの部分)」について
 その隙間に「ムラ社会的・閉鎖的で非合理的な組織理論・空気」を
 次々と埋め込んでいった事によって齎された状況である。
・これら状況は一例として、「省庁による天下り団体の雪達磨式導入」
 「これに伴う非合理的な規制・高コスト化・不正状況と、これによる社会規範悪化」が挙げられる。
・同期間において「先進諸国・一部の中進国」では「細部の改善」を徐々に積み重ねていく事で、
 「社会的制度・社会構造の改善」を達成している。
 この形成過程には「様々な方面の人々・各種団体や多様な属性・意見」が関り、また反映されている。
・しかし「言語面・人種面・文化面・島国」などにより、
 「属性・情報・意見・視点の多様性」「客観的で柔軟な比較とこれによる改善」という
 社会的循環が成されなかった事も非常に大きな要因であり、
 これは日本にとっては不可抗力で仕方ない部分と言え、かなり割り引いて考える必要もある。
・この「割り引かれるべき要素」については「日本人の意識の低さによる物ではない」が、
 然し現実としては、このような要素も社会劣化を起こす要因となる。
・このような「欺瞞性による社会の基盤状況の悪化」が長年続いたが、
 近年では「社会の表面的部分」でも、各所に深刻な状況が顕在化している状況である。
・この状況に伴い、日本における「議論の社会的土壌」は
 戦後長らく進展せず、停滞・劣化した側面もかなり多かった。
 これは世界的に見て、類例が無い様相である。
・「社会・メディア・議論場などにおける、様々な観点・側面」について、
 日本と先進諸国では、嘗ては同程度にあった部分が多かった。
・しかし近年は大きく差が開いた状況となってきていて、
 日本の「社会・メディア・議論場の低質状況・低質化」が著しい。
・結果として、「感覚・感性(右脳的)」「個の尊重」「水平思考」に類する「開放性」や
 「論理性(左脳的)」「非偏向性・論理的合理性を伴った思考」に類する「論理重視」という社会的状況が
 長らく軽視されてきて、「力学・集団・組織に付和雷同する空気」が形成されたことが、
 日本の戦後社会に「良質な議論の社会的土壌」が形成されなかったことの、最大の要因である。

  現在の世の中は「金・集票力・組織力がある勢力」が「圧力団体」になり、それを各方面で駆使して、それに色々な人が取り込まれていきます。こうやって政界・官界・産業界は「妥当か妥当でないか」「正しいか正しくないか」「行うべきか行うべきでないか」ではなく、「金・集票力・組織力」が物を言うようになり、社会の隅々に「理不尽さ・おかしい事・間違った事」が蔓延していきました。

そして逆に、「どれだけ正当な権利・正当な主張を有していても、無視される人々、相手にされない人々、歯牙にも掛けられない人々」というのも多数存在します。その代表例は「アイヌ民族」です。アイヌとは明確に「"伝来の土地・歴史的権利・被害蹂躙などの総合的度合い"に対して、最も"何の保障もされてなく、無視されている民族"の一つ」です。

彼らは「金・集票力・組織力」が無いので、「権力がなく、圧力団体になれなく、無視され続けて」います。北海道と千島列島の先住民族ですが、歴史的に日本政府とロシア政府(ソ連)に過酷な仕打ちを受け、細々と活動するのみです。ソ連の行為は「第二次大戦後、世界で行われた"最も行為を行う根拠が存在しない行為"の1つ」で、「現在進行形で事実上、モンゴロイド系先住民族のアイヌなどを追放中」ですが、日本政府の「戦後の徹底した無視・軽視・破壊」も非常に酷く、最低な行為です。

アイヌの土地では、様々な聖地が荒らされ、破壊され、蔑ろにされました。同じことが「ヤマト民族(本州・九州・四国)の重要な場所」で行われたら、多くの人はどう反応するのでしょうか。そもそも現在の日本人の多くは、アイヌを「歴史などの授業+α」程度にしか知らなく、何も関心がありません。多くの欧米諸国の方がまだましであり、多くの国では権利擁護が近年進展していて、日本は本当に酷い状況です。更にどんな妥当な事でも、些細な事でも、利するとなれば、徹底して攻撃する思想保持者も存在します。ここに、特に民主化以後の社会においても、この程度である事に、「日本社会の歴史的な低質状況・低意識」の一端があります。

  では何故、これほどまでの状況なのか、それはやはり「圧力団体足り得なかったこと」「がなり声を上げなかったこと」に帰結します。日本では、例えば「日本が行った歴史的な肯定的行為と否定的行為」について、どちらについても「無かったとする主張」「過剰にあったとする主張」が多数存在します。この「対極的な原理主義的主張の応酬」により、「建設的議論とそれに基づく事実認識」があまり成されてきませんでした。また、その背景には「様々な意図」も絡んでいます。アイヌとは、理不尽にも最も「敵の味方は敵」「敵の敵は味方」という「穢れた強者たちの陣取り合戦の思考法」の犠牲になった民族の一つでもあります。

「声を潜めた人達」は「醜い勢力争い」の中で、端へ端へと追いやられていき、「声が大きくない人達の主張・権利」は、その間で零れ落ちるように、忘れ去られるようになっていきました。結局日本では長らく、「その論が正しいにしろ誤っているにしろ、声が大きな圧力団体的な主張が、大手を振るっているだけ」でした。そして「真実・真理・正しい事・妥当な事・在るべき事という視点」→「それに基づく議論」→「認識の改善・発展」→「様々な施策」→「状況改善」→「諸々のことが改善していき、国内全体の状況も良くなっていく」という行為と循環が行われずにきました。

「寝た子を起こすな」「臭い物に蓋」「本音と建前(ご都合主義と欺瞞性)」「長い物に巻かれろ」「強者の論理「触らぬ神に」「面倒・関係ない」という感覚や、又は「原理主義的な大きな声の主張(様々な意図を含む)」などが、戦後日本では罷り通ってきました。「この種の事柄を、常に報じ続ける義務があるメディア」においても、特に大メディアでは「紋切り型の報道」「金・権威・ムラ・主流派に連なる翼賛的報道(広告・記者クラブ・再販制などで、そちらに擦り寄る)」「背景の大枠で無く、即時性・一過性流行を追う虚無的報道」「低いジャーナリズム精神(社内の空気・昇進などを優先)」「バラエティー番組化した報道」などにより、「報道される機会は稀で、報道量もごく僅か」です。

よく左右議論などで「相手側が言論を封じてきて、今まで真実が出てこなかった」などの論が、左右両側から頻繁に成されます。然しこれは両側とも本質を見ていません。問題の根本は左右などでなく、先述のように、「言論の自由や、議論の場・土壌と、これに必要な建設性が存在してこなかった」ことにあります。「名目ばかりの言論の自由、議論の場、自由主義・民主主義が存在」していたが、「その実質を担保する思考・感覚が、社会上層部に著しく欠けているので、実体を伴った社会的状況や社会的観念が存在しない」という状況が続いてきた事が、「そのような議論封殺・真実封殺が起きる根本的原因」なのです。そしてこれは突き詰めれば、社会・教育での「個の抑制」「集団第一主義・全体主義」に行き着きます。拠ってそれらは「この国の社会構造の根幹自体が起こした問題群」なのです。

そして、先述の「上位ヒエラルキー」である「海外権威・国際的権威(対米隷属を含む)への従属意識」に比べ、逆に国内的には「下位ヒエラルキー」の存在に対して、これほどまでに冷たく、無視し続けるという、極端な二面性を見せています。これは「物事に対する思考・感覚として、自己内に統一的基準という物が存在しない」「あるのは権威主義か隷属主義、権威を振るうか・従属するかという二択」という、非常に低意識に満ちた行動様式です。

戦後日本では、事程左様に「真理・真実」「妥当性・客観性」というのは蔑ろにされてきました。その中で「原理主義的な、どちらも誤っているという両派による論争」が、延々と続いてきました。

  同時に「個人の意見を表明するな」「特に反主流の意見は言うな」「有名人はその人の分野だけやっとけ」のような風潮も、強い物があります。しかし「欲得・組織利益・原理主義的思想」に適った物は強く主張されるのが、古今東西の世の常です。拠って日本では「個人の意思は、特に反主流の物は表明されない」「がなり声による、利己主義むき出しの主張が多い」「妥当な主張が少なく、左右両派ほかの原理的論説が多い」という風潮が強く存在し、これは特に「閉鎖的社会・ムラ社会」において顕著です。

こういう状態の意識においては、当然のことながら、あまり「議論」という物が成立しません。目的意識が「その思考法に都合良い状況の最大化のみ」、「妥当・客観的かどうか」「考証・推論の後の妥当な結論到達」「途中の論拠」は軽視・無視、という観念なので、合議的・相互性が必須な「議論・会話」という形式と、そもそも時点で対極的です。

この思考法においては、「非論理性を振り回すような論説・応答」というような、乱暴な論法を展開します。身内側の乱暴さは良しとして、相手側の問題点を徹底して追求します。この思考では利己主義・理不尽さが特徴であり、自分らさえ良ければ、論・過程・結果はどうでも良いとして、自分側と相手側への二重基準を常とします。非論理性を押し通そうとするので「万期公論に決すべき」は嫌であり、閉鎖的世界で圧力の下に事を進めようとして、開放性を嫌って、閉鎖性・全体主義・統制主義を好みます。そして問題と責任は、常に回避したり、相手側の事だとします。正に「議論にならない」ですが、これは割と日本の戦後で各所に見られた光景で、地方議会の幾らかはこんな感じでした。こういう点もあり、長年「議論の土壌が無い」と言われてきました。

この状況は概念図にすると分かり易いでしょうが、「本来ピークであるべき中央値が少ない」「両側に2つピークがある」「カネ・権威などのベクトルの数値は高く、草の根などのベクトルは低い」という図になるでしょう。端的に、程度が低いです。

  現在の「一般的に知られているニュース・各種情報」「一般的常識・世間的関心事・流行とされる物」とは「割と瑣末な物」「一過性流行の物」「本質的意義の無い物」が、それこそ大多数を占めます。それらもある程度は重要・必要かもしれませんが、全体を俯瞰した視点からすると、「本来は中心から外れた端っこの方に存在する物」「しかし何故か世の中の中央に存在、大きな賞賛か関心を呼び、始終報道されている物」です。そんな事に右往左往して、それを「ニュース・芸能・世間的関心事」などと称しているのです。

そして逆に「本質的な・普遍的な事象」は、殊更に蔑ろにされています。これは改めて考えてみると異常な事で、如何に現在の世の中が「皮相的」「虚無的」なのかを示しています。またそれが当然とされている事も、輪を掛けて異常で、それへの気付き無しに、救いようがありません。

こういう状況では多くの人が「白ける」のも当然です。「白ける」とは「馬鹿馬鹿しく感じる」という事で、「馬鹿馬鹿しいから、無駄な思考を停止する」「皮肉的に物を見る」「建設的思考をしなくなる」という観念に直結して、社会に対して「大事な事に対しては物を考えないで、取り合えず、よく分からないけど長い物に巻かれといて、目先の事・狭い範囲の事・ごく身近な事だけに終始するような、低きに流れる空気」を大量に作り出しています。

「瑣末な事に執心していても、反面、心は白けていて、でもそういうもんだと思っていて、また、どうしたら良いかも分からない」「そして歯車的か虚無的、この何れかの状態で過ごす」、これが典型的な現代的在り様ですが、これは「日本は長らく、こういう状態を社会的・構造的に作り出している」「日本の社会的構造の代表的産物」です。

経済的にある程度成功しても、社会の空気がこうであるので、「深層では根源的な空虚さの蟻地獄を感じている」という状態にあります。でもこれは嫌な事なので、拠って「歯車的・虚無的(物質主義的)に過ごして、真に思考しない事により、狭い充足感を味わう」という方向に向かわせ、更に社会を空虚化させる悪循環を作り出しています。

  しかし、昔は違っていました。例えば「高度成長期の終了時期以前の街頭インタビュー映像」では、多くの人が持論を持っていて、哲学的な言葉を用いながら、自分の見解を真摯に語っています。ただ1980年頃以降の街頭インタビュー映像には、もうこういう光景は殆どありません。問題は持論を熱く述べるかどうかではなく、「空洞化したような存在」「自己という物が存在しないような受け答え」などです。何も持論も世界観も無さそうで、そもそも考える・感じるということ自体が少ないように見受けられ、友達・同僚に「だよね」などと同意を求め、何かの流行物への関心は高い、などの状況が多いです。この原因は「自らの社会制度・教育制度」にある訳ですが、そういう社会なので、何かに気付く切っ掛け自体が現れません。

このような状況において「意味の薄いニュース・報道・情報」が大量に溢れ続け、そう言った物が「最も重要で、本質的で、皆が知るべき世間の社会の世界の常識」として流され続け、そして「遥かに重要な事柄、真に本質的な事柄である、アイヌなどに纏わるニュース・報道・情報」は「丸で存在しないかの如く、透明人間か三面記事の如くの扱われ方」で在りました。

これは「非常に捩れに捩れきった状況」なのですが、この捩れぶりは「何でも曖昧にしようとする、誤魔化そうとする、事勿れにしようとする、日本人の性質」にも大きく起因しています。何故ならば「しっかり物を見て、自国のでも他国のでも、自らに都合が良かろうが悪かろうが、良い物は良い・悪い物は悪い、と判断する」となっていれば、「個々の問題の事実性を見据え、判断・対処する」「その積み重ねで、理不尽・非合理的な主張は影を潜めていく」「自らに都合が良い物でも悪い物でも、妥当だと思う判断が積み重ねられていく」となるからです。戦後長らく、このようで無かったから「付和雷同・隷属思考・ポチ・自虐(又は開き直り)」などの現象が顕在化していき、「全く訳の分からない、鵺(ぬえ)的な社会」「非常に空虚感に満ちた状況」となっていったのです。

  先ず「過剰同調するのでなく、個として考える(ジャーナリズム精神にも通じる)」という土台があって、その上で「水平思考を以って客観的に物を考える」ようにして、「個々の問題の事実性を見据え、判断・対処する」「それを積み重ねる」「常に社会において、妥当な事が積み重ねられていくようにとの意識を持つ」だけで、個人の意識も社会も全く変わる筈です。妥当な事が積み重ねられるので、社会にも問題はなくなっていく筈です。

特に教育制度において、このような「自分の頭で考える事の教育」が成されて来なかった事が、この長らくの酷い状況の要因でしょう。「個の抑制」「集団への過剰同調」「斉一性強要」などを特徴とする日本の教育制度・社会状況は、日本中の各所に深刻な被害を齎しましたが、「その論が正しいにしろ誤っているにしろ、声が大きな圧力団体的主張が、大手を振るっているだけ」という日本の戦後の典型的光景は、この「全体主義性的傾向の弊害のど真ん中その物」です。だから「論理的思考が・ディベートが・・・」などになるのです、こんな教育・社会制度であったら、そうなるのは当たり前です。

丸でこれは「非論理的な人工無脳bot同士の、全く中身のない応酬」の如くですが、今はそれがネットへ以降、「非論理的な原理主義的書き込み」が横行しています。こんな事を今後も続けていたら、遂には「日本の地霊の分の波動(往古からの御先祖様たちの積み重ね)」の貯金分も空になって、益々急坂を転げ落ちていき、回復は不可能になるでしょう。近年の世情悪化・災厄や、アイヌ問題の徹底無視も、根は同じで、「日本人の戦後の所業が齎した物」です。

素直に、何かの肩を持つとか言うのでもなく、当たり前のこととして、「仮に自国内で同等、或いは相応の権利を有する民族集団(先住民族)がいるとして、にも拘らず自民族(他の特定民族)だけ優遇するというのはおかしいですし、絶対に間違っている事」です。

「北海道などのアイヌ、本州・四国・九州などのヤマト民族、沖縄の琉球民族、互いに尊重して仲良く暮らせば良いだけの事」、ただ単にそれだけのことです。あまりにも当たり前過ぎて、物凄く単純な事に感じますが、実際当たり前で単純な事で、本来はとっくに成されているべき事です。でもそんな簡単なことさえも行われていない所に、現代社会の深刻・根源的な病理の一端があります。「非共存的で、上下関係を強いて、根拠の無い優越感に安住して、その為には無辜の他人に犠牲を強いてもいい」という、歪んだ意識があるからこうなるのです。「相互尊重する」というのは「自分達を尊重してくれる人も増える、尊重の度合いも上がる」という事です、この方が未来があって、気分も良いでしょう。今までのようなのは、もう止めにしましょう、あまりに悲しくて、未来が無いです。

  「細々とした規則・掟や、周囲との過剰同調で、個人・社会を雁字搦めに縛った」ことは、近年の社会悪化の大きな原因です。これは為政者側が「ルールを守って、規則正しくさせれば上手くいく」と考えたからです。しかし、各所に見られる「規則・掟」は「本質的な重要性」と、必ずしも合致した物とは限らず、そうでない物は多数あります。逆に「金銭・権威と対極の、公徳的なルール」には、「導入されていない物、有名無実化した物、無視されている物」が多数あります。更に「その妥当性如何に拘らず、決まっている物や、罷り通っている物だけには、規則的・画一的に従えとの空気が強い」という状況があります。

「近年に制度的に導入・推進された全体主義的な制度・思考法」の多くは、「元々の内的規範」が存在していれば、取り立てて必要のない物が殆どであり、「内的規範と、それを醸成する基盤が弱体化して、その代わりに外部的に定型化された基準として、秩序維持の題目が制定・推進された」「また、世界的に近代国家の形成や、近代国家的な観念の一般化と共に、その理論的・スローガン的裏付けで必要になった」と看做す事が出来ます。

その中で、明治維新後・戦後に体制側が推し進めた「個の抑制による無思考化」も相まって、「内的基準と外的基準の差」が齎した「二重基準・本音と建前」「欺瞞性・虚飾性・皮相性」に対して、「強い白けの感覚」「皮肉的な感覚」を世間一般に引き起こしました。しかし現実の世間で物を言うのは、その「規則・掟」「空気・常識」であり、「学歴システム」「ブランド」であり、「空虚な言葉・情報」です。

このような状況において、社会広範に「強度の白け」「空虚な規則・掟」「無思考化・無感覚」「本音と建前などの二重基準」「虚飾と皮相」が横行していきました。要するに「上は本質性・普遍性を軽視し、自分達にはご都合主義のやり方を適用、下々にはこれまた都合の良い、全体主義・統制主義を適用した」という事であり、こんな事をしていたら「意識・社会レベル共におかしくなる事」「欺瞞・空虚さ・白けなど、悪い物が横行していく事」「社会の活力が低下する事」は当然です。このやり方はアノミーを引き起こしましたが、そもそもが「規範性が無いご都合主義による物」であり、この結果は当然の因果応報です。「細々とした規則・掟」を作るのだったら、「先ずカネ・権威・権力を持っている組織・人への規則・掟」を作って、それを守るべきで、順番が逆です。

現代社会には「一般的空気の中で、許されている・見逃されている各種状況」の中にも、「覚醒された後の後世」から見たら、「あまりに異常だ」と思われる「状況・各種常識・思想・行為・言動」が無数にあります。でも「世の中が完全に麻痺している」「強者の思惑は妥当性が無くても罷り通る」「従属思考」という状況が広がっているので、それらが社会的に通ってしまっています。これは前提無しで考えれば、やはり「あまりに異常」です。どれだけ誤っていても、「麻痺」していれば、「無思考・無感覚」になっていれば、「誤り」とは思いませし、「言った者勝ち・やった者勝ち」になります。

このような「社会的な感覚の麻痺」というのは、「アノミー(社会規範の崩壊)」です。現代社会には「違法でなく、且つ社会で罷り通ってしまう物だが、しかし真の規範意識からすると、行うべきで無い事」「それが多数行われる事」について、「これを阻止するような社会的構造」という物が存在しません。ただ「地霊」が、その拡大を阻止しています。行政が「真の規範意識」を放棄して、然し一般国民には「規範秩序」を求めて、その規範秩序の実態は「全体主義的な斉一性」というのが現状です。

  近年の世界の最大の問題は「カネ・物質主義の蔓延」「人類が環境を大規模に改造できる力を有した事」「しかし精神文明は発達しなかった事」「これによる環境・社会・意識の大規模破壊」でしょう。近年の世界的状況ははっきりと「人類はまだかなり未熟であったのに、あまりに強大な力を有してしまい、それが誤った方向に使用された」と言えます。

「環境も社会も意識も、これだけ大規模に破壊されたのは、未熟な人類が強大な力を持ったから」です。情報の普及速度はあっという間で、それにつれて「低波動を齎しうる情報」も刻々と世界中に流され続けています。しかし「精神文明」に属するような情報は、日々の情報全体のうちの、一部にしか存在しません。そして更に、「昔が今より意識が高かった、とは一概には言えない」ですが、同時に「現代の情報は、昔に比べて、精神性に属する物が非常に低い」「大規模な破壊や、意識・状況の低下悪化に対しての"麻痺・慣れ"は、近年の世界の特徴的状況」だと言えます。

特にこの「麻痺・慣れ」に関しては、「空気・常識への過剰同調」「主張を述べない・持たないことを良しとするが如くの空気」「上層部による統制的傾向」などにより、「日本は特に酷い国の1つ」です。日本社会広範の空気について言えば、嘗てはこんな感じではなかったですが、それこそあっという間に、そういうような体制がやたらと長く続いている間に、このような状態になってしまいました。しかも「無思考・無感覚と従属」に慣らされてしまっているので、「この状況の意味自体が理解できない」という状態にあります。

本当なら「本当に必要な社会的ルールを、皆で合議的に考慮を重ね、それを作って、皆で相互尊重しながら守る」のが最善です。こういう当たり前のような、草の根的な思考は、日本では「統制的思考」の下で、常に蔑ろにされてきました。これは政治・行政が頻繁に行う「骨抜き行為」に代表され、「霞ヶ関用語・永田町用語」も、多くは換骨奪胎する為の詭弁です。

日本にはこの「個から発する草の根的な連帯感」が足りなくて、「上意下達的な、規則・掟・空気的な縛り」ばかりが目立ちます。特に「組織社会」においては最も顕著で、「殆ど縛りや空気だけ」と言った様相を呈しています。そして「日本は組織・集団が個より遥かに勝る社会」であり、拠って「日本中が縛りや空気に覆われて、苛まれる」という状況になりました。物事とは結果で、それには原因があり、日本の諸悪の根源はこのような部分です。

それを無自覚に、無感覚に、拡大再生産しながら、自己中毒的にやっていて、これにより「経年的に、益々あちらこちらで縛りや空気が増加していく」という状況と成しています。その結果が、近年の状況であり現況です。「押し付け・お仕着せ・統制主義的な、多くの規則・掟」で無くて、「調和的・共存的で、緩くて、皆が何時の間にか守るような、幾つかの規則」が必要です。そしてその先には、超長期的には規則もいらない状況になるのが相応しいでしょう。


他集団との関係性について
  社会全体の変革は、徐々に段階を踏んでいきつつ、達成される物です。その為には、あらゆる集団・社会・国は、先ず自らについての、成すべき事をするしかありません。これは「高い意識を持った、或いは持とうとしている他者について、連帯する・助ける」ということも含まれます。

仮に「意識レベルが高い集団A」「意識レベルが低い集団B」がいたとします。若し何か反論なりがある場合にでも、「集団Bの言動・思考法」に「集団Aが合わせる・言動レベルを低下させる」のは愚作で、「適宜適量行うだけ」のが良く、それ以外は「他の有意義な事をしている」のが良いです。これは「自らにとっても、全体レベルの早期向上という目標にとっても、良い事」です。

  類似の問題でもありますが、「集団・社会・国という観点における、他集団との対応の仕方」について、これはそれぞれあるでしょうし、何が正解とも言い難いかもしれません。ただ、1つにはこういう考え方があると思います。「天は自ら助くる者を助く」、これは波動原理的にも、実際の上でも真理であり、正に基本的概念だと思います。人間個人も、集団・社会・国も、他人・他集団が全部変えるなど無理ですし、また人間誰しも沢山間違える物で、そこから学んでいく訳で、その過程は人それぞれです。なので「その人・その集団自身が気付いて、変えないと、何も変わらない」です。そして「先ずは何事も、自らの集団・社会・国を改革改善しないとならない」でしょう。

その上で、仮に「高度な意識の状態になってきた、社会を改善できてきた、良くなった」とします。現在も含めて「全体が意識・状態が高度化する以前の世界」においては、どうしても「各集団・社会・国の意識レベルの状態差が存在する」となります。そして、仮に「意識の低い集団」があったとします。「この集団との対応の仕方」について、難しい物があり、考えどころです。

先ず前提として「国・社会・集団や個人というのは、本来的に平等」「自他の区別は、あまりすべきでない」です。後者の理由は「波動原理上では全ての根は同一、自他というのは完全に別物でなく、かなりが同一の物」「何事にも共存意識・優しさを以って対応すべき、波動原理的にもこのような意識が高波動である」からです。

しかし「自他を区別し過ぎない」という点がありつつも、反面、そして実際に「自他という区別は存在する」となります。「この両義性はどちらも真理」でしょうし、それに応じて、現代社会は「国・社会・集団」という物があって、そこには「意識差・状態差」があります。人間・社会は万能でないので「全ての国・社会・集団に、同様に、高度に対応する・助ける」というのは出来ません。これは「限られた時間・意識・行動を、どのように振り分けるか」「優先順位」という問題でもあります。ここで「意識の低い集団への対応の仕方」について・・・

  1つには「あまり関わるべきでない」と言えるでしょう。意識が低さは「理不尽・利己的な主張・行動が多い」という思考原理に端的に現れます。「理不尽なので、接触しても無駄になる事が多い」ので、そして相手の意識・言動にも影響され、自らの意識も低下します。「自らの意識の低下を嫌って、良い行為をしないのは、より意識を低下させる」ものですが、同時に「"良い行為の仕方"には、人それぞれのやり方、優先順位」が存在します。

「天は自ら助くる者を助く」であり、「その集団は、まだその段階まで至ってない」のかもしれません。そして「こちら側とは相性が悪い」のかもしれません。そういう事柄も、考慮される事柄です。

「時期が来れば改善していく問題」というのは、常に多数あります。「各集団・社会・国の意識レベルの状態差が存在する」のであって、そして「時期が来ればどの集団も意識・状態は改善・上昇」します。ごく当たり前の事ですが「必然的に、個人ごとに集団ごとに、時期に差がある」だけです。「波動原理は非常に根源的で、宇宙を遍く支配する不変普遍の原理」なので、どちらにしろ全ての集団・社会・国が、時期は違えどそう遠くない時期に、その意味する所に気付きます。そのうちに皆が「そういう物だ」という事に気付くのです。

  更に非常に重要な観点として、「世界中の個人・集団・社会・国には、意識の高い状態になってきているが、その置かれた個別環境で、依然困難さを抱えている」という状況は常に存在します。「意識が高いのに、各種の状況で、状態改善がうまく進んでいない」というような状況です。

こういう「個人・集団・社会・国」こそ、「天は自ら助くる者を助く」となるべきでしょう。ここにおける「天」とは「特定の個人・集団・社会・国」では全く無く、「世界・地球や宇宙の霊性全体」であり、その「世界の善なる霊性に突き動かされて、どこかの個人・集団・社会・国が助ける、相互連帯する」という行為が繰り返される事で、「高い意識の連帯によって、世界中が改善していく」のだと思います。

「類は友を呼ぶ」は波動原理に沿った法則で、「引き寄せの法則」も同じ事です。「同種・同等の波動・意識は引き寄せあう」ので、自然と似たような人が集まります。状況がどうであれ、意識が高いならば、自ずと同じような意識の人達との連帯が生まれるでしょう。

「世界中には意識の高い個人・集団・社会・国が存在していて、先ずそれらと連帯すべき」でしょう。そして「自らの、連帯している皆の状態を改善しく」のが必要です。「自らの意識・状態を良くする」にも、「世界の意識・状態を良くする」にも、先ずここの段階が無かったら到底無理です。そして更に「意識が高度化してきた個人・集団・社会・国と次々連帯していき、その連帯の輪を拡大していき、世界の意識・状況を高度化していく」のが重要です。好循環が起きていけば、それが明確な物となれば、徐々に誰しもが気付いていくでしょう。この繰り返しが起きていけば必然的に、そして「それほどの長大な時間は掛からずに、自らも世界も高度な意識・状態なっていく」でしょう。


普遍性と真理について
  「思想」「社会構造」というのは多種類ありますが、根源的に大きく「どこの社会でも普遍的で存在できる物で、且つ持続可能な物」「ある特定の国・社会・集団にしか通用せず、持続可能性を持たない物」に大別されます。これはどう考えても「前者の方が優れている構造」でしょう。社会や世界というのは「発展段階」というのが存在し、一夕一朝に「最優秀の構造」に出来る物でもありません。

個人には思考の自由があり、個人個人がどのような思考をするかは、押し付けられるべきものではありません。しかし「社会・国」というのはこれとは全く異なり、「如何なる国・社会も、普遍性を持ち、持続可能性もある社会的構造を有するようにならなくてならない」「その為の思考・努力をしなくてはならない」との絶対的義務があります。

「宇宙全ての良い波動・意識との、量子もつれ・共鳴効果が生じ続ける」ので、地球環境自体が科学的に「善性が発揮されやすい環境になる」「善なる技術発展・社会発展が進展しやすい社会になる」「その好循環が持続し続ける社会になる」となります。

例えば「非普遍的な思想の一般化や、強制をしようとする論説」があるとします。その論は一般化されることはあるかもしれませんが、しかし10万年後も10億年後も、決して「普遍的な思想」とはなりません。何故なら、そのような思想は「優位性思想」「破壊性」の何れかに起因し、これは「非調和的志向」で、なので「非普遍的な物」だからです。「自分たちは優位で、未来永劫そうあるべき」、そもそもこんな思想が普遍的な訳がなく、「知的生命体の発展段階の原始的段階における仇花」です。

どの国にも「民族主義・国家主義」はありますが、「自民族・自国の最も利益になる状況」を志向する物なので、それぞれの論同士には、整合性が存在しようがありません。そして「1か国・1民族の内部にしか通用しない論」は、「普遍性の定義」と整合しません。こういった論は、端的に「非普遍的な物」です。

また「国家間・民族同士の戦争など」について、本来「主流の歴史観が、国内外で全く異なる」といのはおかしいでしょう。言ってみれば現在は「世界中のほぼ全ての国・民族の思想はご都合主義で、だから他国・他民族の思想と整合性がない」という状況にあります。思想は歴史により形成され、歴史とは事実です。拠って「歴史的事実を大体ありのままに見て、当時の国家状況・世界的状況に照らし合わせて、そこから総合的に認識していけば、自ずと認識論は近くなる」はずです。高度な意識の社会においては、各種認識は近くなり、相互連帯意識の中で、「客観的で、融和的な認識論」が形成されます。過去の悪い点よりも、未来を良くする事を志向するので、その先に進んでいくでしょう。

そもそも「国」というのは、そのニュアンスは「近代国家的な概念」「始原的感覚を伴う、ふるさと・郷土・国土に近い意味での国」に大きく別れます。そして後者は「場・土地的な側面」であり、「大地」「自然環境」「地球」「世界」とも「一体的に存在する概念・観念」であり、「元々そこにある物」「往古からの最も始原的な場」「自らも帰属する物」です。「精神・魂が回帰する場所」を考えると、「帰る場所」は「淵源」であり、それは前者でなく後者でしょう。どんな国・社会においても、人間というのは、元々はどういう場所にあった訳で、これが「ある一カ国・国内においての"国的・公的な場"に類する概念としては、最も重要な最上位概念」です。

  「社会制度」「社会的状態」は「社会の状態・方向を規定する物」「人々の存在・意識を、根源的に規定する物」です。そして、どの社会も「社会制度に沿って存在し、社会的状態に沿って物事が執行されてゆく」となります。その「社会制度」「社会的状態」が「陰陽のどちらかを、何らかの集団を、優位とする制度・状態」である場合は、これは即ち「真理とは真逆の物」「間違った制度・状態」「低次元・低波動の状態」です。拠って「社会制度」「社会的状態」ににおいては、「凡そ陰陽の中心点から外れた制度・状態は、全て真理と真逆の物、間違った制度で、低波動の状態」です。

「男女」という点から考えると、「陰陽の中間点」たる「男女同権」は、バランス的に「バランスの取れた場所」、物事や哲学における「中心点」、そして「真理」「在るべき場所・在るべき社会」という事です。これは「陰陽」というのは、「どちらが良い悪い・高レベル低レベル」もなく、ただ「そういう物」「対象的に存在している」だけで、「対等な存在」なのだから、至極当たり前の事です。

「男女格差」「人種格差」「自然破壊」など、「陰陽の中心点で無い・合の位置に無い」「真理と真逆の方向の物」は、世界中において従来溢れ返ってきました。それは「それを正当化する言説」を伴って繰り返されてきましたが、それらは「上記の各事項と比して、全く論拠に欠く物ばかり」です。即ち「陰陽の中心点から程遠い、真逆の物」だからであり、それは「非調和的思考の産物」に過ぎません。

今までそんな状態であったのは、それは偏に従来社会が長らく「不正常だった」「偏向していた」「バランスに欠いていた」からです。世界中において、従来社会は長らく、環境や社会状況に見られる「破壊性」「攻撃性」「非調和」を特徴とした状態にありました。これは「全く中心点ではない」「真理ではない」状態であり、この点において全ては根が同一です。

「集団・社会・国・世界や人々の意識を規定する物」である「社会制度」「社会的状態」という観点においては、全ては「陰陽の中間点に近い、真理に近い社会制度・社会的状態」⇔「陰陽の中間点から遠い、真理と真逆の社会制度・社会的状態」という「2つの方向性・状態」に集約されます。そしてこのどちらに近いかによって、その社会の「霊性の度合い」「社会レベル」「幸福度」「災厄の多寡・被害度」「未来」「子孫の状況」が決します。「破壊性」や「陰陽の中間点から外れた社会」は、決して真理に沿わず、幸福や未来を齎さないでしょう。

大概「真理は中間点にあって、調和的な物」です。そして上段の「意識が全てを決定する」という点を併せて言えば、「真理を見るのは割と簡単な事」「意識さえ持てば誰でも出来る事」「それだけで全てが良くなっていく」と言えるでしょう。

  「意識(思考・感性)の範囲」として、「自己・周囲や、それに利する事に限定される思考法」「内的世界~宇宙全体~森羅万象に向く思考法」に大きく分類されます。これは即ち「狭い意識」「広い意識」です。広い意識においては、意味が薄い有象無象よりも、本質性・普遍性を希求するようになります。狭い意識においては、物事の意味よりも、自分にとって損か特かという思考様式に傾きます。

「思考時の焦点の合わせる方向」として「普遍性・本質性の追求型」「常識踏襲型・権威踏襲型」という2分類が挙げられるでしょう。前者は「これこれこういう要素群・傍証があって、なのでこう推論が立てられる」というような「可塑性のある思考法」を常として、後者は「こう決まっているから、常識だから、○○理論に反するから、これが絶対に正しい・それは絶対間違っている」という「一定の枠組みを絶対的前提とする思考法」に終始します。

「普遍性・本質性の追求」というのは「俯瞰的視点・水平思考」「持論の誤りを適宜修正する事」という前提を以って始めて、それが出来得る可能性を持ちます。そういう思考法でも、毎度それを得られる訳でもなく、真逆の考えに至る事もあるでしょう。然し色々な思考・感覚を繰り返しながら、長年の試行錯誤や訓練の後に、段々と普遍性・本質性の近くなっていくでしょうし、こういう観念を無意識にでも持ってる人は、概ねそれに近い物が得られている事でしょう。

「常識踏襲型・権威踏襲型」というのは、言ってみれば「楽」で、「何らかの常識・権威」を踏襲するようにしていけば、それは即ちこの思考法になります。そういった「常識・権威」は、世間に様々な「外部基準」「マニュアル」「思想・政治」「有名人・芸能人や、その意見」などの形で存在しているので、その何れかに馴化・同化していけば良い訳です。

「常識踏襲型・権威踏襲型の思考・焦点」というのは、そもそもが「常識・権威を、真理に近い物・社会の上位構造と捉える思考法」です。拠って「自らの信奉する常識・権威」以外にも、「社会・国内・国際的に信奉されている常識・権威のうちの、多くの常識・権威」に対しても、「それを優位的な物・上部構造の物と認める」という思考様式を持っています。このようにして「常識踏襲型・権威踏襲型の思考・焦点」は「様々な常識・権威を優位な物と扱う」ようになり、そして「様々な常識・権威が、互助的にその権威・地位を高めていく」という様相が続いていきます。

また「常識踏襲型・権威踏襲型の思考・焦点」においては、「所詮世の中は常識・権威の勢力争い」というような心象が存在しています。世の中は多数の論・圧力団体が溢れていて、自らの常識・権威が埋没してしまわないように、勢力を誇示しないとならないという訳です。拠って「自らに都合の良い社会構造・思想を、がなり声で押し通そうとする」といった言動様式を持つようになります。「常識踏襲型・権威踏襲型の思考」が溢れた世の中では、社会を我が物にしようとする為に、このような状況が日々繰り返されます。それが彼らにとっての世の中、世界観です。

勿論、このまんまの社会・国というのは、まず存在しません。何故ならば当然の如く、このような観念・行動基準を持たない人は多数だからです。他の記述も含めて、全ては「○○という思考法は、××という事を起こさせて、△△という状況・性質を増加させる、社会的装置として働いている」という事です。水面下では常に高い意識・低い意識がせめぎあっていて、水面上にはそれらが混在した世情が現れるという事であり、社会は様々な「要素(意識・思考法)」の組み合わせです。

  物事には「真理」があります。全てが「真理かそうでないか」に区分できる物ではなく、しかし「真理に沿った概念」というのは存在するという形です。これは「芸術の定義」における「芸術と明確に言える物はあるが、芸術で無いと明確に定義できる物はない」と類似した様相です。

そして「真理」とは、「普遍性・本質性」と同一か、或いはこれに限りなく近い物と考えられます。結局「真理」とは「普遍性・本質性」などでしょう。

そして「森羅万象(宇宙や社会全体の何もかも)」に対して「真理」というのは、「中心・中心軸(陰陽の中心)」「基盤・基層」「最上位構造」として存在していると考えられます。また「重心」の位置にあり、「本来ならば、社会というのは自然にその重心に収まっていく物」「そうでないのは、社会に何らかの歪みがあるから」と考えられます。また同時に「真理は、富士山のような綺麗な円錐状の山の山頂にある」とも捉えられます。

逆に「真理」に対して「森羅万象」というのは「同心円状」に分布していて、真理は「綺麗な円錐状の山の山頂」にあって、森羅万象は「頂上の真理からの距離に応じて、標高のように"真理度"が下がる」というように存在していると考えられます。故に「真理からの距離」=「真理・誤りの度合い」となります。

「真理に即した心持」があれば、「富士山山頂から四方を眺める」ように、「秩序だった認識(遮る物がなく、距離に応じた真理度を認知)」を伴いながら、無理もなく、遥か遠方まで見渡している状態にあると考えられます。

「円錐状の山」「ピラミッド型の山」は、どの国においても美しいとされます。これは「黄金比」にも纏わりますが、「その形状が秩序だっている」から自然とそう認識されるのでしょう。「秩序」について、「低意識=低波動=高エントロピー=秩序崩壊」「高意識=高波動=低エントロピ=秩序維持・再構築」という波動原理での性質があります。「円錐状の山」「ピラミッド型の山」は「波動が高い」訳ですが、同じように存在している「真理(中心・意識の高み)」も「波動が高い」となります。

  でも「真理に即しているかどうか」を見極めるのは難しい物がありますし、厳密に区分出来るような物でもなく、人それぞれ判断も違うでしょう。

「ある概念・思考法」が「真理に沿っているか沿っていないか」を、大まかにでも判断するには、その1手法として「概念・思考法やミーム(同じ含意の派生概念)に、酷い二重基準があるかどうか」で見分ける事ができるでしょう。どの国・社会の物でも「二重基準を持った理論・思想」というのは、言説・言動以前の段階として、最初からその思考法自体が論理破綻している物であり、「ためにする議論」用の手前勝手な思考法です。

また「真理の方向にある概念・方向性」という物は存在するので、「真理の方向に即ている物」「意識の高い人のうち、大体の人が真理と看做す物」は存在するでしょう。「真理」とは幾つもの物がありますが、一つには「事実」、意識で言えば「調和的意識(善なる効果と、高波動の共鳴を呼ぶ)」「愛情」、芸術で言えば「真善美」「シャーマニックな物」「超越的な物」、社会で言えば「最大多数の幸福な社会」「平等」など、漠然とした「真理の方向にある概念・方向性」というのは、他にも多数存在します。

真理から遠ければ、自ずと「真理ではない物」「真理とは正反対の物」「非真理の方向の概念・方向性」になります。「真理と非真理の中間的な領域に属する物」は非常に多数あるので、全てを真理・非真理と区分けするのは意味が無い事でしょう。そこまで全てを一律的、杓子定規に決める物でもないでしょうし、それはなんというか、息苦しいです。また「真理に即した概念を、詭弁的に用いる用法」は、言語発祥当時から続いてきたでしょう。

しかし同時に「明確に非真理の方向の概念・方向性」というのも存在します。真理が存在するのだから、「逆の物」も存在するのは当然です。「真理は高波動と一体的に存在」するので、「低波動は非真理的と一体的に存在する」となり、「真理・高波動は、真理・高波動と共鳴し、相乗効果で増加する」「非真理・低波動は、非真理・低波動と共鳴し、相乗効果で増加する」となります。

例えば、「真理に即した思想」には「事実と調和的意識の高度な両立」が必要でしょう。「社会を非調和的な方向に向かわせ思想」は、とても真理に即してるなどと呼べません。しかし「調和的だと謳っているような思想・思考」でも、事実に即してない物は多数存在します。それらには「物事を一面しか見てない思考」「何処かの利己主義の為に、利用された思想」などがあります。「ご都合主義に自らを、或いは他者を正当化する思想」は、全く真理とは正反対の物です。

  「真理と対極の概念」は、全ては「序列(序列意識)」に還元されると考えられます。「カネ・物質主義」も「社会的優位を示す道具」として用いられていて、結局は「序列」に還元されます。大概こういう観念にある場合、ライバル心は、序列的に「ずっと上の人・集団」に対するよりも、「序列が近い集団同士か、下位の集団」に対して、躍起に向けられます。

これは、「序列」という物は「世の中や、存在価値を定義する基準」である、とする認識が先ず前提にあり、そして「自己の価値の劣後を恐れる」「高い価値と認められたい」とするからでしょう。これは「自己の内面性」から発する「内部基準」や、「精神の連帯性」から発する「普遍性・本質性」ではなくて、何らかの「社会で幅を利かす物」を重視する考え方で、観念が「外部基準」「外形的・表面的な様相」に準拠しています。この観念においては「世界・国内での権威・上位構造に自己を同化させる」という行動様式が採られます。

「真理と対極にある場合に、最も多く見られる観念」は、還元すると「理不尽さ」になると考えられます。その傾向は「都合の良い考え方の強要」「自己側と相手側との二重基準」に集約されると考えられます。これは、多くの場合では「相手より上の序列に立つ」という心象が背景にあります。

「全体主義・権威主義」などについて、「これらへの従属の理由」は、「存在の価値を規定する基準が、無価値化・虚無化・崩壊して、自己・自己が依存する社会の意味が失われる、ことを恐れるから」でしょう。だからこれら思考は「権威・力・金」などの「外形的・表面的で、大きく見える概念・事象を志向」して、それを「正当化・依存・同化する」ことで、「自らの価値・意味を見出す」「自己の価値・意味の維持・極大化」を求めます。

然しやはり、これらの概念自体が「外形的・表面的」なので、「なんとわなしの忌避」があります。そしてこれらの志向は「真の意味・本質性」を御座なりにするので、「大きな権威と、小さな・草の根の内面の狭間で、疑念が高まる」「その二重性・虚構性に、嫌悪感・空虚感を感じる」となります。

「本質的な物」とは「精神的な物・内面的な物」です。根源的意味・方向性において「外形的・表面的」「本質的」というのは対極の物であり、これは絶対に両立しえません。「華やかな物」も、「精神・本質」があって、始めて「素晴らしい物」をして存在し得て、これ無くしては「虚飾的な物」に過ぎません。「精神・本質」が「意味・価値」を決めるのであって、「権威・モノ・カネ」などの「外形的な物・表面的な物」ではありません。

結局「この志向と、それが齎すサイクル」は、この「根源的な無意味さ」を抜け出していないので、「全く無意味な物に、意味を感じろと強要する、裸の王様的行為」に過ぎません。その観念・主張・認識論と、やっている事は「バベルの塔」です。「中身や土台」が無くて、ただ「外面」があるのみです。

しかも「社会全体・国家全体・世界全体を巻き込む物」「それらや自然環境も含め、地球上の全てを巻き込んでいく物」であるので、全く以って「非本質的・虚無的」「自己崩壊的」「超破壊的な潜在性を持った物」「真の意味・本質の破壊・崩壊をする物」です。これが行き着く先は「狂気」です。

  思考様式として、「(中立的な)ある物事・状況」に対して「必ず同じ感情しか湧かない・反応しかしない」という物があります。「中立的」というのは「一般的に良いとか悪いとか判断される物事で無いもの」、例えば「そこら辺の日常的風景」「何らかの思ったこと(別に良いも悪いもない)」などです。「必ず同じ感情しか湧かない・反応しかしない」というのは、「思考・感覚が一方向からの視点しかなくなった状態」であり、「思考・感覚の硬直化」です。

「物事」というのは「それ自体に多様な側面がある」「波動的にも、多様な波動が1つの物に内在している」というように存在しています。そういう「物事の存在形態」に対して、「一面性しかない思考・感性で物を見る」と、それは「物事の一面しか見れない」となります。

「物事の正確な把握」には「客観的な思考・感覚に努める」という姿勢が欠かせません。「物事の正確な把握に努めようとする」ならば「多様な側面からの視点」「簡単に100か0か決めて、はいお仕舞いと片付けないで、細分的な側面も考慮する」「判断留保の部分を持ち、とりあえずそこで判断・結論を決めても、後々の修正もあるように、柔軟に考慮しておく」などが必要だと思われます。

若しこうしていないと、一面的視点による判断だけで即断するようになり、「その奥にあるかも知れない真理・真実・改善」は、常に自主的に見逃してしまう事になります。また仮に「その奥にあるかも知れない真理・真実・改善」という物がないとしても、多くの物には「一理(何らかの部分的な妥当性)」はあります。その「一理の存在の可能性を、常に見る思考」でないと、「思考は硬直化して、思考法自体が真理・真実・理を見るに相応しくない物となる」でしょう。

  当たり前の事ですが、「真理に即した思想」には「"事実"と"調和的意識"の高度な両立」が必要です。「自らにとって、或いは他者から見て」「都合いいように見えても、非常に不都合でも、事実は事実」です。先ずは事実をしっかり見る視点が重要で、それは利己主義に則った物でなく、決まりきった枠の中で考えるのでもなく、「俯瞰的に見て、事実なら事実、事実で無いなら事実で無い」という事でしょう。

そして、過去は色々あっても、「人間は本来は高度な霊的存在である」ので、それを乗り越える資質は、当然のように有しています。「事実に立脚して、そこを見つめる」という段階に達すると、「意識が高度化する初期段階に達する、事態が改善し始める」のですが、それは波動原理的にもそう説明されます。「その人・その集団自身が気付いて、変えないと、何も変わらない」「天は自ら助くる者を助く」という点から、「個人個人が、或いは集団・社会自身が、先ずは事実を客観的に認識する」というのが出発点でしょう。

「多くの人が高い意識を持つ社会」においては「人々は透徹した視野・思考・判断力を持つ」という状態になります。「社会のレベルが高くなっても、不当に利益を享受する人達が最も得をするのではないか」という疑念は、ほぼ誰しもあったでしょうが、これは問題はないでしょう。元々低意識は「経済不安・将来不安・社会的劣後」に端を発する物が殆どと言えます。しかし「多くの人が高い意識を持つ社会」は、そもそもが「共存社会」なので、「別に社会的落伍や困窮の心配は無い」という状況にあり、この悪循環も解消され、善性の循環が始まります。

また「意味の無い有象無象が、低波動だと看做されるようになる」「云わば科学的に程度が低いと看做される」ようになり、「やったもん勝ち、のような感覚が無くなっていく」という方向に向かい、「因果応報の科学的認識論」の基で「悪い方向に流されなくなっていく」ようになります。「透徹した視野・思考・判断力」「不当利益が存在する状況的基盤・背景自体が存在しなくなっていく」「短期的には残っても、中長期には・何れは無くなる」ということは明確で、これは後の時代になるほど鮮明になり、もう変わることは無くなっていきます。このような「複合的要因」で「低意識や事態悪化の悪循環は解消」されていき、「高い意識や事態改善の好循環が繰り返される」ようになります。

その上で「社会というのは調和的で、共存的であるべき」です。「個人個人が、或いは集団・社会自身が、先ずは事実を客観的に認識した」ならば、「意識・状況は高度化されていく」はずです。そうなると自然と連帯の輪は広がって、状況は良い方向へ動き出すでしょう。この循環が続くと、自然と意識・環境の波動は上昇していき、災厄は少なくなり、良い状況というのが顕在化していきます。「これで大丈夫だ、未来も幸福だ」と思って落ち着いていき、妙な力みも取れて、自然と「健康度や様々な能力が上昇する」という状態になるでしょう。「神性の顕現たる善性・学究・芸術性」によって「調和的で共存的な社会」「ワークライフバランスのとれた社会」になり、「好奇心発露と得意分野の学究」「芸術行為」が尊ばれるようになるでしょう。そして、そういう方向が未来永劫に永続するでしょう。

これらは「割りと簡単な事」であり、「意識さえ変われば、すぐにその方向になる物ばかり」です。でも逆に言うと「人間の意識はそこまで簡単に変わらない、変えられない」という点もあって、「最も難しい事」でもあります。物事は両義的に存在するので、逆もまた真なりです。

更に、これらは「今日明日には変えられなくても、数ヵ月後・数年後には変えられる物」だけです。「今日明日という短期では難しい事」なだけで、それ以上の物ではないです。拠って「どちらにしろ、中長期的には、簡単に変えられる物」です。何にしろ言えるのは「結局は意識が全てを決定する」という事です。これは波動原理的に、不変普遍の真理です。

  「内向き」「外向的」などの言葉は、類似の多くの言葉・概念があって、幾つもの含意を持っています。これを「意識」という観点で考えると、その用法・用例には間違った物が多数あります。この種の言葉は、「狭い意識」「広い意識」という「ニュアンス」で用いられる事が多いですが、「狭い意識」「広い意識」というのは「普遍的・本質的な感覚かどうかで判断される物」です。拠ってこの用例においては、「狭い意識:非本質的・非普遍的な感覚」「広い意識(のような言葉):本質的・普遍的な感覚」とするのが妥当でしょう。

しかしこの用例・ニュアンスで用いていながらも、「内向き」という言葉を「内向的」「内省的」「内的世界・精神性の重視」に対して使用する例が多数あります。「内向き」というのは否定的ニュアンスも伴う言葉なので、この用法では「内向的」「内省的」「内的世界・精神性の重視」を否定的に捉えていて、このような観念は世間に多数存在しています。

逆に「外向的」について、原義通りなら良い含意か、或いは中立的な言葉です。しかし「消費主義的に活発に活動するというニュアンス」でも「外向的」という言葉は使われ、これは肯定的に捉える用法で、この観念は世間に広がっています。原義に近い意味では、「内向的・外向的」のどちらが良いというものありません。しかしこういう用方の、「内向的」「内省的」「内的世界・精神性の重視」というのは「狭い意識による物」だ、「外向的」というのは「広い意識による物」だとする解釈が罷り通っています。しかし実際には、これは上記のように真逆です。

このような「意識の広さ・狭さに纏わる概念を、違う意味に摩り替える用法」は、各所に存在しています。その全ては「物質主義的感覚や、非普遍的な外部基準を、称揚する観念」に基づいています。例えば「国際的」「国際基準・グローバルスタンダード(欧米基準)」などの言葉です。

しかしこれらの「用法(言葉その物でなく、用法)」の実態は、「普遍性・本質性と非普遍性・非本質性を、逆にして解釈する、上下逆転した思考」に過ぎません。そしてこれは「非本質的な事象を、その軽薄さを誤魔化す為に、本質性・普遍性を感じさせる語彙を用いて説明する行為」であり、「一部の広告・宣伝・商業行為」では「このまんまの思考法・やり方に基づいた手法」で終始貫かれていて、このような「欺瞞的宣伝法とその情報」は世上に氾濫し続けています。

  更に「本義に則らないメディア」「健全な社会的運動の無さ」「社会上層部の統制的・物質的思考法」が、こういった状況に拍車をかけ続けていて、この空気・力学を、政官財その他一体の強固な物にしています。

これは「モノを次々に消費させ続ける社会形態」である「消費主義」の産物その物であり、お腹一杯なのに、まだ食わせ飲ませをさせ続けるには、「低質な情報の氾濫で、思考・感覚を麻痺させる」「そして誤魔化しの論法による広告物を買わせ続ける」というやり方が、最も効果的なのです。そして過度に物質主義に偏り、主流体制・主流情報に従属する思考を植えつけられた、今日の日本社会では、このような「グロテスクに着飾られた・塗りたくられた、茫漠たる空虚な砂漠」が延々と広がり続けています。

そして改革だと何だと、選挙時だけに見られるような表面的な言葉を並べますが、こういう方向の社会では絶対にそれは無理です。こういう事とその背景・社会的土壌、その全てが誤っていて、その方向の思考法に則っているうちは、数十年数百年経っても、この空虚さは何も変わりません。結局、今日の社会の在り方は、根本的に変えないと未来はないという事です。


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最終更新:2014年06月13日 07:01
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