生徒会ss4
『1週間前』【50点】
目を覚ますと、白い天井に嵌め込まれた蛍光灯が目に入った。鬼塚百合根は眩しさに思わず目を細め、顔を背けた。知らない部屋だった。
身を起こそうとしたが、思うように体が動かない。何とか首だけ起こしてみると、自分の体がベルトのような物で戒められているのが見えた。
「えっ…」
状況が飲み込めないまま、百合根はとにかく束縛から逃れようと手足に力を込めたり身を捩ろうともがいてみたりしたが、拘束は強く体を締め付けたまま少しも緩む事は無かった。
唯一首だけは自由に動かす事が出来たので、ぐるりと顔を巡らせてみると、そこはおよそ10畳程の真っ白な部屋だった。
百合根の横たわる拘束具付きの台は部屋の左側の壁から1メートル程離れた所に置かれているようで、真後ろに扉が見えた。
ぐいっと首を起こすと正面の壁には大きな鏡が嵌め込まれているのが見え、その右隣には引き戸の付いた棚が並んでいる。そしてさらに右へ目をやると――
「あ、先輩。起きましたか?気分はどうですか?吐き気とか頭痛はないですか?」
やや小柄な体躯にうなじのあたりで短く揃えた、白みがかった金髪。見慣れた制服。足元は何故か年頃の少女に似つかわしくないスニーカー。
妃芽薗学園に通う百合根の後輩、千坂らちかがいつも通りの無邪気な笑顔でそんな事を言った。
「えっ、らちか…ちゃん?なんで……」
「なんで私がここに居るのかですか?それともなんで縛り付けられてるのかですか?」
困惑の言葉に弾むような声で矢継ぎ早に答えるらちか。
机の方を向いていた彼女はくるりと振り向くと、コツコツと軽い靴音を鳴らして百合根が縛り付けられているベッドに近づき、百合根の顔を覗きこみながら言葉を続けた。
「私がここに居るのはここが私の所有地だからで、先輩が縛られてるのは私がそうしたからですよ。私が先輩をここまで連れてきたんです」
冷蔵庫の中段奥にプリンがありますよと説明するような気軽さだった。百合根はらちかの言葉を飲み込むのに数秒を要した。
その間にらちかはにわかに頬を赤らめ、もじもじと指を絡ませながら意を決したように行った。
「先輩……実は私、先輩の事が好きなんです!」
「……えっ?」
混乱する百合根をよそに、らちかは更に顔を近づけた。殆ど鼻がくっつきそうな距離で、らちかの爛と輝く瞳が百合根の視線を捉えた。
百合根は彼女が学校で知る千坂らちかと本当に同一人物なのかと、頭のどこかで考えていた。
「一目見た時から今までずっと……その薄くて白い肌も黒い髪も、長い睫毛も黒曜石みたいな瞳も、滑らかな喉元も可愛らしい鎖骨も、
細い腰もすらっとした足も、優しい声も穏やかな口調も、頭が良いのにそれを鼻にかけない所も、皆と喋っていても1人1人に気を回す細やかさも、
みんなみんなみんなみんなだあああああああいすき」
口調や声色が変わった訳ではない。にも関わらずその言葉には先程までとは明らかに異質な、聞いている内に深く暗い海の底へ沈められていくような、
どうしようもない絶望感を与える力が確かに宿っていた。部屋は空調が効いているにも関わらず、百合根の額にはじっとりと嫌な汗がにじみ、鼓動の音が頭蓋に響いた。
ざらついた舌を懸命に動かし、震えを悟られぬように百合根は尋ねた
「……ら、らちかちゃん……私を好きだって言うなら、どうしてこんな所へ連れて来て、縛り付けたりするの……?」
核心に踏み込んだ質問だった。聞けばもう後戻りは出来ないと知りつつも、聞かずには居られなかった。
らちかは少し上体を上げてゆっくりと首をかしげ、少しはにかみながら笑った。
「あの……ちょっと恥ずかしいんですけど、私、その……血管を見ると……フフッ、なんだかドキドキしちゃって……暫く間をあけると、
あの赤くて綺麗な血管が見たくて見たくて、気が狂いそうになっちゃうんです。はしたないって分かってはいるんですけど、どうしても我慢できなくて……
それでね、先輩」
頬を桜色に染めつつ、らちかはゆっくりと右手に握っていたメスを掲げた。
百合根は全身を廻る血が一気に逆流したような感覚を覚えた。
「ら、らちかちゃん……冗談、よね……?」
「ちょっとだけ……ほんのちょっぴり切開するだけです。跡も残りません」
「い、いや……」
「先輩、動くと危ないですから……」
らちかは左手で百合根の頭を押さえつけた。華奢な身体のどこにそんな力があるのかと思う程の膂力だった。
それでもなお、百合根は全力で抵抗した。必死で顔を背け、背中を反り、手足をバタつかせようとしたが、拘束は些かも緩む事は無く、
百合根の抵抗を嘲笑うかのようにベッドが僅かに軋むだけだった。
「先輩、大丈夫です。落ち着いてください……なるべく痛くしませんから……」
「いや……いやぁッ!止めて!殺さな……ひっ」
首筋に冷たい感触。ぴたりと押し当てられたメスは百合根の頸動脈を正確に捕えていた。
いつも通りの柔らかな笑みを浮かべ、らちかは囁く。
「先輩、暴れると手元が狂います。もしうっかり大事な血管を切っちゃったりしたら、ね……?」
「う、ううっ……あっ」
ぷつっ、と茹でたウインナーをフォークで突き刺したような音がした。同時に火箸を押しつけられたような、鋭く熱い痛みが百合根の首に走る。
「いっ、あっ、ぐぅ……あぐッ!」
「ああ……先輩のお肉、ピンク色ですごく綺麗……脂肪も薄いんですね……」
らちかはゆっくりとメスを滑らせ、白い肌を裂いていく。己の身体を切り裂かれる痛みと異物感に、百合根は歯を食い縛って耐えた。
「わぁ、血管も……ふふっ、とくんとくんって脈打って、すごく可愛い……」
「はぁっ、はぁっ……んぐっ、はぁっ、ううっ」
「……はいっ、おしまいです。よく頑張りましたね」
そう告げて、らちかは足元にあったペダルを踏み込んだ。すると僅かな駆動音と共にベッドが起き上がり、90度の角度で停止した。
身体が垂直になった事で目前の鏡に十字型に戒められた百合根の全身が映りこんでいる。首の両側には2本の赤い傷口が見えた。
傷口は絆創膏のようなもので広げられたまま固定されていた。
「あ、ああ……」
「ん……先輩、ちょっとベッドを動かしますね?」
絶望する百合根を歯牙にもかけず、らちかはおもむろにキャスターの固定を外すと、ベッドを少し前に移動させた。
鏡に近づいた事に傷口がより鮮明に見え、百合根は思わず目を逸らした。
「これで良し、と……先輩、ちょっと失礼します」
キャスターを固定し直すと、らちかはゆっくりと百合根の前に立ち、傷口に指を沿え……躊躇なく突っ込んだ。
「いっ、いあああああッ!!あっ、ぎあッ!!」
「ん、よいしょ……と」
ぐちぐちと粘性のある水音を立てながら、らちかの指が傷口をまさぐる。既に切り離していた表皮と血管の隙間に指を潜らせ、血管を外部へ引き摺り出す。
指がミリ単位で動く度、灼けるような激痛が百合根の脳髄を駆け巡った。
聞くに堪えぬ悲鳴を浴びても、らちかの表情は寸毫も変わらない。
「こっちはよし、後は反対側だけです」
「いやっ、もう止めっ……あぎぃ!ぐぅあああッ!!」
更にもう一つの傷口にも指を差し込む。そうして同じ様に、頸動脈をぐいっと引っ張り出した。
らちかは愛おしむように血管を二本の指で摘まみ、コリコリと弄んだ。
「あ、あぐ……ううっ」
「ごめんなさい、痛かったですよね……でも、先輩の血管、すごくドクドク脈打って……はあぁ……」
恍惚とした表情を浮かべて、血管を弄り続けるらちか。表面をつるつると摩ったり、時折強く摘まんだりして弄り回している。
両方の血管を同時に摘ままれると、百合根の意識が一瞬暗くなった。
明確に死を予感させるその行為に、思わず呻き声が漏れる。
「フフッ、こうやって両方の頸動脈をキュッて摘まんで血を止めると、全然息苦しくないのに意識だけがすうっと白くなっちゃうんですよ。
とっても気持ち良いんですけど、うっかりやりすぎちゃうとそのまま死んじゃうから注意しないと……くくっ」
らちかは嬉しそうに喉を鳴らした。それは獲物を前にした肉食獣を彷彿とさせるものだった。
しかし同時に、その顔は学校で周囲に見せる笑顔と何も変わらないもので……そのギャップに、百合根の内側で必死に抑え込んでいた何かが決壊したような気がした。
「先輩……?泣いてるんですか?」
「うっ、ぐすっ、ふぅ……っく、どう、して……」
「んん?」
小首を傾げるらちかの仕草は百合根の良く知るものだった。その愛らしいポーズは、百合根も含め学内の多くの生徒を虜にしていた。
今、百合根を拉致し、ひどく傷つけた上で、それと全く同じポーズを取るらちかを見ていると、百合根の嗚咽は益々抑えがたいものになっていった。
「どうして……っく、どうしてこんな事するの?らちかちゃんがこんな事……あなたは凄く優しくて、気配りが出来て……この前帰り道で猫を見つけた時だって、
飼い主が見つかるまですごく頑張って、ご飯の世話もして……あなたのクラスでいじめがあった事が公になったのも、あなたがいじめられていた子をかばったからだって……
それなのになんで、なんでこんな事を……」
「…………」
らちかは質問には答えず、血管から指を離して当たり前のように血に塗れた指を加えた。
恍惚とした表情で己の指をしゃぶるらちかに、百合根はどうしようもないおぞましさを感じた。
「んっ、おいし……ところで先輩、人間の髪ってなんで生えるのか知ってますか?」
「えっ……?」
予想外の質問に対し、百合根は返答に窮した。
するとらちかは笑みを消し、真面目な顔になって続けた。
「原理を言うならば、先輩も御存じの通り新陳代謝によるものですね。でも、それは原理であって理由じゃない。何故私達に髪が生えているのか、
生え続けるのか、という問いの答えはなんだと思いますか?」
「……言ってる事が解らないわ」
らちかは少しだけ悲しそうに眉根を寄せた。
「そうですか……私が思うにはですね、それは私達の肉体がそうしたいから、なんですよ。肉体がそうしたいから、そういう風に進化した。
私のやってる事はそれと同じです。髪が生えるのを止められないように、私は血管を見る事を止められない。血管に触れる事を止められない」
「あなたは……そんな個人的な欲求の為にこんな事をしてるって言うの……!」
「それが私であり、私達です。私の本当の名前は裸繰埜夜見咲らちか。魔人にして人類の抗生剤、仇成す者達の集団である裸繰埜一族の1人。
これは私の愛する人にしか教えない、とても大切な事です」
「あなたが魔人……?そんな事、今まで一言も……」
「ふふっ、あまり公に魔人である事を明かすとロクな事になりませんから。でも、私もずっと嘘をつき続けるのは疲れるので、
愛すると決めた人にだけは本当の事を話しているんです。やっぱり大事な人には自分を知って貰いたいじゃないですか」
「ふざけないでよ……!自分の勝手な我が儘の為にこんな事をして……一体人をなんだと思ってるの?私はあなたのオモチャじゃない……帰してよ……
もう家に帰して!血なら十分見たでしょう!?お願いだから帰してよぉ!!」
絶叫する百合根に対し、らちかはポケットからハンカチを取り出した。そして落ち着き払った物腰で優しく百合根の涙を拭いながら、
一言一言幼子に諭すようにゆっくりとらちかは言った。
「先輩……あなたが帰るべき家は、もう何処にもありません」
「……何……言ってるの……?」
「言葉通りです。あなたの家はもう無いし、親も兄弟も友達も居ません。誰もあなたを覚えていない……私の能力『エヴァーブルー』はそういうものなんです」
「嘘よ……そんな訳ない、そんな、……あなた、まさか」
「ああ、そうじゃないですよ。私は先輩の家族や友人に危害を加えた訳ではありません。正確には先輩の実家もまだあります。ただ、私の能力で『忘れさせた』だけです。
……ふふっ、信じられないって顔してますね?それでは一つ賭けをしてみませんか?」
そう言うとらちかは部屋の端にあるスチール製の机に置かれた百合根の鞄から、彼女の携帯電話を取り出した。
「今から先輩の、そうですね……お母さんに電話をかけます。先輩は1つだけ、自分を知っているかどうかだけを質問して下さい。
先輩のお母さんがあなたの事を知っていたなら、私は即座に先輩を解放しましょう。私の名にかけてお約束します。
でももしそれ以外の質問をしたり、助けを呼んだりしたら――甚だ不本意ですが――あなたを殺します。解りましたか?」
百合根はぐちゃぐちゃになった頭の中を必死で整理していた。しかし如何に損得を考えようと、この状況では受ける他無かった。
文字通り手も足も出ないようでは、約束すると言ったらちかの良心に期待するしか無い。百合根は無言で頷いた。
らちかは携帯を操作し、電話番号が表示された画面を百合根に見せた。それは確かに百合根の母の番号だった。
「この番号で間違いありませんね?それじゃあダイヤルして、と……はい、どうぞ」
らちかは百合根の耳に携帯を当てた。百合根の心臓が不安と期待で痛いほどに暴れている。
そして幾度かのコール音の後……
『もしもし?』
紛れも無く母の声だった。
「……お母さん……私よ、百合根だよ……」
百合根の声がか細く震えているのは、らちかのメスが首筋に当てられているからだけではなかった。
緊張からかひどく喉が渇いていた。百合根は無理矢理唾を飲み込み、祈るように言葉を続けた。
「お母さん……あの、変な事聞くけど、笑わないでね……私の事、分かるよね……?お母さんの子供の百合根だよね?」
『……冗談は止めて下さい』
血の気がすうっと引くのを感じた。何を言っているんだろう、何故こんな強張った声をしているんだろう。
娘の声を忘れるなんて、そんな事――――
「お母さん……?ねぇ、冗談じゃないよ……大事な事なの、お願いだから答え――」
『娘は半年前に死にました。今度同じような悪戯をしてきたら警察に連絡します』
がちゃん、と乱暴な音を立てて通話が途切れた。らちかは困ったように笑っている。
百合根は自分の心が音を立てて軋んでいくのを感じた。酷く呼吸が苦しい。漆黒の海に投げ出された心が限界深度を超え、水圧が容赦なく押し潰さんとするかのようだった。
蒼白となった百合根の顔を、らちかが心配そうに覗き込んだ。
「先輩、大丈夫ですか?私の能力が発動するとですね、親類縁者皆共々一切の矛盾なく記憶が書き換えられてしまうんです。だから誰も先輩の事を覚えていないんですよ。
きっと先輩のお母さんが言っていた『死んだ娘』の顔も、先輩とは別人なんでしょうね。だからもし先輩がここから外に出たとしても、誰も先輩を知りません。
お父さんもお母さんも先輩の友達も彼氏も、誰も知りません。そういう意味では、先輩はもう死んでいるのと同じなんです」
らちかの言葉には同情や憐憫といった感情は一切込められておらず、ただ淡々と状況を説明するだけのものだった。
その言葉は無意識に理解を拒絶する百合根の脳に反響し、閉ざされた心の隙間からじわじわと水のように染み込んでいく。
ドロドロした黒い水が、百合根の心を浸食していく。
「あっ、でも安心して下さいね、この世の誰もが先輩を忘れても、私や仲間達が居ますから」
そう言いながららちかは鏡の横にある引き戸に手をかけた。既に精神的許容範囲の限界を超えつつある百合根は、働かない頭でその行動をぼんやり眺めていた。
引き戸は軽い音を立ててスライドした。内部は棚になっていて、大小の瓶が大量に置かれていた。
その殆どはらちかの体に隠れてうまく見えなかったが、上段の二列にある瓶の中身は見えた。見えてしまった。
それは人間の首だった。百合根の位置から見えた首はまだ幼さの残る少女で、カッと見開かれた眼がこちらを向いていた。
「あ、ああっ……ああああぁアアアッ!!」
「先輩、大丈夫ですか?ふふっ、少し刺激が強すぎましたかもしれませんね……でも、この子達はみいいいいいいんな私の大事なお友達なんですよ」
振り向いたらちかは一つの瓶を抱えていた。これにもやはり生首が入っていて、処女雪のように白い肌をしていた。
「この子はトオル君って言って、私が今まで愛した子の中でも一番のお気に入りなんですよ……ほら、すっごく肌が白くて、静脈が透けて見えるでしょう?アルビノなんですって」
らちかの口調は玩具を自慢する子供のそれだった。愛おしげに瓶を撫でながら弾んだ声で説明を続ける。
「瞳も綺麗な赤色で宝石みたいでしょう?この色を残したまま保存するのは大変だったんですよ、保存液をこの子用に一から調合しなくちゃいけなくて……
でもその甲斐あって、この保存液に漬けて適切な温度と湿度を保てば、半永久的に保管出来るんですよ。あ、それからこういうのも……」
生首の入った瓶を元の位置に仕舞うと、らちかは反対側の引き戸を開いた。そちらは棚では無く、物置のようなスペースになっているようだった。
らちかはそこに上半身を突っ込み何やらごそごそと探ると、布に包まれた大きな物体を引っ張り出した。
「本当はこの部屋に飾っておきたいんですけど、一応共同の場所なので……よいしょ」
らちかより頭一つ分程小さな「それ」に巻かれた布が丁寧にほどかれていく。「それ」の頭頂部が現れ、首が見え、胸部が露わになり……
やがて全身が現れると、百合根は今度こそ意識が遠のくのを感じた。
それは一見するとミイラのようだった。落ち窪んだ眼や口は虚ろな空洞と化していたし、皮膚はカラカラに乾燥して古びた和紙のような色をしていた。
奇妙なのは身体は完全にミイラ化しているのに、血管だけがくっきりと盛り上がり、木の根が這うように全身を覆っている事だった。
「凄いでしょう?これほど完璧な血管図は世界中探したってそうはありません。この子の身体は凄く健康で、血管の位置も理想的だったので、動脈に水銀を一杯注射して、
生きたまま保存したんです。心臓が動いてる間にやらないと水銀が行き渡らないので、ちょっと苦しい思いをさせちゃったんですけど……あ、それから、
私の身に着けてる下着やハンカチや、リボンとか靴紐なんかも血管を加工して作ってるんですよ。普段着ている私服も手作りです。この前先輩、私服が可愛いって
褒めてくれましたよね?あれすっごく嬉しかったんですよ、私の友達を褒めてくれたんですからね。勿論デザインにも凝ってるし、特殊な加工をしてるから強度も折り紙付きなんです。
さっき先輩の顔を拭かせて貰ったハンカチも木綿みたいな肌触りだったでしょう?ああいう質感を出すのには結構苦労して……あれ、先輩?」
百合根の下腹部から脚を伝って、床に小さな水溜りが出来ていた。らちかは頬を掻きつつ苦笑した。
粗相をして泣いている幼児を見るような顔だった。
「ああ、お漏らししちゃったんですね?大丈夫ですよ、珍しい事じゃないですから……あとで一緒に掃除しましょうね。
とは言っても、ここなら水で簡単に洗い流せるんですけどね」
らちかの言葉は既に百合根には届いていなかった。うつむいた百合根の顔からは大粒の涙がぼろぼろと零れていた。
「う……ひっぐ、ひっ、やだ……死にたくない……いやだ、死にたくない……!こっ、こんな、誰も知らない所で、誰も知らないまま!
いやだよぉっ……死にたくないよ……死にたく……うっ、死にたくない……!」
泣きじゃくる百合根の頬を、らちかは両手でそっと包んだ。そして鼻と鼻が触れ合う程近づいて、瞳を覗きこみながら囁く。
「大丈夫です先輩。もう何も心配しなくて良いんですよ、これからはずっと一緒です。寂しい事も恐い事も痛い事も、これからは何もありませんから……
だから泣かないで下さい。絶対に離れたりしませんから……先輩は何も悩まず、苦しまずにいて下さい。これから先にあるのは安息だけです。
傷、痛かったですよね?本当にごめんなさい……もうこんな事はしませんから……安心して、全て私に任せて下さい」
子守唄を唄うような調子で、らちかは語りかける。百合根はしゃくりあげながらもその眼を見た。黒瑪瑙のように滑らかな瞳からは、やはり何の感情も読み取れなかった。
百合根はここに至って、らちかが自分とは――人間とは違う生物である事を悟った。彼女の言っている事は全部本気だが、その意味は多分、私達とは全く異なる。
目の前で楽しげに喋るこの娘は、甘やかな言葉を囁くこの娘は、
「……人間じゃない」
「え……?」
「あなたは……おまえは……人間じゃない。私はおまえの仲間になんかならない」
「先輩……」
らちかはほんの少し悲しげな表情を見せたが、すぐに明るい笑顔を見せた。
「流石は先輩、ですね……その眼、ゾクゾクしちゃいます」
らちかは頬から手を離し、メスを取って百合根の頸動脈に直接当てた。
肩を震わせ涙を流しながらも、百合根は口を一文字に結び、その眼は真っ直ぐにらちかを睨みつけていた。
「何か言い残す事はありますか?」
何でもない調子でらちかが尋ねた。百合根はごくりと唾を飲み、
「地獄に堕ちろ」
と吐き捨てた。らちかは失望したように溜息をついてかぶりを振った。
「残念です先輩……分かって貰えないかも知れませんが、本当に残念です。同意を得られないまま仲間になってしまうなんて、本当に……」
残念です、と言うと同時にらちかの右手が引かれた。百合根に痛みは無かった。
ただ、自分から迸る液体がらちかを赤く染め、その飛沫の中で恍惚と笑う彼女の姿は、
それまでの苦痛や悲しみや怒りを忘れさせる程、純粋に美しいと思った。
鼓動と共に放たれる血流がらちかに届かなくなった頃、鬼塚百合根は絶命した。
1時間後……
――あ、もしもし、お兄ちゃん?うん、終わったよ。今片付けてる所。
いやー、流石は私が目をつけただけはあるって感じ。え?だってその通りじゃん。
うん、凄く怖がってたけど、最後は私が人間じゃないって解っちゃったみたい。
えっ?うん、うん……ふふっ、そうだね。気付かない方が幸せだったかもね。
でもそこが先輩の良い所なのよ。芯が強くて頭が良くて。
うん、素敵でしょう?私の経験の中でもあんまり居ないもんね、そんな人。
お兄ちゃんもそんな人が居たら紹介して……イヤ?意地悪。
あはは、そうだよね、私達なら誰だってそんな人が欲しいもんね。一族以外に自分の事を解ってくれる人。
そう考えると、ちょっと勿体なかったかな。
うん、まあどっちにしろやっちゃうんだけどね。うん、一族の宿命って奴だね。くくっ、なんか漫画のセリフみたい。
……うん、うん、ハルマゲドンね。そうだなー、ちょっと気になる娘も居るし、やっぱり出てみようかなって。
うん、危険は承知だよ。
でも、危険を冒してでもゲットしたいものってあるでしょ?お兄ちゃんに分からないとは言わせないよ。
そうそう、衝動ってのは抑えられないものなんだから。特に私達は、ね。
……大丈夫だって、そんなヘマしないからさ、多分……そりゃ、絶対とは言えないけどさ。……うん、分かってる。ちづなちゃんは元気?
うん、うん……そう、良かった。上手く行けば今度の戦争でお土産持って行けるかも。期待しないで待っててって伝えといてね。
うん、早めに切り上げるよ。あ、もう待ってるの?分かった分かった、すぐ済ませるから。
あ、死体は置いとくけど触らないでね。イタズラしちゃ駄目だよ!
うん、うん、分かった。それじゃあね、愛してるよお兄ちゃん。
『カミとカミナリとカミのシズク』【50点】
全身の皮膚が粟立ち、背筋がぞくり、と冷たく慄えた。
──────追手か。
一瞬で弥本子姫(やもと・こき)は危難を悟った。
授業を終えてオリガミ部の仲間と下校する子姫。身体に走った悪寒に身を震わせると
友人たちには忘れ物をしたから校舎に戻る、と自分を待たせずに先に帰らせる。せめて
巻き添えは防がねば。
足を止め、待ち構えた視線の先に映るその人物の風体は、何処から見ても只の一般
生徒。むしろおっとりと微笑みながら軽いウェーブの掛かった長髪を緩やかに揺らして
歩む様は、庭園を優雅に散策する良家の子女といった様相で何の害意も感じられない。
気のせい、にする事さえ憚られる程の誤解、と感じても良い感覚を、子姫は全身で
否定した。ゆったりと歩を進める姿は何の力みも無く、そして──────隙だらけ
なのである。
それはつまり、何者からの攻撃も恐れず、備える必要が無い、ということ。すなわち、
絶対的強者。捕食者であるのだ。何処の世界に外敵に怯える虎がいようか。何処の海に
捕食を恐れる鯱がいようか。
勿論、本当に只の一般人であれば安寧とした現代生活の中、外敵を恐れる本能を忘失
している事も考えられないではない。
だが、子姫はその仮定を選択しない。
何故ならば、その理由こそが熟練の手芸者である子姫の足を止めさせたもう一つの
理由──────死臭、だった。
死の香りを身に纏い、それでもなお心乱さずに進む者。そのような者は既に人では
ない。
魔か、それとも手芸者だ。
どちらにせよ、相手が此方を害しようとしている事に違いはない。
それならば、子姫の選択肢は一つである。
殺られる前に、殺る。
使い古された言葉ではあるが、それだけに真理である。そして肝心な事は、今まで
そうして生き延びてきたという厳然たる事実である。
一呼吸。
心を闇に溶かし、修羅に入る。
表情を消した子姫と、にこやかな笑みを浮かべた貴人。
殺し合いが始まる。
激しく交差する影、二つ。
黒姫音遠(くろひめ・ねおん)は砂利道の上にて、仁王立ちする。
ぴりぴり、と痺れるような、冬場の静電気のような感覚が髪先に走る。
彼女の超感覚は、近くで発生したある波動を正確に捉え、この場へ導いていた。
そして、やって来た先で見た光景。それは人間を越えた動きで大地を蹴り、宙を舞い、
命を奪い合う死の舞踏。
お気に入りの髪留めを指先で触れる。姉を身近に感じられるような気がして、少し
落ち着いた。
このような時、音遠はまずは一発電撃をぶちかますと決めていた。この電撃は彼女
自身をそのまま象徴するかのような特殊な性質を秘めており、特に正邪の分からぬ混沌
とした場では非常に有用に働くと考えていた。その性質とはすなわち──────。
変態・即・撃滅。
シンプルにしてクリティカル。変態だけを穿つ雷は、それが魔人であろうと一般人で
あろうと決して逃しはしない。どれほどの素早さや回避能力を持とうとも、文字通り
地の涯までも追い詰めて天の怒りを叩き込む。それが転校生黒姫音遠必殺の能力、
《追跡雷光(ブリッツイェーガー)》。
果たして、轟音と爆煙の後に立っていた生き残りは──────。
二人。
どちらも善なる者だった?
それは有り得ない。
音遠は直ぐに自らの思考を否定する。電撃が直撃し、爆煙が立ち昇ったということは
少なくとも一人は邪なる者に違いない。どちらも《追跡雷光》の対象にならなければ、
そもそも直撃しなかった筈である。
では、何が起こったのか。
簡単な話だ。
直撃したが、効かなかった。──────少なくとも、十分な効果は得られなかった。
《追跡雷光》は転校生である音遠の攻撃力をそのまま転化させた威力を持つ。余程の
体力自慢でも無ければ立ち上がるどころか生き残ることもできまい。
しかし、相手はそれを成し遂げた。相当に頑強な肉体の持ち主──────。
だが、それも有り得ない。
何故なら、先程の戦闘だ。あれほどの鋭い攻撃の応酬、両者共に魔人としても最高
レベルかそれに近い攻撃力を持つということ、それは同時に防御力を犠牲にしている
ということでもある。両立出来うる存在は、彼女のような魔人を越えし者──────
すなわち転校生のみ。
そして、目前の二人は転校生ではない。
以上より導き出される解答は、一つ。
電撃を浴びせられ、それでも春の女神のような微笑を浮かべ続ける狂気の令嬢。
彼女が撃滅すべき変態であり、その正体は──────攻撃無効化能力者だ。
ここで二人は一つの選択を迫られる。すなわち、共闘するべきか、せざるべきか。
まずは子姫の思考を遡り、追ってみる。
相手が手芸者の追手でない事は戦い始めて直ぐに気付いたが、同時に敵は想像以上の
強敵である事も思い知らされた。花を愛でる為にのみ存在するようなたおやかな指先が、
大木を藁のように引き裂き、蕾を落とすかのように石柱を捩じ切る。その鋭さは暗殺術
《ミキレ》を会得している彼女を持ってしても辛うじて躱す事がやっとであり、相当の
手練である事は間違いない。
加えて何より、攻撃が通じないのである。
彼女の戦闘技術《オリガミ・ジツ》は紙片に命を吹き込み、さながら陰陽師の式神の
如く自己追尾して敵を屠る。だが、その必殺の武器である筈の《オリガミ・スリケン》
は令嬢の身体に届こうかというその寸前、冬の羽虫のように仮初めの命を奪われて儚く
舞い落ちる。《オリガミ・スリケン》を形作る強化チョーガミは、ただの紙片ではない。
多少の炎で燃えたり、酸で溶けるような脆弱な材質ではないのだ。
その強化チョーガミが、ことごとく力を喪失している。
雨に濡れた落ち葉のように。
此方の攻撃は効かず、いつまでも相手の攻撃を防ぎ続ける事も難しい。
ジリ貧と言える状況。そこに突如現れ、そして攻撃を加えてきた乱入者。だがその
攻撃は自らには命中せず、目前の不気味な麗人へと向けられた。──────実際の
ところ、音遠の雷光は子姫にも向けられていたのであるが、その性質上、子姫を狙い
撃つ事は無かった。この点は子姫の誤解だった訳だが、無論それを知るすべは無い。
味方と断じる事は出来ないが、令嬢への攻撃意志を示した事は事実だ。そして何より。
手芸者は、あのような派手な手技を使わぬ。
追い手芸者でなければ、話が通じるやもしれぬ。
生き残る為には、ありとあらゆる状況を利用する──────。
子姫の思考は折り紙一枚程の間断も無かった。
一方、音遠の思考を辿る。
《追跡雷光》により倒せぬ者が居た事は、さしたる問題ではない。堅固な防御能力を
持ってはいるようだが、それが無尽蔵に続く訳でもあるまい。雷撃を何度も浴びせ
続ければ──────仮に全く雷撃が効かぬとなれば、直接打撃にて仕留めれば良い
だけの話だ。鋼鉄をも易々と刺し貫く紫電の貫手を突き立てる。術と力、その両方を
耐え切れる能力者など滅多に居るものでもない。と──────。
黒姫音遠は「そのようには考えない」。
魔人能力の理不尽さ、恐ろしさは何よりも理解している。未知の敵の能力の軽視は
すなわち、常識に囚われた死へつながる愚考。
では、令嬢と相対する手芸者は如何なる者か。
こちらも当然、手芸者であるというだけで一級の警戒を要する。加えて、未だ能力の
底を見せていない。折り紙を武器に、やや押され気味とはいえ微笑の麗人と渡り合って
いる白兵能力も並のものではない。そしてその瞳には、一瞬の逆転を狙う切り札の存在
を秘めた輝き。
音遠が選ぶ事のできる選択肢。
このまま、二人纏めて薙ぎ払う。
一方と協力して他方を討つ。
この場合、花薫る淑女と組む事は有り得ない。如何な優美な容貌であっても、彼女の
討つべき変態である事に違いは無いからだ。
そもそも、意思が疎通出来る気がしなかった。
必然的に、残るは手芸者。
音遠の思考は稲妻よりも速かった。
異なる思考の道筋を経た二人だったが、ここに同じ終着点を見る。
子姫は無言で音遠を見る。
音遠は無言で子姫へ頷く。
手芸者と転校生、二人の超人にそれ以外は不要。
子姫は鶴を象った紙細工、折り鶴を。
音遠は迸る雷光を帯びた閃雷の手刀を。
それぞれの武器を構えると、共通の敵へ向き直る。
「まあ…………仲がよろしい事で、まことに結構でございます」
嘘偽りなく、心底嬉しそうな声で柔和に微笑む。
「一輪挿しも風情がございますけれども、二輪相揃いますのもそれはそれで華やかな
趣で素晴らしく存じます」
歪みも、淀みも無い。純粋に美しい花が咲いていた。
──────狂気という土壌の上に。
殺し合いの再開を告げるかのように、時計台の大鐘が鳴り響く。
「まぁ、わたくしとしたことが失念致しておりました。本日は安全院さまのお茶会に
お呼ばれしておりましたのに…………」
弱り切った表情で柳眉を垂らし、頬にたおやかな手を添える。
だが、さも名案を思い付いた、とばかりに両手を打ち鳴らして告げる。
「そうですわ。宜しければ貴女方お二人も御一緒に如何でしょう? きっとお茶会が
もっと華やかになると存じます」
子姫も、そして音遠でさえ一瞬我が耳を疑う。
今朝の同志を夕べに殺す手芸者であっても。
巡る世界の中、同じ人物が時に味方に、時に敵に変じる転校生であっても。
これほどの瞬時の変遷には虚を突かれた。
降伏宣言、という訳では無さそうだった。さりとて、全くの虚言とも思えなかった。
「アッサムもウバも上質な葉が入手出来ましたので、お好みでお選び頂けますわ。
それに拙い手製で恐縮でございますけれどもスコーンも焼きますし、たっぷりの英国
製クロテッド・クリームと柚子のマーマレードも持参致しますので」
思わず顔を見合わせる子姫と音遠。
意図が全く読めない。だが、安全院という名前には聞き覚えがある。確か、生徒会の
──────。
「如何されました? 蜂蜜の方がお好みでしたでしょうか。それならすぐにご用意
致しますが……」
二人の表情に困り顔だったが、漸くその理由に思い至り、恥ずかしそうにはにかむ。
「申し遅れました。わたくし、妃芽薗学園生徒会に籍を置いております…………
一八七二三(にのまえ・はなつみ)と申します。以後、宜しくお見知りおきお願い
致しますね」
聖女のように優しい美声で、ロングスカートを摘み上げて微笑んだ。
<了>
TIPS
※ある波動…………一八七二三が弥本子姫と遭遇する前に起こした殺戮と直後の衝動。
最終更新:2011年09月05日 12:25