(02)735 『光・高・香(KOU3)』



額から汗が流れ、歩きながら、左手で顔を扇ぎ右手で制服の
ネクタイを緩める。
春にして気温二十度を超す暑い日だった。

誰かに尾行されている。
光井は喫茶リゾナントに向かう途中に、気配を察知した。
この未来は読めていなかった。

極力態度を変えないように努めて、細い道を歩く。
あと二つほど角を曲がれば店に辿り着く。
そして……一つ目の角を曲がった。

後をつけてきていたのは小柄な女だった。
自分に続いて角を曲がってきた瞬間、電柱に隠れていた光井は、
すかさず背後に回って外しておいたネクタイで相手の首を絞めた。
女はくぐもった声を漏らし、ネクタイを外そうと両手を首に
持っていったが、当然外すことは出来ない。
爪を立てて布の繊維に傷跡を残すだけだ。


もがいている女の首筋からふわっ、と香水の香りがして、
光井は内心驚いたが、なんとか動揺を律しようとする。
悟られぬよう声を張って

「いつまでも弱いもんやと思わんとき!」

そう忠告した直後、何と女が動いた!
首を絞められてなお機敏な動作で上体を捻って、肘打ちを
見舞う。肘は肋骨に入り、呼吸が一瞬止まった。
両手から力が抜けネクタイが解けた。
女は蹲る光井から飛びのいて距離を取り、首に絡まったままの
ネクタイをアスファルトに放り、咳き込んだ。
露呈した首には横一線に痣が残っている。
光井はやはり、すぐには立ち上がれず膝をついたままだ。

「光井!」

その時、高橋が女の背後から駆けつけた。
五十メートル以上離れていたが、視力がいいらしく
光井の姿や状況の判断が出来たようだ。


「待てやコラァ!」

光井が聞いた事もないようなドスの利いた声で女に突進した
高橋だったが、もともと距離があったせいで逃げられてしまう。
路地を曲がった女の後を追おうとしたリーダーを止める光井。

「追わんでええ!」
「何でや!」
「ええんです……首に跡残しましたから」
「跡……?」

よろりと立ち上がった光井がネクタイを拾って見せた。

「これや。そう簡単に消えんと思います」
「……光井がやったの?」
「はい」
「すげえな」
「はい。必要やと思ぉて、ダンベル上げ下げくらいはしてますよ」
「物騒な世の中やもんねえ」
「……半分くらいリーダーのせいやって自覚してはります?」


高橋は誤魔化すように笑った。
それでも、救いを求めればきちんと駆けつけてくれるリーダーの
ことは信頼している。

『誰か助けて、って強く思えば、あたしは必ず感応する』
『一人の時は、少しでも自分が勝てる望みなんて持っちゃ駄目。
 仲間を、呼びなさい』

高橋は自分達に何度もこの話をした。
それを光井は憶えていた。

実際、いざその場に立ち会ってみると、恐怖心が我が身を飲み
込むように襲い掛かってきた。
尾行に気づいて咄嗟にネクタイを緩めようとした時の手は、
震えていた。
電柱に隠れていた時は、うまく呼吸が出来なかった。
ただ……あの時の緊張感は、思考を極限まで冴え渡らせた。

一方で、心の中で念仏のように唱え続けていたのだ。



誰か助けて誰か助けて助けて誰か誰か誰か!!





「ありがとうございます。来てくれはって」
「おう、ちゃんと感じたからね。光井のSOS」

店の前に辿り着き、高橋がドアを開けた。
来客を知らせる鈴の音がチリリと鳴る。
コーヒー豆の芳醇な香りが漂ってきて、光井は思い出した。

「あの、あいつのことなんですけど」
「……女の人だったね」
「香水……のにおいがしたんです」
「香水?」
「はい。それも……」

最近どこかで嗅いだことがあるような……



とても、近くで……




















最終更新:2012年12月17日 11:50