(19)512 『AとA(2)』



「どういう意味だ」

高橋愛の双眸が粛清人Aを睨みつけた。
瞳の奥で炎が、ぎらり、と揺らめく。

「ふふん」

と、粛清人は冷たい笑みを頬に貼り付けて、愛に歩み寄る。
一見無防備に見えるが、全く隙がない。
迷いもない。
気負いもない。
びりびりと突き刺さる愛の視線の熱も全く感じていないような足取りであった。
気が付くともう、手の届きそうな位置に立っている。
いきなり右足が飛んできた。
咄嗟に顎を引いてかわす、右足が通り過ぎた瞬間、左の踵が襲ってきた。
後ろ回し蹴りだ。

「くっ!」

愛は、左腕をあげて、頭部を守る。
速く、鋭く、重い一撃が愛のガードを跳ね上げた。
さらに粛清人は旋風の様に回転し、裏拳を愛の顎に叩き込んだ。
スパァン!と乾いた音が耳の奥で響く。
間髪入れずに右のハイキックが愛のこめかみを狙う。

―潜れ!

身をかがめた愛の頭上を粛清人の右足が通り過ぎ・・・ない。

―フェイント?


次の瞬間、愛は頭から地面に叩きつけられていた。
恐ろしいほどの痛みと衝撃が頭部を突き抜ける。

―どこでもいいから跳ばなければ殺される!

恐怖が高橋愛の背すじを走り抜ける。
朦朧とする意識の中、愛はむりやり再度空間を跳躍した。
集中もへったくれもない出鱈目な跳び方である。
しかしそれでも、あのまま粛清人の追撃を受けるよりかはましだった。
自分が敵からどの方向に跳んだのか分からない。
ぐわんぐわんと、まだ頭の中で鐘が鳴っているようだ。
首を二、三度振って意識を覚醒させる。

右の方から、しゃー、ぱしっ、と音がした。
粛清人がヨーヨーを上下に弄んでいる。
ゆっくりと、眼が合った。
愛の瞳に映る粛清人の顔は驚くほど平静だった。
いささかも、呼吸が乱れていない。

―なんて奴だ

右の回し蹴りから左の後ろ回し、一回転しての裏拳。
そしてフェイント。
先程愛がAに対して繰り出した攻撃をそっくりそのまま返された。
いや、そのままではない。速さと強さがぐんと増している。
格闘戦には自信のある高橋愛だったが、その自信が崩れそうになっていた。

「強いだろう?私は」

と、黒衣の狩人は言った。
地球が丸いとか、空が青いとか、そんな当たり前の事を言うような口ぶりだった。
ごくり、と愛が唾を飲み込む。
それを肯定の合図と受け取ったのか、粛清人の頬に冷たい微笑が浮かぶ。

「でもねえ――私よりもRの方が強いんだよ。
 ――少なくとも殴り合いはね。あいつ本物の化け物だから」

愛の全身から冷たい汗が噴き出した。

―そういう意味だったのか

実際のところ、粛清人AとRの戦力はほぼ互角である。
ただ身体能力に於いては、わずかにRがAを上回っていた。
そういう意味ではAは嘘を言っているわけではない。

「新垣が今頃Rとたたかってるって、まだ思ってる?」

―とっくに殺されてるんじゃないの?

愛の耳には粛清人の言葉がそう聞こえた。
心臓をぐうっと鷲掴みにされたように、胸が苦しくなる。

ガキさんが
―落ち着け
そんなまさか
―ただの揺さぶりだ
里沙ちゃん!
―前!!


不意に銀色の凶器が唸りをあげて襲い掛かってきていた。
ちいっと舌を鳴らし、咄嗟に身をひねってかわす。
愛の髪が数本、空中で切断されていた。

「おう、よくかわした」

なぶる様な口調で粛清人が言葉を続ける。

「今更お友達のことが心配になってきたわけ?」
「――」
「まあ確かに気の毒ではあるわね、安倍なつみのお気に入りで、
 優秀なスパイで、サイコ・ダイバーとしても一流。
 順当に行けば幹部の座は確実だったのにねえ、ふう」

わざとらしくため息をついた。

「それが――i914なんかと関わり合いになったばっかりにさ
 ――今頃血祭りだよ。可哀想に」

Aはお前のせいだと言っているのである。
お前と知り合ったせいで新垣は裏切り者の烙印を押され、殺されるのだ。
お前と心を通わせたばかりに、絶望的なたたかいに身を投じたのだ。
地位も、未来も、安倍なつみの抱擁も、全て捨てる羽目になったのだ。
全部、お前のせいだ。
そう、黒衣の粛清人は言っているのである。

―粛清とは相手を屈服させて殺すことである。



粛清人Rは恐怖によって相手を屈服させる。
粛清人Aが相手を屈服させる際に用いるのは――
絶望。
敵の希望の芽を一つずつ摘み取っていく。
自信を砕き、信頼を揺るがし、勇気を萎えさせる。
そうすればどんな屈強な人間も心が折れる。
絶望する。

粛清人Aは絶望の申し子である。

「まあ、すぐにあいつの元に送ってやるよ」

こつり、こつり、と粛清人が歩み寄る。

「…舐めるなよ」

肉体の中に潜む獣が唸るような声が、愛の口から漏れた。
高橋愛の血が冷たく滾る。

「何?よく聞こえなかったんだけど」
「舐めるな!」

弾丸のように右の拳を放った。
拳が粛清人の頬をかすめると同時に左膝を叩き込む。
肘、足、拳、肉体の全てを動員して粛清人に攻撃を繰り出す。
空気が摩擦で焦げ付いてしまいそうな程の猛攻だった。

―さっきより速い…!


愛の攻撃を捌きながらも、粛清人はじりじりと後退していた。
どこにこんな力が眠っていたのか。
シィッと鋭く息を吐き、左拳を放つ。ごきり、と鈍い音がした。
愛が額で拳を受けたのだ。

「シャアッ!」

愛の渾身の力を込めた前蹴りが粛清人のみぞおちを捕らえた。
自ら後方へ吹っ飛ばされることである程度威力を殺したが、
それでも強烈な衝撃が体を突き抜けた。
愛が粛清人を睨みつけてもう一度言った。

「舐めるなよ」

私たちの絆を、響き合う心を、胸の高鳴りを。
九人で紡いだ希望の糸はそう簡単に引き裂かれはしない。
竜が雲を得て天に昇るように、仲間たちへの想いが愛に力を与えている。

粛清人は立ち上がって軽くため息をついた。

「分かった、もう遊びは終わりにするよ」

粛清人の手から鋼のヨーヨーが飛び掛る。
愛は首をひねってそれをかわし、素早く空中でチェーンを絡めとった。
愛の顔の横でヨーヨーが力なくぶら下がっている。

「何度同じ手を使えば気が済むわけ?」

黒衣の粛清人の唇に浮かんだ微笑がこれまでと違うことに愛は気付かなかった。


「爆ぜろ」

パン!と音がした瞬間、愛の顔の右半分がかっと熱くなった。
ずぶり、と何かが瞼を貫いた感覚があった。

―?

顔に手を当ててみる。
右手が真っ赤に染まっていた。
血だ。

次の瞬間、恐ろしい痛みが襲ってきた。

「くううう!」

愛の口から苦痛が漏れる。
右半分の視界が闇に包まれていた。

「私の能力は破裂。手に触れたあらゆる物体を爆発させられるのよ」

愛の顔のそばでヨーヨーを爆発させたのだ。
そして、その破片の一つが愛の右目を貫いた。

「遊びは終わりね。ここからは、狩りの時間」


黒衣の狩人から放たれたもう一つのヨーヨーが、愛の眼前で破裂した。
両腕で頭部をガードする。破片が腕に突き刺さり、激しい痛みが走る。
次の瞬間、粛清人の姿が消えていた。

―!どこだ?

「ここだよ」

死角から突風のような蹴りが愛を襲った。
わき腹を乱暴に蹴り上げられ、愛の体が宙に浮く。

「私に能力使わせるなんて、やるじゃない」

粛清人の能力を見て、生きている者はいない。
絶望的な現実は、Aの繰り出す怒涛のような連撃へと姿を変えて
愛の体へ叩きつけられた。

コンクリートが血に染まっている。
右目からの出血が酷い。
濃厚に、死の気配がたちこめた。


―ねえ

―聞こえる?私
聞こえとるよ。あたし

幼い頃に心の奥底へ封印されたもう一人のアイ。
i914としてこの世に生を受けた少女。
彼女の心の声が愛に語りかけていた。


―私の力…使う?

―恐い?

恐くない。と言えば嘘になる。
i914の力。
『光』
あらゆるものを消し去る、人間が持つには大きすぎる力。
はたして自分に使いこなせるのか?自分が自分でいられるのか?
命を失うことと、自分を失うことと、どちらか選ばなくてはならないのか?

――ふと脳裏に里沙の顔が浮かんだ。

「大丈夫。信じて、心を」

そう言って、ちょっと困ったような顔をして微笑んでいた。

そうだ、愛もアイもi914も全てひっくるめて私なんじゃないか。
彼女はそんな私を受け入れてくれたんじゃないか。
今更、何を恐がるって言うんだ?
私には、かけがえの無い友と仲間がいるじゃないか。

―私、大丈夫?
ああ、大丈夫。あたし、力を、貸してくれるね?
―うん

全身の力を振り絞って立ち上がる。愛の肉体を衝き動かす何かが目覚めつつあった。
右腕を突き出し、手のひらを粛清人に向ける。


「まだ立ち上がれるのか、凄いな」
「負けんよ、あたしは」

そう言いながら眼の焦点が合っていない。気力のみが彼女の足を支えているようだ。

「強かったよ、お前」

愛の頭部にAの左足が放たれた。
閃光のような蹴りが、愛の側頭部へ吸い込まれるように弧を描く。
愛の潰された右目にはそれが全く捕らえられない。
もろに右のこめかみに当たった。
残酷な音が工場跡に響く。
粛清人の左のブーツがねっとりと血に染まっていた。

「終わりだ。リゾナンター」

その時、愛の中で何かが弾けた。
凶暴な獣が檻を食い破るような衝動が堰を切って溢れ出す。

―調子に乗りやがって

血で紅く染まった唇がついいいっと吊り上った。
凄まじい微笑が愛の表情を染め上げていく。
血涙を流しながら嗤う一匹の美しき夜叉がそこにいた。
粛清人Aはかつて無い程の恐怖に直面していた。死の恐怖など生ぬるい。
己の存在そのものを抹消される恐怖。闇よりも深い闇、無の恐怖。
粛清人の天才が回避という選択肢を即座に選び取る。
弾かれるように横に跳んだ。

あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ~~


異様な笑い声が己の唇からこぼれている。
自分の声?愛の声?アイの声?ⅰ914の声?

目の前が光と闇に包まれ、愛の右手から獰猛な光の奔流が放たれた。
十数年間の封印が解かれた瞬間、生と死が交錯する瞬間、希望と絶望が混ざり合う瞬間。
様々な運命を乗せた一瞬が通り過ぎる。
一瞬の静寂があった。

―これは組織も躍起になるわけだ…

粛清人Aは恐るべき光景を目の当たりにしていた。
工場跡のコンクリートの壁に直径1メートル程の孔がぽっかりと口を開けている。
まるで始めから存在しなかったかのように、綺麗に消えていた。
その穴から赤い夕陽が差し込んでいる。

―外したか!?

途轍もない疲労感が愛に圧し掛かった。全身に鉛を流し込まれたように体が動かない。
光とともに生命力を吐き出してしまったようだ。
立っているだけで意識が遠くなる。
残された左目で、粛清人を見た。
粛清人の右肩から先が、――無い。
直撃は免れたものの、そこに光を浴びたのだ。
おびただしい血が噴き出して、地面がみるみる赤く濡れていく。
黒衣の狩人は悲鳴とも絶叫ともつかない声をかみ殺しながらその場に崩れ落ちた。

―この出血では助かるまい

決着がついた。急に里沙のことが心配になる。
彼女の元へ行く為、工場跡を後にしようとしたとき背後から苦悶の声が聞こえた。
振り返ると己の流した血の海でのたうち回っているAの姿があった。


あまりに凄惨であった。
あまりにも哀れだった。
これがあの冷徹で沈着な粛清人かと思った。
ダークネス最強の一角といわれた粛清人Aの面影はそこには無い。
死の苦痛に苛まれている一人の女がいるだけだ。

「あんまりじゃないか」

愛はぼそりと呟いて、自問する。
―このまま苦しませながら死なせるのか?
―せめて自分の手で一思いに送ってやろう。
―それが、この強敵に対するせめてもの礼儀じゃないのか。
―せめて少しでも早く苦痛から解放してやろう。
右手をその女に向ける。眼が合った。
自分のやろうとしていることを理解しているようだった。
そしてそのことに抵抗しようとはしていない。
愛は、静かに意識を右手に集中して最後の力を振り絞る。

「さっきみたいに大きいのはいらない、ほんの少しでいい」

狙いを心臓に定めて、深く息を吸った。
そして、光を放とうとした。


ぶちぃ


愛の右腕が根元からちぎれて、空中を舞っていた。


―?

自分の身に何が起きたのか理解できない。
たちの悪い冗談かと思った。
右腕が地面に落ちると同時に、愛も地面に倒れこんだ。

「ギリギリだったわね、こりゃ」

背後に夕陽を浴びている人影が立っていた。
さらにその後ろに人が潜り抜けられる程度の大きさをした
銀色の輪っかのようなものが空中に浮いている。
組織の発明した転送孔と呼ばれるものだ。一種のワープホールである。
人影が粛清人に歩み寄った。
その顔がぞくりとするほど美しい。
黒いドレスに身を包んだその姿から凍てつくような気品が溢れ出している。

「後藤…」

粛清人が消えそうな声で言った。

―後藤真希

安倍なつみと並ぶダークネス二つの頂点の一人。
人は彼女を『堕天の聖女』『闇の女王』などの異名で呼ぶ。
そしてその異名にふさわしい風格と実力がある。
死闘の繰り広げられた空間の中で、
彼女はたった一人、薔薇の咲き乱れる庭園に佇んでいるかのようだった。


「派手にやったものね、これがi914の力か」
「どうしてここに…」
「Rがやられたわ」
「…!嘘でしょ?」
「だから、アンタまでやられたら組織がガタガタになっちゃうでしょ」

あまり緊張感の無い口調でそう言うと、Aの傷口を見つめ、意識を集中した。
蛇口の壊れた水道のように流れていた血がぴたりと止まる。
念動で血管を塞いだのだ。

「応急処置にもならないけれど」

高橋愛の右腕を引きちぎったのも彼女の念動力である。
愛が肉体的にも精神的にも極端に疲労して
念動に対する抵抗力がほぼ皆無になっていたとはいえ、
人間の腕を引きちぎるなどという力技は常識的にはありえない。
ダークネス最強――
つまり恐らくは人類最強の念動能力者である後藤だけが、それを可能にする。

「ま、組織に良い義手作ってもらうことね」

そう言ってAをひょいと抱き上げて、転送孔へ歩き出す。
自分のドレスが血まみれになることに全く無頓着なようだ。
二人と転送孔の間には愛が倒れている。
後藤は当然のように彼女を跨いで転送孔に入ろうとする。


「あ、あいつを…」

Aに言われてやっと気付いたかのように愛を見つめた。
その視線が恐ろしく冷たい。
深海に潜む魔物の様なまなざしをしていた。

「放っときゃ死ぬでしょ」

あっけなく、言い放った。

「ほら、早くしないとゲートが閉まっちゃうから」

二人がゲートをくぐるのと、愛の意識が途切れるのと、ほぼ同時だった。

―そうかあ、ガキさん勝ったんかあ

愛は安堵して眠っているような顔をしている。
その顔に、殆ど沈みきった夕陽が差し込んでいた。



夜の帳がもうすぐ下りる。





















最終更新:2012年11月27日 08:33